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平成22年4月18日 校正すみ


終戦時の伊58潜の行動と思い出

田中 宏謨

この記事は平成8年に死亡した田中宏謨君が昭和54年、三共生興株式会社を定年退職し、引き続き株式会社信用交換所に勤務することになった時の挨拶状に添えられたもので、泉五郎君から提供を受けたものである。(編集部)

石川 誠三 橋口 寛

 

昭和20年6月、沖縄本島は連合軍の海・陸・空からなる熾烈極まる戦火を浴びてかの可憐(かれん)なるひめゆり部隊を始め、島民を含めた大きな犠牲のもとに終焉を告げた。連日連夜の本土空襲は中小都市までも焼土と化し、沖縄戦闘が終息後、時を移さず、当然本土決戦が表面に出てきた。大本営から決号作戦要領が各部隊に作成配布され、私が所属していた6F(F・艦隊)も、海陸両軍を挙げて成る本土決戦部隊の先遣部隊として、7月に入るや、潜水部隊としては毎度のことながら、他の部隊に先駆けて太平洋に向って戦闘行動の火(ぶた)が切って落された。

最早、ここまでくると、勝つとか負けるとか言うよりも、何としても故国を、己れの身を捨てても、連合軍の攻撃から守らなくてはならない、というその事だけであった。

かつて、同盟軍であったムッソリーニの率いるイタリアは逸早く脆くも連合軍に屈服し、また迅速果敢な戦闘で欧洲全土に亙って連合軍を苦しめたナチス・ドイツも刀折れ矢尽きて首都ベルリンは焼土と化してしまった。長い戦いに疲れ果てた日本は、同盟国の独・伊の2国を失って孤立し、世界を相手として戦わねばならない羽目に陥ってしまった。

頼むは、原子爆弾の一刻も早き出現のみであったが、これも期待に反して、とうとう広島・長崎と相次いで、連合軍に先を越されてしまった。顧みるに、先の軍縮会議で5・5・3の比率を強いられた帝国海軍は、緒戦のハワイ及びマレー沖海戦を除けば、電波探信儀という測的兵器で大きな水をあけられて各戦闘で先制の機を失い、又、ここに破壊力の全然桁外れた原子爆弾の出現で、手も足も出ず、折角緒戦におけるゼロ戦の活躍、また、93式酸素魚雷という局部的な優秀兵器も、この電波探信儀の測的能力と原子爆弾の破壊力の前には全く影が薄くなってしまって、全戦局面から見た場合には科学力の差で勝負にならなかった、と言える。

本土決戦においては、竹(やり)までもかつぎ出さなくてはならなくなった悲しむべき日本にとって、6Fの戦闘可能な潜水艦は、緒戦より今日まで、幾多の犠牲を強いられて、造れども、造れども、減るばかりで、潜水艦のみならず、その乗員の犠牲も数少なからず、また今回の沖縄島攻防の戦闘でまたまたその大半を失い、本当に残り少なくなってしまった。潜水艦乗員としては、開戦前は、太平洋上の対米決戦を常に夢みて、その必勝を念じ、また、一部の者は緒戦以来、特攻を以て任じ、衆知の如く、彼の特殊潜航艇(甲標的)によるハワイ攻撃から始まったのであった。また、サイパン島の攻防戦(あ号作戦)においては、偶々敵進攻時に、6F司令部がサイパン島に所在していたので、他の部隊と共に武運拙く玉砕の憂き目に遭い、艦隊長官をはじめその幕僚全員をサイパン島から救出する事が出来ずして喪い、再び広島県呉において6Fを再建して、まだ日も浅いのであった。潜水艦は亀のごとく機動性が極めて鈍重なるにも拘わらず、終始激烈なる戦闘場面に投入され、6Fは上から下まで、よくその実力を発揮することも出来ず、相次ぐ悲劇に見舞われていた。残り少ない僅かな数の潜水艦は、夫々瀬戸内海の回天基地である徳山湾の大津島、光或いは平生の各基地で、回天(人間魚雷ー06兵器)及びその搭乗員と整備員を乗せて、迫りくる本土決戦に備えて豊後水道を南下出撃したのであった。

