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平成22年4月17日 校正すみ

陸偵操縦員の思い出

中川 好成

「なにわ」会全会員中陸偵操縦員5名、金原 薫、川端博和、長尾利男、小山 力、私の内、唯一人の生き残りとして、一応記録を残して置くべきかと考え、私の経験を主としてこの一文を草した。

私等5人は19年7月末、艦爆操縦学生の課程を、百里ケ原航空隊で終えると同時に、聞いたこともなかった陸偵操縦員の命を受けてこの任に着いた。これは当時、海軍唯一の偵察機、二式艦偵が艦爆彗星の改造機であったことに由来していたと思う。この陸偵操縦員の発生は、明かに従来の海軍航空戦方式の変化の一端で、それ迄士官偵察員だけであった偵察隊に、士官操縦員も配そうと言う動きだった。ミッドウェー迄、偵察は専ら艦載の水上偵察機(フロート付)を使用し、この外には先制攻撃を兼ねた、爆装の艦爆或は艦攻を索敵に発進させていた海軍航空隊が、ミッドウェーでの失敗、更にガダルカナル以降の航空戦での防空戦闘機の出現に、偵察専門機の必要を感じ、当時最も早かった水冷の彗星艦爆の胴体弾倉内に増槽を装備、尾輪も引込脚に改造した2式艦偵を誕生させた。

 

1 二式艦偵

二式艦偵は、略零戦と同じ大きさの中翼単葉機で、最高速力は零戦より20節程早い320節、巡航200節以上で、両翼の下に更に2つの増槽を付ければ、略2千海里は飛べる飛行機であった。しかし、兵装は前面に7.7粍固定銃2門と、後席に7.7粍旋回銃1挺以外は、偵察用の電熱ヒーター付大形航空写真機(ネガは確か18糎×23糎、125枚撮り)と、電信機だった。何れにせよ元来、急降下爆撃機として作られた飛行機なので、急降下は勿論、水平面での空戦は可能と言う非常に使い易い飛行機であった。

その上単発で、10時間以上も飛ぶ偵察機として、操縦席には自動操縦装置が装備してあり、私もこれを使って、後に往復1,300浬の訓練仕上げの飛行で、後席からの偏流補正に合せて、微調整のノブを調節しながら誤差1%程度で基地に帰り着いた経験がある。

偵察機の最大の任務は、正確な敵情把握である。従って敵を攻撃するのが最高の目的だった艦爆出身の若い私等に取って、敵を攻撃出来ないのが何より残念だったが、帝国海軍で最も早い飛行機を操縦出来る誇で埋め合せていた。正確な敵情把握とは、兎もすれば戦場心理で、駆逐艦を巡洋艦、巡洋艦を戦艦、更に油槽船を空母、また至近弾を命中等と誤認する(ミッドウェー、サンゴ海、ソロモン、台湾沖等)のを正し、正確な敵艦船の編成や戦果を確認する事であった。この為目視よりも、写真を撮る事、また電波が届かない事が多いので、何としても生還し任務を全うする事が偵察機の至上命令であった。言い換えれば、帝国海軍のモットー「見敵必戦」の全く逆の「見敵避退」が大原則であった。

一方、偵察機の情報に基づいて作戦計画或は作戦活動が行われるのだから、昼夜、天候を問わず、あらゆる状況で飛べる事が要求されていた。加うるに、最終的な写真判読の正確さの為には、一定高度(プラスマイナス50米以内)、一定速度(±5節以内)、一定針路(±2度以内)の水平飛行が要求されていた。

(これは偵察写真の逸脱防止の為で、水平爆撃でも略同じであった)

この為、操縦員は微調整のタブを旨くバランスさせ、操縦桿はしっかりと両脚の間に挟み、栂指の頭で僅かに操縦かんを動かす、極めて高度な操縦技術が要求された。

 

