TOPへ     戦記目次

平成22年4月22日 校正すみ

17.11.1 寄稿

空母冲鷹(ちゅうよう)の遭難

  理平 


 商船新田丸の誕生とその活躍
 空母冲鷹の前身は日本郵船株式会社所属の豪華客船新田丸である。
 昭和11年のベルリンオリンピックの次に行われるのは東京オリンピックと決定し、15年(1940年)秋に東京で行われることに決まった。世界中からのオリンピック競技の観戦や日本観光に来てくれる外国人が急増することが見込まれるので、日本郵船株式会社は12年日本政府の大型優秀船助成法を利用して欧州航路の客船に充てる為、わが国造船技術の総力を結集する豪華船3隻の建造に着手した。
 着工順での第一船は新田丸、第二船は八幡丸、第三船は春日丸であった。総トン数は17,150トン、速力21.5ノットの大型船である。船名は著名な神社即ち新田神社、石清水八幡宮、春日大社にちなんで命名されたのであるが、その上、日本郵船の略称であるN、Y、Kの三文字を頭に取っている姉妹船として計画されたのである。
 豪華客船なので勿論当時の最高の設計、技術を投入したが、特に船客設備には国産品を用いたが、素晴らしい出来上がりであった。例えば一等船客用船室には専用の豪華なシャワーや浴室があり、食堂、社交室、読書室なども整備され、どの部屋からも海上の眺望が目にはいるようになっていた。65年前の設備としては驚くべき充実振りであった。
 船の代名詞としては女性称の「彼女」を使うのが世界共通の習慣であるが、この3姉妹船が当初の計画通りに大洋航路の客船として活躍したならば、優雅な姿を楽しませ、多くの船客を喜ばせたと思われる。
 然し、現実には太平洋戦争に突入し輸送空母に改造されて、わが海軍の航空機運搬艦として大車輪の活躍をしたが、敗勢の赴くところ敵潜水艦に狙われ、3隻ともに時日は違うが撃沈の憂き目を見た。特に冲鷹は荒天下の遭難であったので、生存者が極端に少なく乗組員と便乗者合わせて約3,000名の内約170名と伝えられ、悲しい結果となった。
 新田丸は昭和15年3月桜のほころび始めた長崎の三菱重工会社長崎造船所で竣工して、盛大な歓呼の声で祝福されたのである。


阿土三等航海士は竣工以前の艤装員から更に乗組員になり、進級して遭難時には海軍大尉、運用長になっていた。沈没の時にも不思議に命ながらえて遂にはこの船の生涯を世に報告する役目を担うことになった。
 最初は欧州航路に配船されることになっていたが、14年9月、欧州に英仏対独ソの戦争が始まったので、中止となり比較的安全な北米航路に変更された。
 寄港地は先ず、上海、香港、マニラに向かい神戸、横浜に立ち寄って船客を乗せて、ホノルル、サンフランシスコ、ロスアンゼルスまでの折り返し運航であった。昭和15年4月、第1回の北米航路に出発したが、堅苦しい内地の雰囲気を離れ自由な船旅を提供出来たことは良い思い出になった。
 然し、日米交渉による難局解決への努力にもかかわらず、戦争への雲行きが険悪になったので、16年7月の第7回の航海で中止になった。9月、新田丸は海軍の徴用船になった。従って商船としての業務はわずかに1年半で終了した。
 徴用船になると同時に通信機器などの増強が行われたけれども、その理由は船長にも知らされなかった。横浜港の大桟橋に繋留したまま連日船内の整備や塗装作業に日が暮れた。他の徴用船が続々前線に出ているのにとわが船の現状が理解出来なかった。
 こんな時に次のような噂が広まったのである。「日米首脳の洋上会談のため、新田丸は準備されている」というのであった。明るいニュースと喜ぶと共に、緊張が走ったのも事実であった。
 当時の近衛首相はとにかく最悪の事態は避けたいと平和の実現を望み、10月に日米首脳の直接会談の準備を命じていた。その為、空母に改装の予定を延期して、使節団を輸送する船にわが新田丸を充てた。首相の随員として外務省、陸軍省、海軍省の責任者の人選も済んでいたとの裏話もあった。だが、不幸にも和平会談は実現せず開戦となってしまった。
 11月には開戦必至の状況になり海軍落下傘部隊(隊長は堀内豊秋中佐、兵学校教官を3度も勤められ、筆者も教え子の一人である)を乗せて台湾の高雄に輸送した。この部隊は開戦後、セレベス島のメナドに落下傘で降下して奇襲作戦を成功させたのは有名である。
 又、開戦直後にウエーキ島で捕虜にした米軍兵士約70名を現地で乗船させて上海の拘置所に送り届ける任務を行った。内地を出港する時、30名の海軍特別部隊が乗船してきた。捕虜は用意した「居住区」に収容したが米国人の常識からすると、居住性は悪く通風、衛生設備が不備な場所であったという。ウエーキ島の陸軍守備隊長からの申し送りで、残酷な行為をした捕虜5名に対して航海中に処刑をして欲しいとあって、特別部隊員が実行したのであった。
 終戦後、この二点を追求された。何故か当時まだ民間人であり二等航海士であった阿土さんに巣鴨にある極東軍事裁判所から呼び出し状が来た。阿土さんは事情を説明して無罪であったが、呼び出しを受けた当時の船医さんが衛生上の管理について責任を問われて1年間巣鴨に留め置かれて気の毒であった。