各潜水艦は連合軍の本土進攻部隊を一刻も早く太平洋上に捉えて、その動静を大本営はじめ各防衛部隊に報告すると共に、これを波高き洋上に迎え撃って刺し違えるのが使命であった。1隻の大型潜水艦として、その甲板上に装備した6本の回天と艦内の発射管に充填した6本の魚雷は、一時の攻撃態勢としては、敵の機動部隊に対してもまた、輸送船団に対しても、その中に真っ向から切り込んで、相当の成果を挙げることができる自負と自信を持つに至った。

これも後れ馳せながら、回天の洋上航行艦攻撃が可能となったからに他ならない。私の潜水艦もその一であった。予定の如くソ連の連合軍参戦を見て、6Fとしてもこれに一部の兵力を割かねばならなくなった。8月10日夜、レイテ湾東方洋上において、レイテ・沖縄間の補給路の破壊作戦に従事していた頃、6Fより「哨区を撤し、内地(呉)に帰投せよ」との命令を受けたので、艦を北に向け帰国の途についた。

「鹿屋航空基地にあった第5航空艦隊は14日夜、司令長官自ら幕僚と共に彗星艦上爆撃機5機を率いて沖縄慶良間泊地の敵艦船群に突入した。(注 1)」と。鹿屋は今まで神風特別攻撃隊の基地として、若い前途有為な青年達を数多く相次いで台湾沖や、沖縄島周辺や或いは遠くウルシーの敵艦隊泊地に送った。第5航空艦隊司令長官が敗戦を前にして、先に散華した青年達の身上に思いを駈せる断腸の心中を、いささか思い遣ることが出来る。祖国の勝利の為とはいえ、数多くの青年達に死という無上の犠牲を強いて来た老提督の最期の姿なのである。

戦争末期に至っては速力の遅い練習機までも狩り集めてこれを爆装し、白菊特攻隊を名乗って沖縄泊地に突込んだのであった。この白菊特攻隊は零戦、彗星などの第一線機に比較するならば、速力が遅すぎるのでかえって敵艦船群の()烈なる防(ぎょ)砲火の眼を奪い、弾幕ははるか前方にそれて敵の虚をつき、思わぬ効果を挙げることが出来たというのも笑えない事実であった。

GF(連合艦隊)司令部より「積極的攻撃は停止すべし、然し防(ぎょ)のために欠くべからずと認められる際は、自衛の攻撃は差支えなし」と。

次いで、「8月15日、日本軍は連合軍に対し無条件降伏をせり。」との正式電報を受取った。無条件とはどういう意味なのか、洋上にいる私達には推定の域を出ず、皆目、分からなかった。今までの作戦中の無線連絡はすべて暗号であって乱数表を入れて暗号書をひも解き、翻訳せねばならなかったのであるが、急転直下、長きに渡った戦争も終焉を告げたのであろう、6F司令部より暗号ではなく平文のまま、「作戦行動中の各潜水艦は急ぎ内地に帰投せよ」また「作戦行動中の各潜水艦は現在地を知らせ」と指示してきた。

艦長以下先任将校、機関長、航海長の私は士官室に相寄り、これからの本艦の措置について艦長を中心にして鳩首(きゅうしゅ)協議を重ねた。誰も寸刻を追って変りつつある本国の事情などは皆目も分からない。また、事ここに至った経緯も分からない。洋上はるか故国を離れて、我々の取るべき措置について、艦長の決心は既に定まっているに違いないが、敢えて自ら口に出そうともしない。常に微笑を顔面にたたえて変異に動ずることを避け、自分の胸三寸に秘めて各々の言葉が出るのを待っている、という風情である。

直ちに帰投せよ、との命令であるが、そのまま帰投すべきが、我々の現在とるべき態度か、或は1人となるまで連合軍と戦い一矢を報いるべきか、今まで外侮を受けた事がないので過去の前例を引く訳にも行かない。

