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平成22年4月16日 校正すみ

羽黒の奮戦・ソロモンからレイテまで

浅井 秋生

私は昭和十八年八月から羽黒砲術長として勤務した。羽黒は本当に良い艦であった。又幸運の艦でもあった。しかし、私が勤務して約二ヶ月後の昭和二十年五月十六日、マレー半島ぺナン島沖の海戦において勇戦奮闘のすえ悲壮なる最期を遂げたのである。生き残った私としては、どうしても羽黒の思い出を書く責任があると思う。
巡洋艦羽黒

(一)ブーゲンビル島沖の夜戦

私が赴任した頃羽黒を含む艦隊は、トラック諸島に停泊していた。当時、米軍はガダルカナル島に反撃を加え、双方死闘をくり返したが、遂に陸軍の撤退によって米軍はガダルカナル島を確保し、更に西進してソロモン方面の中枢基地ラバウルに直接間接の圧力を加えて来ていた。

そこで、昭和十八年十月始め、第五戦隊(妙高、羽黒)は、駆逐艦数隻とともにラバウルに進出することとなった。ラバウルは最前線であった。一日おきくらいには三十機ないし五十機の空襲があり、その度に彼我入り乱れての空中戦が展開され、水上艦艇も敵機に砲火を浴びせていた。

そして、わが羽黒では対空戦闘の外に、敵の優秀なレーダーに対抗する最後の手段として照明弾射撃の画期的な研究訓練がなされていた。「ガダルカナル」を確保した敵は十一月一日「ブーゲンビル」島の「トロキナ」岬に上陸した。

これは、ラバウルにとっては足を縛られるような痛手であった。ここからは毎日のように小型機が攻撃して来られる。何としてもトロキナは奪回しなければならぬ。そこで、第五戦隊と随伴の駆逐艦は先づ敵の輸送艦隊護衛艦を潰滅し、わが陸軍増援部隊をトロキナ岬近くに楊陸させるようにとの命令を受け、その方策として夜間攻撃が決定された。

十一月二日午後四時、第五戦隊と駆逐艦数隻はラバウルを出港した。目指すはいうまでもなくトロキナ岬沖である。やがて、日もトップリ暮れ、四界は暗闇となった。私は艦橋の上、艦で一番高い射撃指揮所に上った。南洋の海は静かである。艦は高速を出しているが滑るように走る。敵との距離もまだ相当あるようだし、夜ともなるといよいよ手持無沙汰である。つい前の十二糎望遠鏡に目を当てゝいるうちに、いつの間にかウトウトと居眠りを始めていた。突如!ヅシンという激震。ついで船体がピリピリッと震い上がった。

やられた!敵だ! 反射的に上半身を窓の外に乗り出して見回したが、何も見えない。艦は心持ち右に傾いた。

気分にやや余裕ができると鼻の頭がヒリヒリ痛み出した。機雷か、魚雷か、爆弾か、それとも敵の電探射撃か。さて、敵の二の矢は?・・・・・・分らぬだけに、恐ろしい不安がつのってくる。「何だろう」と隣の射手緒方中尉に尋ねてみたが「さあ」と答えるだけで、見張りの眼鏡から目をはなさない。そのうち艦橋から「只今のは敵機が爆弾を右舷中部至近距離に落したものである」と知らせて来た。畜生!と思うと同時に、この暗闇の中での敵の攻撃には感心させられた。最早やわが方の行動は敵に知られた。敵の行動は何も分っていない。眠気はいっぺんに吹飛んだ。艦はいよいよ速力を増し、夜はさらにふけていく。無気味な時が刻々と流れた。しばらくして、左前方に、パッパッパッパッ・・・・・・火玉が五つ六つ。いわゆる孤火のようなものが見えたかと思うとボーツと消えていった。何だろう?・・・・・・と考えているうちに、「バリバリバリ・・・・」という音がした。同時に白い水柱が右舷至近距離の闇の中に数本立ちのぼった。「電探射撃だ!」しかも相当正確である。孤火は次々に出ては消え、その度に水柱が上がった。距離も考えてみると二万二・三千米はあるようである。これは油断ができない。艦は避弾運動をしながら全速力で敵に向っていった。そのうち敵の数回の射撃が命中しないことが分るといくらか心に落着きが出来てきた。まず第一難関をくぐり抜けた思いであった。

両軍の距離は、互いにグングン迫った。敵の射撃はますます烈しくなる。敵弾は前後左右に落ちるが、わが方はひたすらに距離の短縮につとめた。

距離一万六千米。もう、よし!とわが方もついに火蓋を切った。しかし、これは、夜間射撃において日本海軍が夢想だにしなかった大遠距離射撃であり、また、初めての照明弾射撃であった。

まず、照明弾が発射された。発砲から弾着までは僅か三十数秒にすぎない。が、一秒一秒が無限に長い・・・・・・。自信と不安が心の中で渦をまく。やがて弾着時計員の、「用意ー 弾着」が聞え、パッと弾丸の炸裂する閃光、続いてパアーッと照明弾が開いてあたりが明るくなる。と、敵巡洋艦があざやかに照らしだされた。

思わず「よーし」と口をついて出る。嬉しさが腹の底からこみ上げてくる。「もう、負けないぞ」そう思った。いままでの不気味な思いは一瞬にしてかき消えた。そうなれば、もうこちらのもの。次々に打ち出される照明弾は提灯行列となって、敵艦列の背後上空に輝き、敵影小気味よく浮彫りにする。これで敵の電探射撃と対等に戦える。いや、それ以上だ。こちらは弾着観測が出来る。それだけ有利である。

