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平成22年4月13日 校正すみ

レイテ海戦記

駆逐艦時雨乗組 大岡要四郎

ただ1隻の駆逐艦時雨のみが蹌踉(そうろう)としてブルネイの基地に辿りついた。(1027日)
「連合艦隊の最後」伊藤正徳著196頁参照
駆逐艦時雨

当時(昭和1910月)捷一号作戦発動によって、時雨は、第3部隊に編入された。扶桑、山城、最上、朝雲、山雲、満潮、時雨、計7隻、司令官西村中将、旗艦山城というこじんまりとした部隊であった。

ボルネオの基地ブルネイに進出したのが1020日頃だったと思う。22日朝8時味方の第2部隊の大艦隊が、旗艦愛宕を先頭に、長い、長い単縦陣で出港して行くのを見送った。これが最後と心に期して帽を振る。我が第3部隊は、午後3時、誰にも見送られずに静かに錨を揚げた。ブルネイ湾の波は静かに、空はあくまで青く、何か悲壮感のある出港ラッパであった。

これまでの作戦は大抵勇壮な出港で、僚艦に見送られて出たが、今回は、どうも感じが違うと思った。然し、少々鈍感な故か決死行であるとはハッキリ意識していなかった。

出港前に山雲の同期の若林君と何かを話した。日焼けして真っ黒な顔。長身の同君のニッコリ笑って手を振って別れた顔がまだ眼に浮かぶようである。スカッとした良い男振りであった。

1024日午前8時、早くもミンダナオ海に入った。敵の制空圏を避けて一応北方へ大きく迂回したが、B-24コソソリデーテット機に発見された。間もなく、グラマン戦闘機24機の急降下爆撃を受けた。爆撃で、扶桑の艦尾が小破し、水上偵察機が燃えてしまった。わが時雨は、味方から2万米位離れて、敵潜制圧に出ていたので爆弾は喰わなかったが、行きがけの駄賃のような機銃掃射を受けて、艦中穴だらけになった。(弾痕800を数えた)

甲板の上にいて、怪我をしない者は1割もなく、艦橋で無傷は、艦長西野中佐と、私だけ。猛射撃墜3機。機銃員の多くは戦死。収容した士官室の床は、血の海。急遽水雷科員を訓練して機銃配置につかせる。

緒戦での戦いはかくて終わる。後(あと)は無事東進して24日の夜半には、スリガオ海峡に入った。「25日払暁を期してレイテ湾の東南両面から突入すべし」という作戦命令通りである。

敵陣の様子は、最上の水上偵察機の朝の検察でよく判っていた。レイテ湾内戦艦5隻、巡洋艦2隻、駆逐艦10数隻、船団80隻、魚雷艇200隻。3倍以上の大敵。相手にとって不足はない。

25日午前1時、 いよいよ突入である。艦長が勇気凛々と宣言する。「只今から決戦場に入る。各員全力を尽くして奮斗せよ」午前2時 右側から敵魚雷艇群の襲撃を受け、2万米の距離に捕捉して猛砲撃、扶桑、山城の大砲も応戦。敵はトンボ返りをして3隻轟沈す、ザマをミロ! まずまずの戦果。江本砲術長(70期)は昼間の空襲で怪我した手の傷をものともせず、キンキン声で指揮を取る。うまい射撃だった。勇敢にも至近距離(約500米)まで突込んでくるのもいた。魚雷は交わして無傷だ。「敵魚雷艇を撃壊しつつ北上」、真っ暗な海面を20ノットの第2戦速でゆく。隊形を変換して、戦艦の前面を直衛する。

先頭に満潮(司令駆逐艦)次いで朝雲、右に山雲、左に時雨、距離1,000米戦機正に熟す。敵近し、と見て司令から無線電話指令が来た。

「順番号単縦陣つくれ」

突磋(とつさ)魚雷戦に備え」

「第3戦速(24ノット)」

「いよいよ本艦は突撃する。」 

「突撃準備完了」

45度前方水平線上に敵らしき白波を発見、司令駆逐艦に通報。針路0度。

「左魚雷戦」 「各雷管用意ヨシッ」の艦尾信号灯青い光をつけて一斉に突撃開始。時雨は山雲の後尾に入るべく右へ転舵した。時遅し。魚雷の猛撃を受ける。

「宛山城・扶桑、我直衛を撤す」

「宛満潮司令、我通跡に入る」

「砲術長、砲撃はじめ」

その時である。「青々」右45度緊急一斉回頭と無電が入る。途端に「左雷跡!」「本艦に向ってくる!」と見張員の悲壮な報告。

「面舵一杯」と航海長(71期芹野中尉)左へ大きく傾斜して右へ回頭。羅針盤がクルクルと廻る。雷跡が左に2本見える。「戻せーツ!」至近でかわす。

左方からの敵の魚雷(おそらく40本位がきたと思われる)によって、眼前の味方駆逐艦3隻が被雷、火の海。遂に満潮、山雲沈没、朝雲は大破。畜生! ヤリヤガッタナ!「ヨシ全速。」と艦長。形勢は味方に不利、前方に敵発砲の光が見え出した。急に砲弾を受け出した。午前3時半頃味方も一斉に発砲。猛烈な砲撃の応酬である。戦正に(たけなわ)なり。扶桑の横を離れて、最大戦速36ノットで突撃する。機関が全力を挙げてあげて唸り出す。

