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平成22年4月22日 校正すみ

機関科初級士官時代

藏元 正浩

藏元 正浩 戦艦 大和

初めて飲む酒

昭和18年9月15日、栄えある第53期卒業式が、御名代高松宮殿下の御台臨を仰ぎ、高位高官の臨席の下、盛大な中にも厳粛に行われた。凡そ還暦を過ぎてしまった今日でも他人から今迄一番嬉しかったことは何であったかと聞かれた場合、海軍機関学校合格の電報を受け取った時」と「海軍機関学校卒業の時」とすぐに返事が出来る事柄のうちに入っている。入校式の模様を父から聞いていた母は卒業式には是非とも自分が参列するのだとよく言っていたが、卒業式に参列した母親の嬉しそうな顔が今でもはっきり瞼に焼きついている。その嬉しそうな顔を見ると本当に親孝行をしたような気持になり、入校以来2年10ケ月の苦しかった、厳しかった生徒館生活が吹き飛んでしまうような気がしてならなかった

何んでも珍しがり屋の母親は、テーブルに並べられてある御馳走を見て、「ンダモシタン、コゲン ドッサイ食べラルッドカイ」と言っていたが、「有難いコツチャ」「ヨカ コツチャ」と言いながら何んでも食べていた。

乗組むべき練習艦は、瀬戸内海にいるという事で、東舞鶴駅から、当局の好意により全員2等車 (現代のグリーン車) に乗って懐かしの母校を後にした。下りの急行の関係で、京都駅で2・3時間の待ち合わせ時間があり、その時に母から、今日は目出度い日だから夕食を一緒に食べようと言われて駅前の旅館に上がった。食事が出る迄の間、母から鹿児島の占いのオバサン (鹿児島では年をとった女の祈祷師がいて、占ってもらった事は、当たっても当たらなくても神様のお告げだと言っていた) がお前はどうも前も後ろも同じような艦 (艦首も艦尾も判らないように見える潜水艦) に乗るかも知れないと言っているが、潜水艦は危ないから止めなさいと繰り返し言っていた。

この苦しい困難な時機には我々若い者は危ない配置には大いに行くべきだと思っており、卒業前から希望としてはパイロットが駄目なら潜水艦乗りと決めていたので、今更母親から言われても決心を変えるわけにはいかず、面と向かって母親に反対するわけにもいかないで、唯ウンウン言いながら、内心こちらが潜水艦希望であることがバレないように戦争の勇壮な話などしていた。

夕食には酒が2本ついていた。機関学校に入って休暇等に帰ると親類の人達はもう兵隊サンだから飲んでもよいでしょぅということで何時も酒(鹿児島では焼酎)を勧められていたが、「まだわれわれには酒は許されておりません」と頑固なまでに固辞し続けて来たが、母親に注いでもらったので一気に飲むと、暖かいものが胃の中にグーツと入り込むのがよく判るように下りて行く。おいしいとか何とかいうものではなく、ただ注いでもらったものを飲み干すというのが当たっているような飲み万である。丁度2本平らげる頃になると、何んだか体がホテッて来た。上に座わっている畳が30度ぐらい傾いてまた反対に揺れるという、丁度艦がガブッテいるような気拝である。母親は気分が悪くなったのではないかと言って座布団に寝かしてくれたのでグッスリ眠ってしまった。ゆり動かされて目を覚ますと今までの酔いはすっかりさめており、急いで食事を済まして集合場所に急いだ。

 

ハンモック

われわれ候補生が乗り組むべき実習艦は、戦艦「伊勢」「山城」巡洋艦「龍田」であったが、配乗先は卒業前に生徒館の中央廊下に張り出されるとの事であった。

発表前になると誰言うともなく「山城」には「ヤマゲン」という凄いのがいて猛烈に鍛えなおすという話が伝わって来た。今更卒業してそんな艦に乗って鍛えられるのは御免と思うのは誰しも同じであるが、話に尾(ひれ)がついて一号時代に教官の目をかすめてったは「山城」に乗せて再度鍛えなおすのだとか言われて皆を戦戦恐恐とさせた。海軍時代にはそのような情報(デマも含む)を誰が何処から仕入れてくるのか、またそのような情報はすぐにパッと拡がるから不思議である。当時は戦時下で生徒教育期間が短縮された関係もあり、一号生徒を鍛えるお目付役として戦地から続々と元気のよい張り切った中尉の指導官、若い大尉の指導官が発令されて来ていた。の中尉の指導官によく捕まっていたものだから、或いは「山城」になるのではないかと内心ビクビクしていたものである。