2 偵察隊の飛行訓練

さて、話を戻すと、8月1日、長尾と私が厚木302空に着任すると、このラボール引上げの部隊の格納庫には、偵察隊用の陸軍百式司偵が鎮座しており、指揮所の壁には、ガダルカナル・ヘンダーソン基地を離陸中の米戦闘機の航空写真が大きく貼ってあって、如何にも第一線部隊に着任した感じを受けた。直ちに私等は彗星の操縦、偵察機パイロットとしての計器飛行の訓練に掛った。指導したのはガダルカナルの写真を撮って来た伊藤飛曹長(後少尉、20年4月殉職)で、2〜3回離着陸をやった後は、自分等だけの訓練となり、一週間後は、専任の偵察員を乗せての飛行となった。この頃の訓練は、厚木―犬吠崎―八丈島―厚木の一辺略150浬の三角コースを日によって道順を逆にしたりしながら飛んだ。

やっと彗星に馴れた8月末か9月初め頃と思うが、全航程をまだ使い馴れていない自動操縦装置と計器飛行で飛んで見ようと、座席を一杯下げ、外を見ずに厚木―犬吠崎―八丈島と飛び、厚木に向ったが、全航程気流は悪く、揺れが烈しく遂に諦めて後席に問い合せると、予定下田側ではなく、駿河湾側に居ると言う。では一気に下田側に出ようと、伊豆半島横断を始めた所雲に突込んでしまった。

雷雲で忽ち物凄い土砂降りが機を包み、前方は勿論僅か5米もない翼端も雨の飛沫で見えなくなった。その上暗くて、操縦席の紫外線ランプを一杯明るくしてやっと計器が見えたと思った瞬間、飛行機は大きく上下左右に揺られ、計器は錐揉みに入ったことを示した。

霞ケ浦以来彗星では始めて、ままよと急降下に入ると錐揉みから脱した。引越して水平飛行に移り高度計を見ると1,500米、確かこの辺りには天城山が1,400米と思うと、全く冷汗三斗の体験だった。同時に兵学校出身士官操縦員と言うので、後席にはベテランの西原飛曹長が乗っており(この人とは最後に私が723空転勤迄一緒のペア)、全く若気の至りで申し訳ないと思った。勿論爾後は雷様に最大の敬意を払って避けて通った。この様な訓練で、10月半ばには薄暮、夜間飛行も完了し、前述の1,300浬の飛行を終え一人前の端くれに達した。確か10月には13期予備飛行学生が着任し、その訓練が始まったと思う。

「なにわ」会名簿を見ると、川端博和191013日、金原 薫1014日、台湾沖航空戦戦死とあるから、両兄とも多分彗星の初陣で戦死したのではないかと思う。同じ戦では、小山 力が後席に70期森田禎介大尉(後723空で一緒)を乗せて出撃、敵機動部隊発見の偉功を建てた事は、森田兄がニュースに伝えている。

 

3 三号爆弾と長尾の殉職

厚木では11月1日、B-29の来襲以来帝都防衛戦闘部隊として邀撃戦待機に入った。偵察隊は、三号爆弾を抱いての邀撃戦参加となり、長尾や私が空襲警報のたびに上がる様になった。

この邀撃戦では、高度を確保する為、殆んど役に立たない前方の7.7粍機銃は撤去してしまった。又この頃、台湾沖航空戦での消耗機補充の為、新造機の代理受取り台湾迄の空輸が陸偵隊に依頼された。この任務や、水上機からの転科した操縦員の訓練の為の練習機の獲得のため、長尾や私が、挙母(現 豊田市)、岩国、霞ケ浦等に飛んでいた。この様な飛行で、丁度出撃直前の園田(20年1月特攻戦死)や奥海(20年4月戦死)に松山で逢い、また302空へ転勤途中の赤井(20年2月戦死)に岩国で会った。岩国では、同空廠初の彗星に乗り、脚がどうしても入らず、また出なくなって不時着大破。次の飛行機を待つ間赤井と3日ばかり「半月」で女将から「旅笠道中」を教わりながら飲んだ思い出がある。

