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平成22年4月15日 校正すみ

柳は緑、花は紅

(比島沖海戦記)

吉本 信夫

戦艦 長門

「今日の早朝訓練は長いな、艦橋は解散の号令を忘れているのでは」等と戦闘配置の長門第一罐室指揮所内で部下の特務下士官と話しながら昭和191023日の朝を迎えていた。今艦隊はパラワン島の西をレイテへ向って急いでいる。

この頃は敵潜の潜む危険海面を航行する場合、最も攻撃され易い早朝と薄暮は常に訓練を兼ね総員配置で警戒していた。然し機関科は航海中であり運転作業があるため特に訓練は行わず配置にだけ就いていた。この日も配置について即応態勢は整えながら特に為すべき作業はなく種々な想いに耽っていた。

即ち1罐舷側に魚雷が命中した場合はどうなるのであらうか、徹甲弾の方が被害は大きいのでは?然し学校を出たばかりであり被害を受けた時の対応策については全く自信がない。

以前機械分隊士の時、機械室舷側に魚雷を受けた際被害がどの程度になるか調査を命ぜられ、敵の魚雷の破壊力が不明のため我海軍の戦闘力要表の数値を用い計算した結果、舷側機械室に浸水するとの結論に達し、扶桑艦上での応急研究会で発表したころ、扶桑艦長よりそんな馬鹿なことはないと叱られた。

しかし、自分では叱られた事に心の中では納得出来なかった。その後大和であったか雷撃を受け浸水する事件が起り、その戦訓を見た時先般算出した長門の被害想定もそう間違ってはいないと思った。

学校を卒業以来難しい計算をすることは殆んどなく、想定被害の応急訓練ばかりやっていたが、長門が大和を曳航する訓練をすることとなり、その際長門の運転諸元はどうすべきか私に算出の命令が来た。

曳航時の主軸回転数と速力の関係、速力はどこ迄出せるか、最初に限界に達するのは曳索強度か推力軸承か等々である。学校時代学んだ造船学の赤本が艦にもあり、これを借出して計算尺で造波抵抗等を算出してゆく。試行錯誤でやるため可成り時間を要したが算出して提出した。

さて、いよいよ訓練当日となり計算結果が実際と合っているかどうか大変心配である。運転指揮所へ入り計器を見つめていた処、確か6ノット程度までは略一致しそれ以上では、ずれが出ていたように覚えている。

第一の制限因子は曳索の強度で10ノット位が限界であったように思うし訓練はそれ以下で終了した。やっと胸をなでおろしたが、この度は実戦で大和、武蔵が曳かれるか長門が曳かれるか、或はそんなことが出来る状況があるのか等々を思う。

それにしても罐室は何とも暑いのではなく熱い。長袖の作業服であるが上衣の前釦を全部外して通風筒よりの風を肌に当てても背中の汗は止まらない(肌着は着ていない)。

やっと解散がかかり罐室より上った途端吃驚りした。長門の1罐室では何も感じなかったが、愛宕、高雄、摩耶が敵潜にやられたと、それで何時までも解散がからなかったのか。愛宕にはクラスの重森が居る、司令部も乗っている。どうしただろうと思いつつ露天甲板に出て見ると、共に走っていた4戦隊は鳥海のみとなっている。聞けば愛宕より長門迄の4艦が之字運動で斜め一線となった時やられ、長門の傍も魚雷が走ったとのこと。

「あ」号作戦の時も大鳳、翔鶴が敵潜にやられているし、こうも簡単にやられてはと前途の多難を思わせた。

この日は、その後は何も起らず艦隊はシブヤン海に入り翌日午前艦内放送が「敵の空襲圏内に入る。警戒を巌にせよ」と叫んで間もなく、「対空戦闘用意、右〇度○○、敵の大編隊こちらに向って来る」とこの辺りまでは艦内放送が流れる。

勿論速力は既に最大戦速に上げている。続いてスピーカーより「対空戦闘」 のラッパが響くと主砲が発砲を開始し、その重い衝撃が艦体を伝わり、缶室に届く。いよいよ敵機が近付くぞと緊張する。間もなく高角砲、25粍機銃の発射音が聞こえ始めると敵機は眞上だ。こうなると艦内放送は何も流さない。

