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平成22年4月22日 校正すみ

生涯の思い出

詫摩 一郎

目が見えない。  思えば遥か50年前の事になるが、小生にとって忘れることのできない難事件であった。

海機合格の通知を受け、入校のため大勢の人々に見送られ、誇らしく胸を張り、手を振って釜山の埠頭を離れ、付添う母と共にはるばる東舞鶴に着いたのは昭和15年の1128日であり、海岸寄りの松栄館に宿泊した。

29日、中舞鶴の機関学校に赴き身体検査を受けた。その際、右眼の視力がいかにしても規定の0.8に達せず、翌日再検査を受けることになった。母も心配して、一時的にでも目を見えるようにする方法はないものかと、2人でバスに乗り、舞鶴の某眼科医院を訪ねて相談するも、そのような事は不可能であり、今夜は早く眠って目を休めるのが最善の策であると告げられた。重苦しい気持でとぼとぼと旅館に帰った事を覚えている。当夜早く床に入り、眠ろうとしたが中々眠れず、周囲の騒々しさが気になって益々眠れなかった。

さて、翌30日視力の再検査を受けたが、又昨日と同じく、何度繰返しても0.8に達せず、遂に年配の軍医中佐のもとに呼ばれて「海軍では規則を曲げるわけにはいかない。また来年来い」と不合格の宣告を受けた。小生、余りにも残念で諦め切れず、咄嗟に「室内は暗くて見え難い、もっと明るい処なら見える筈です」と答えた。すると、その中佐は「よし、器械を外に持出して、俺が検査をしてやる。それで駄目なら諦めろよ」と、強い口調で念を押す如く言われた。

早速、渡り廊下北側の屋外、太陽の光が眩しく感ずる白日の下に、器械を据えて、中佐が小生の右側に立ち、最後の検査が始まった。

ところが、今度は明るいので容易に見えると思っていたら、それはとんでもない誤りで、小さな輪の周辺は明る過ぎて、返ってチカナカ輝いているようで、輪の欠けている方向がはっきり見えない。愈々やっぱり駄目かと諦めかけていた矢先、まさかと思う事態が起きた。

器械が回転し、段々輪が小さくなってきて、返答に窮していると、そばで何かかすかな声らしきものが聞えて来るではないか。小生藁をも鞫曹゙気持ちでその声を聞き取り、それを頼りに、上、下、右、左と答えるしか術なく、時折、中佐のジロリとする視線を感じると小さな声は途絶え、答に窮すること幾度か。突然、中佐が叫んだ。「時々は見えるんだなあー、よし、合格だ」とその時、ひょいとふり返ると、直ぐ左後ろに母がにっこり立っていた (案じつつ、小生を探し当てた由)。

小躍りせんばかりの喜びを噛みしめつつ、その場を立去らんとした時、「詫間 待て、こっち来い」との鋭い声に立ちすくみ、おそるおそる近寄ると、医務室側、渡り廊下の階段上に、貴公子然とした偉そうな士官が立っていた。そして重々しい口調で、

「君の今の喜びは良く判る。生涯その気持を忘れずに海軍の為に奉公して呉れ」と。

危うく合格を果し、集合場所に息せき切って駈けつけ、途中広い柔道場の真ん中にポッンと残されていた憧れの短剣と制服を着け、急げ、急げの掛声を後ろに皆の待つ講堂に辿りついた。入口で待ちかねたように「おー、来たか」と抱えるように招じ入れてくれたのは、学年監事の喜多見大尉であった。その時、席について前方に目をやった途端、黒板中央に大書した「詫摩一郎」 の文字が目に飛び込んできて愕然とした。

前述の、階段の上から小生を呼び止めて、心髄に触れる言葉を与えて下さった士官は、生徒隊監事の石田太郎大佐であった事を後で知った。

それにしても、視力が僅か足らなかったばかりに、全く予期しない貴重な体験をさせられものである。

(機関記念誌212頁)

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