一、 空母「冲鷹」への改造とその活躍

 開戦後も比較的のんびりとした環境にあった新田丸に、次のような命令が届いた。「呉海軍工廠で空母への改装工事を行う。速やかに呉に回航せよ」と。これは17年6月5日のミッドウエー海戦でわが正式空母4隻が撃沈されるという敗北を喫したことで、空母勢力の補充が最も必要になったからだと思う。
 8月から始まった改造工事は文字通りの昼夜兼行の突貫工事であった。客船として豪華を誇った貴賓室やサロンも無残に打ち壊されてゆく姿には涙が出てきたが、代って空母の設備が取り付けられ軍艦としての新しい威容が整ってきた。11月末、工事が完成して空母となり「冲鷹」(ちゅうよう)と命名された。冲天高く羽ばたく鷹と言う意味と察せられる。艦首に菊のご紋章をつけ、マストに軍艦旗を掲げたのである。
 ここで姉妹船の消息を調べてみると、建造順序では第3番の春日丸は建造ドックにある時に、空母に変更されたので一番早く空母として完成し、「大鷹」と名付けられた。次に第二番目の八幡丸が呉海軍工廠で改造を行い、昭和17年5月「雲鷹」に新生したと記録にある。続いて同年8月、同じ船台に新田丸が入って改造が行われた。
 3客船が空母に改造工事を行ってから沈没に至るまでの経過を表にすると次の通りである。 

商船名 空母名 改造場所 着工年月 竣工年月 沈没地点 沈没年月
新田丸 沖鷹 呉工廠 17年8月 17年11月 八丈島東方 18年12月
八幡丸 雲鷹  呉工廠 16年11月 17年5月 東沙島南東  19年9月
春日丸 大鷹 佐世保工廠 16年5月 16年9月 ルソン島西 19年8月

 この3空母の本来の任務は護衛空母を目指していた。船団の航行に際して同行して積載している飛行機を発艦させて空中から対潜警戒を徹底して行い、船舶を無事に目的地に送る事であった。然し、ガダルカナル島の攻防に続きソロモン諸島において航空機の消耗戦が起り、この緊急な必要のために、南方の航空基地に補充する航空機を格納庫のみならず飛行甲板にも満載して輸送する任務を命ぜられたのである。輸送空母と呼ばれた理由はここにあった。
 空母冲鷹の諸性能は次の通りである。
 (大きさ)  公式排水量      17、830トン
                      198、0メートル
                      22、5メートル
                      8、0メートル
           飛行甲板の長さ   172、0 メートル
           飛行甲板の幅     23、5 メートル
 (性  能)  最高  速力     21、0  ノット
               馬力     25、200 馬力
            重油 搭載量    2、250 トン
 (兵  装)  搭載  機数  艦上戦闘機   9機
                      艦上攻撃機  14機
            高角砲    2連装口径12、7センチ砲 8門
                 3連装口径2、5 センチ  10基
 冲鷹は3姉妹艦の内、改造は最も遅くミッドウエー海戦後に着工したので、その戦訓を取入れて高角砲と機銃を格段に増強されたし、飛行機の発着がし易いように飛行甲板を艦首部の方へ予定の長さより約I米の延長工事を行い、172米にした。
 乗組員の訓練もそこそこで、初出撃は早くも12月12日飛行機及び人員資材を積んで横須賀を出港してトラック島に向かった。同年8月7日に米軍がソロモン諸島ガダルカナル島に上陸し占領して以来、その争奪戦が酣であって、同方面に必要とする各種資材の補給の任務に充てられた。既に戦局の形勢は我に不利になりつつあった。
 10月26日の南太平洋海戦でわが機動部隊が敵空母ホーネットを撃沈して凱歌を挙げたものの、飛行機などの資材の補給力は圧倒的に敵が有力であって、ガ島の奪還は難しい様相を呈してきた。この時、冲鷹を入れて大鷹、雲鷹の3空母が揃い大量輸送を実現し、20ノットという輸送船としては素晴らしい高速力を保持して、他の輸送船の追随を許さなかった。更に護衛する駆逐艦も高速で走ることは望むところであって大いに歓迎されたものだ。従ってこの3姉妹艦は2艦で編隊を組んでの行動が多かった。
 残された航海日誌を見ると、2回目の航海でトラック島に着き、続いてソロモン諸島ニューアイルランド島のカビエンに飛行機を輸送したのを特別として、横須賀とトラックの間をピストン輸送する事、実に13回に及んだ。
 横須賀を出て6日乃至7日でトラックに到着し、積荷の陸揚げと内地への荷物の積込みを港湾施設の不備で艀(はしけ)を使って行うので4日乃至6日を費やし、すぐに出港して5日又は6日で横須賀に帰着するというパターンだった。内地では積荷の準備の都合などがあるので停泊日数はまちまちであった。本艦は初航海から沈没するまで満1年の短命であったが、その間に13回の往復をしているのだ。ほぼ1ヶ月に1回の航海を厳しい対潜水艦警戒をしながら行っているわけだから、乗組員の心労は大変なものだったと推測される。
 この間に大きな事件が発生した。18年9月21日姉妹艦大鷹と編隊を組んで駆逐艦3隻に護衛されてトラックを出港し横須賀に向かった。同24日小笠原諸島父島北東200マイルを航行中、敵潜の雷撃を受け大鷹が航行不能となり、冲鷹が曳航して26日辛うじて無事に横須賀に帰着した事件である。

