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平成22年4月21日 校正すみ

逃    亡

阿部 克巳

昭和19年(1944年)1224日早朝、海没艦船生存士官10人を乗せたDC3輸送機は、日の出と共に始まる米軍機来襲を避けて、マニラのニコラス飛行場を飛び立って台湾に向かった。

椅子もほとんど無い機内で、私は床に転がった飛行機の予備タイヤに腰掛け、膝を抱いたまま「やっとマニラを離れた」との思いに浸ったが、すぐ「敵機を良く見張って下さいよ」というパイロットの声で現実に引き戻された。

 

 落日のマニラ

1213日夕方、油塗れのまま駆逐艦「桐」でマニラに着いてから、十日余りのマニラでの「難民」生活だった。そこには多数の沈没艦船乗員が居た。海軍では、これら海没艦の乗員、特に士官を出来るだけ多く内地に帰すよう飛行機を手配したが、その数は知れたもので、また敵の侵攻が早く、1215日にはレイテから帰る「桐」の跡を追うように、敵上陸部隊はルソン島南隣のミンドロ島に上陸、航空基地を整備し、空母機と相俟って日中マニラ上空は無数の敵機の跳梁に委ねる他無い有様で、マニラ脱出は思うに任せなかった。

私は、1212日レイテ島第9次多号作戦の帰りに、空爆で「夕月」と共に沈み、クラスの高田の乗った「桐」に助けられて13日マニラに上陸した。水交社に充てられたエルミタ地区の「デューイ」(今では「ロハス」)大通り1000番地の高層ホテル(文末注参照)には、沈没艦の士官がひしめき、飛行機の順番を待った。

ホテルの部屋には清潔なベッドはあったが、電力不足かエレベーターは動かず、湯も出なかった。

部屋からの眺めは素晴らしかったが、防波堤の内外を問わず、港を埋め尽くしたのは、夥しい数の日本軍沈没艦船だった。水深が浅く、二つに折れたり、火災で焼け(ただ)れたりした船の残(がい)が数限りなく水面に出て居た。私がマニラに初めて入港したのは、19年の6月末だったが、それから僅か半年でマニラは日本艦船の墓場と化してしまった。直ぐ近くの南()頭には、軽巡の「木曽」が半沈みのまま着底し、軍艦旗はまだ掲げられて居た。「木曽」はつい1月前の11月に、私が乗っていた30駆逐隊の「夕月」が護衛してマニラに入り、南西方面艦隊の司令部が使うと言う事でマニラに残ったが、何日も経たずに米軍機動部隊の空襲で撃沈されてしまった。敵の標的にする為にマニラに残したようなものだ。敵の平文の無線交話を聞き取ったところでは、「木曽」の厳めしい前鐘楼や三本煙突を見て米軍機編隊長は「旧式戦艦」と思い込み、攻撃を集中したそうだ。

敵のミンドロ島上陸でマニラ港は封鎖される恐れが出てきた。残存日本艦艇は15日一斉にマニラを脱出した。この日たまたま南()頭の「桐」を訪ねた私に、クラスメートの高田主計長は 「今から出港脱出する」と言う。「我々はどうなるんだ」と一瞬思ったが、まさか「俺だけでも乗せて行ってくれ」と言う訳にも行かず「世話になった。お互いに元気で頑張ろう」と言って別れたが、戦時急造丁型駆逐艦「桐」の、薄っぺらな鉄板には、猫が引っ()いた(ふすま)のように無数の敵機銃の弾痕があり、これで冬の支那海を渡れるのかと正直心配した。マニラに残るのは『地獄』だが、「桐」で逃げ出すのも「極楽」行きかどうか分からなかった。宿舎に帰ったら、澤村司令は、「『桐』には『夕月』の生き残り乗員を乗せて帰って貰いたかった」と嘆息された。

 

2 生死を分けた「マ海防」

水交社に泊まってから数日後の早朝、窓から下を見ると、マニラ湾に沿う広いデューイ大通りを、北に向かって歩く陸軍部隊の長い長い列があった。誰もが徒歩で、背(のう)、小銃、その他ありったけの装具を身に付け、蒸し暑い曇り空の下、軍服には既に汗が(にじ)んでいた。兵士たちは荷物や機関銃を満載したリヤカーを引き、誰もが目先の地面を見詰めて歩いている。(あり)のように北へ向かう隊列を見た瞬間「陸軍はマニラを放棄する積もりだな、海軍はどうするのか」と考え、不安に駆られた。