その様な一日、長尾が霞ケ浦に彗星を受取りに行き、夕方になっても帰らなかったので、多分翌日帰るのだろうと宿舎に帰って寝ていた。所が、「小田原奥の箱根山中に飛行機が落ち、火柱が小田原市内からも見え、現場では海軍中尉長尾利男の名刺が見付かった」との連絡で夜半に起された。直ちに遺体収容、機材搬出の為、救急車、トラックを連ねて東海道を小田原に走った。飛行機は峻しい山肌に背面で斜に突き剃った様になっていた。長尾の遺体は、その機の下にパラシュートに包まれて地元消防団員に護られていた。

艦爆学生以来一緒で、厚木では同室にベッドを並べていた長尾の死はショックだった。

当時長尾は、表は休業になっていた新橋の芸者置屋を見付け、週末や休日に盛んに遊びに行っては泊っていたから、或は無理をして夕方霞ケ浦を出たのらしい。薄暮空は明るいが地面は反って暗い。多分厚木を見付けられず、それに偵察員ではなく整備員を伴っていたので連絡出来ずに事故になったらしい。2、3日は長尾の遺体が目に浮んで寝られなかったが、松山から御遺族を迎え、海軍葬をすまし、私の胸に抱いた長尾の遺骨を御遺族にお渡して藤沢駅から見送った後は、何時か私もこの様にクラスの一員の胸に抱かれて帰るのかと、厳しい現実を感じた。この頃、塚田が書いていたが、厚木では毎週の様に海軍葬があり、クラスの戦闘機の面々が、次々と殉職或は邀撃戦の犠牲となって消えて行き、「生きる者は、次に向って生きるよりないんだ」と言った第一線搭乗員の感覚を身に付けて行った。

 

4、邀撃戦

私はB-29邀撃戦に何回も上ったが、戦闘機とは違い撃つ銃もなく、専ら好機を見ての三号爆弾投下が任務なので、出来るだけの高度を取っては待つ方が主だった。勿論至近距離でB-29とすれ違ったり、翼下で高射砲砲弾が作裂してゆさぶられたり、味方戦闘機がB-29の集中砲火を受け火だるまになって墜落して行くのを目の当りにしながら実戦経験を積んでいた。

唯戦闘機の連中は、一時間前後で弾や燃料補給に降りて行くのに、脚の長い此方は始めから終り迄4時間近く高々度飛行を続け、予圧室などない当時の飛行機で酸素マスクから落ちる水蒸気の滴が、救命具の上を蝋燭の蝋が燭台に積もって行く様に覆いかくして行くのを見ながら飛んでいた。

12月半ば、偵察隊は隊長(66期佐久間武少佐)以下10数名と新編成210空錬成航空隊基幹員となり、私も彗星5機と共に明治基地に移った。残った陸偵隊員は、転出或は厚木の彗星夜戦隊に編入され、この人等の一部は20年8月の反乱に巻き込まれ、巣鴨に拘留される運命に見舞われた。これは終戦40周年の60年、302空彗星夜戦隊の集まりに招待されて知った。

明治に移った陸偵隊は、新しい隊員を受け入れ訓練を始め、同時に丁度其の頃から始まったB-29の名古屋空襲の邀撃に厚木の経験を生して参加することになった。当時着任した若い予科練出身者達は、各練習航空隊操縦トップ1、2番の連中だったと、これも終戦40周年の210空陸偵隊の会で知った。例えば鎮海練習航空隊等では、残った連中は練習機特攻隊として沖縄戦で戦死した由である。

確か1月半ば頃かと思うが、B-29の大編隊が名古屋を空襲、私は岡崎上空でこの編隊を前方正面で迎撃するチャンスに恵まれた。此の頃は私も馴れていたが、B-29側も始めの頃と違って可成近付かないと撃って来ない。大体2,000米辺りで撃ち始める。両方全速力300節位だから相対速度600節(秒速300米)で接近する。理想攻撃法は、B-29が撃ち始めてから3秒を数え、敵編隊の正面斜上方から、反転背面急降下しながら、先頭機の機首をかすめて三号爆弾を投下、斜前下方に避退すると言うのである。三号爆弾の信管は約2秒、散布範囲は150米程度の球体だから、敵前下方に避退すれば自分の爆弾の被害を受けず、また敵からは絶えず方位角高度が違って行くので被弾最少と言うのである。残念ながら其の時高度差は殆どなかった。

