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72期の戦争の回顧

平成22年4月12日 校正すみ

兵72期 伊藤正敬

前書き

今年からなにわ会(兵72・機53・経33の連合同期生会)会報の編集を担当することになった。
13年 9月のある日、葉山CCで77期青木一郎君と同じ組でゴルフを楽しんでいた時、彼から先輩クラスの戦争体験について何か書いて頂けないかと頼まれた。

77期とはゴルフを通じていろいろお世話になっている。磯子CC・葉山CCで行われているアドミラル会では、萩原朝雄・佐々木英男・土屋実郎・原 在雄・高橋良和・花田幸雄・青木一郎の諸君と一緒にゴルフを楽しんでいる。また、程ケ谷CCでは久邇邦昭氏の父上久邇宮殿下寄贈の立派な優勝カップを優勝杯として争っている久邇宮杯水交ゴルフ会がある。この会では久邇邦昭・岡田義時・小林春樹・進藤純男・福島国夫の諸君と一緒にゴルフを楽しんでいる。また、千葉水交会ゴルフコンペでは60名近くの者が集まるが、その八割は76期以降の生徒クラスであり、これからの海軍の各種集いは767778期の協力なくしては成り立たなくなっていくことであろう。このように77期に親しみを持っているので、青木君に頼まれては断ることが出来ずお引き受けした次第である。

 

1 72期の生い立ち

昭和15121日、北は樺太、南は台湾まで日本全国(朝鮮を含む)から集まった659名と7T期から編入された 8名を加え667名で兵学校生活が始まった。翌16年待望の後輩73期を迎えた直後の12 8日、真珠湾攻撃で第二次世界大戦が始まった。次第に戦局が悪化して行く中、修業年限が短縮され 2 9カ月余りで卒業することになり、18 915日、625名が卒業した。

 

2 艦務実習

航空要員となる302名は直ちに霞ケ浦航空隊に赴任し、飛行学生として教育が始まった。艦艇要員は、戦艦「山城」・「伊勢」、海防艦「八雲」、軽巡洋艦「龍田」の四隻に分乗して艦務実習が始まった。艦務実習中の1014日、戦局の要請により、「八雲」を除く三隻は陸軍部隊の緊急輸送のため宇品からトラックに向うことになり、天測その他の実習を続けながら1020日無事トラックに入港した。そして、1030日トラックを出港、呉への帰途についた。114日、本土を目の前にした豊後水道入口にさしかかった時、同航中の航空母艦「隼鷹」は艦の後部に敵潜水艦の雷撃を受けて航行の自由を失い、同艦は巡洋艦「利根」に曳航されて呉に帰投した。

初めて目の前で被害を受ける現実を見て、戦争の恐ろしさを実感した。12日、実習終了後の配乗先が発表されたが、私の配乗先はなんと先日被雷して修理中の「隼鷹」であった。 15日「山城」を退艦して上京し、18日天皇陛下に拝謁、決意を新たにした。

 

3「隼鷹」に着任

20日、呉で「隼鷹」に着任したのは 7名で、上甲板士官兼副長付を命ぜられたが、修理中の艦では候補生の勉強にならないというわけか、僅か半月の12 5日付で私たち 3名は「羽黒」、他の 4名は「妙高」に転勤となった。

 

4 「羽黒」勤務の10カ月

12 9日、佐世保で「羽黒」に着任、第 4分隊士(測的士)を命ぜられた。「羽黒」はこれも修理中であったが16日完工、呉を経て陸軍部隊を搭載し29日トラックに到着した。19年の正月はトラックで迎え、 1 3日トラック発、 5日早朝カビエン着。 2時間で陸軍部隊の揚陸を完了して、最大戦速でトラックに帰った。この時、我々の警戒に来てくれた22駆逐隊が空襲に会い、「皐月」乗組の同期生「関根利彦」が戦死したが、彼が72期の戦死第 1号である。

暫く、トラックを基地として訓練に従事していたが、28日には同地にも敵機が来襲し、安全な泊地ではなくなった。 2 8日、トラックを出港、12日パラオに入港した。われわれが後にしたトラックには、 217日敵の大空襲があり、多数の艦船が被害を受けた。

3 9日パラオを出港。12日、石油豊富なボルネオのパリックパパンに入港した。その後タラカン経由17日パラオに帰投した。

315日、僅か半年で海軍少尉に進級した。25日、副長付、甲板士官、運用士、第八分隊士を命ぜられた。

328日、敵機動部隊来襲の算が大きいので急遽パラオを出港し、ダパオに入港したが、同地では訓練が出来ないので、訓練が出来てしかも石油産地に近いリンガに回航することになった。

リンガはシンガポールのすぐ南にある赤道直下の泊地で、以後10月のレイテ作戦まで聯合艦隊の訓練基地として活用きれた。やがて次の作戦に備えて 512日リンガ出撃、15日タウイタウイに進出した。27日ダパオに進出、渾作戦の為六月二日同地発、マノクワリに向ったが、 3日敵機の接触を受けビアク奇襲の見込みがなくなり、途中から引き返した。 7日再びハルマヘラに向けダパオ発、 9日バチャンに仮泊した。この時、同航の駆逐艦が潜水艦の雷撃を受け沈没、多数の生存者を救助したが、殆どの者が爆雷破裂の衝撃で内蔵をやられ、気の毒にも次々と死亡していった。戦死者の処置は甲板士官の仕事、作業員を連れて陸上に行き火葬にした記憶がある。

