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平成22年4月21日 校正すみ


生徒館鳴動す

大森 慎二郎

大森慎二郎 海軍機関学校

昭和1512月1日海軍機関学校生徒を拝命した我等53期生120名は昭和18915日卒業迄約3年間の苦楽を共にした。<BR>

その間四号、三号、二号、一号と進んでいく間、数々の想い出が記憶の中に鮮明に浮んで来る。

生徒館生活には四号には四号、一号には一号と夫々の追憶があり又違った感銘があるが、中でもやはり西も東も分らない中学生から海軍生徒へ脱皮していった四号時代を振り返ってみたいと思う。
 
四号にとって生徒館は正に活火山上または直下型震源地の上にいるようなもので其の間大小の地震に見舞われた。其の中で最も大きな激震は入校時の紹介式と定期的又は不定期的に見舞われた剣道場の召集であろう。

 其の他数々の地震は食事5分前の洗濯場、就寝前の廊下整列

「本日櫂を流した者はトラスコに集れ」短躯ながら大音声で達する50期本庄生徒の声等々、毎日の様に見舞われその上で右往左往する四号も少しずつ生活に慣れ海軍生徒たるの気概も出来ていった。

一、紹介式<BR>

  服装こそ真新しい第一種軍装に着替えいっぱしの生徒であるが中味は未だ娑婆気満々の中学生のまま、生徒長に引率され、校内見学また生徒生活の日課の説明を受けた後、夕方温習室で行われた紹介式は最初の先制パンチであり、舞鶴生徒館生活の多難さを思い知らされた出来事であった。<BR>

何気なく温習室へ入った我々は既に整列を終えた上級生のただならぬ気配を感じつつ上級生と向い合って整列した。<BR>

 生徒長より「唯今より上級生と新入生の自己紹介を行う。一学年より出身中学校と姓名を申告せよ、一人ずつ一歩前」、先ず先任の三浦がすすみ出た。<BR>

 「呉第一中学校出身」と言い終るか終らぬ中に大音声が轟いた。「聞えん′やり直せ、」トタンに床を踏ならす音が「ドスン」とひびいた。既に一号は夫々四号をとり囲むように睥睨(へいげい)している。4回、5回とやり直しをさせられ声もかすれた三浦が列に戻る。続いて阿部順男 一歩前「仙台第二中学校出身阿部順男」大声で申告したがやはり「分らん はっきり言え、やり直せ」さすがの阿部も顎を突き出し何回かやり直してから列に戻った。<BR>

 いよいよ俺だなと一歩前に出たが足が地につかない、ままよと「東京府立第八中学校出身大森」と申告を始めたトタン 「聞えんそんな声で船の機関室で命令が出せるか」怒声、罵声の集中砲火と共に床が踏み鳴らされ、窓がガタガタとひびく。後は夢中で数回やり直した後「よーし次」 の一声にほっとして列に戻った。<BR>

 続いて本田武夫 (宮城県角田中学)、坂本 博 (大阪府北野中学)、小田博之 (佐賀県三養基中学)、寛応 隆 (静岡県沼津中学)、佃 次郎(滋賀県膳所中学)と次々と集中砲火を浴びて放免された。始めは夢中で他の分隊の事など頭になかったが少し落着いてみると隣の11分隊からも7分隊の方面からも床を踏みならす音、怒声馬声の音が遠雷の如く生徒館全体が地鳴りを起した様に鳴りひびいた。<BR>

一学年8名の申告がすんでほっとする間もなく、また、生徒長 一声高く「唯今の一学年の申告は全く元気が無い。此れより上級生の申告を始めるからよく腹をすえて聞け。」言い終るや一歩前へ出た三号、二学年生徒しばらく無言のまま四号をにらみつけ、やおら開口一番「オーレワ」と第一声を発するや眼をカツと開き睨みつけ、後一呼吸おいて「東北は弘前の産 姓は前田、名は昌宏、これからは貴様達に機関学校の精神をたたき込んでやる。覚悟しておけ」と叫ぶや口を「へ」の字にまげて、睨み返した後、列に戻った。 注(前田生徒は、後はどちらかというとおとなしい上級生で色々と助言された)<BR>

 後は次々と上級生が登段「根性を叩き直す機関学校の何たるかを教えてやる、俺の腕が折れるか貴様達の顎がふっ飛ぶか勝負してやる」と腕を振り上げる三学年上原生徒の姿等、唯々嵐の吹き止むのをじっと待つしかなかった。30分位たってやっと開放された時は腋の下にはじっと汗が滲んでいた。<BR>