「伊勢」と決まると本当にホッとした。乗艦してみると兵科の指導官付が、見るからに人品骨柄これぞ海軍兵学校出身の秀才というような柴田中尉であり、怒ったり下の者を怒鳴るというような事もしないような方であった。機関科の指導官付は51期の山鳥中尉で、頭がよい上に武技体技共に優れており、文武両道兼ね備えるというタイプで、クラスの中でも非常に思いやりの深い部下にはやさしい万であった。

ハンモックは生徒時代の乗艦実習の時とか、機関学校の練習船「由良川丸」の実習でやった事はあったが、「伊勢」に乗ってからの最初の難物はこのハンモックであった。「由良川丸」の実習中眞夜中にドスンとハンモックから甲板に派手に落ちた者を見ているものだから、落ちたら大変だろうと免に角ハンモックから落ちないようにと注意していた。

恐らく軍艦という狭い処に多人数を寝かせるために昔の人が考えついたものであろうが、昭和の海軍になっても、他の国はベッドに移行しつつあった時代に日本海軍では攻撃兵器優先、居住環境軽視の思想からハンモックはまだまだベッドに代わることなく使用されており、これがまた兵員泣かせ、われわれ下級士官イジメの手法となっていた。寝る時もゆっくりさせてもらえないうえに、寝るための準備、その後始末がまた大変であった。

ハンモックの格納箱は下の甲板の狭い処にあり、ハンモックをやっと担ぎ上げて来て吊るわけであるが、隣の者とピッシリつまっていて余裕など全然ない。もぐり込むのも大変で、飛び乗ろうとすれば勢い余って反対側にドスンと落ちるのでなかなか要領がいる。ハンモックを吊る場所は、丁度飛行甲板の下なので昼の残熱で物凄く暑く、すぐ汗ピッショリになった。幸い、海軍に入ってからは、寝付きの良さと熟睡には馴れていたので、どういう状況下でもすぐに寝付くことができた。朝は汗ピッショリになっているのをそのままロープでくくって格納するため、寝る時は寝具が濡れていて気持が悪いが、しばらくするとぐっすり寝込んでいたようである。ハンモックを格納する場合には、通路が狭いためちょっとでも遅いと列をつくるのでハンモックのくくり方が悪いとやり直しを命ぜられたり、格納が遅いとハンモックを担がされて上甲板を走らせるという事を聞いていたが、「伊勢」指導官付の方々はそういう姑の嫁いびり的な事がないだけでも助かった。

 

最初の給料

実習が始まってしばらくした或る晩、候補生室に集合という事で集っていると、学年監事であった山崎大尉が来られた。教官が言われるには「今度皆さんは武装手当として300円余りの金をもらうことになっている。最初にもらった金というものは、親に送ると親孝行の第一歩として親は非常に嬉しいものである。

またこれから皆さんは53期というクラスをもりたてていくわけであるが、クラスの誰かが結婚したらお祝いも出さねばならないし、その他いろいろなクラスとしての出費が予想されるので、100円をクラス会の基金として出し、残りを親に送金したらどうか」と提案された。つまるところ、金はもらうが手許には一銭も残らないが、その金は極めて有効に且つ有意義に使われるということである。しかもその当時としては大金の300円である。(当時は100円の給料取りは相当の地位の人であった)

教官の言うことならば異議なしということで、クラス会の基金は先任者の青木が預かることにし、残りは総て親に送金してもらった。また、候補生は余り金がいらないということで、本俸は親に送金するように手続きしてもらった。戦時中だった関係で、いろいろな手当てが本俸と同じくらいつくので困るようなことはなかったが、親の方は毎月大金が送られてくるので吃驚したようである。

 

トラック島にて入室

われわれの卒業は戦時中ではあったが、兵科候補生の天測実習その他の理由によるものと思われるが南洋群島往復の航海実習があった。

トラック島に入港する頃から歯の具合が悪くなったが、入港して2、3日したら歯槽(しそう)膿漏(のうろう)で熱が39度以上に上がると共に何んにも食べられなくなってしまった。