狭い食卓机の上に拡げられた海図を、現在地から各方面にデバィダーで何度も何度もきってみるが、現在残り少ない手持の燃料では帰投地を変更する余裕がない。かつて海上特攻として沖縄に向った戦艦大和でさえも片道の燃料しか積載して行けなかった。(注 2)目的地沖縄に行きつくまでもなく、制空権を完全に奪われてしまった大和以下の海上特攻部隊は敵航空部隊の攻撃を受けて、中途において壮途挫折したのであるが、あえて片道燃料しか積載しなかったのではなく、往復の燃料を積載したくても極度の燃料払底がこれを許さなかった。生命を顧みず、常に敵を目前にして戦う身であるからといって、独り自由をむさぼるという事は許されず、第一線、第二線といわず平和産業に従事する者も等しく、あらゆる困苦欠乏に耐えて行かねばならない時局であった。燃料の不足は私達潜水艦にとっても多少の差こそあれ言えることで、不足勝ちの燃料を如何にして有効に活用するか、という点についてはひとり機関長のみならず艦長以下全員が多大の関心を寄せて節約に努め、並大抵ならぬ苦労をした。

敵艦船が航行する海域にあって、浮上して哨戒中は燃料を節減せんがために原速はおろか、片舷の機械を停めて速力を半速に落しては跛行(はこう)運転をしながら哨戒に当るので優る点もないではないが、これでは態勢の変化に即応できないので、万一敵潜の雷撃なぞをくった場合には万事休すること請け合いである。

これも燃料不足を克服する一手段であって、両舷機を動かせばそれだけ燃料消費が嵩むから、蓄電池の充電と兼ね合わせて片舷機しか回さないのである。それも半速で。

機関長が平常、心して予備の燃料を(へそ)繰って蓄えてくれていたが、それを加えてもきりきり舞いで、もし燃料に余裕さえあるならば、混乱を予想される故国にこのまま急いで帰ることなく、今直ちに艦首を南に翻して北ボルネオのタラカンに寄り、ここで改めて燃料を十分補給して、独り再起を計ることも考えないではなかった。然しこの計画は手持燃料の貧弱な為に許されない。17日早朝には豊後水道に行き着く所まで艦は来てしまっており、故国の土を目前に控えてタラカンまで回航できる燃料は悲しいかな、持ち合わせていなかった。さればもっと近い所に適当な場所はないか、と台湾の高雄で燃料補給をしたらどうか、とも考えてみた。

しかし高雄に果して潜水艦の燃料があるかどうか、ということと、高雄は1年半ぐらい前に一度、船団護衛の傍ら立ち寄ったこともあるが、掃海水路が難しく、普段高雄に入り馴れていないと味方の機雷に触雷する虞があり、まさかこの作戦行動中にかような終戦を迎える事態になるなぞということはついぞ考えもしなかった。私としては高雄のごく最近の掃海水路について十分な研究もしておらず資料も残念ながら持合せなかった。

結局、帰投したあかつき、相当な事態を予測しながらも、このまま素直に命令に従って日本へ帰ることに衆議一決した。これに対して、1人も異議を挟んだり、不満を述べたりする者もいない。そして日本の実情に接した上で改めて行動を起こすことになった。

8月16日深更、いよいよ明早朝には豊後水道に到着するという、水道入口より約60浬の海面で、水上艦艇探信用の22号電波探信儀は、図らずも暗黒の彼所に味方ならぬ怪しい電波がこちらに向けて発せられているのを探知した。故国の土を目前にして万一ということもあるので、水上航走をそのまま強行することを避け、ひとまず潜航して避退した。

かつては太平洋の制海権を完全に掌握していた我国も、戦争末期には完全に連合軍の手に奪われてしまい、瀬戸内海にまでもアメリカの飛行艇が着水して、悠々と日本爆撃行に傷ついて、内海にパラシュート降下した搭乗員を救助し、近くの島民達はこれを見て何をする事もできず、ただただ切歯扼腕(やくわん)して飛び去るのを見ていた、という程で、まして外海と接する豊後水道入口を初め、日本沿岸各地における敵潜水艦の跳梁(ちょうりょう)振りは眼に余るものがあり、巨大空母信濃もその餌食となって、わずか横須賀から内海までの回航も果すことが出来ず、実戦に参加するまでもなく沈んでいった。かような状態なので、ある潜水艦は豊後水道を夜陰に乗じて出るや、更に敵潜の眼をくらますために、あえて潜航してシュノーケルを活用し姿を隠してこの危険海域を離脱して南下したで、今折角ここまで帰っ来ながら、僅かな油断からムザムザと敵潜の血祭りに上がるなぞというは何としても堪え難い。慎重の上にも慎重を期する所以である。