否、流す余裕はないのだが機関科の末端指揮所では広く状況を判断出来る計器類も何もない。全く徒手空拳で叩かれる感がする。罐はゴーゴーと音を立て自動的に全力焚焼(ふんしょう)しており、被害を受けない限りすることは無く唯じっと運転状況を監視している。自ら神経は彼我の撃ち合いに集中する。

本艦の発射音と別に不規則で可成り大きい衝撃が「ガンガン」と伝ってくる。(これは後で判ったが至近弾が海面で爆発する衝撃の為にパルジに弾片による多数の小穴を生じていた。)直撃か至近弾か魚雷の命中か何かも判らない。艦は依然として回避運動で右に左に大きく傾斜を繰り返す。

大きい衝撃を感ずる度に罐室の運転員が指揮所の方を見るのがガラス越しによくわかる。然し担当の罐3基とこの蒸気で駆動する左舷外軸のタービンは順調な運転を続けており、何もすることはなく計器盤を見つつ心では落ち着けと叫びながら、やたらと煙草を吸う。

何波かが襲来し少し落着いて時計を見ていると、一波が概ね15分の対空戦闘である。然しこの間は毒ガス弾を警戒して耀室入り口側は完全通風閉止で猛烈に熱くなり通常摂氏50度は越え、60度を越したこともあった。

その上極度の緊張をする為、体感時間で3時間位の疲れを感じる。このような環境のため「あ」号作戦の時、高齢の補充兵が罐分隊へ数名配属されたが全員熱射病に倒れ以後は現役兵のみとなった。「撃ち方止め」の号令で急いで通風をかけ、一息入れると生きていた事を実感する。

 

この日は昼食が戦闘配食になっていなかった為、空襲の合間に交代で食事に上った。ところが武蔵がやられたと聞く、食事を急いで済ませ露天甲板に出て見ると、未だ遅れながら可成り後方をこちらに向っている。然し前甲板は海面より少し高い位で相当に沈んでいる。クラスの村山が居るが大変であらうなと思う(私が武蔵を見たのはこれが最後であった)。

大和はすぐ傍を走っていた。長くは上に居られない。戦闘開始となれば艦内区画の防水扉は完全閉鎖され罐室へ行くことが大変となる。急いで下りる。また対空戦闘である。6月の「あ」号作戦の時にはこのように本艦が襲われることはなかった。

 

15時頃の空襲時、カタカタカタと聞こえる25粍機銃の発射が始まり間もなく、突然鉄板を引き裂く甲高い「キーン」と云う大音響と共に罐前が眞白くなり何も見えなくなった。

この瞬間蒸気管がやられたと思い直ちに機関故障の非常通信装置のハンドルを引き、指揮所内に伝令1名を残し特務下士と共に被害確認のため罐前へ出た。白いモヤで視界は非常に悪い。 (白いモヤは爆発時の白煙であったがこの時は確認方法もとらず蒸気噴出と思い込んだ侭であった)。

罐前を調べるが運転員が一人も居ない。罐は小さい覗窓より燃焼を続ける火焔の明りが見える。また、給水ポンプ上部の天井より可成りの水が落下している。 (これは交戦中防火の為、甲板を流している海水が爆弾の破口より罐室内に流入していたものであった)。この侭では罐の空焚きを起す懸念が大と考え特務下士と2人で罐の消火作業を行った。

そうしている内に白いモヤも薄れ、ふと頭上の大型圧力計を見れば圧力があるではないか。あっ誤判断をした、蒸気系は大丈夫だと気付いた時、一時勝手に退避していた罐運転員が皆戻って来たので督励して罐の再点火を行い、状況を報告し出力の上昇を図ったが、「1罐煙が黒い」との通報があり再調査したところ燃焼用送風機が1基回転していない。従ってその分出力を落し当面一応の復旧を終えた。

 

直撃弾2発中1発は1罐左舷吸気口附近に命中したものであるが、それより当面復旧迄どの位の時間が経過したか定かでない。初めて被害を受け心の平静を失ったことは否めない。1罐室を止めた間は推進軸4軸中の1軸を遊転状態にし、艦速を低下させたが、幸にも当日はその後空襲を受けず艦の運命に係ることがなく済んだ。

(誤判断をしたことは心苦しく合戦終了後機関長に処分方願った処、誰でも始めはすることだ、皆慣れて落付いてくるから、気にするなと言はれやっと胸のしこりが取れた)

 

一応の復旧は終っても未だ全力発揮は出来ない。総員配置の戦闘部署であるため他配置よりの応援は1名も得られないが、完全復旧を急がねばならない。早速1罐室の半数を以てタービン駆動軸流送風機の分解に入ったが、高速航行中で動揺もあり作業は中々困難である。