担当の歯科医官が居ないので、治療はできないので入室を命ぜられた。高熱のため食欲は勿論なく、歯茎が歯の一番下まで垂れ下がって食べられる状態ではない。

候補生では兵科のHと主計科のTが一緒に入室していた。食事は運ばれてくるが、ひとつも箸がつけられない。熱が高過ぎるので妙な夢ばかり見るし、しかも息苦しい。こんな苦しい状態は初めてなので、このまま死んでしまうのではないかとも思った。勿論南洋群島で暑いからといって冷房が通るわけでもなく、鉄の甲板下では室温も上がっていつも汗びっしょりである。Hが心配して、食べなくてもよいからせめてお茶だけでも飲めよと言ってくれるが体をおこすこともできない位であった。

翌日からどうやらお茶が飲めるようになり、しばらくするとオカユがやっと喉を通るようになった。やがて熱もひいて来たが食欲は相変らず余りなく、クラスの者がよく見舞に来てくれたが、話をする元気もなかった。熱も下がってきたので、トラック島からの帰りは実習に参加はしていたが、歯槽膿漏が全治はしていなかったため憂うつな日が続いていた。

呉に入港して最初の上陸の時、気分が進まないので上陸を止めようと思っていたところ岩間がやって来て、歯槽膿漏によく効く薬があるから、上陸してそれを買ってくればよいではないかと教えてくれた。岩間は頭も良いが博学でいろんな事を知っている。

上陸して薬局に立ち寄り説明したところ、薬局の主人がこりゃひどいと言ってチューブ入りの薬とその使い方を教えてくれた。薬を指で歯茎に塗りつければよいだけのことではあった

が、みるみるうちによくなり、2、3日で全快した。全快すれば今までの苦しみが嘘みたいに感ぜられたが、自分が苦しんでいた時にクラスの者がいろいろ面倒を見てくれ、特に、高熱を出して苦しかった時に、もう死ぬのではないかと思っていた時に実習の合間を見ては元気づけに来てくれ、兄弟以上というか、親身も及ばない位にやってくれたのには本当に感謝もし感激もした。今後クラスの者がそのような状態になったら同じようにしなければいけないと心に誓ったものである。

戦後も30年過ぎた頃、國神社における慰霊祭の時にHと会い入室中の話がでて、主計科の指導官付はよくTの見舞に来ていたが、兵科と機関科の指導官付は一回も顔を見せなかったなあと話したところ、「Tはハンモックナンバーが上だからだよ」との返事には我ながらガクッときた。(さもありなん)

 

大和に乗艦して

1期の候補生教育を終わり、航空母艦翔鶴に便乗してトラック島に入港してみると、開戦当初からの幾多の海戦により勢力は漸減してはいるが、多数の軍艦が広い海面に処狭しと停泊しており、その中でも「大和」は王者の貫禄で君臨しているように見える。「大和」は当時としては最新鋭の秘密戦艦であり、歴代優秀な人が配置された関係上候補生教育も完備されていた。

候補生全部の指導官は新田大尉、機関科は指導官が罐分隊長、指導官付が機関長付ということで、早速艦内旅行が始まった。

機関科の候補生は森川と高脇と私の3人であるが、2人は優秀なので内心こんな艦に俺みたいなのが乗らなくてもと思ったりした。

乗艦した翌日は出動訓練であった。その前夜機関科事務室で候補生の歓迎会が行われたが、こちらは最初から飲んだら大変だと思い遠慮しながら飲んでいた。おまけに翌日の暖機暖管用意は、候補生は3人共最初から機械室に入るように言われていたので、飲み過ぎて寝過ごすようなことがあってはならないと思い、ひかえ目にしていた。時間が気になって仕様がないが、機械分隊長が愉快に飲んでおられて他の人は居なくなっても一向にお開きにならない。お先に失礼しますと言ってよいのかどうかも判らず、候補生は最後までいなければならないと思いその席にいたが、12時近くになって「じゃ候補生は大変だから休まうではないか」 と言われてやっとお開きになった。

1期の候補生実習の時に習って大体の要領はつかんでいるが、先ず機関用法を持って来て暖機暖管時の号令詞を読み、実習時の復習を始めた。旧海軍では大型弁の開閉、主要補機の発時は号令をかけるようになっていたので、順序を間違えないように、起動してゆく補機の順序を暗記しながら3人して確かめ合った。

そうこうするうちに30分もするともう暖機暖管用意の時間になるので作業服に着換え、候補生は機関科事務室に寝ているから起こすように当直室に電話して、作業服のままソファにゴロ寝した。