事実、陸軍の山下司令官は、レイテ決戦で傘下の有力部隊を失った現在、平野での米軍との遭遇戦やマニラでの都市防衛を諦め、ルソン北部山岳地帯への転進を決めたのだった。それにしても、私が見たのは陸軍のどんな部隊か知らないが、想像を絶する火力と物量、機動力で押して来る米軍に対抗するには、余りに前近代的な装備だ。1台の自動車も大砲も見当たらなかった。リヤカーに積んだ機関銃も、陸軍の制式ではなく、やけに長く、大きくて、海軍の25ミリか13ミリ機銃のように見えた。沈没艦船から外したのだろうか。或いは、乗船が沈められた海没部隊だったのかも知れない。

私の身柄に就いて、澤村司令から「お前は佐鎮附になった」と言われたから、順番が来次第帰国赴任しなければならない訳だが、こんな状況では何時帰れるのか勿論分からない。

それでも、僅かながら、輸送機は数日おきにやって来、澤村30隊司令、松本夕月艦長、中村軍医長、西沢機関長などは順次帰国したが、水交社の泊まり客が減ったのは、主に「マニラ海軍防衛部隊(マ海防)」に徴発された人が多い為だった。

陸軍が放棄するマニラを、海軍は単独で防衛する事にしたのだった。防衛隊の徴発が先か、飛行機の順番の来るのが先かで運命が決まった。防衛隊に行った者は、ほとんど日本に帰れなかった。

米軍のルソン島上陸を目前に控えたこんな時に、「佐鎮附」などと言っても、現地の司令部や特根(特別根拠地隊)の都合で誰でも、何時でも徴発されてしまうのだ。ある日私は、海経先輩の山崎武夫主計大尉(31期)を南西方面艦隊司令部に訪ねて挨拶した。山崎さんは、「こんな時期に日本に帰るなど間違って居る。俺が司令部に採ってやるからここに残れ」と言う。司令部で何をするのか知らないが正直のところ真っ平御免と言いたい心境だった。早々に逃げ出したが、絶望感にひしがれて、帰り道では歩く度に、脚が膝まであのロハス大通りのコンクリートの舗装の中にめり込むような気がしたものだ。あの時広いロハス大通りは、自動車は愚か人通りもほとんど無く、熱帯の太陽が照り付けるだけの死の町同然だった。現地人が居なかった訳では無い。裏通りや家の中にはおびただしい数のフィリピン人が居たのだ。彼等は飢えに苦しみ、餓死に(おびや)かされながら、日本軍の敗退と米軍の上陸、勝利は自明の事として、ある者はゲリラ活動をし、あるいは戦火におののきながら息を潜めて居たのだ。

水交社に帰ってからも、山崎さんの言った言葉が耳に残って「いよいよマニラで死なねばならないのか」と思うと、夜も寝付けなかった。しかし、一晩寝ると不思議なもので、余り気にならなくなった。矢張り、若さのせいだったのだろう。不安を(まぎ)らわす為には、仕事をするのが一番だった。艦が沈んで(しま)ったので大した仕事も無かったが、被服の受け取りなど私が立ち会わなくても良いような事でも、兵隊さんと一緒にトラックに乗って出掛けた。

山崎さんからの「徴発」はその後何も来なかった。この人は、深い考えも無く、思い付きで口にしただけなのか、分からない。南西方面艦隊司令部そのものが、どこ迄マニラ防衛に確固たる方策を持って居たのか疑問だ。私が見ても司令部のスタッフは撤退を前に混乱状態に近かったと思う(山崎さんは、司令部と共にルソン北部の山岳地帯に逃れ、終戦迄逃避した)。

日本からの輸送機は夜着き、司令部の機関参謀がリストの中から帰国搭乗者を選定し、その夜のうちに本人に通知した。指定された者は翌早朝とんぼ返りの飛行機に乗れるのだった。