「只今から左前方の敵に単艦で突入する」

と艦長。

「全員士気旺盛、意気天を衝く」

(機関長)(サア、ゆくぞ)

「艦長、打ちます」と砲術長。

「宜しい」

「打方はじめ!」「発射用意 ティッ!」

4門の12.7サンチ主砲をつり立てて猛烈な砲撃を行なう。

「水雷長、左魚雷戦同航」

「艦長、発射用意よし」

この時、敵20糎砲弾2発我に命中、猛烈な衝撃で天井に放り揚げられ、数回叩き付けられた。右に傾く。右にぐるぐる廻り出す。

「被害知らせ」返事がない。「どうした!」

「後部に敵弾命中。」 「舵故障」

 しまった。

「第3応急班後部へ行け」 

「大岡中尉は応急操舵を行ないます。」

「機関長へ、舵故障、至急修理せよ」

応急操舵は予ねてよく訓練して置いたことである。K兵曹を連れて、暗い甲板を後部へ急ぐ。艦が傾いているので、よく滑って転びそうになる。戦死した誰かの死体に(つまづ)いたり敵弾の穴をよけたりしながら現場に急行する。

艦尾の暗い穴蔵のなかに、舵取機がある。見るとモーターが焼けているようだ。取り敢えず伝声管で状況を報告。急遽操舵用の人員を集める。電灯が消えてしまって懐中電灯が頼りだ。

応急のポンプに4人つける。

「コックを開け」

「応急操舵配置よし」

「面舵15度」

と艦橋から指令。

「ソレポンプをつけ」

ゴトンゴトンとゆっくり重いポンプをつく音が無気味にひびく。ポンプは重い。20回も動かすと大の男もフウフウだ。油圧が徐々に上って舵は少しずつ動く。「15度」。すぐに「もどせ」とくる。また、ゴトンゴトンゴトンとやる。4人がすぐ交代する。

「交代」「交代」を繰り返す内に、暗いのと、戦況が判らないので、妙に淋しくなる。その間にも、至近弾をうけて、艦は飛び上る。淋しいので「上甲板へ行って見たい」という者が出てくる。断乎として「持場を離れないように」命令する。

疲労が出てきた。兵員と交代して自らポンプに就く。気が立っている故かそう重く感じない。然し舵の動く速度は極めて遅く感じ、ここでヘタバッタラ終わりだ。声を限りに激励する。

その内に、急にポンプが軽くなった。変だ。空廻りだ。兵曹に調べさせる。全然舵がまわらない応急操舵機も故障した。もうイカン!

「通信士、油圧管の故障で油が全部流失しています。管は直せますから、油を持って来て下さい」とK兵曹、実は舵取機室の横に被弾しその時に管が壊れていたらしい。ちょうどその頃、ヒゲを生やした機械長(兵曹長)が補機員3名をつれて舵取機を直しに来てくれた。歴戦の勇士は落ち着いたものでヒゲをしごきながら、悠々と故障を点検している。

「通信士、これなら30分で直せます。油を倉庫から運はしてくれ。」 

「ソレ油を持ってこい。」油の倉庫は暗くて判らない。誰もゆく者がない。「コノヤロウ!誰か俺についてこい、 倉庫は何処だ。」 

「イヤ通信士、ワシが行く」

と機関K兵曹が言い出して3人位連れてゆく。やがて、石油缶を6缶持ってきた。

故障の場所がよかったせいか、油を入れたら間もなく「応急操舵」は動き出した。再びゴトンゴトンとやり出す。応援隊を頼む。

その間に艦橋から「舵を早く直せ」と矢の催促である。その度に舵機室に伝えるとヒゲの機関兵曹長は、「まかしておけ」と一向に慌てることはない。クソ度胸である。見上げたものだ。

3人の機関兵は、これも上官に習って、悠然とガチャリガチャリと工具を扱っている。手を休めて時々相談している。その油に汚れた顔を見るとこちらも妙に落ち着いて、ニガ笑い。応援隊が来たのでそれらをポンプにつけて、指揮をK兵曹に任す。

応急用材木に腰かけて一息入れる。撃ち合いはまだ続いている。そのうちに、推進器が止った。コレワ大変と思うと、ガタガタときた。艦橋に聞く。

「島にぶつかりそうになったので停止、後進一杯をかけた」と返事。一安心だ。

上甲板へ出てみる。遠くで真っ赤に焼けている大艦がいる。大火災の扶桑だ。最上が傾きながら猛烈に撃っている。山城はどこだか判らない。これが最期だと感ずる。

舵取室を覗く。「もうすぐ直ります」と明るい返事。確信があるようだ。艦橋へ報告。苦闘1時間にして舵取機は、(よみがえ)った。ビュンという快音 健康な音、直ったゾ!

この頃、時雨は、やっと戦場から離脱しつつあった。魚雷を打てなかったのは大変残念であるが、舵の故障でぐるぐる廻りでは何とも仕方がなかったらしい。

朝方、機械も故障で余りスピードが出ず、燃料の在庫を気にしながら南下した。

第5艦隊の那智、足柄などに会って、遠くから、戦況を連絡した。肝心の戦闘場面に、暗い兵員室の片隅の応急操舵機と取り組んでいたので味方がどうなったかよく見ていない。申し訳ない。後で聞くと扶桑、山城、最上の3艦は十字砲火を浴びながら阿修羅ように奮戦して、壮烈な最期を遂げたのである。

(なにわ会ニュース8号 昭和41年5月掲載)

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