 敵潜カブレラは我が輸送船団を発見して魚雷発射管から6本の魚雷を発射し、反転して900米まで接近して艦尾発射管からも6本の魚雷を発射した。幸いに命中はなく急を知った護衛中の駆逐艦島風(大型で最も速力の出た駆逐艦)が反転して爆雷攻撃をした。敵潜は急速潜航をして行方を晦ませた。
然し、翌日早朝、再び大鷹に近付きその艦尾を狙って6本の魚雷を発射した。この時、敵の魚雷は5本が不発であったが、1本が大鷹の後部に命中し爆発した。沈没は免れたが航行不能になった。
加藤冲鷹艦長(当時)は大鷹を曳航することを決意し、運用長に昇進していた阿辻大尉に当然のこととして曳航指揮官を命じた。本艦は一旦遭難現場を離れたが、護衛の駆逐艦が敵潜を爆雷攻撃した4時間の後に再び現場に引き返した。運用長は曳航作業の経験はなかったが、妹艦の危急の時なので、なんとしても全力を尽くしてこの任務を全うしようと決心した。
 具体的なやり方を提案して下さったのは先輩の航海長であった。艦首にある錨鎖を艦尾まで運び固縛し、これに曳航索(商船時代に予備として積んでいた円周9・インチのワイヤーロープ)を小、中、大の曳索の次に結び、先ず小索を大鷹から海上に降ろした救助艇
 (カッター)に取り込み大鷹に渡し、曳航索を艦首部に送り固縛して曳航準備を完了した。まだ付近に敵潜がいるかもしれない状況下での作業なので、全員必死の思いで頑張った。
作業に時間が掛かり夕方になったが、いよいよ曳航である。速力を最微速
 (最もゆっくりした速力) にして行進を始めた。曳航索に力が掛かったが心配した切断は起らず、静かに大鷹が動き出した。夜通し一睡もせず安全を見極めつつ約8ノットで曳航を続けて翌翌日の朝横須賀に辿りついて、海軍工廠から手配された曳船に任務を引き継いだ時は傷ついた妹を病院の医師に手渡した時のようで、本当に良かったとの思いが心にこみ上げてきた。

 遭難時の実況
 
  戦局の推移について
 
 昭和16年12月、日本機動部隊のハワイ真珠湾空襲の成功によって、海戦の主力兵器は大艦巨砲の時代から航空機の時代に移った事が判った。それを証明したのは日本であったが、順応の速さは米国にあった。
 米国は豊富な天然資源や優れた人的資源、大規模な生産力など全ての国力を航空機を中心とする軍事力の増強に注入して、急速に戦時体制を拡大すると共に、実戦場においても17年6月のミッドウエー島沖海戦に勝利して以来、その攻勢が予想されるに至った。
 日本側の予想よりも1年以上も早く米軍は8月6日、ソロモン諸島南部のガダルカナル島に反攻の火蓋を切り、大規模な上陸作戦を行い、僅かなわが軍の守備隊を駆逐して大部隊を上陸させ航空基地を建設し始めた。ここにガ島争奪戦が始まったのである。
 先ず、日米の航空機の攻防戦が開始されたが、陸上基地の争奪なので海戦のように1日や、2日で決着のつく筈がなく航空機の大消耗戦になった。戦局は次第に補給力に劣るわが方に不利となり、17年末になるとガ島を占領することは絶望的となり、遂に大本営の決裁によりガダルカナル島よりの撤退が決まった。18年2月初旬、陸海軍部隊のガ島撤収作戦を辛うじて成功させるという状況になった。
 又、南太平洋の離島が主戦場になった事と南方にある軍需資材の原料を内地に運ぶ事が必要になって輸送船の運航が増大したので、米軍の潜水艦による輸送船襲撃作戦が激しさを増した。
 ガ島を確保した米軍は中部ソロモン諸島を目指して反攻の手を緩めなかった。わが連合艦隊はこの敵を撃退するために18年4月、「い」号作戦を行ったがその戦力を充分崩すことが出来ず、11月に至って北部ソロモン諸島に侵攻して来た。これに対してわが軍は「ろ」号作戦を発動して決戦を挑み、ブーゲンビル島沖航空戦などを闘ったが、戦局を逆転することは出来なかった。
 ガ島争奪戦以来、航空機とその付属する機材や地上勤務員とその食糧、弾薬等をわがソロモンの陸上基地に緊急輸送するために、戦力として新しく就役した冲鷹型空母3隻が大型輸送艦として横須賀、トラック間の海上輸送の主力となり祖国の命運を担って登場したのである。冲鷹は期待に答えて沈没までの約1年間に、この航海を13往復行い大きな実績をあげた。