私には、23日の夜9時頃「夕月」の先任将校で水雷長の西村幸雄大尉(兵71期で既にマ海防に転属して居た)経由で、「翌日払暁前のバスに乗るよう」通知があった。西村大尉は熱血漢で、何事でも自分の意見をはっきりと主張する人だったが、彼のマ海防転属を説得する31特根の陸戦参謀には、「飽くまでも駆逐艦乗りとして死にたい」と頑張り、手古()らせた。しかし最後には、「あの参謀は、ポケットマネーをはたいて、軍刀、軍服その他装備一式を買ってくれた。これ以上参謀の熱意に応じない訳には行かない」と、泣いて承諾したとの事だ。それでも、私に「明日の飛行機に乗れ」と伝える西村大尉の目には、心なしか(せん)望の色が浮かんで居た。何しろ「鉄砲を持つのが3人に1人、残りは竹(やり)牛蒡(ごぼう)剣だけ」の海没乗員を寄せ集めた陸戦隊を率いて、近代装備の米軍と戦うのだから、とてもまともな戦争にはならないだろう。

同じ71期の航海長水谷弘康大尉は、対照的で、陸戦隊に行く事が決まっても、泰然自若としていた。

私がその夜遅く最後の挨拶をして、「家族に手紙を書くなら届けます」と言うと、彼はそれを断り、「俺はここで死ぬよ」とにっこり笑った。もともと、物に動じない沈着な人だったが、自分の死をここ迄達観して居るのを見ると、お座なりな言葉は何も言えずに別れた。西村、水谷両氏とも20年2月中下旬マニラ東方陣地で戦死、GF長官の感状を授けられた。

この他に、突然の帰国で挨拶もせず心残りとなったのは「夕月」の旧部下主計兵たちだ。多号作戦での3回に(わた)る対空戦闘でも1人の死傷者も出なかったのだが、全員がマ海防に取られた。生きて日本の土を踏んだ者は有るまいと思うと言葉も出ない。

マニラ103運輸部にはクラスメートの前田正弘と1期先輩の飯澤清俊主計大尉が居たので、夜は前田の所に転がり込んで、ろくに飲めもしないウイスキーをねだり、3人で戦局の予想をしたりした。私が、「マニラ近辺は、平(たん)地で、陣地も掘れず、道路も良いから敵が上陸すれば戦車や自動車の機動力を使って、たちまちに町を制圧するだろうし、こんな所で、碌な抵抗もできず死ぬのは嫌だ」と言うと、飯澤さんは、険しい目付きで「いや、敵の戦車は肉攻(爆弾を抱えた肉迫攻撃)でやれる(破壊できる)と思う。貴様は転勤命令も出ているのだから、帰れ」と言う。私は、内心、実戦はそんなものでは無いと言いたかったのだが(事実マニラでの戦闘は私の予想通りだったが)、飯澤さんの真剣な目付きに押されて、黙ってしまった。また、ここで確実に死ぬであろう2人を前に、言はでもの悲観論を繰り返すのは気が(とが)めて、何も言えなかったのだ。クラスの前田は何も言わず黙々と飲んでいた。世話になったこの2人とも別れの言葉を交わす暇は無かった。

飯澤さんは、翌20年2月初め、マニラ東部の要地を守備する西山大隊にあって、戦車を先頭とする米軍の攻撃を、私が聞いた言葉通り、肉迫攻撃で撃退したが、度重なる敵戦車の襲撃に部隊は大損害を受け、四分五裂となってしまった。飯澤さんが、戦死したのはその後20年2月22日とされている。

飯澤さんも、第2大隊の西村、水谷両大尉も敵に包囲され、脱出出来なかったのでは無かろうか。

前田は1月初めマニラ防衛部隊と別れ、脱出部隊を率いて徒歩で北上、2月初めには漸く数百キロ離れたカガヤン河谷に達し、終戦まで言語に絶する悲惨な山岳戦を戦うことになる。彼に再会したのは50年近い後で、クラスの京都旅行の時だ。良く生き延びてくれたと思う。彼は、マニラで別れてから少しも変わって居ないように見えたのだから不思議だ。

 

 階級の下から降りろ

前置きが長くなったが、1224日まだ真っ暗な午前3時頃起きて身支度をした (と言っても、着の身、着のままの作業着―陸戦服(高田に「桐」で貰った)を着ただけだ)。10数人の乗客はバスでニコラス飛行場に向かった。ゲリラや敵機を恐れて室内灯は勿論、前照灯さえ点けなかったが、護衛兵は居なかった。真っ暗な飛行場に着き、滑走路の端に下り立ったが、驚いたのは長く続く高さ数メートルになろうかと思われる灰白色のジュラルミン層の山だった。言うまでもなく敵機の襲撃で破壊された日本機の残(がい)だ。飛行機の残骸をトラクターで押しやり、滑走路を僅かに開けて離着陸するのだ。