次の日曜日、倶楽部での話題は専らこの夜の話題で花が咲いたものだ。<BR>

当然此の恒例の行事は後の54期、55期へと引継がれていった。<BR>

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二 召集<BR>

 夕食後バスをすませタオルを洗面所に戻しに行くと生徒館の様子がシーンと静まった雰囲気がして一号の姿は見えず、四号丈がうろうろしている様だった。と、いきない新聞閲覧室から一号が飛び出して来て、道場の方へ走り出していったなと思っているといきなり「一学年剣道場へ集まれ」と大音声が轟(とどろ)いた。何事かと廊下に飛び出し道場へ向って走り出すとトタンに 「元気がない向うの角からやり直せ」の怒声が飛んだ。10m間隔に一号が仁王立ち、恐ろしい顔して走って来る四号に「待て」「やり直せ」の叱声が飛ぶ。何度かの関門を無事通過して剣道場に着いて見れば、既に2030名の一号が木刀を前について突立っている。その侭通り過ぎようとすると、待ての声「沓下が汚い」と木刀の先で足の甲をいやという程つつかれた。<BR>

 剣道場には既に電灯が明か明かとつけられ、既に1/3位が整列している。後からも次々と四号が駆け込んで来て全員が揃うと入口のドアは音を立てて閉められた。<BR>

正面には既に号令台が置かれ、周囲を一号がぐるりと取囲み木刀をついて呪みつけている。次の嵐を待っていると四学年一部長今岡生徒がやおら壇上に立ち、「近頃の貴様達の態度を見るに目に余るものがある。俺達は一号として全力で鍛えてきたが未だ精神が入って居らん。今日は猛省を促す」と達示が終ると更に4、5名の一号が登壇し夫々に叱咤した後「一歩間隔に開け、歯を食いしばれ」 の号令と共に総員の鉄拳制裁が始まった。<BR>

 前列からも後列からも始まる。愈々近づいて来たなと思ったら、一発左から強烈なやつを見舞われ眼に火柱が走る。思わずグラツとすると「ふらふらするな」とまた反対から一発見舞われる。<BR>

後は間断なく集中砲火にさらされた。一号総員だから数十発は着弾しただろう。<BR>

嵐が過ぎて温習室へ戻ると、口の中は切れ、四号の顔が御多福の様な顔をしている。翌朝の朝食の味噌汁が傷に沁みて困った。<BR>

今迄少しは鉄拳に対して面の皮も大分厚くなったと思っていたが、未だ修業が足りないかと考えた。二日もたつと何時の間にか元の顔に戻っていた。<BR>

召集は其の後何回か見舞われたが、一回丈当時猛威を奮ったジフテリヤ容疑で3、4日入室したお陰で、此の召集を病室で聞いていたことがあった。其の日、同室の三学年生徒から今晩あたり危ないぞと言われていたが、やはりその日二号、三号、四号総員に召集がかけられた。剣道場の明りがつき足音、怒声等を遠雷の如く開き乍ら、まんじりともせず身を硬くしていた。<BR>

ほっとすると同時に、級友や分隊の皆に何か申し訳ない気がして来たものだ。<BR>

生徒館生活は苦しい事、楽しい事等、唯々夢中で過して行ったが、3月、四学年50期生徒が卒業「今日は手を取り語れども」と涙で見送ってからは、四号から三号と一応昇格はしたが、最下級生には変りない。<BR>

長田野の演習、遠泳、秋の10哩マラソン等、数々の行事に明け暮れている内に時局は急を告げ11月、三学年51期生徒が卒業、ただちに実戦部隊へと赴任されて行った。<BR>

54期生徒が入校して間もなく、12月8日大東亜戦争勃発、戦時下の生徒館生活を二号、一号として迎え、昭和18年9月15日第二種軍装(白軍装) 着用、戦局急を告げる中、出陣していった。<BR>

卒業生111名の級友の内、戟没者57名戦後物故者8名を数え、生存者は46名のみとなったが、今は亡き期友の一人一人の顔が浮んで来る。中でも枕を接し、机を並べて苦楽を共にした同じ分隊員の印象は、特に強く瞼に焼付いている。今は亡き分隊員名を左に記す<BR>

四号 (9分隊)本田武夫、坂本 博、寛応 隆、佃 次郎<BR>

三号 (2分隊)佐野 寛、関谷年男、三田 道、都所静世、寺岡恭平、大垣浩一郎、谷田哲郎<BR>

二号 (6分隊)福田斉、菊池滋<BR>

一号 (9分隊)勝賀野純義<BR>

 また、卒業後伊勢乗組、整備学生を修了して実施部隊配属後は、級友の消息は風の便りで聞く程度で再会した者は数名であるが、その殆んどが数ヶ月の内に戦死していった。<BR>

その氏名は次の通り ( ) 内は再会場所<BR>

 増井吉郎(鈴鹿空)、松山行輝(鈴鹿空)、小山 力(鈴鹿空)、牧 太郎(鈴鹿空)、国生真三郎(相模空)梅本和夫(明治基地 210空で8ケ月間同じ部隊で勤務)<BR>

心から亡き期友の冥福を祈ってやまない。<BR>

(機53期記念誌 海ゆかば 215頁より)

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