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平成22年4月24日 校正すみ

昭和50年3月寄稿

終戦の想いで

今井 政司(潜校高等科学生、大竹)

 20年7月1日付で駆逐艦樺航海長から潜水学校の高等科学生を命ぜられた。70期の藤原大尉を学生長として70期2人、71期2人、72期3人(大岡、間中と小生)だった。水に浮ぶものが戦力でなくなった当時皆駆逐艦等から移って来た連中である。折田教官等から講義をうけて約一月、広島原爆の例のキノコ雲を眼のあたりに見た。終戦の玉音放送はスピーカー不良ではっきりせず、敵が上陸してきた場合どうするか、中国山系にたてこもってあくまで戦うとか真剣に話し合ったことを憶い出す。しかし直接部下を持っていなかったのでそれ程激しい場面はなかった。潜校の方針で9月に入って帰郷したが、海軍省の呼出しに応じて10月から海防艦87号で比島方面から復員輸送に従事、これが外地で苦労された戦友に対するせめてもの奉仕であった。

大岡要四郎(潜校高等科学生、大竹)

 当時水雷戦隊の働き場所がなくなり、駆逐艦から潜水艦乗りに転身しょうとして大竹の潜水学校で高等科学生をやっていました。仲間は70期の星野大尉をはじめ駆逐艦生きのこりの猛者数人。クラスの間中十二、今井政司が机をならべていた。中途にして終戦になり種々流言にまどわされたことを覚えています。潜水艦長になる予定の学生でも一度実習に乗っただけでした。潜水艦で敵艦を迎え撃ち海中深く肉迫、必中の魚雷攻撃を行うことの夢が消えてしまったのは今でも残念に思っています。というのはわれわれ水上艦艇では、敵の艦艇との決戦を行ったことは、ビアクとレイテぐらいで大抵航空戦や潜水艦との戦いが多かったため、一度水中からやってみたいと思っていた次第です。

來島 照彦(伊402潜通信長兼分隊長、呉)

 終戦なんてデマだと先任将校以下出撃準備を早め艦内一層活気を呈した。しかし,天皇陛下のお声は本物だという気拝は持っていた。

木村 貞春(伊五〇二潜水雷長、シンガポール)

 アンダマンへドイツ軍と連合訓練をして帰ると終戦。艦長は68期の山中修明氏で血気の人。パナマ運河を爆砕して死のうと決意したが、計画がもれて全員上陸せよとの信号で万事終った。思えば無鉄砲であった。伊五〇二号は、もとドイツ潜水艦U八六二号。

幸田 正仁(伊五〇一潜水雷長兼分隊長、シンガポールケッベル商港)

 八月十一日頃、各級指揮官集合があり、方面艦隊司令部から戦闘行動の中止が発令された。伊五〇一潜はもとドイツのU一八一号で出撃体制を整え、英気を養っていた。木村貞春は二番艦の先任将校で、よく商港のレストラン、料亭あたりへ行ったこともあります。しかし大勢の赴くところ、当地で武装解除。一年後復員した。

畊野 篤郎(波208潜先任将校、呉)

 艤装にひきつづき特別訓練を漸く終り、待ちに待った出撃準備をしていました。内海西部から燃料魚雷糧食を搭載するため三日間の予定で呉軍港に入港。いよいよ明日出撃という時に終戦のニュースをきかされました。はやる心、猛る気拝を抑えるのに数日間苦慮しました。

佐九 幹男(波206潜艤装員・機関長、大阪府)

 当時私は、大阪府泉南郡多奈川町川崎造船分工場で、波二〇六潜の艤装に専念していた。順調に行けば8月15日に紀伊水道を出撃する予定であったが、工事は大幅に遅れていた。工場側との交渉や乗員予定者の訓練に必死の思いであった。玉音放送は雑音がひどく殆ど聞き取れなかった。従って、終戦の実情が分るまで若干のタイムレートがあった。その時の思いは到底筆舌には尽くしがたいものがある。

田中 宏謨 (伊五十八潜航海長)

 沖縄海域から豊後水道に向って帰投中。一体これからどうなることやらと内心心配であった。

畑 種治郎(波201潜艤装員・先任将校、佐世保)

 終戦前日に略完成。魚雷搭載のため回航したが搭載してくれず、また佐世保港岸壁に戻った。その日から終戦の噂が工廠内に起り、翌15日正午玉音放送と共に噂通りとなった。その後米艦隊佐世保入港のためにハ201潜水艦は大村湾に回航した。 

福島 弘(伊四〇一潜機関長附兼分隊士)

 コレスの矢田、山口と共にウルシー泊地の空襲一歩前の状況にて、終戦無視を主張し続けた一日でした。

(編注、第一潜水隊は伊四〇〇、四〇一で作戦行動中。四〇〇潜には名村英俊通信長、吉峰 徹飛行長、森川恭男機関長付が乗艦) 

松下 太郎(伊36潜航海長、呉)

 出撃準備完了で終戦。 それから30年、年は取ったが気持は昔のまま。第二の人世を誠心誠意生きぬいて亡きクラスの分もと考えているが、幸福な人生はこれからだと思っている。

間中 十二(潜水学校高等科学生、大竹潜校)

 よく聞こえない玉音放送ながら敗戦を知り、部下のいない気楽な配置で徹底抗戦の策略などカンカンガクガクだった。大岡、今井などと同期の潜水艦を知らない最後の高等科学生でした。

山田 穣(6艦隊15潜水隊、伊53潜航海長、呉)

 8月13日呉に帰投、最後の回天隊の役が終った。そしてすでに決号作戦が用意されていることを知っていた。勝つことは絶対にない、しかし負けることもない。こんな矛盾した理論が当時としては当然だった。玉音放送は雑音ばかりで内容全く不明。しかし敗戦だけは分った。誰が何と言おうと決号作戦だけはやるのだという突撃精神が95%、あと5%は俺も死なずに助かったという蔭の声。そしてその後の虚無感が全身を覆った。橋口、畠中に比べれば、生きているわれわれは5%のだらしなさが隠せない。鳴呼。

矢田 次夫(6艦隊1潜水隊伊401潜砲術長、クェゼリン東方海上)

 その頃既に太平洋は文字通り、米国の海と化していた。航海灯は勿論、船室の灯火さえ何の御遠慮もなく明々と米船の行き交う太平洋であった。潜望鏡でのぞきながら扼腕していた。
「ここに日本海軍なお太平洋に健在なり」と絶叫もしたかった。パナマ運河攻撃の夢も破れ、クェゼリンの機動部隊攻撃を目前に終戦 。所感と問われても、それは文字になりそうにもない。

(なにわ会ニュース33号9頁 昭和50年10月掲載)

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