後日分かったことであるが、8月15日、日本が刀折れ矢尽きて無条件降伏を内外に告げるや、日本近海に在って行動中の敵潜水艦は浦賀水道、紀伊水道及び豊後水道などの入口に厳重な警戒網を張り巡らして、日本の潜水艦が帰投しようとするところを洋上で(から)めて捕獲しようと企てていたことは事実で、怪電波の出所も察するにどうもこの一味らしい。諸般の情勢から案ずるに敵は1隻ではなく、どうも複数の手が入っており、危うく潜航して身をかわし、水中の眼であり耳である聴音機と探信儀(超音波聴音機)を使って周囲を(くま)なく精密に捜索聴音し、かつ、探信せしめた。すると案の定、敵潜も潜航し水中にあってこの真夜中に我々が北上して帰来せんとするのを秘かに待受けていたらしく、わが探信儀は水中3,000メートルくらいの距離に何物かがいることを探信した。これは決して味方ではない。かくして敵の潜水艦と海中で渡り合うこと約2時間余り、知らず知らずの中に一時は約800メートルまで接近した。互いに水中にあっては手の施しようもなく、ただ、敵潜にこちらの脇腹を向けないようにと舵をとりつつ離間を策した。そして敵潜が浮上しょうとするならば、この機を逸せずその脇腹に魚雷を打込もうと、潜航深度を適宜変え、持久態勢に手抜かりなかったが、互いに潜水艦の特異性を知るものであり、敵潜の方も徒らに水中にあって潜水艦同士が渡り合うことの不利益を知っているのであろうか、誰言うとなく、敵味方の距離は自然に離れて行き、いつしか推進機の音源さえも聴知することが出来ない位に遠ざかってしまった。

敵潜襲撃の圏外に出てしまった事を念には念を入れて、よくよく抜かりなく確かめた後、闇夜の中に急速浮上した。黒潮をけ立てて海面に躍り出た艦の回りには一面に白しぶきが活動している。海水が未だ十分にはけきらない艦橋にハッチをあけて躍り上がり、艦の回りを、一とおり眼鏡をあてて見回したが、何一つ艦影らしいものは見当らない。しかし肉眼も機械も万全を尽くしたとはいえ隙がないとはいえない。波間に隠れて我々の動きをひそかに探っていないとも限らない。仮令眼に見えずとも、つい先刻まで何物かが近くに実在していたのであるから。

見張兵器の全能力を発揮して警戒を厳重にしつつ、海中にひそむ敵潜の雷撃に備えて、ジクザクの之字運動を行って豊後水道東口へと、わずかに星の瞬く暗黒の洋上を、白波をけ立てて進み行くのであった。

かえって、この思わぬ道草が豊後水道に入る時刻を程よく調整してくれた。

真夏の時季、特有の薄(もや)にしっとりと視界は包まれて、漸く東の空が明け初める頃には、早や沖ノ島も過ぎて右手には四国の島山が明るくなるにつれて眼の前に展開されて来る。舷側に流れ来るが如く打つ波の音とてなく、また、去り行く潮しぶきの中に(れい)明に浅く眠る故国の香りを(ただよ)わせて、ひとりその静けさを懐かしむ。吸う空気の味も今までと何か異なった感懐を腹の底にしみ渡らせずにはおかない。今に至るまで、幾日間も飽くこともなく揺れ動く紺(ぺき)の海の面と浮雲の漂う大空ばかりを友として来た両眼には、青々とおい繁る島山の線が眼底に焼きつくように映じて、もうここまでくれは大丈夫だ、という安心感は故郷を緑の中に懐かしむ再生の五体をひとり歓喜の中に(しび)れさせる。しかしこの度だけは今までとは全く違う。基地に帰りつくまで、何とも我々の運命は計り難い。もしかするとこのまま再び、直ぐ出撃を命ぜられないとも限らない。世の中を吹き荒ぶ風雲は止めどもなく、次から次へと日を追って嵐を呼び、現実の姿を厳しく変えつつあることは、仮令真実に接して見なくとも無条件降伏の文字の前には想像に難くない。約カ月前、私達は故国の島山の緑を再びこの両眼で生きて見ることが出来るだろうか、と別離を惜しんで太平洋上に勇み出た日が、つい昨日のように思われてならない。今ここにいること自体に自分の生命があるのかないのか疑われて来る錯覚にも襲われる。私の心は一面複雑でもあるが、反面虚無感から至って単純でもある。