当直員に起こしてもらったが僅か30分程度しか眠っていないので猛烈に眠い。眠い目をこすりながら機械室に入って行くと、もう指導官も指導官付も入っておられた。こりゃ最初からしくじったわいと思ったが、敬礼して機械室の中に入ると、それぞれの配置は機械部下士官、上部運転員、下部運転員になれと言う。こちらは機関科副直将校の配置だろう位に思って、号令が間違えたらお互いに教え合いながらヘマをしないようにやって行こうではないかと話し合った矢先に最初から離されてしまった。

全く心細くなった。こんなことなら予告しておいて、少しは予習する時間を作ってくれれば助かるのにと内心恨めしかった。

罐分隊長は、最もへマをやりそうであり最も鍛え甲斐があると思ったのか、「藏元は機械部下士官をやれ」という。操縦室に立っていると伝令が「1時15分になりました」と届けたので、今時記して来たばかりの号令を得意になって各部へ、暖機暖管用意、主キングストン弁、(はき)捨弁開け」とやったら、分隊長に「待て、貴様は機械部下士官だから、届けてからにしろ」と言われた。要するに機関科副直将校と機械部下士官の仕事をやれというわけである。

各部には伝令で伝わるが、同じ機械室にも上部運転員に知らせなくてはならない。伝声管を使おうとしたら、「上部運転員には手先信号で知らせ」ときた。手先信号は生徒時代の乗艦実習、1期の候補生実習時に習っているので原画またはそれに近いのは出来るが、まとまったものはとても出来ない。出来ないので立っていると「オィ、どうするのだ」とくる。「ハッ、判りません。」「1期の教育は終わったのだろう。何を習って来たのだ。知らんではすまされんぞ。こっちを向いてやってみろ」と言われ、「暖機暖管用意」を手先信号で示したら「主キングストン弁、吐捨弁はこうだ」と教えられた。

上部運転員の候補生に手先信号で送ると再送ときてなかなか判ってもらえない。やっと判ってもらいホッとしていると、候補生は下部運転室に集まれという。主キングストン弁をあけるのを運転員の説明のあと候補生がやらされた。

「大和」 の馬力は152,000馬力であるから1機で38,000馬力になる。バルブも大きいが水面下10米近くもある水圧のかかるものを開けるのは力も要った。教える下士官の方は優秀なものだから教え方も上手である。「大型弁は全開までに何回転かを覚えていて全開したあと半回転必ず戻す。閉める時には絶対に戻してはなりません」と眞面目くさって熱心に教えてくれる。

循環水ポンプ起動時は先まず排気弁をこの位ずつこの要領で開いていって暖機し、起動する時は蒸気弁をこうすると懇切丁寧に教えてくれる。

終わると操縦室に帰りまたもとの配置に戻るわけであるが、非常にあがってしまい、折角暗記してきた補機起動の順序も目茶苦茶になって、間違えば怒られるので生徒になった時の入校教育と同様、頭の中は空ッポになってしまった。

乗艦日ならずして兵科の71期の人達がバタバタと転勤になり、兵科はケプガンの70期1人、71期1人、候補生は三条を先任として10数名、機関科は53期の機関長付と内務士、候補生3名、主計科は32期の庶務主任と候補生2名になった。

兵科、機関科の候補生に対しては早朝の機動艇達着訓練が毎日のように行なわれ、兵科の先任分隊長が点検官であった。兵科の候補生がやる時はうまく着かずに殆どやり直しであったが、機関科の候補生がやると1回でパスする。「われわれは機関学校で大いに練習したが、兵科の者は人数が多いので、学校では各人は余り練習する時間がなかったのだなあ」と話し合っていたが、戦後海上自衛隊で一緒に勤務した大和の補機分隊員で機動艇の機関長だった人が「機関科の候補生は名前を覚えていて、艇指揮が交代したらうまく達着できるように外を見ながら機械で調整していましたが、兵科の候補生の時は言われた通りの回転にしていましたのでうまく着かなかったのではないですか」と言われたのには参った。補機分隊士は選修科学生出身であったし、われわれが機関学校に入校した頃の体操の教員でもあった。

機関科候補生の実習は、日程表がぎっしりと予定が組まれていて、講義もあれば実習もあり、それこそ機関科の准士官以上総員で担当するという有様であった。大和には優秀な人が配置されていて、各分隊士は機関学校選修科出身の人達で、しかも丁度われわれが生徒時代に学生だった人達が多く、講義中も

