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平成22年4月23日 校正すみ

学年監事寸評

村山 隆

海軍機関学校第53期生である私達は、在校中3人の学年監事から教導をうけた。入校時が喜多見芳夫監事で1年2ケ月、次いで平田(旧姓山田)傳蔵監事が1年2ケ月、卒業前の5ケ月が山崎實徳監事である。

各監事を一言でいうと、喜多見監事はうるさい父親、平田監事は厳しい兄貴、山崎監事は紳士的な教師と評することができよう。

喜多見監事は、入校時の担任であるだけに印象が最も強く、ひ弱な中学生からたくましい海軍生徒への急速な変身の時期でもあったのでその受けた影響は大きい。

熱血的な指導ぶりで、私達生徒と一緒になり率先躬行されていた。また身上のことにも厚い気くばりをされ、よく相談にのり励ましをうけたものである。私は、入校の年 (昭和15年) の7月に母を亡くしており、生徒生活において精神的に少し滅入っているようにみえることもあったのだろうか監事からよく声をかけて貰った。

入校最初の学年旅行は伊勢神宮参拝で、その前夜斎戒沐浴した水の冷たかったことや大江山登山の夜行軍の眠かったことなど懐かしい思い出である。

昭和20年5月、私は水中特攻兵器蚊龍を勉強するため瀬戸内海の倉橋島(呉市南方10km) にある大浦基地を訪れた。当時、喜多見監事は同基地司令部の副長をしておられた。私は事務室で何から手をつけていけばよいのか思い悩んでいると、監事が学ぶべき要点を懇切に教えて下され、効率的に資料を収集することが出来て嬉しい思いをした。

喜多見監事が機関学校を離任するに際し、私達に次の言葉を残された。

 常ニ突撃セヨ
 
 常ニ自啓自律ノ精神ニ於イテ行動セヨ

 常ニ明朗タレ

 素直淡白タレ

喜多見監事は、昭和63年5月9日、76才の生涯を閉じられた。

故郷である会津若松市郊外の小高い丘で鶴ヶ城を眺めながら静かに眠っておられる。

 

平田監事は、意識的に潰した型の軍帽をかぶり、口を少しとんがらせ気味にして厳しい指導をされていた。

平田監事の在任期間は、私達の二号生時代10ケ月、一号生時代の前半4ケ月で、私達は生徒生活にも慣れ少々生意気になってきている頃でもあったので、監事はその意に反し意識的に厳しい指導をせざるをえなかったのであろう。根は気立ての優しい話のわかる監事であった。

平田監事からは製図学を教わったが、監事は私達が図面を書いている机の側に立って、ニヤニヤしながら、しかもびしびしと指摘をされたように憶えている。秀才タイプでヤヤニヒルな感じが印象に残っている。

平田監事とともにした学年旅行で、幕末に活躍した勤王の志士梅田雲演や日露戦争時第6潜水艇で殉死した艇長佐久間勉大尉の生誕地若狭小浜を訪れ、彼らの果した愛国の至情と強い責任感に感銘したり、スキー行軍で神鍋山の麓清滝村太田の民家に分宿し豊かな人情にふれたりもした。楽しい思い出である。

 平田幹事とは卒業後、残念ながら一度もお会いする機会に恵まれなかった。

平田監事は、昭和19年7月8日サイパン島の戦場において散華された。惜しまれてならない。

是非一度お墓に詣で平田監事にお礼を述べなければならないと思っている。

 

山崎監事は、卒業前の短期間の監事であったので私達全員の性格、適性などを熟知するのに大いに苦労されたことであろうと推察する。

いつも悠然とした歩き方で、日頃激することのない冷静な学者タイプである。

山崎監事からはディーゼルエンジンの機構や燃焼理論の講義をうけたが、居眠りをしたりしていたので講義の内容はさっぱり理解しなかった。

私達が下級生を指導するにあたって、監事は大変気を配っておられた。鉄拳制裁について、その意義、目的、効果に関し疑問をもっておられ、私達一号生に鉄拳制裁を自粛するよう注意を促しておられた。私達は、監事の指導に対して理解ある反応を示さずあいまいのまま卒業してしまった。

平成3年正月、妻とともに岩国の錦帯橋へ旅をした。この橋は、錦川にかかる5連のアーチ型木橋で日本3名橋の一つといわれる。

乗艦実習で江田島にある海軍兵学校を訪問したときに足をのばして名勝地の見物をした。そのとき以来50年ぶりの観賞である。橋のたもとは近代的に化粧されたホテルが立ち並び、吉香公園として整然と整備され、緑濃い城山を背景に孤を描いたシルエットは大変美しい。錦川は昔のままに水は澄み静かに流れていた。

この近くに岩国飛行場がある。卒業前この飛行基地で飛行機操縦士適性検査をうけた。

私達はもともと機関術などを学び、この分野において活躍する海軍士官の卵であるが、航空戦略の重要性が高まり、この方面にも私達のなかから要員を選出することになった。

私は、平衡感覚検査機器の操作でぐるぐる廻ってしまって、あっさりとパイロットは失格となった。

私達は、希望や適性などによって卒業後水上艦艇乗組、潜水艦乗組、飛行機整備、パイロットの四つの職掌に分けられた。

このことが、私達のその後の運命を決めている。

山崎監事は、私達のこの四つの進路を決めるにあたりさぞかし腐心し悩まれたことと思うが、私達の適性を見抜かれたその鋭い眼力にはさすがであると感心する。

昭和26年春、京都に住んでいた私の新居に1泊されたことがある。生徒時代のことや同期生の消息など話が尽きなかった。そのなかで戦死者の家族の状況などを監事は詳細につかんでおられ恐縮したものである。

山崎監事は、文筆家で、昭和18年潜水艦乗組員の体験を綴られた「真珠湾潜航」 の図書が読売新聞社の推薦図書に指定され、またつつじヶ丘桜花台の出来事を「生きている化石、海軍機関学校」として昭和57年集大成されている。

 この図書は、平成2年1018日海軍機関学校第53期生入校50周年記念行事の慰霊祭において、戦没者57名、戦後の死没者8名の霊前に、山崎監事から奉呈された。

山崎監事のご長寿をお祈りする。

(機関記念誌224頁)

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