平成22年4月24日 校正すみ
昭和50年3月寄稿
終戦の想い出(陸上関係)
旭 輝雄(22特別根拠地隊司令部、パリックパパン)
当日はまだ戦闘中であった。
中村 正人 (横鎮第15特陸、副官、横須賀)
陸軍の暴動から海軍省等を守るため14日夕方特陸は東京へ進出した。15日正午は東京から横鎮への連絡の途次で横浜を通過中。治安維持その他のため多忙で、将来への見通しはたたず、その日に追われた。15日の任務は対陸軍のため、場合によっては相打ちになる可能性のため悩んだ。終戦という感想はその後になって起った。
亀谷 敏明(横須賀連合特別陸戦隊、後任副官、横須賀線衣笠)
とうとう艦をおりて本土決戦要員として、三浦半島防衛作戦に参加した途端の終戦、しばらくは残務整理のため残留。終戦前夜、司令官に随行、陣地視察の後、横鎮長官招待の宴席に出席したのが思い出に残っている。
郡 重夫(横須賀砲術学校、内房総海面砲台指揮官、千葉県君津郡)
8月14日に指揮官集合で横砲に参集、その夜非公式に終戦を知った。8月15日正午の玉音放送後、部下四千余名(砲台構築の補充兵を含めて)の給与を持って帆走で東京湾横断と相成った。15日の正午以降定期便が出なくなったためである。終戦処理をどうしたらよいのか、東京湾上を帆走していたが流されるばかりで仲々進まなかったのは、これからの歩み方を表わしているように感じられた。
澤本 倫生(軍令部付兼東京警備隊付、東京)
すでに本紙15号に報告したが、終戦の御放送を聞いて、陛下の放送なくしてはスムーズな終戦はないと思っていた。古いしきたりを破られて放送して頂いた大御心に只々感激の涙であった。
(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)