「候補生は大変ですね。適当に聞いていて下さい」という人もいた。中には眞面目過ぎる掌長もいて、時間をオーバーしてもまだ終わらず熱心に話を続ける人もいたが、僅か3人の候補生のため熱心に講義してくれるのには感謝した。生徒時代は講義の時間とは居眠りの時間であると考えていたが、これからは部下を持つ身でもあるので、まじめに一生懸命講義を聞いていた。

機関実習の時には機関長付は何時も傍に立っておられて本当に気の毒であった。罐の外部掃除の時、下士官に習ってマウエスをうまく使いながら上手にマスクして炉内に入っても道具で罐管を掻くと煤がドサッと落ちてきて呼吸も出来ない位である。

おまけに力を入れないと煤がうまく落ちず、罐管を見上げながらやらなければならないうえに、一緒に入った下士官からはもう少し力を入れるように言われて本当に参った。

炉内を出て罐室で昼食となったが、皆カラスみたいに真黒になっているのには吃驚した。この時も機関長付がわれわれと一緒に炉内に入ろうとされるので「われわれの実習ですから機関長付は入らないで下さい」 と言ったがそれでもわれわれと行動を共にされた。機関長付、内務士共に一期先輩であるが、罐分隊長のプレッシャーに対して常にバッファーになってくれるし、われわれをかばって下さるので心から感謝していたものである。

リンガ泊地に入港してしばらくすると罐分隊長が転勤し、「あ」号作戦発動直前タウイタウイに入港している時に機関長も交代された。新乗艦の候補生指導官は補機分隊長に変わり、指導官付の機関長付から「貴様等みたいに苦労しなくなってよかったよ」と言っておられたところをみると、今度は合理的な指導方針に変わったらしい。

森川が潜水学校入校の為、退艦したので、今度は機械分隊士になった。2期の候補生時代に鍛えられており顔も大分覚えていたので余り苦労はなかった。然し機関応急処置標準は覚えるのに苦労した。機関長付に聞いたところによると、「大和」には49期の極めて優秀な人が乗っており、機関の被害(故障) 状況を現代用語で言うなればシステマティックに分類し、故障個所、故障補機、故障状況によって、甲、乙、丙、丁の四っの運転種別に分類し、それを40近くの運転方法に分けるようになっていた。例えば「甲の第34運転となせ」と言えば、すんなり応急運転ができるようになっていたが、運転種別を命令する方も大変なら、命令された方も、いちいち処置標準を見ながらやらなければならないという不便さもあり、実際の状況下ではとてもうまくいきそうにも思えなかった。秀才が考え出した事は凡人がやるとなかなか難しいし、スムーズにはいかないものであることが分かった。

サイパン攻防で連合艦隊は惨敗を喫し、一旦内地に帰投した後、またリンガ泊地に向け呉を出港した。入港してしばらくすると潜水学校転勤の電報が入った。内地への便は2艦隊の副官に聞けばよいという事で、旗艦「愛宕」に行って内地への便を聞いたところ、駆逐艦島風が早朝リンガを出港してシンガポールに向かうので、それに便乗してシンガポールまで行き、向こぅで内地への便をさがして帰ればよいとの誠に頼りない返事であった。

機関科事務室で送別会があり、終わって皆さんお開きになると、高脇が今夜は2人して出発まで徹夜して飲もうではないかということになって飲み始めた。

当時は「大和」は不沈戦艦と思われていた時であり、また「サイパン」島攻防作戦において出撃潜水艦が潰減的打撃を被り、殆んど撃沈された状況下においては、潜水学校に行くということは、学校を卒業して潜水艦に乗れば程なく戦死するという当時の感触であった。3人一緒に乗艦し、楽しい事もあったが一緒に苦労した事を思えば、先に森川を送り今度は一人残される高脇としては、程なく戦死する級友を送るに際しては情において忍びないという感じがあったと思われる。

夜明け前に内火艇の出発を知らせてくれたので舷門に行くと、艦長、副長まで見送りに来ておられるのには感激した。機関長は見送りに来られるとは思っていたが、単に一少尉が退艦するのに、総員起し前のまだ夜も明け切らない早朝に、艦長、副長までがわざわざ制服を着ておられ、艦長から「今後潜水艦は大いに活躍しなければならない」とその行先まで知っておられたのには再度感激したものである

(機関記念誌246頁)

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