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平成22年4月17日 校正すみ

偵察第四飛行隊

鈴木 保男

偵察飛行隊の仕事は地味である。単機受持コースを死守して、如何に多くの若者達が太平洋に消えて行ったことか。陸偵隊に着任した11名の亡き期友については、前号に加藤が書いた通りであるが、偵4付の土屋 睦、金原 薫、江口正一、偵3付水野英明の諸君について更に面影を偲ぶ。

土屋 睦君、

偵察学生卒業の時、トップで恩賜の銀時計拝受者、彼と同隊に着任したことを、我々は誇りとしていた。いつ如何なる場合も冷静沈着、適確明敏な判断を下す人物であった。口数は小なく、品行も我々と違って方正のため何時も見習ったものである。惜しむらくは永く同じ場所にいることがなく、彼が彩雲で20年1月台湾より索敵に出て末帰還になった時、小生は比島パンパン基地にあった。台湾帰仁基地に辿り着いた時、隊長より同君の最後を聞かされ、惜しい友を亡くしたものだと感じた次第である。過日慰霊祭の折ご母堂様、弟さんにお目に掛っても何の話もなく、恐縮至極に思っている。

金原 薫

兵学校入校の折、彼は34分隊、小生は隣の46分隊で再検時は同じ川尻(恵)クラブだった。府立五中から来た彼は、背広の制服を着て落語の名人、皆をよく笑わせた。鈴鹿基地の頃、99艦爆に同乗して二見ケ浦を低空で飛んだのが思い出される。我々4人のうち唯1人の操縦員でカンが良く、何しろハリキリだったので隊長立川惣之助(66期、操縦、硫黄島で戦死)の一の子分だったようである。

都城浄水国民学校に泊っていた頃、一緒によく風呂に入った。その頃いい具合に髪が伸び、小さい鏡を見ながら櫛で手入れしていたのを記憶する。1910月、沖縄沖航空戦で小禄基地に進出、彗星で索敵未帰還となった。終戦後目白の彼の家に府瀬川と二人で、一晩ご厄介になったことがある。又、ご母堂が伊東におられた時訪問し、故人の面影など報告した。

江口正一君、

いつもニコニコして温容な彼は、気も合って同隊のクラスとしては最も長い間行動を共に助け合った。立川隊長と同県の熊本出身、豪胆な如何なる場合も落ち付いたもので、実に頼もしく感じるのが常であった。宿舎に帰るとベッドにひっくり返って、ヘルブックなど読んでいたことを思い出す。容姿端正の彼は遊びに行っても大分モテたし、隊員からは分隊士々々と親しまれていた。204月、沖縄の激戦に11部隊の応援に彼は出ることになった。思えば共に苦しみ共に楽しんだ生き残りの我々が、この世の別れをしたのはあの松山での別れだったわけである。

水野英明君、

彼とは一号同分隊、百里偵察学生同じ航空隊と浅からぬ縁があった。クラスでもヘビー級では最高の方で、相撲係を歴任したが、彌山登山、体操などはニガ手のようだった。体の割に俊敏で、彼がハリキルと分隊中引き締ったものだった。剣道の時、元太刀に立つので右手甲がハレ上がり「イテーナ」と、よくこぼしていたのを思い出す。純粋の江戸っ子だったので「東京から来た人間は何てハギレのよい言葉を使うのだろう」といつも感心した。ズウズウ弁の小生、今でも言葉使いで彼にならっている点が多い。本誌編集長加藤孝二君と同じ偵3に着任、沖縄沖航空戦の時、小禄基地より彗星で索敵に出て未帰還、今頃生きていたら何処かの重役位に収まっていただろう。惜しみても余りある友だった。戦後巣鴨のお宅を訪ね、ご母堂、兄上様と語り明かしたことがある。先日の慰霊祭で兄上様にお会いし、その後10数年のご無沙汰を心苦しく感じた次第である。