然し上昇して高度差を得る間に後落した経験があるので、B-29の曳痕弾を被りながら、ストップウォッチを押し、「1・2・3」と数え始めた。これ位近づくと、前面の空はB-29に覆い尽された様な感じになる。予定の「3」で機を急激に引上げ同時にロール反転、爆弾投下のボタンを押し背面急降下に入った。この動作の反動で爆弾は敵編隊の上に飛ぶ筈であった。反転の頂上附近ボタンを押した直後ガクンと衝撃を受けたが、旨く予定通り急降下先頭機の操縦席の目前を通りながら中の乗員がはっきり見えた。

成果を見ようと直ちに操縦桿を引いたが、機はドンドン降下を続ける。さては操縦系統をやられたかと思ったが、6,000米辺りで機首が上った。空気が稀薄で舵が効かなかったのだ。見上げると爆弾炸裂の跡もなく、B-29の編隊は悠々と遠ざかって行く。偵察鏡で後席を見ると爆弾は落ちていない。 このままでは今度何時何処で爆弾が落ちるかも知れない。まず海上に出てスイッチを押したり、急降下したり、機をゆさぶったりしたがどうしても爆弾は落ちない。仕方なく基地に帰ると、私の座席後方30糎に被弾していた。 爆弾の落ちなかった原因は、長時間の高々度飛行の低温で爆弾投下用の綿火薬が凍結変質し、電流が通っても爆発しなかったと分かった。

以後夜戦隊は手で索を引く原始的投下法に切り換えたが、偵察隊はB-29邀撃戦から手を引く事になった。

 

5、超低空飛行

20年1月半ばからは、比島から生還した艦載水上偵察機のベテラン偵察員特務中尉、特務大尉が続々と陸偵隊に着任して来た。その実戦経験を基に電探回避の為には超低空索敵が必要と言うことになった。さもなければ、敵に到達前に防空戦闘機に落とされ敵情不明と言う事になる。

超低空でプロペラが海面を吸い上げる程度(4〜5米)では、グラマンが命中弾を得ようと急降下して来れば必ず海面に突込むし、同高度程度では敵戦闘機は運動の自由を奪われ、まず撃墜されないと言う。この様な超低空飛行と言い、前の理想的B-29攻撃法と言い当時劣勢な帝国海軍航空隊を支えた名人芸である。

勿論、私等も早速この訓練に取り掛った。先ず海面すれすれの飛行では高度計など見る余裕はないから、正面を見ながら左右に流れる様に行き過ぎて行く海面の縞模様で高度の勘を身に着けて行く。全速300節(秒速150米)では百分の一秒で海に突込んで仕舞う。全く緊張の連続である。また正確な高さを知るため、高度計では精度がないので海図で岬や灯台の高さを調べ、その横を飛んでは感覚を養った。波のある日、無い日の縞模様の違い、またそれを使っての偏流測定等の訓練に明け暮れた。

結果到達した理想索敵方針は、会敵予期50乃至100浬前までは2,000乃至3,000メートルの巡航高度で飛び、其処からは超低空で敵に近づき敵位置を視認確認、返転(全速で)50浬即ち防空戦闘機の圏外に出て高度を取りながら電報発信、高々度に達してから(1万米以上)太陽の方向を背にして敵の直上通過、写真撮影をして帰ると言うのであった。

勿論実戦でこれが実現出来たのは、最初から充分高度を取ってから敵上通過の局地偵察位で、クラスの府瀬川が彩雲でサイパン島偵察に行き、「われに追つく敵戦闘機なし」と打電し一躍彩雲の名を高からしめた時位である。

 

6 硫黄島作戦

話を本筋に戻すと、この様な訓練に掛った直後、硫黄島戦が起き、私も索敵に出撃した事は前に書いた。第1日2月16日は堀江太郎と阿部宏一郎が索敵で戦死している。阿部は多分爆装の索敵攻撃で無言のままの未帰還だと思う。(尚押本の調べでは、この21617日の両日がクラスの飛行機乗りが最も多く失われた時である)