我々の乗るダグラス機は100米ばかりの所に居たが、静まり返って動く気配も無かった。小1時間も待ったが、そろそろ東の空が白み掛けた。「早く飛び立たねば敵の空襲が始まるが」と皆がいらいらし始めた頃、主、副操縦士の2人が現れた。見たところ2人共寝不足らしく不機嫌だった。2人は飛行機に入ったが暫くして出てきた。どこかのピンが折れたかしてエンジンが掛からないのだと言う。

「これはえらい事になった」と思った。2人は修理に掛かり、また230分が過ぎ、すっかり明るくなって(しま)った。丁度その頃やっとブルッと音を立ててエンジンが掛かった。乗客はほっとして皆飛行機に乗った。機内には椅子が2つか3つしかなく、大部分の客は床に腰を下ろすしか無かったが、そんな事はどうでもよく、これで助かったと思ったのだ。ところが、操縦席からあの操縦士が顔をだし、乗客の人数を数えて、「14人か、この飛行機は脚が引っ込まないので、(空気抵抗が大きくなり)10人しか乗せられない。4人は降りてください。マニラの司令部にはその旨伝えてあるのに、どうして14人も回して来たんだろう」

と言う。乗客は、皆「今更降りろと言われても困る」と言う顔で、誰1人として降りようとしない。そのまま暫く時間が過ぎた。

また操縦士が出てきて、ぶっきらぼうに「軍属は降りて下さい」と言った。この飛行機は「大日本航空」からの徴用機だが、誰を積み残すのか、こういう場合のマニュアルで決められて居たのかも知れない。暫くして新聞記者らしい二人が立ち上がり、「降りるんですか」と不平満々の声を出して降りていった。(彼等が不平だったのも分かる。現地司令部の方針では新聞記者などの非戦闘員は状況が許すかぎり内地に送還せよとの方針だと聞いて居たからだ。)

さて、後2人は降りねばならない。残った12人は皆士官らしいが、誰も進んで降りると言うものは居なかった。とうとうまた例の操縦士が出てきて、「早く2人降りて下さい」と苛々(いらいら)した声で叫んだ。

さてどうするかと思った時、乗客の中で最先任の、確か中佐か少佐位の人が「階級の下から降りろ」と命令した(奇妙な事だが、この人があの暑いマニラで、海軍の紺のレインコートを着込んで居たことをはっきり覚えて居る)。正直いよいよ私にお鉢が回ってきたかと観念した。当時私は主計中尉で、年から言っても21に過ぎない独り者だった。「降りる」と言って立ち上がらなければいけないと身内から突き上げる義務感と、他方で、「ここで降りたら、待ち構えるものは死だ」との生への執着との葛藤(かっとう)が全身を締め付け、脂汗が流れ、身動きが出来なかった。

機内は重苦しい沈黙に包まれて居たが、突然2人の乗客が誘い合って立ち上がった。2人は出口まで歩き、そこで揃って後ろを振り向き、姿勢を正して他の乗客に敬礼し、「我々は、兵曹長ですから、降ります」と、一語一語区切りながら、絞り出すような声で言い、降りて行った。2人とも、妻も子供も居るだろうに、どんな気持ちで死地に戻って行ったのだろうか。

身軽な独身者でありながら、躊躇(ちゅうちょ)逡巡(しゅんじゅん)したことは、「人間として」恥ずかしく今に至るまで負い目を感じる。若くて中尉になったのは、こんな局面で単に「生き延びる」為ではなかったが、「死ぬまで敵を(たお)す為に生きる」はずが、敗戦で恥を曝すことになった。これは「夕月」の部下に対しても同じだ。「彼等を見捨てて帰国した」との自責の念は、敗戦後50年経っても消えない。遠からずやって来る「死」に至るまで付きまとうのだろう。

 

 ラウレル大統領の拳銃

やっと飛び立った輸送機は、低く飛んだ。下を見ると、どこ迄も白い段々畑が連なって居ると見たのが錯覚で、マニラから直ぐ海上に出て、激しい季節風に逆らって北上したのだった。「白い段々畑」と見えたのは波頭で、あの荒れ方では不時着すれば助かる見込みは全く無かった。操縦士からは「敵機を見張るよう」注意があったものの、DC3の小さな窓から見張ることなど無理な話だ。幸い敵機に会うこともなく、そのうち緊張が解けて寝てしまった。飛行機は途中高雄で給油し、その日の午後台北に着き、乗客は皆「梅屋敷」という立派な料亭に宿泊した(台北育ちの同期の吉江によると、「梅屋敷」は台北一流の料亭で、彼の父君は仕事でここをよく利用して居た由。あの頃は水交社として使って居たらしい)。