 最後の航海のため、トラック環礁を出撃

 昭和18年11月30日、冲鷹は次の艦艇と輸送船団を組み最後の航海にトラック環礁を出撃し内地に向かった。
 第一航空戦隊の空母瑞鳳と姉妹艦雲鷹に加えて、ラバウル湾での敵の空襲によって損傷した 重巡洋艦摩耶も同行し、護衛駆逐艦として曙(あけぼの)、朧(おぼろ)、漣(さざなみ)、浦風の4隻が随伴する大きな船団であった。
 摩耶艦長加藤与四郎大佐(兵43期)が4隻の軍艦の艦長の中で、最も先任者であったので船団指揮官に指名された。加藤大佐は約2ヶ月前までは冲鷹の艦長であったのだ。参考までに各艦の艦長を調査してみたら次のようであった。
冲鷹艦長 大倉留三郎大佐(兵43期)、雲鷹艦長 関 郁平大佐(兵43期)
瑞鳳艦長 服部 勝二大佐(兵44期)
空母3艦にはソロモン、ニューギニア戦線からトラックに引き揚げていた人員、機材を搭載したが、特に冲鷹にはラバウル基地にいた第一航空戦隊の整備員、主計科員、医務科員の転勤交替員の外、民間人の映画関係者が便乗していた。更に、わが軍が撃沈した敵潜スカルピンの乗員が救助されて捕虜になった20名も便乗していた。
 船団はトラック環礁の北水道を加藤指揮官の乗艦摩耶を先頭にして一本棒の単縦陣で出撃した。外洋にでると対潜警戒のために隊形を変えた。旗艦摩耶の後方に瑞鳳が占位し、摩耶の左90度に雲鷹を配置し、その後方に冲鷹が占位し、その外側を4隻の駆逐艦が護衛についた。船団は外洋を航海中は対潜警戒のため、20ノットの高速で之字(のじ)運動を実施しながら北上を開始した。
では対潜警戒とはどんなことをするのか具体的に説明をする。
冲鷹の艦橋には平時の航海用見張りの為に高倍率(レンズの直径が20センチ位)の大型望遠鏡が両舷に1個ずつ備えてあった、戦時となりそれに加えて、レンズ直径12センチの潜水艦見張り用の望遠鏡が多数増設されていて、見張訓練を受けた見張員が1直分の人数よりやや多く配置されていた。
  しかし、哨戒配備が2直乃至3直になるとこの望遠鏡につく人員が不足するので、砲術科員や運用科員を選出して見張りにつけた。要するに人間の「視力」を信じて敵潜の潜望鏡や発射した魚雷の動静を発見しようとした。当時、見張の新兵器として画期的威力を持ったレーダーは日本でも対空用のものは実用出来る状態であったが、対艦専用のものはまだ試験段階でしかなかった。けれども米軍は既に対空、対艦のレーダーを開発済みで、全ての潜水艦にも搭載していたのである。
 12月3日の夜半になって八丈島の東方海面に達したが、当時この方面には季節はずれの台風が北東方向に進行中であって、海上は強烈な暴風雨になっており視界不良と高い波浪に直面していた。
  