16日夜、私等は飛行機の整備、情報の収集、緊急不時着地の想定、計画の練り直しに夜を徹していた傍で、艦爆隊や艦攻隊は翌日の出撃壮行会と称して飲んで騒いでいた。皆で元気良く編隊を組んで攻撃に行ける連中が全く羨しかった。此方は単機で戦闘に先立ち、ひっそりと出撃しなければならないと思うと、つくづく偵察隊員の宿命と辛さを感じた。

17日、寄せ集めの索敵隊は 偵察隊彗星2機、夜戦隊彗星1機、艦爆隊空冷彗星43形1機で、会敵公算の大きい索敵線から陸偵隊、夜戦隊、艦爆隊を配した。陸偵隊以外は勿論索敵訓練皆無であった。出撃時の混乱は前に書いたから割愛する。

私は三河湾の松すれすれに太平洋に出ると、タブを調節して高度150米と50米間を飛ぶことにした。先ず50米で手を放し、双眼鏡で丹念に水平線から直上迄を右から左、左から右へと眺め廻す、後席の偵察員は直上から後方を同様に双眼鏡で睨む。これが電探を持たない索敵機の姿である。既に空襲を受けているから、150米に達すると機を再び50米迄下げ、再び手を放して周囲を見廻まわす。この間会敵すれば、海面すれすれ迄急降下、増槽を落し胴体タンクに切換え、空戦に備える、同時に全力疾走の為、プロペラのピッチ、エンジンの回転数を上げる。この手順を頭の中で繰返している。

しかし会敵前は出来る限り燃料を残していたいから、燃料節約の巡航速度回転数、プロペラピッチを維持しなければならない。この日私の翼の下に付けた増槽は、ヂェラルミン製欠乏でベニヤ製。ガソリンは泌み出し漏れて、2つの真白な尾を紺碧の海の上に引きながら飛んでいた。また左右のバランスを保つ為、私は繰り返し燃料コックを左右増槽に切り換えていた。私は敵には遭遇せず、エンヂン・ストップで命からがら八丈島に辿り着いた事は前に書いた。

この時、前回のニュースに71期寺村大尉が、片山市吾の追憶で、『高度6,000米から見る沖縄は誠に平和な風景であった。濃紺の海の中に沖縄本島が静かに横たわっており島の周囲を淡緑の海面が取り巻き南国の日光がさんさんと降り注いでいた』

と書かれたが、私も陽光眩い太平洋にぽっかり浮ぶ快晴積雲を見ながら何と平和な眺めだろうと、今でもあの時の光景が脳裏に焼付いている。この頃から東海地震の影響もあって補用品不足の水冷彗星の故障が相次いだ。確か厚木着任以来一緒だった偵察の斉田元春が、エンヂン・ストップで不時着海軍病院に送られたのは此の頃だったと思う。

 

7 彩  雲

3月、73期中尉が着任、不馴れな73期には超低空飛行は厳禁。しかし若い連中の事、それをやった者がおり、一人は海面に突っ込み跳ね返され、飛行場迄プロペラを曲げ胴体下面をめくれ上げさせながら滑り込んだが、他に殉職者を出した。此の頃、飛行機一機、一機は貴重品なので73期は大いに油を絞られた。

3月末沖縄戦、210空は全面参加となったが、陸偵隊は彗星の整備が出来ず出撃に遅れ、隊長は司令部に呼び出されて大分文句を言われた様だったが、結局彗星は夜戦隊に引き渡して彩雲に切り換えとなった。

「われに追つく敵戦闘機なし」 の彩雲は、鉛筆の様に細長い感じの飛行機だった。主要寸法は手許の本によると、全巾12.5米、全長11.0米、全高3.95米とあり彗星の全巾11.5米、全長10.22米、全高3.75米に較べ一廻り大きい飛行機だった。