町中を歩いた訳ではないが、途中で見た高雄飛行場の爆撃被害の惨状や、「梅屋敷」の仲居さんの言葉の端々は、戦争が破局に近付いて居ることを示して居た。例えば「台湾人には、敵の上陸が間近いと見て、米人のクリスマス用に七面鳥を飼う者が多い」などの話だ。

考えれば、我々の台北着はクリスマス・イヴだった。「梅屋敷」で私と相部屋になったのは中年の男で、髪をポマードで固め、戦場には全く似つかわしくない姿だ。名前は「中村」と言ったのか、覚えて居ない。

こちらを若造と見て気を許したのか、問わず語りにしゃべる話を聞くと、マニラの施設部のエンジニアで、「フィリピン政府のラウレル大統領とは親しく、これを同氏から貰ったのだ」と、黒光りする自動拳銃を見せられた。

一介のエンジニアが、いくら傀儡(かいらい)政権とは言え、どうしてラウレル大統領と親しいのか不思議だった。

日本に帰る訳は、「神経痛が酷く内地に転勤したいが、マニラでは許可して貰えないので本部に頼みに行く為だ」という。随分人を食った話で、こんな時にどうして厳しいスクリーニングを潜って飛行機に乗れたのか、うさん臭い男だが、施設部には、仕事の性格上いろいろな前歴、筋の者が入り込んで居るだろうし、部内の統制も海軍の戦闘部隊とは違うものかなと思った。

台北には2泊し1226日午後木枯らし吹く師走の福岡雁の巣飛行場に着き、飛行機を降り、その夜のうちに汽車で佐世保に着いた。

その後、川棚の魚雷艇訓練所(後の川棚突撃隊)に転勤となったが、終戦前の20年7月、回ってきた海軍公報を見て仰天した。

名前こそ伏せてあるが、あの「梅屋敷」で同宿した男が、逃亡犯として載って居るではないか。この海軍公報を、ここに載せる。

 

『昭和20日秘海軍公報

准士官以上逃亡被告事件調

昭和18年1月―20年5月

(昭和20年7月3日付海軍省軍務局長より各庁長あての通達に、事例として挙げられたもの)

昭和20日宣告 佐世保鎮守府

在マニラ第103海軍施設部ニ勤務中、神経痛ヲ患ヒ之ガ治療ノ為内地ニ帰還セント上司ニ願イデタルモ戦局緊迫セル為許可セラレズ 更ニ内地施設本部労務主任ニ許可ヲ得ムトシテ海軍技師中村実一卜詐称シ内地ニ帰還シ1224日ヨリ満3日間職役ヲ離ル

(氏名を伏す) 百三施設部 書記

(懲役1年6ケ月)

 

(後書き)

米軍640隻余の艦船は、20年1月7日リンガエン湾に侵攻、9日上陸を始めた。

(注) 余談だが、このホテルは、戦前「シーメンズ・クラブ」と呼んだのではなかろうか。米軍マニラ侵攻の際にも戦火に会わなかったらしい。私は戦後商社に入り、ニューカレドニアに1年余り派遣され、昭和32年帰国の途次マニラに立ち寄ったのだが、その折りに、ここに泊まった。13年前に明日の命を思い煩いながら過ごした若い日々を思いだし、無量の思いがした。戦後何時の頃からか、このホテルは「Hotel Otani Manila」の名で営業した(日本の「ホテル・ニューオータニ」とは関係は無いと聞く)。ロハス大通りを隔ててマニラ湾を望み、戦前のアメリカ大使館や米海軍司令部、米海軍倶楽部などの筋向かいに当たり、マニラの中心ルネタ公園の直ぐそばと言う絶好の地の利に恵まれて、時代遅れの古さにも拘わらず人気があったらしいが、1995年(平成7年)12月マニラを訪れた時は瓦礫が残るだけだった。聞けばごく最近火災で全焼したと言う。戦時中の思い出はまた一つ消え去った。

(なにわ会ニュース9422頁 平成18年3月掲載)

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