11日バチャン発サンハギ着。敵の比島奪還を迎撃することになった。13日夜、明日の出撃前の「酒保開け」で艦内の士気が大いに高まった夜10時過ぎ、ア号作戦が発令され直ちに出撃した。

 

5 ア号作戦に参加

「羽黒」は旗艦・空母「大鳳」の直衛として行動した。19日午前 8時頃、「大鳳」は潜水艦の攻撃を受け、右舷前部に魚雷が一本命中したが、何事も無かったように航行していた。午前11時頃「翔鶴」にも米潜水艦からの魚雷三本が命中し、同艦は午後 210分頃爆発沈没した。午後 2時半頃、至近距離を航行中の「大鳳」が突然目のくらむような大爆発を起こし、多数の乗員が海中に放り出された。この時、私は救助艇の指揮官としてカッターに乗艇して救助に当たった。この間に長官始め司令部は「大鳳」から「羽黒」に移乗、「羽黒」は機動部隊の旗艦となった。しかし、通信力の弱い巡洋艦では機動部隊の指揮に支障があり、翌19日将旗は「瑞鶴」に移された。   19日午後、敵機動部隊の大空襲を受けたが幸い「羽黒」には被害は無かった。この空襲で空母「飛鷹」は雷撃を受け、航行不能となり、空母「瑞鶴」・「隼鷹」・「千代田」、戦艦「榛名」、巡洋艦「摩耶」が直撃弾を受けたが、航行に支障は無かった。かくて、この作戦は失敗となり、22日沖縄の中城湾に入港した。翌23日同地発、26日呉に帰投した。

 

6 再びリンガへ

僅か日の在泊で、 630日陸軍部隊を搭載して、マニラ経由シンガポールに回航、同地で入渠修理、レーダーを搭載した。 731日修理完了、リンガに進出し、同地で訓練に励んだ。 915日、僅か 6カ月で海軍中尉に進級した。

 

7 「羽黒」退艦、駆逐艦「楓」へ転勤

10 1日付、駆逐艦「楓」艤装員を拝命し、 7日「羽黒」を退艦。駆逐艦に便乗してシンガポールに戻り、同地からハノイ、香港、台北経由鹿屋まで飛行機で飛び、同地から汽皐で21日横須賀の「楓」に着任した。

1031日「楓」就役。就役訓練の後、台湾方面作戦行動に参加、20 131日、駆逐艦「汐風」・「梅」とともに台湾の高雄を出撃して、比島北端のアパリに向かったが、同日午後 3時ごろ敵機の空襲を受け、「梅」は直撃を受けて沈没、「楓」は艦橋前部に敵弾があたり、一番砲が吹っ飛び艦橋は大火災となったが、乗員の懸命な消火活動により火災は鎮火した。しかし、舵取装置は故障し、人力操舵により高雄に帰投した。基隆に回航して応急修理の後、 223日無事呉に帰投した。呉で本格的修理の後、 426日から徳山南方で訓練に従事した。

6 1日、僅か 8カ月半で海軍大尉に進級した。この頃になると瀬戸内海は敵の投下した機雷のため極めて危険であり、最後の本土決戦まで兵力を温存することになり、 7 3日倉橋島の本浦で偽装することになった。陸岸に横づけし陸上からワイヤーを張り、網をかぶせ、樹木でその上を覆い、敵機の発見から隠れたのである。そして同地で 815日の終戦を迎えた。

 その後「楓」、海防艦一五〇号で復員輸送に従事した後、22 8月海防艦「屋代」艦長として、中国青島に回航して中国に引き渡した。

同年12月復員事務官を退職して、海軍と縁を切った。

 

8 七十二期の戦死者

卒業生 625名のうち復員迄の戦没者(殉職・自決・病死を含む)は 335名、死亡率54%に及んでいる。飛行関係の死亡者は 206名で64%、艦艇関係(潜水艦を除く)は79名で62%、潜水艦は28名で30%である。潜水艦の死亡率が少ないのは潜水学校の学生がまだ相当いたためである。

最初の戦死は19 1 4日、卒業後僅か 3カ月後であった。

最初の殉職は181218日飛行学生中の殉職であり、終戦までに全部で21名が殉職している。いかに航空関係の訓練が厳しかったかが分かる。

回天は13名のうち10名が戦死している。うち 1名は終戦後の拳銃自決であった。

蚊竜には12名が所属していたが、終戦後の自決 1名のみで戦死者はいない。

震洋隊には18名が所属していたが、 3名が戦死した。

伏竜には 1名、海竜には 7名いたが、何れも戦死していない、

 警備隊等陸上勤務の者は28名、そのうち 6名が戦死した。サイパンで 2名、グァムで 1名、テニアンで 1名、マニラで 1名、病死 1名となっている。

(77期会報に寄稿したもので75号(14年6月号)に掲載されている)

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