船乗りの常識では、台風が発生しているとその中心を避けて迂回して通過し、暴風雨の影響を局限する航路を取る筈だが、今回はそのまま直進しているのである。台風の勢力を過小に見誤ったと思えるし、予定した行動計画に忠実過ぎたのではないかと推測される。この為、風雨、波浪、視界は益々悪くなり船団の隊形も維持出来ない程になった。
 阿土運用長は3日2100から2300までの2時間、当直将校として艦橋に勤務した。更に台風の中心付近に入ったように思った時に、旗艦から速力を18ノットに落とせという発光信号を受けたので、航海中には常に艦橋におられた大倉艦長に報告し減速して間もなく、次直の砲術長に当直を引き継いで自分の部屋に戻った。
 戦闘航海中だから非番になっても服装はそのままで靴を脱いだだけでベッドに入り仮眠したと思った途端、物凄い炸裂音と共に、胃を突き上げる衝撃を感じて飛び起きた。これが敵潜の第一撃だった。時刻は4日の正子(しょうね)、即ち、午前零時頃と思った。
ここまでの米軍の情報の入手と接敵行動はその資料によれば次の通りである。
 11月29日、トラックの海軍部隊の港務部長の発信で、護衛艦隊司令部宛及び関係先通報の無線暗号電報が打電された。ハワイの米海軍の暗号解読班は直ちに受信解読してその内容を知った。当時、日本海軍は自分が使っている暗号を敵方に解読されているかもしれないとの疑念は持っていたが、確証がなかったのでそのまま使っていた。
 内容は「11月30日0500、摩耶、瑞鳳、雲鷹、冲鷹は船団を組み4隻の駆逐艦を従えて、トラック島の北水道を通過し内地に向かう。途中の正午の位置は概ね次の如し。(以下略す)」
この航路近くを哨戒中の潜水艦に伝えるウルトラ電報は先ずトラック近辺にいたスケート等に送られた。同艦は急いで30日に船団の攻撃を企図したが、成功しなかった。2回目、3回目を過ぎて、4回目のウルトラ緊急電報は父島、八丈島方面にいたセルフイッシュ、ガネルに宛てて発せられた。
 「生涯一度のチャンスを知らせる。補助空母3隻、駆逐艦4隻は12月2日の予定位置は北緯22度30分、東経148度。その後は3日2100には北緯33度52分、東経142度20分だ。発見されないように接近せよ、また無線電報は打つな。」
 2日、父島付近を哨戒中のガネルが船団を発見攻撃したが成功せず、翌3日早朝セルフイッシュが悪天候の中、レーダーで距離一万二千米に船団を確認したが、接近できず攻撃を断念した。
 生涯一度のチャンスは東京湾の南東250マイルで再び待っていたセルフイシュに与えられた。益々険悪な天候になった3日の夜、同艦は浮上した。波は山のように高く風は毎秒40米もあり激しい雨が降っていた。ワード艦長は「目にはいるのは暗闇だけで、海水は次々と私の顔を叩いた」と語っている。レーダーで敵艦を捜索したが、真夜中少し前、距離8500米に目標を探知した。人間の視力では到底発見できる距離ではなかった。
 潜航して敵に接近し、魚雷4本を発射し、命中音2回を聞いたと記されている。これがセルフイシュの第一撃であった。