昭和19年7月、三重県鈴鹿基地にあった141空(彗星(2式艦偵2座機使用)はその後、九州都城に進出、搭乗員の錬成、来襲機動部隊の偵察に当り、更に実動ペアは鹿屋基地、沖縄小禄基地に進出、沖縄沖航空戦、台湾沖航空戦における指揮官の耳目となって働いた。打ち続く戦いに、人も機も消粍して行ったが、米軍がレイテに進攻して来るに及んで、我々は可動全力比島に進出する事となった。我々のペアが1910月台湾経由マニラ郊外ニコルス基地に着陸した時には、先着の江口がニコニコ顔で迎えてくれた。戦況日に日に我れに不利の当時、レイテ作戦こそ起死回生の天王山とばかり、海軍も陸軍も全力を注いだようである。

初めて必死必中の特攻機が出たのもこの頃で、百里偵学生時代教官として仰いだ山田恭司大尉(69期)も特攻で、華々しい最後を遂げられた。偵3とは配置替えのため現地で袂を別ち我々の隊だけが現地に残り、ここからレイテ方面の局地偵察洋上索敵に任じたわけである。

レイテ島タクロバン泊地の局偵は燃料満タンクにして泊地侵入前、落下増槽を落とし全速航過、写真並びに目視偵察をして来るのであるが、あの頃、泊地上空は概ね天候悪く低空侵入のため、敵戦闘機に食われた機が可なりあったようである。泊地には夥しい敵艦船が入っており、アメリカの物力の偉大さを痛感させられたものだった。

基地に帰って司令に報告後、マニラ郊外の民家に籠もった司令部に行くのに自動車で約30分かかる。途中匪賊にやられる場合があり夜など拳銃発射用意をして、気が気でなかった。司令部には当時大西滝次郎中将がおられ小生も再三報告に行ったことを記憶する。

多くの隊員達がテ連送(敵機動部隊見ゆ)ヒ連送(敵艦上機見ゆ)またはラ連送(われ不時着す)の連絡で未帰還、連絡の入らない者は電信室に誰も心配顔で聞き耳を立て、日暮れてからも灯をつけて待つが遂に帰らず、親しき友はただ万こくの涙を噛み締めるだけであった。

 偵12のクラス畠中重信が、我々羨望の彩雲で飛来、ルソン島東方海面の索敵で末帰還になったのは11月と記憶する。

1912月われわれの隊は、北方のパンパン基地に移動することになり、使用機も彗星から彩雲に漸次切替えられるようになり、頭(かしら)と仰ぎ死なば諸共と、苦労を重ねて来た立川隊長は、橋本敏男大尉(68期)に代ることになった。前隊長立川大尉は動かざる飛行機(可動機4分の1程度)の犠牲となった形で転勤先、硫黄島に向けダグラス便で出発された。

帽子を振る偵4隊員総員の目に涙が光っていた。併し連日の激しい空襲、任務遂行に感傷はいっておられぬ。新隊長を中心に我々は団結を固めた。待望の彩雲も5機、6機と空輸されてくるに及んで、隊員の士気は軒昂たるものだった。この頃、百里偵学生時代の学生長だった清木英雄大尉(71期)のペアが飛来、我々の隊に入隊後サンホセ方面の局地偵察に出て末帰還になっている。

191231日、この日は小生、一生忘れることの出来ない日だ。その前日、搭乗割を何時もの通り自分で決定し、明日は自分のペアと飛ぶことにしておいた。敵機動部隊がルソン島東方海面にいる模様の情報は、前夜夜間索敵機の電探より入った。スハ明日こその決意のもと、例により計画を綿密に打ち合わせ11時就寝、この日4時起床、特に司令中村子之介大佐の命により、この日は小生のペア彗星で(操)高森少尉と組み、無理をしても任務完遂を諭されて出る。0606基地離陸マラヤット山(1,035米)を右に見て、針路90度高度800米、速力230ノットでヂソガラン湾の海岸線を過ぎる。(さらに北方海面をもう1機彩雲のペアが出た。)天候曇、雲量8、雲高1,000、視界30浬、受持海面一点も見落すまいと捜索しながら飛ぶ。0710エンジンの爆音不調、(操)より直ちに引返すといってくる。機位を見ると間もなく変針点なので、任務続行を下令、高度を除々に上げる。0715右変針、数分間飛び、索敵のポイントに対し厳重な見張りをしつつあった時、突然「ババーン」右排気管より焔をはきエンジン停止、直ちにグライドに入る。「落ち着いて、落ち着いて」を(操)に繰り返す。勿論四方八方空、雲、海、水平線以外の何物もない。

