TOPへ      終戦目次

平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年3月寄稿

あの頃のこと

押本 直正

 あの日は、北海道第一見幌基地にいた。8月8日付、神町海軍航空隊分隊長に発令されていたが、実際は霞ヶ浦航空隊付で、74期の飛行学生の操縦教官をやっていた。

 当時、霞浦美幌派遣隊の先任者は66期の宮内安則少佐で、正午の放送は飛行場の一隅で基地隊の連中と一緒に聞いたが、ラジオが不明瞭で何のことかさっぱり分らぬ。

 多分、本土決戦に備えてしっかりやれといわれたのだろうと解釈して解散。そのうち、夕食になって、隣の第二美幌から71期の堀川大尉が来て、どうもおかしいという。隊長の宮内少佐は気づいていたらしいが、はっきりせぬまま、その夜は隊内で開かれていた映画を観にいった。主演のエノケンが狐か狸に化かされる喜劇ものだったが、終って九時頃、士官室に帰ってみると、隊内が騒然としている。「戦争が終った、無条件降伏だ、武装解除だ」と予想もしなかった言葉があちこちでささやかれている。早速当直将校室に入ってラジオを聞いた。鈴木貫太郎首相の「今や光栄ある皇軍もその武装を解除する・・・」と言った。その翌日ではなかったかと思うが、三宅道久と二人で飛行場に出てみると、格納庫の傍らに老兵がしゃがんで呆然としており、われわれに対して敬礼をすることもしない。三宅はその老兵に対して鉄拳制裁を加えた。

「まだ戦争は終っていない。最後の一兵まで戦うんだ〃」

  17日、長髪を落して丸坊主になる。

 18日、9機の艦爆の2小隊長として、実包をつけた零戦2機に直掩されて、千歳経由、百里空に空輸のため美幌を出発した。途中、松島空に着陸一泊、基地司令の72期指導官の原田耕作大佐にお会いした。

 19日、百里空に着陸してみると(私はこの飛行が最後になるかも知れぬと思ったので、2度ほど着陸をやり直した)、松林の中の仮兵舎にいた森下が、「いま頃、飛行機を持ってきてもどうにもならんよ。落下傘も飛行服もみんなやるから持って行けよ」といったので本当に戦争が終ったんだなあという実感が湧いた。

 20日、霞浦から白菊で神町空に着任。分隊長ではあったがケプガンをやってくれと飛行長から頼まれた。

 21日、付近の仮設飛行場に分散してあった中練を空輸したのが、操縦梓を握った最後になり、間もなくそのプロペラが外された。

9月15日神町発故郷大分に帰る。

TOPへ      終戦目次