国破れて山河在り
城春にして草木深し
時に感じて花にも涙を(そそ)
別れを恨んで鳥にも心を驚かす
烽火三月に(つら)なり
家書万金に()たる
白頭掻けば更に短く
(すべ)
(かんざし)()えざらんと欲す

唐の詩人、杜甫「春望」の一句がこの時ほど故国の島山を生きて懐しむ我が身にとって、胸底深く泌みこんだことはなかった。開元の治といわれた唐の玄宗皇帝も年若い楊貴妃の(ちょう)(おぼ)れて安禄山の謀反を招き、都長安を追われて終りを全うすることが出来なかった。きっと詩人杜甫の感じたところも、時代と場所は異なれど、私共の今の境遇と例えてさして変りはないのではなかろうか。

陽は既に高々と上り、海面近くを(おお)っていた薄(もや)はきれいに(ぬぐ)い去られて、夏の陽は大自然のあるがままに容赦なく照りつくしている。彼方に見えた水ノ子島灯台も艦尾の方に遠ざかり、四国の西端佐田岬を過ぎて伊予灘に入った。今まではこのまま西に折れて別府湾に向うのであったが、今日はそんな呑気に構えてはいられない。

平常ならば今頃の時刻には空に飛行機の1機や2機がたやすく見られるのだが、今日は飛行機1機さえ舞上がる姿が目に止まらない。また、漁にいそしむ漁舟も心なしか浮んでいない。

艦は浮き沈みの激しかった長途の旅で潮焼けし、防探塗料を厚く塗った黒一色の船体も陽に照らされて(かわ)くにつれ、一面に白い潮の粉をふいて(あや)なして来る。流れ落ちるが如く彩色された赤錆びは、1カ月余の苦労を語らずして物語るかのように、赤い鉄錆び色を白い船体のあちこちに点々と添え出している。    海面は油を流したように小波一つとてない。珍しく沈んだような静かな瀬戸内海を、わが艦はひとり音響機雷に対する予防のために機械を電動機に換えて、粛々として、左右に潮を大きく押分けて平生基地を目指して進むのであった。    哨戒員は瀬戸内海に入ったからと言って、誰1人として変ることなく戦闘状態をそのまま続け、黙々として眼鏡にすがり浮遊機雷などの見張に余念がない。口を交そうとする者もいない。無条件降伏という事を、乗員全部に告げてはいないが、誰しも既に秘かに聞いて知っていることは確かである。

瀬戸内海は815日まで、毎晩連続の空襲で何処と言わず多数の機雷が敷設され、幾度となく掃海したのだが危険極まりない海面であった。これは主に海面に浮遊していて接触すると爆発するという機雷ではなく、海底に沈んでいてその上を通過すると接触することなく、船体の磁気によって起爆装置が作動したり或いは艦の推進機音によって作動したりする機雷であった。 

ある潜水艦は連合軍の沖縄襲来を前にして、これを迎え撃つべく呉軍港を勇躍出でてクダコ水道を過ぎ、内海に一歩足を踏み入れるや、偶々訓練中の私達の目前で、この海底に敷設された機雷に触雷して、危うく沈没は免れたものの壮途空しく再び修理のために呉に引返さねばならなかった。