折から輝き出した真紅の朝日は、波にギラギラ反射して皮肉にも美しい。「沖縄で多く末帰還になった友も、かくて海に突っ込んで最後を遂げたのだろう」という観念が脳裡をかすめる。高度はグングン下って200米、フ連送の電鍵を叩く。ACレバー等、さすが搭乗時間3000時間を越す老錬なる高森少尉あわやという所で不具合ながらエンジンは再び掛った。右シリンダーがプチ抜けています。」前席から言ってくる。

速力はやっと90ノット。針路230度とする。所が悪い時には悪いことが重なるもので、間もなく哨戒から帰りらしいB-24リベレーターに遭遇してしまった。最早絶望と観念せざるを得なかった。エンジンは相変らず.バタンコン、バタンコン焔を噴いている。離脱は不可能かも知れぬ。しかし、出来るだけのことは尽そう。「最後まで闘う」を前席に繰り返す。

敵は遠くより迂回して追尾、1,000米位よりグングン近接して来るや、丁度いい所で機銃発射。こちらは海面すれすれに垂直旋回、速力は無理をしても巡航の半分しか出ない。火焔と白い煙は右排気管から絶えず出ている。重病人が息せき切って駆け足をしているようなものだ。敵は一航過するとまた回り込んで来て機銃を発射する。曳痕弾が蛇の頭のように左右の翼を夾叉して行く。旋回銃の安全装置を外して引き金を引くが、開挺が途中で焼き付いていて動かない。拳銃の試射をやる。第1発不発。第2発が出た。何時でも死ぬ用意は出来た。「われ敵と激戦中」も打電した。後は粘るだけだ。エンジンは無理をしているので益々悪い。高度計はマイナスを指している。かくして深刻な危機は30分近く続いた。最早これまで、「近付いたら体当りする」前席に下令。しかし幸いなるかな、敵も燃料が切れるか、諦めたらしく、遂に針路を南に変えて見えなくなって行った。

それからが大変である。何しろ30分近く動いてしまっているので、正確な機位が判らない。とに角、針路230度で徐々に高度を上げる。いつバターンと行くか分からない。

遥か水平線の彼方に、左前方陸地がかすかに見える。「鈴木中尉、陸岸が見えます」前から絶叫して来た。直ちにそれに向け少しずつではあるが高度を上げつつ飛ぶ。カタンヅァネス島らしい。高度6000。速力100ノット。相変らずのエンジンの調子。チャートを探すと「ナガ」不時着場が最も近いようだ。「ナガに不時着する」打電後それを捜すも見当らず、前方にマリンヅケ島を確認「ルセナ」に不時着の決意をして、右前方十マイル附近に「ルセナ」の街が白く見える頃、「右変針之に向う」を下命、右に旋回し出し時、エンジン停止。今度こそ絶望だった。「着陸します」前より厳然たる声「落着いて」を繰り返す。高度はグングン下る一方。速力高度を読んでやる。「高度150、速力1009590・・・高度50・・・」途端に何物か森のような塊が右翼にプチ当ったと思うと、機はザザーツと泥田に滑り込んだ。時に1045分天気も晴れて南の太陽はヂリヂリと照りつける。

騒然たる爆音がハタと止り、あたりはむし暑い田圃の中、緑の稲が50糎ばかりに伸びている。見回わすと土人の小屋が向うの方に3つばかりあるだけ、人間は1人もいない。まず拳銃発射用意をして、(操)の救出につとめる。高森少尉は全く意識を失って前席に血だらけになって突っ伏している。右手で額に触れて見ると、自分のぬるぬるした血が手にくっついて来る。左手が利かないので袖をまくって見ると、手首の所がポッキリ折れて不気味にハレ上っている。併し痛まない。何とか(操)を前席より引っぱり出してスイッチオフにする。(操)の全身を調べて見るとどうやら致命傷はないらしいが、唇は縦に裂け顔面出血がひどい。エンジンはポキリと取れて5米程前にコロがっている。すべてが夢だ。深呼吸をして不時着時の処置を冷静に考える。