   被雷から沈没まで

 第一撃の時、運用長は自分の部屋で大きな衝撃を受け、飛び起きて戦闘配置の艦橋に行くべく部屋を出た。途中の通路で見たのは雷撃で受けた破壊口から荒波が艦内に侵入しており、直撃された便乗者の居住区では死者や重傷者が出ており、大混乱に陥っていた。艦橋に行って判ったが、被害個所は左舷艦橋下の居住区の付近であった。このためエンジン、操舵装置は無事であるものの、艦首部が沈んで抵抗を増して速力は落ちたので、船団から落伍した。
 緊急事態となったので、本艦は「4日0010 魚雷一発命中し、前部居住区に火災発生するも航行可能なり」と緊急電報を発信した。
 船団指揮官の摩耶艦長加藤大佐は護衛の駆逐艦浦風に冲鷹の救助を命じて、残りの艦艇を率いて足早に現場を離れた。無情に聞こえるようだが、他の軍艦までが道ずれになるのを避けるためであった。
 時刻は真夜中で風雨が激しく視界は悪く、海面は白い大きな波浪が不気味な音を立てて荒れ狂っていた。同行していた空母瑞鳳では左舷の艦橋横のダビットに固縛していた救助艇(カッター)が激しい風雨と巨大な波浪によってロープが切れて、波にさらわれる事故を起こしている程の荒れ模様であった。総員が戦闘配置に付いて警戒に当たったが、一直配備のため、長く続けると疲労による体力の消耗が激しいので第二哨戒配備とし、半数を当直とし半数を待機させて、艦首を海中に突っ込みながら北上を再開した。護衛の駆逐艦は敵潜が潜伏していると推定される海面に急行して21発の爆雷を投下したが、この荒天ではその位置は不正確で効果はなかった。
 低速力で北上を続けてから約4時間後、夜明け近くの0500頃、沈黙と重苦しい空気の漂う中、厳重に敵潜を警戒しつつ約4ノットで北上していた冲鷹に、突然機械室と缶室付近に第2撃が命中した。機関長附(ずき)士官が息を弾ませて艦橋に来て、「機関科当直員が全滅しました」と報告した。これを聞いた大倉艦長を始め艦橋にあった乗組員には悲壮な空気が漂った。今は機関科指令室との連絡装置としては伝声管しかなかった。有線、無線の電話はすべて不通になった。然し、伝声管からは人の声の代りに海水の入ってくる波音が聞こえるだけであった。遂に行脚(ゆきあし)が止まって航行不能になった。
 当然、再び総員配置に戻った。厳重に見張りをする一方、敵らしい影を見つけると威嚇射撃を行った。この頃から艦内は重苦しい沈黙から抜け出して決死の心構えの集団となった。やかて大倉艦長から「総員、筏を組め」と命令が出た。この寒さ、荒天の海の中に脱出するには必ず筏がいると思えた。各分隊ごとに浮力のある物品を身近に集めて筏を作り、浮き袋を身につける準備を始めた。時間が過ぎて夜が明けると激しかった台風も少々遠ざかったようで、少し波浪の高さも減り、視界も少し開けてきた。
副長は艦橋の戦闘配置で頑張っていたが、職務上何回も艦内を見回り応急員の指揮をしている運用長に、見回りのついでに副長室によって自分の軍刀を持ってきてくれと依頼した。これは副長自慢の逸品で「四海静波」と銘が刻まれていて、これを持っている限り命は助かるという言い伝えがあると日頃話していた宝物である。居住区に下りると、通路はもう海水が溢れていた。副長室のドアーをこじ開けて中に入り軍刀を持ち出した。隣の艦長室にも入ったが、艦長は既に軍刀を持参しておられたので、ベッドの横にあったタバコの包みを小脇に抱えて部屋を出た。
 米潜の捕虜20名を乗せていたことは既に述べたが、彼等は中甲板にある商船時代の貴重品倉庫に収容していた。ここは施錠が出来て見張りにも好都合な場所であった。雷撃の衝撃によって施錠が外れたらしく全員が外に出て、庫内にあったと思われる救命胴衣を着けて早くも飛行甲板に避難し、座り込んでいた。この胴衣も商船時代の乗客用のものであった。
担当の下士官がこの状況を発見した。彼は乗組員でもまだ着用していなかったので、以ての外だと怒って、「救命胴衣を脱げ」と大声で怒鳴った。然し、日本語では彼等にその意味が通ぜず、正に鳩に豆鉄砲であった。たまたま通りかかった運用長が「テエイクオフ
 ライフジャケット」と大声で伝えると、彼等が了解してようやく胴衣を脱いだ。
 それを纏めて艦橋に運び、皆さんに配った。艦長に胴衣を着て貰おうと奨めたが、全くその意思がなかった。我々は艦長は既に意を決しておられると推察した。長く重苦しい夜もようやく白み視界がやや良くなってきた。突然見張員が大きな声で「マスト一本が見えます」と叫んだ。見張り指揮官がすぐに「敵潜の潜望鏡ではないか、確認せよ」と聴き返した。暫くすると同じ見張員から「マストに間違いなし」と答えがあった。直ちに艦長に報告してその方向を凝視すると、波の間にマストと思われるものが見え隠れして段々と近ずいて来た。それは正に救助の駆逐艦のマストであった。
艦橋の空気が一変して生気が戻った。信号を発信するための準備に信号兵を信号台に登らせた。向うから「われ曙(あけぼの)、われ曙」と発光信号で連呼してくれる。高い波の為その信号は上下、左右に大きく揺れるが、駆逐艦の姿が見えてきたと喜んだ。
然し、次の瞬間に残念ながら敵潜の第3撃を艦橋直下に受けたのである。その衝撃で信号台の信号兵が空高く飛ばされるのが見えたが、次に本艦が急速に艦首から沈み始めた。
今はこれまでと艦長は「総員退去せよ」と命令された。運用長は艦長の後ろに回り、自分の持っていた救命環の命綱を艦長の外套の帯紐に結びつけた。この動作は事前に打ち合わせたことではなく咄嗟の思い付きだったが、以後は艦長に従って行動することになった。
 海に飛び込む者、筏に取り付く者、放心状態で呆然としている者など色々であるが、捕虜も同様の混乱振りで、死に直面して様々な対応が見られた。
艦長は艦橋を出て飛行甲板に上がった。途中で旗甲板を通った時、「軍艦旗を降ろせ」と大声で命令されたがマストには既に軍艦旗はなかった。何か思い違いをされたと傍にいた運用長は思った。
   飛行甲板には多くの乗組員が集まっていた、互いに挙手の敬礼を交わしつつ「ご機嫌よう」とか「さようなら」と挨拶をして、最後部の方へと移動していた。間もなく艦首から逆立ちとなり、甲板にいる者全員が立っておられず雪崩に巻き込まれたように海に転落したのである。
この辺の敵潜セルフイッシュ側の記録は次のようである。
真夜中に潜航して第一撃を発射、命中させて後、セルフイッシュが浮上して海面に姿を見せたのは0200頃(米側の時刻の表示は日本側のそれとは一時間遅い)であった。ワード艦長は真っ暗闇の嵐の中でレーダーの画面を見た。一隻の船が馬鹿にゆっくりと動いていた。「うまく魚雷が命中したぞ」と叫んだ。傍にいた乗組みの士官が「艦種は何ですか」と聞いたが、艦長は「判らん、追いかけて確かめよう」と答えて、落伍した敵艦の追跡を始めると共に新しい魚雷の装填を命じた。
夜が空ける前にもう一度攻撃するんだと浮上したまま敵艦に近付いて、第二撃の魚雷3発を発射した。一発が命中し巨大な火の手が上がり火山の噴火のように見えた。敵は立ち往生したようである。時刻は0550であった。
セルフイッシュは浮上して敵の左舷1500米を通過したので、艦長は敵が空母と確認し飛行甲板の後部には多数の人員を集まっていたのを見たという。明るくなったので潜航して0940に、3回目の最後の攻撃を行った。今度は艦尾発射管から距離2900米で発射した。この攻撃で2発の命中音を聞き、続いて大きな爆発音が聞こえた。暫くして浮上した時には敵艦は沈没したと思われ、海上には姿が見えなかったと記録されている。