瀬戸内海で触雷した艦船は戦時中のみならず、戦後も幾多数えられた。

私は航海長としての職掌柄、操艦のため艦橋に立っていた。私の頭の中には、今まであった回天の色々な事が走馬灯のように去来する。グアム島のこと。硫黄島のこと。沖縄島のことなど。一つとして筋書きだってはいないが、入交って頭の中で交錯する。回天の搭乗員達は皆勇んで回天に(またが)り、ある時は大津島から、また、光から、平生から多くの仲間に岸壁で送られて征った。回天特別攻撃隊金剛隊の一艇として、グアム島アプラ港に碇泊する艦船襲撃の際、グアム島を目前にして同期の石川誠三と語り合った。その中で、私は石川の決死を前にして馬鹿な質問を発したものだと、今でも思っているが、

「貴様と俺と今、どっちが幸福かなあ?」

2人はしばらく顔を見合わせて考えていたが、石川は笑みを浮べて口を開いた。

「同じだよ。貴様だって、俺を出した後、日本に帰れるかどうかわからないじゃないか。マァー万一にでも生きて帰ることが出来たら、広島の家を尋ねて、母によろしく言ってくれ。」と。そして大きな紙袋を1つ渡して、これを母の手許に届けるように頼まれた。この紙袋の中には、石川が艦内で余暇にまかせて筆墨を弄び、思うにまかせて認めた書物が入れてあった。かくして石川は1番艇として回天に搭乗しいよいよ艦を離れるに当り、永久の別れを艦長に告げるまで、僅かな間であったが、口笛で

目ン無い千鳥の高島田

見えぬ鏡にいたわしや………………

と電話器を通して私の耳許に流れ伝わってきたのが、耳に残って消えない。石川としてはこの歌の旋律が強く印象に残っていたのだろう。3年間一緒に生活を共にした同期生を、戦争なるが故の悲劇とはいえ、敵陣営を目前にして特攻隊として送り出すことほど残酷なことはない。

「入港用意」

平生突撃隊(各回天部隊の基地を突撃隊と称した)の岸壁には、今は亡き5名の回天特別攻撃隊員の霊を待ちわびて、大勢の隊員が並んで手を振って迎えてくれている。そこには敗戦の混乱というものは微塵(みじん)も感ぜられず、いつもと少しも変りはない。

錨を下ろし、未だ錨鎖庫の赤錆びが錨鎖にまみれて赤黒く潮の流れに沿って静かに海面を漂っている時、はや基地からは1隻の内火艇が突撃隊司令等を乗せてこちらに向って走って来る。今は亡き若い5名の同輩の在りし日の奮戦の模様について一刻も早く耳にしたいのであろう。

入港作業を終え戦備を解くと、艦長の命令によって全員後甲板に集合した。乗員は如何なる内容の集合であるか、聞かずとも既に知らない者はいない。まず艦長の指示により、本作戦で回天特別攻撃隊員として回天を駆って、それぞれ敵艦船群に突入して散華した、若い5名の冥福を祈るべく、全員黙祷を捧げた。甲板上は寂として声なく静まり返って、舷側に波打つ響きあるのみ。

在りし日の5名の元気な姿が目の前に今でも潮焼けした顔に笑みを浮べて生きているかのように思い浮かんで来る。どうしても、何故かもうこの世に生きていないとは到底考えられない。

黙祷を終って、艦長は落着いた口調で平常と変りなく、乗員の努力を深謝し併せて諭すがように無条件降伏という敗戦の事実を正式に簡単に告げた。そして、「今日、未だどのように展開するのか、はっきり分からない状態であるのだから、冷静な判断を欠いて、今まで自分達が何を目的として生死を賭して戦ってきたのか、というその本来の目的を外して勝手な振舞をして、折角、今までの努力をこの場で無為にしないように、くれぐれも自覚して行動して貰いたい。」と口を閉じた。

解散後直ちに突撃隊司令の迎えを受けて艦長以下私達は作戦の模様を基地に待つ突撃隊幹部達に報告かたがた内火艇に乗って基地に向った。

桟橋を上がると大地が何故かぐらぐらと揺れているように感ぜられて、足がどこか拍子抜けしたようにふら付くのも無理はない。今まで長い間揺れ動いていた艦の中で、ほとんど真直ぐに歩くこともなく過ごしてきた自分の身体には、不動の大地がむしろ逆に動いているように感じとられるのであった。