先ず暗号書と地点図と水晶発振子を焼却。靴で踏みつけてしまう。ふと向うの方を見渡すと1人の土人がいる。敵性の土人だと危険なので、充分警戒して手招きすると近づいて来た。色々ジェスチャーを使って意志の疎通をして見ると、どうやら悪性ではないらしい。

彼に手を借りて、一先ず近くの小屋に高森少尉を運んだ。土人はだんだん集って10人位になり、何やらワイワイ云っている。英語を交えて話すと少しは解る。高森少尉は意識をとり戻したようだが、朦朧としているらしく「鈴木中尉々々」を繰り返している。主だった土人に「日本の兵隊はいないか」と尋ねると「ルセナ」にいるという。そこで手帳を切って「不時着救出頼む」旨記し156の少年に届けてくれるよう頼んだ。待つこと、2時間ばかり、担架と応急手当品を携えて陸軍の准尉1名他5名来てくれた。この異郷に皇軍の顔を見る、全く有り難くて涙が出た。

とに角応急手当の後、高森少尉は担架で、自分は1人の衛生兵に案内されて陸軍の宿舎に向った。途中椰子林の車の湿地帯を歩くと、附近の土人達が奇異の目を持って見ている。

棒きれを当てて包帯で左手を首に吊ってはいるが、段々骨折が痛み出す。40分位して一休み。件の衛生兵が土人に椰子の実を落させてくれた。甘い汁が咽喉に沁みて実に美味かった。その辺にいた陸軍は鉄道運営隊で、ルセナを占領していたので、駅に行き陸さんの隊長に事情報告、憲兵に飛行機の処分、本隊への報告等を依頼した。附近に海軍の部隊は全くなく、病院もないので隊長の宿舎に取り合えず落ち着くことになる。

かくして昭和191231日は「ルセナ」町内のとある洋館の2階に、高森少尉と2人痛みをこらえながら1泊、昭和20年は明けた。「今年はロクなことはあるまい」とつくづく思った。

併し何でもよい、命ある限りベストを尽し、任務を全うして行こうと考えた。陸軍の人達の好意親切に心から感謝している。別れに際し、隊長荒少佐から頂いた煙草「芙蓉」今でも忘れられない。あの人達はあれからどうなったことだろう。

元日の夕方、マニラ行きの最後の貨車に乗り、夜中にマニラ着、直ちに103海軍病院で治療して貰った。当時制空権は完全に米軍にあり、連日の空襲に人々は疲れ切っていた。患者、非戦闘員は、最後の病院船で内地へ立ち、病院はヒッソリしてしまった。米軍はいよいよリンガエン上陸との情報が入った。何とかして発進基地パンパンに帰投したのは1月7日だった。浦島太郎ではないが1週間ぶりで基地に帰って見ると様相は一変していた。

まず鈴鹿着任以来ずっと共に乗って来た最愛のペア岩井英俊上飛曹(鹿児島出身甲飛トップ)がテ連送後未帰還になったと彼の同期遠藤上飛曹(後日松山から出てグラマンに体当り、壮烈な戦死を遂げた)から聞かされた。

橋本隊長始め可動機全部台湾に行き、搭乗員と司令以下「地」の連中が、いよいよ陸戦配備につく事となり、じめじめした墜洞の中で生活することになっていた。山の中腹に掘られた洞穴の奥に身を横たえ、乗りたかった彩雲にも乗れず、今度こそ第一巻の終りかと思うと口惜し涙を禁じ得なかった。次の日の夕刻、突然搭乗員のみ総員集合の命が司令部より来た。台湾に辿り着くまで半分は殺されるかも知れぬが、最後の一人でも台湾に帰りつき、再起を図るよう訓話があった。           