最高速力330節は最も早かった紫電改320節を10節も上廻る。しかし、この高速偵察機は中々操縦の難しい飛行機だった。

何しろプロペラ機なのに、今のジェット旅客機並みのスリットを主翼前線に備え、フラップも2段の親子フラップで離着陸に応じて使い分けなければならなかった。その上今迄の中翼単葉の彗星と違って低翼なので、操縦席は2階に上った様な感じであった。

更に水冷でスマートな彗星と違って空冷のエンヂンが前に大きく延びているので、離着陸の際に操縦員は座席を一杯引き上げ、殆ど立ち上った格好で操縦桿もポッチを押し延長させた部分の上端を握りながら、特に着陸の時は正面風房の中央部を起したのを風よけに使いながら操縦しなければならなかった。

私等は先ず艦攻隊の天山で練習を始めた。

これは操縦席の高さと、彗星とは違ったゆったりした舵の効きを学ぶ為であった。その後木更津の加藤孝二がいた偵察102飛行隊で正式に彩雲を習い、3機貰って明治基地から名古屋航空隊に移ったのは前に書いた。

彩雲は翼端15糎ばかりと引込脚収納部を除いた主翼全部が燃料タンクだった。この上に800(リットル)の増槽を胴体下に抱けば、軽く2400浬は飛べ、長時間飛行用に操縦席には肘掛けがあり、勿論自動操縦装置は完備していた。

しかし何より軽量高速を主としているので、彗星の様な急降下、急旋回は厳禁、敵に会ったら只管(ひたすら)水平直線飛行で速さを頼りに逃げ切る以外手のない飛行機であった。

だから始めから高々度か、早目に敵を発見回避行動に移れない場合、敵と遭遇しての生還は非常に難しい飛行機だった。小山 力が20年4月22日、752空で喜界島附近戦死とあるが、多分彩雲で敵に囲まれ逃げ切れなかったのかと思う。

私は彩雲での戦歴はないが、終戦直前多分帝国海軍でも当時2乃至3機しかなかったと思う電探を装備してもらった。目的は敵機動部隊への特攻隊誘導である。この為両翼端15糎を切り放し、ダブレットのアンテナを45度前方向けて装備、その上を木製の翼で覆った。頭を振ると前面を走査する訳である。偵察員によると伊豆七島が絶えずスコープに見えるので航法もいらないのではないかとの事だった。7月19日特攻基地第2徳島基地に進出したが、この飛行場は畑の(あぜ)を残し離着陸時以外はわら小屋を置いて空襲を避けると言う隠匿第一を目的とした白菊特攻隊の基地であった。勿論彩雲等の降りた前例はなかった。巾は確か20数米、長さ700米、傾斜下り坂8〜9度で、着陸して振り返ると反対側の端は見えないと言う基地で、進入側は20米ばかりの崖だった。私等は先ず木更津から徳島航空隊の徳島第1基地に着陸した。

驚いた事には、この時、徳島飛行場で彩雲の翼の下にいる中山と私の写真が、昭和55年6月の「丸」特大号に載せられたそうで、そのコピーを最近中山が送ってくれた。

徳島では、私等は熟練操縦員を選び彩雲を第2基地に送ることになり、私も先任操縦員としてその一人に選ばれ無事に2回彩雲を第2基地迄運んだ。しかし、この後解散命令を受け、私は電探電信機を放り出した彩雲に6人を乗せ、この飛行場から8月22日に飛び立ち、中山を横須賀で降した後復員した。先日中山とは全くそれ以来40年振りで再会した。

最後に彩雲は終戦迄トラック島を基地にウルシー泊地偵察に活躍、この補給に八丈島からトラック島に向った彩雲の出発を見送った思い出もある。私も帝国海軍で最後の飛行機の飛べる日迄、最も優秀だった飛行機を操縦出来た誇りを持っている。

また結局爆弾を抱いて敵艦に体当りの特攻隊員になれた事は、艦爆操縦学生の夢が実現出来たものと思っている。

(なにわ会ニュース5414頁 昭和61年3月掲載)

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