何と言っても、土を踏んで一番知りたいのは、敗戦という事実を既に知っているとはいえ、日本の情況が果してどうなっているのか、また、これからどういう工合になっていくのか、無条件降伏とは一体どんなことを言うのか。事務室で薄っぺらな粗末な新聞紙を拡げて、目を皿のようにして大きな活字の記事の一つ一つをくい入るように読んでみるものの、記事の中には戦争記事の余(じん)こそあるけれども、自分達が今考えている真髄に触れる記事は残念ながら見当らなかった。       

広島に、次いで長崎に落された新爆弾の惨害に陛下は大御心を砕かれて、有史以来、未だかつてない戦争終結の詔書は大きく目に止ったが、これは私達戦闘部隊にとって大方針でこそあれ、直ぐ行動に移すことが周囲の事情からして到底できるものではない。また、陛下の国家統治の大権を変更するような如何なる連合軍の要求をも拒否する、と言ってはいるものの、無条件降伏が果して国体護持の方針に沿い得られるか、今後の連合軍の出方の問題であって軽々しく信用することはできない。無条件降伏の解釈はそれぞれ人によって異なっており大本営の混乱は当然想像されるが、私達戦闘部隊としては夫々の立場にあって飽くまでも日本人の生命を引き続き守り抜かねはならぬことには変りはない。

一変事に際会したからと言って勝手に(ほこ)を収めてしまって、連合軍の勝手な振舞をこの国土に許すということは何としても防がねばならない。月17日の陽は既に西海の涯に沈んで、あたりは夏とはいえ暗くなっていた。

平生突撃隊には、私と同期で特攻隊長をしていた橋口寛がいた。橋口とは偶然にも、私達が従事した回天作戦については不思議なくらい陰となり、また、陽となって、いろいろな面から行動を共にする機会に恵まれ、特に実務面で世話になった印象は忘れられない。

最初の出撃地であった徳山湾大津島をはじめとし、ここでは同期の桜が多数いて賑かであったが、次の機会には光に基地が出来たので光に移り、ここで橋口と回天訓練を共にし、また、最後には平生に基地が新設されて移った処、橋口も平生に来て回天の訓練及び指導に当っていたので又々生活を共にする機会を得た。既に回天を幾回か実戦に使ったとはいえ、未完成の部分が多く、日を追って色々な点で改良を加えねばならない点が次から次へと跡を絶たず、橋口はこの研究開発に熱心で最大の効果を挙げるべく日夜努力に努力を重ね、私の潜水艦が回天の各基地から出撃の度毎に、潜水艦に乗って出撃する若き搭乗員の手をとって技術的な訓練指導に当り、また、私達にも回天搭乗員としての立場から忌憚のない細かい意見を添えてくれた。

然し、橋口は当初より回天特攻の先達となって、回天の研究に従事しており、本来ならば第1陣のウルシーに向けた菊水隊、あるいは第2陣の金剛隊で同僚達と一緒に出陣する身であったのだが、運命の悪戯というか、橋口の温厚な人柄と後輩に対する秀れた指導力がそうさせたのであろうか、新しく出来る基地(突撃隊)の開発要員となって今日まで来てしまった。そして、戦争がそのまま継続されていたならば、来る8月25日頃、私の潜水艦の回天搭乗員の一人として、漸く機会到来というか、待ち望んでいた出撃に参加することが略々定まっていたことを橋口も十分知っており、決死の出撃を寸前にして敗戦の終結を迎える結果となってしまった。

橋口から親しく手ほどきを受けた同輩は既に各方面に出撃して、不帰の客となっていたにも拘わらず、自分はひとり彼等に取残されたような恰好になってしまった。口には片(りん)も出さなかったが、このことは真実寂しかったに違いあるまい。その心中を察することは十分できる。橋口が自ら死を決する前に残した、

後れても、後れても、亦卿達に

誓いし事は われ忘れめや   

 