この時、各航空隊から集ったクラスは小林丈士、大村哲哉、竹村 信、百瀬甚吾、藤田 昇、山崎州夫、細川 孜、川越重比古等である。我々はトラック13台に分乗して「地」の人達に尽きぬ別れを惜しみつつ軍票、米等を各自携行北方の基地エチアゲへ向け出発することとなった。気の合っていた軍医長、石井少佐に私物の秘蔵カメラを贈り、最後の握手を交した時は熱い物が込み上げてきた。その後、彼等は上陸米軍と激戦壮烈な最後を遂げられたと聞く。

その頃、雨が多く幾度か苦労を重ねてエチアゲ着、雨季で連日の低雲に閉ざされどうにもならず、さらに北方のツゲガラオ基地に辿り着いたのは1月20日だった。同基地には零戦隊の満田 茂(一号の時同分隊体操特級)と岩波欽昭が活躍中であった。1月22日高雄から飛来のダグラス便にて夜間飛行、高雄に着陸、翌日帰仁基地に行き隊員と再会、肩を叩いて無事を喜んだ。

この時、橋本隊長より土屋中尉、偵12平野 誠中尉の未帰還を知らされたのである。同基地には江口正一、正木邦雄、新保始明夫、松本昌三、コレスの木暮新八、金枝健三等が活躍していた。偵12と協力、リンガエンの敵状偵察に当っていたわけである。

紙面の都合もあることと思うので、以下は偵4のその後終戦までの動きを簡単に記す。

20年2月、偵4は343空(剣部隊と呼称、紫電改使用の遊撃戦闘機隊、司令源田実大佐)に編入され、戦闘機隊の直協誘導の任に当ることとなった。同隊における働きは、源田実著海軍航空隊始末記に出ているし、「太平洋の翼」という映画にもなった筈である。2月22日、松山基地に着陸すると百里偵学生時代の教官渋沢義也大尉(69期)が我々の分隊長として来ておられた。当時の松山基地ガンルームの面々、川端(格)、大塩、大村(哲)、小林(丈)、竹村、松島((機・飛))、小暮(機・整))、加藤((機・整))、渡邊幸、橋本、江口、小生である。3月に入り、左手も自由になり我が隊は白菊、天山、彩雲を使用、搭乗員の錬成、来襲機の迎撃に当った。渡辺廉平大尉(71期)、和田博行中尉(73期)、姫野庸中尉(73期)、小倉啓志中尉(73期)等が我々の隊に着任して来た。3月下旬の迎撃戦があった時には、小生は部下搭乗員30名ばかりと彩雲空輸を命ぜられ、愛知県岡崎基地にあった。たった一人の生き残りのクラス江口と別れたのは、空輸から帰って、4月に入った頃だった。

5月中旬、我々の隊は戦闘機隊と袂(たもと)を別ち、府瀬川のいる偵11とともに171空に編入、沖縄方面の索敵偵察に任ずることとなった。 

 6月1日付、我々のクラスは大尉に進級。6月17日、懐かしの松山をあとに鹿屋に進出、滑走路一本を使って毎日沖縄方面の偵察に当ったわけである。飛行機は敵制空下にあるため黎明発進、帰投すると直ちに掩体壕にかくし、隊員は飛行場外の谷に生活した。我々はこれを彩雲谷と呼んだ。司令部は大分の地下要塞に、攻撃隊主力は米子基地に行き、我々は171空派遣隊という名目で鹿屋にあり、ここで終戦を迎えたわけである。8月12日、完全整備の彩雲に乗り、都城上空4千米試飛行、思えばあれが飛び納めになってしまった。人の世の定めは誠に奇しきものだ。多くの惜しい若者達が亡くなった。私は辛い時、逆上せた時、何時もあの当時の純粋敬虔な気持ちを思い出す。

戦後生き残り、こうやって平凡な俗人の生活を営んでいる我々にも、何時か死の訪れる日がやって来るだろう。併しあの頃の気持は常に持ち続けたいものである。そして勇敢だった亡き友の心を心として、今後の人生を生き抜いて行きたいと思っている。

(なにわ会ニュース1014頁 昭和42年2月掲載)

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