 運用長、荒天の海上を漂流し苦闘の後救助される

冲鷹の急傾斜した甲板から艦長以下乗組員は荒れた海に滑り落ち海中に投げ出された。幾度となく海面近くまで浮き上がってはまた沈むという経過を繰り返したように感じた。これは本艦が沈む時に起きた巨大な渦に巻き込まれたのだ。
運用長は苦しい呼吸を反復して腹に海水を一杯に飲み、ようやく海面に浮き上がった。あたりを見ると幸いにも目の前に大きな材木が浮いていた。助かると思い、それにつかまった。数名の人が既につかまっていたから浮力の限界に近いようである。
この時、やっと艦長はどうなったかと心配になった。命綱でつながって一緒に海に投げ出されたので命綱を手繰ってみたが、帯紐の端切れがあるのみで艦長の姿はなかった。先ほどの渦巻きの中で帯紐が切断して別れ別れになったと思う。残念ながらその後再び艦長に会うことはなかった。
材木には分隊員もつかまっていて、元気を出して軍歌でも歌って頑張ろうという者がいたが、すぐにそれを制し、今は可能な限り気力、体力を温存すべきだと諭して、波のまにまに身体を任せる方法を取った。
荒い波からは何度も身体を材木から離そうとする力がかかり、掴まっているのが精一杯であった。また、冲鷹から流れ出た重油が海上に一面に漂い、顔や服にベットリと付いて人の見分けは勿論呼吸をも困難にする状況であった。
すこし離れた所にハンモックなどをくくり付けた比較的に頑丈と思われる筏を見付けた。数メートルの距離を必死に泳いでこの筏に辿り付いた。後から思うとこれが運命の移動であったといえるのだ。力をふり絞って筏の上に這い上がった。其処には数名の者が先着していて坐っていた。その他I名くらいの者が泳ぎながら筏に掴まっていた。負傷をしていなかったので、その苦しみは感じなかったが、何分にも寒さの中での長時間の戦闘で疲労は極点に達していた。
運用長は安心したためか激しい睡魔に誘われた。目の前に童顔の若い水兵が坐っていた。水兵に「互いに殴り合いをして睡魔を撃退しよう」と話をして、更に「眠くても絶対に眠ってはいけない、眠ればそのまま死んでしまうぞ。殴り合いをして気力を奮い起こして頑張ろう」と説明したが、彼はこの時になっても上官を殴ることは出来ないと言う。今は議論の暇はないので、いきなり彼を殴ったら、彼も反射的に殴り返して数回続けたが、そうすることにも力が尽きてしまった。無意識の内に持っていたピストルに手をかけたが、長い間海水に浸かっていたので使用不能になっていた。
朦朧とした視野の中に、一本のロープが投げ込まれた。そのロープの端にはアイ(折り曲げて丸めを作ること)が作ってあった。そのアイをやっとの思いで頭から被り、片腕を通した。ここまではかすかに覚えているが、その後は全く記憶がなくなっている。
気力、体力共に限界になり、最後の力を振り絞ることの出来る時間は僅かな時間であろう。その時に命綱であるロープが投げられ、手にし正しく着用出来たことは偶然であり、奇跡であり、運命であるという以外に表現のしようがないと痛感している。
救助艦漣(さざなみ)は荒天の中だが速力を落とし、激しく動揺をしながらも乗組員は甲板の上から命綱のロープを海上の漂流者に対して投げた。そのロープのアイを頭から被るか、身体に巻きつけた者のみが人事不省になっても救助艦に取り込まれた。単にロープを掴んだ者は救助艦に引き揚げられる時、途中で脱落し、そのまま波間に消えてしまったのである。生死は紙一重の差で決まったというべきであろう。
漣の兵員室に収容されていた運用長は深い眠りから目が覚めた。知らせによって艦長と一名の士官が見舞いに来てくれた。そして引き揚げられた時に、意識は朦朧としていたが、少々のかすり傷の外は異状がなく、体力を回復する為に重湯を飲んだと聞いた。