部下と共にスパナを握り足場の悪い所でベラのケーシングを外し調べればベラの先端に鉄片を噛込んでいたので取除き手廻ししたところ回転する。然し軸が曲り、高速回転が出せないかもしれない。祈る気持でケーシングの復旧を急ぎ通気試運転を行った処振動は起らず、この時程嬉しく思ったことはない。罐の能力を完全に復旧した時は既に夜に入っていた。

 

この日は夜も総員戦闘配置のままであるが、夜間の空襲はない模様であるため、部下を2直とし、半数罐室床上に帆布を敷き仮眠を取らせることにした。その後に罐室の上に出て被害状況を見るに、罐の風路は殆んど破壊され風路が防御甲板を貫通する場所の防御格子部は露出、周辺は惨憺たる状況で、その上の副砲々廓も砲身は曲り砲架にも床にも破片と共に砲員の体の一部が散乱している。

更に破口の縁近くには残弾が転がり艦の動揺で風路の防御格子上に落ちそうな状況である。又烹炊所の蒸気釜は全部転倒し傍に茫然と立つ主計長の姿が今でも脳裏に残っている。数名の部下で破口周辺の整理を行い罐室に下り休息に入った。

 

丁度眞夜中になった頃、分隊士は治療室へ行けとの連絡を受けた。これは腹痛を起した部下が盲腸炎とのことで、今から手術するので立会せよとの事、早速行って見れば治療室の内外は通路も皆重傷者で一杯、足の踏み場もない位でその中央手術台には部下が乗せられて居る。

軍医長より既に麻酔薬は無くなったので麻酔なしで手術する、ついては患者が動かぬよう押えておけと云われた。一人では不足のため部下を呼び皆で押えて手術が行はれる。南方の艦内、負傷者の呻き声、異臭、熱気軍医も大変であるが、どうしてこんな時に盲腸炎になったのかと思う。

 

患者は苦痛で猛烈な呼声を発するが励まし、励まし、手術は終った。

我身には傷一つ負わなかったが今日は何と目まぐるしい日であったかと思いつつ配置に帰った。

次の日は早朝より水上遭遇戦が始まり続いて対空戦闘の連続、3日目も朝から空襲を受けたが長門はその後直撃されることはなかった。3日目の午後敵の空襲圏外へ出て始めて戦死者の水葬準備が命じられた。3日間連続戦闘の為、止むを得ず放置された50以上の遺体は通路も塞ぎ、南方熱気の為、ガスで膨張し切って人相も変り、取付けた名札でなければ判別出来ない。

機関科では一罐室中段待機応急員1名の戦死者を出した。丁重に遺骨代りの爪をとり、遺体を毛布に包み演習弾を抱かせて葬儀を行う後甲板へ運ぶ。周辺を見れば共に帰る艦は出発時に較べ激減し、しかも殆んど満身創痍の状態で傾きながら走る艦もある。

 

それらが皆4日前迄は元気であった戦友の水葬を行いつつあり、ラッパの響と弔銃の音が伝わってくる。周辺のシブヤン海は波静かで、艦の動揺は極めて小さく島々は緑を湛え苦悩の艦隊を見守っている。時は既に夕刻に近く島民の夕餉か、所々眞直ぐ立ち登る煙が見える。パラワン島西海面より先刻迄艦隊は直掩機もなく悪戦苦闘し、自らも一瞬刻みの命と観じ、多くの僚艦が沈んだが今この静かな佇まいの中、生死を分けた戦友を葬送する。

誠に俄に虚脱の世界に踏み込んだ思いである。この時ふと思い出した事は卒業前小西分隊監事に同行しつつ海軍道路で示された「柳は緑、花は紅」の詞であり、その意を今始めて実感する想いであった。

卒業後は同一艦に来るか同一戦隊である場合以外、戦時中殆ど級友に会うことは無かった。比島沖海戦に於いても同じ栗田艦隊に属し共に闘いながら艦底の配置で互に乗艦の最後を見守ることもなく、重森(愛宕)、伊藤(鳥海)、服部(筑摩)、吉岡(鈴谷)、と内地帰還途中の森下(金剛)の各級友が艦と運命を共にし、散華された。謹んで各位の御冥福をお祈りする次第である。

(機関記念誌148頁)

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