橋口は8月25日が来るのを、一日千秋の思いで待っていた。決して、自分の命を軽々しく無駄にしようなぞという事は考えてもいなかった。先に逝った同輩のあとに、大きな戦果を残して続くことを夢みていた。洋上に回天を疾駆(しっく)し、必中を期するにはどうしたらよいか、そのことを常に研究して止まず、私達と討論したものだった。橋口の素直な性格からみて、毎日を土の上で暮すことは、水漬く屍と先に逝った先輩同僚たちの追憶から堪えられなかったかも知れない。

ささやかではあったが、基地隊司令をはじめ諸幹部達の心尽しの招宴が終ると、私は橋口と2人連れ立って橋口の部屋に入った。潜水艦内に比べれば広いけれども、バラック建の実にお粗末な殺風景な部屋であった。夏だから未だ好いが、これが冬だったら寒さが相当身に泌みるなァという建物であった。部屋の中には余分の椅子なぞはないから彼の寝台を片付けてその上に腰をおろした。彼はとっておきのウイスキーの栓を抜いて歓待してくれた。高級ではないが、ウイスキーなぞ手に入れる事は非常に至難の時代であったから、彼の心づくしには恐縮した。

私としては、今宵が、橋口との最期の会話になるなどと考えてもみなかった。話は当然この作戦で亡くなった特攻隊員5名の追憶から無条件降伏に及んだ。先刻、約1カ月振りに粗末な一面の新聞を見たばかりの私にとっては、これが具体的にどんなことを意味するのか皆目分からなかった。当然これに対して意見なぞあろう筈はなく、ただひたすら耳を傾けて橋口の意見をジッと聞くばかりである。

薩摩育ちの橋口は神州の不滅について論じ、国体護持を強く主張したが、戦に敗れた以上これを期待することは、残念ながらどう考えても否定せざるを得なかった。

ただ単なる天皇制の存続は彼の主張する国体護持ではなく、形だけのものという考え方は夢想だにしなかった。この場に、数多くの庶民がただ夫々一つの人間として満足な生活を平和に営んでいければそれで良いではないか、という単純な考え方はなかった。すべてが天皇中心で教えられて10年に1度の戦いの中に育ってきた私達の考え方は今振返ってみると極めて異状であり、そのために貴い多くの犠牲を払ってきた。

国体護持が出来なかったらどうするか、ということは申していなかった。そこまではとても考えが及ばない。

私には先刻まで、暑い艦内生活の連続で、頭のボケもあり、危険海域を冒して再び無事に故国に帰ることができた、という安心感から、橋口の言っている意味が残念ながらよく分からなかった。

私には未だ明日、最終帰投地呉に帰らねばならない、また、明後日は次ぎのやるべきことが目の前に山積している。私の生活の中には橋口の言わんとする国体論議を深刻に考えている余地もない。この辺りが、当時足が地についている陸上生活者と、地についていない海上生活者との違いかなァーと今でも思い出す。

長い筈の夏の夜も更けて、ウイスキーのお陰で相当酔いも回り、いささかフラつき気味で最終便で沖に浮ぶ清水艦に帰った。別れる時、橋口は、「明日、俺も呉に行かねばならない用事があるから、貴様の艦に一緒に乗せていって貰いたい」と言った。

明けて18日、最終帰投地呉に向けて平生を出港の朝、出港時刻になっても橋口が乗艦して来ない。あの凡帳面な橋口が定刻に遅刻するなどの事は考えられない。暫くして基地から1隻の艇が来て、橋口の死を告げた。詳しいことは分からない。潜水艦は機械を駆けて、名残つきない基地に別れを告げた。それ以来2度と平生に行くことはなかった。

後刻聞いた話だが、橋口は18日、未明、まだ暗い頃、ひとり第二種軍装(夏の白服)に威儀を正して、自分の搭乗する回天の前で、拳銃で頭を撃って自ら死を選んだという。

 

(編集部)
(注 1)

突入は14日でなく15日、幕僚は連れていない、爆撃機は5機でなく、11機であった。
(注 2)

「戦艦大和でさえも片道の燃料しか積載して行けなかった。」と書かれているが、実際は全艦燃料満載であった。この件について、なにわ会ニュース95号編集後記に佐丸君が述べているので参考とされたい。

(なにわ会ニュース95号 平成18年9月掲載)

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