 残務整理

沖鷹の遭難時に乗っていた人員は乗組員を含めて全部で約3千人であった。その内救助された人数は僅かに約170人と伝えられている。また、乗組員は553名であった事が戦後の第二復員局に残っていた記録でやっと確認できた。便乗者名簿を始めとして全ての関係書類が遭難とともに失われたので詳しいことは判らない。士官室士官の生存者は副長江藤敏行中佐と運用長阿辻拓司大尉であった。
 冲鷹は護衛空母として犠牲になった第1号であったので、全てを極秘扱いにされて外部は勿論、内部においてさえ接触を絶たれた。当時は生存者名簿さえ充分なものが出来なかったようである。無傷の生存者は次々に新任務へ配置され、別れて行った。
 便乗者の中で最も多数であったのは第一航空戦隊の整備員で当然戦死者も多かった。これらの人々はその道のベテランであった。有能な技術者を失った損害はその後の航空戦力の再建に支障があったと聞いている。この部隊の生存者の分散が早くて名簿作成が出来ないままになった。戦後の「冲鷹会」の発足に大きな支障となり、40年近くも慰霊祭を催すことが出来なかった。
 同乗していた米軍捕虜について一言申し上げると、結果として20名のうち、1名のみが生存した。戦争は勝者の中にも不運な人が生じる。敗者の軍艦に便乗させられると、自国の潜水艦の攻撃で命を落とすことがありうるのである。運命とは皮肉なものと思われる。

 四 冲鷹の写真の信憑性を検証し、その誤りを指摘したい
(
写真
  略)
この写真は昭和35年に公表されて以来、長い間冲鷹沈没直前の悲劇的な姿を撮影したものとして世間に報道され、殆んど定着していた。撮影者は第452航空隊(千葉県館山市)の飛行長古川少佐である。
        
本人も戦後自ら「冲鷹の写真を撮ったのは私だ」と明言していた。
 冲鷹生き残りの一人阿土氏は海上自衛隊佐世保地方総監部で主要幹部として古川氏と共に勤務した時、深い信頼関係を築いていたので、長い間その言葉を信じていたと語っている。
 然し、この写真を詳細に点検した人が平成9年に刊行された「日本の航空母艦」の誌上でこの空母は大鷹と同じ12センチ単装高角砲6基を装備しているように見えると疑問を表明した。
改めてこの問題の解明の動きが始まった。
@ 姉妹艦大鷹と雲鷹は12センチ単装高角砲を装備したが、遅れて竣工した冲鷹にはミッドウエー島沖海戦の戦訓を取り入れて12.7センチ連装高角砲4基が設置されたことは乗組員の証言で間違いない。
A 2回目の被雷の後、夜が明けてから沈没までの間上空にわが水上偵察機が飛んでいるのを見た人はいない。又、飛行甲板に特別の損傷や切断があったとは承知してない。
B 当時は荒天で海面には大きな波があったが、写真では波の存在が認められない。
 次に大鷹と雲鷹が魚雷が命中して被害を受けた時の状況を調べてみた。
先ず、大鷹の場合、被雷は3回である、最初は17年9月28日で飛行甲板の最前部の下方に魚雷1発が命中したが大した損害はなかった。2回目は18年9月24日、右舷後部に魚雷1発が命中し破孔を生じたが、応急修理の後同行の冲鷹に曳航されて横須賀に入港している。3回目は19年8月18日2248に雷撃を受けて僅か20分の後沈没した。夜間であり写真撮影の機会はなかった。
 雲鷹の場合、被雷は2回受けた。1回目は19年1月19日正午頃、サイパン島沖を空母瑞鳳と船団を組み内地に向け北上中であった。魚雷2発を前部船倉に受けて、前甲板が垂下したまま低速力でサイパンに向かい入港した。20日から約1週間をかけて応急修理を行い、27日にはサイパンを出港して再び内地に向かった。乗組員からの聞き取りによれば横須賀入港の前に時化にあい、2月3日、4日頃、折角修理した艦首部が破損して海中に脱落して、その後の航海が極めて困難になったが、苦心の末2月8日にやっと無事に横須賀に辿り付いたという。この写真は4日前後に館山基地を出発した古川機によって撮影されたのである。
以上の調査の結果、写真の空母は冲鷹ではなく、雲鷹であると断定せざるを得ない。
 冲鷹の悲壮な最後を悼むあまりに早合点をして、この誤りを冒したように筆者には思われる。
                                    合掌              

TOPへ     戦記目次