主砲二十糎砲の射撃もすぐに始まった。これだけ視野がはっきりすれば大丈夫。弾着観測には自信がある、と思った。しかし、また思わぬ次の難関に出くわした。弾着の水柱が見えないのである。隣の射手緒方中尉に「弾着どうだ」とたずねたが、「分りません」との返事「落付け!落付け!」と自分に言い聞かせながら次々に打つが、弾着の水柱は一向に見えない。あり得ない事だ。敵の砲撃はさらに烈しさを加えてきた。この時僚艦妙高に事故があったらしく、羽黒は妙高を置き去りにしてグングン敵に迫った。

敵は羽黒に攻撃を集中しているようだ。水柱が前後左右に引っきりなしに上がる。そのうち一発が羽黒二番高角砲に命中した。パッと附近が明るくなって人の騒ぐ声がしたが暫くして消えた。もう、こうなれば早く一艦でも撃破しなければならぬ。彼我の距離は一万二千米位に縮まった。敵の艦橋や砲塔等がかなりはっきり見別けられる。新式の中型巡洋艦である。もう、夜戦の有効距離内。「是でもかー」「是でもか」と打った。

そのうち、弾着時計員の「用意・・・・弾着」」と同時に、艦首砲塔近くで、ピカッと閃光を発した。思わず「命中!」と叫んだ。隣の緒方中尉も「命中!」と喜びの大声を上げる。敵の、艦橋附近が煙とも蒸気とも分らぬ朦々としたものが立ちはじめたかと思うと艦橋から後は殆んど見えにくいまでになっていった。「後一息ー」と思っている時、羽黒は大きく変針し魚雷発射を行なった。このため敵はわが後方に見えるようになって砲戦は終りとなった。

戦いは終った。敵に与えた損害は、正確に確認することは出来なかったのが心残りであったが、戦場を離脱して安堵感が湧く、後味はあまりよくなかった。

二番高角砲では即死一名、重傷二名の尊い犠性を出していた。また、妙高は駆逐艦白露と暗中衝突し、妙高にも多少の損害はあったが、白露は遂に「ソロモン」の海に不帰の客となった。羽黒はこの衝突を知って直ちに妙高と敵の間に躍り出て、敵の砲火を一身に浴び妙高を掩護しながら奮闘したのであった。

 

(二)対空戦闘と幸運の羽黒

「ブーゲンビル」の夜戦を終って「ラバゥル」に帰港したのが翌三日午前十時頃であった。艦は、やはり右に軽く傾いていた。生死を託する艦に損傷があるということは重大事である。しかし今は、昨夜の大事件の緊張から開放されてほっとした乗員は、皆黙っている。しばらくして、昨夜の野戦で傷ついた駆逐艦が思いなしか弱々しそうな足どりで入港してくる。どうだったか?と気になるままに立ち上り、何とはなしに南方の遠い山脈に目が向いた。その時、白い雲の中、黒いゴミのようなものが点々と浮んでいる。しかも移動する。変だ!とすぐに望遠鏡に取りついた。まさしく飛行機である。突嗟に「敵飛行機!!」と叫んだ。

直ちに「対空戦闘」のラッパが鳴りわたり、艦内は今までめ静けさから一転して人の走る音、機械の音で騒々しくなる

敵機は、左へ、左へと動いて行く。かってない程の大群。羽黒は出航用意を急いだが大鑑になるとそう簡単には身動きできない。

また、港の中が狭いから港から出る順番も待たねばならぬ、前の艦が出ない内は動きがとれないのである。じりじりした気持になるが仕方がない。

敵機は次第に「ラバゥル小富士」と呼ばれる花吹山の向側に飛んで行く、延々長蛇の陣で長く長く続いている。で出港が出来そうにないと分ると、もはや腹をすえて乗るかそるか打ちまくる外はない。羽黒は戦闘準備を完了して、敵機の出方を待った。

花吹山の裏側を廻った敵機は、その北方に低く連なった陵線上スレスレに頭を出し始め、さらに超低空となって陸上施設になだれこんだ。焼夷弾投下。そしてそのままの針路で、羽黒に向ってくる。勇敢というか無謀というか。

羽黒は一斉に火蓋を切った。主砲も高角砲も機銃も、皆同時である。それ程に近い距離だった。砲声と銃声が入り乱れて何も聞こえない。敵機は爆弾を持っていないらしい。在泊中の全艦は敵機に集中攻撃を浴びせた。

それでも次から次へと突入してくる。われわれは必死だった。敵機は羽黒の百メートル位前まできては左に旋回して退避コースに向う。みな同じコースを取って行く。前方を見つめたままの搭乗員の形相がよく見える。海岸附近一帯は敵の焼夷弾の白い煙が一面を覆っている。

敵機は来ては去り、また来ては去る。まだかまだかと思うが、又も来ては同一航路を通って左に曲ってゆく。各艦も打って、打って、打ちまくる。こちらの照準も次第に正確さをます。何機目だったろう一機がボッと火を噴き出した。その火は大きく拡がったと見る間に岸に大きく傾き、そのまま海中にズボリ。続いて又一機、又一機、同じようにして落ちてゆく。右上を見ると、白い煙を長く曳きゆらゆらよろめきながら上昇して行くのが見えた。

しかし、また敵機は続いて来る。味方の砲火は天地を揺がし続ける。港内の油槽艦からは火災が起き、その赤黒い火焔は艦体を包みその煙は飛行場まで延びた。

左に回避できなかった敵機は時々羽黒直上マストすれすれに飛んで行く。死闘は数分で終った。とに角大編隊が究入して来たが、それに相当の損害を与えたことも確実である。だが、余りにも接戦であり、余りにも戦火が熾烈であった。敵も施す術がなかったのであろうし、味方も敵の機数や与えた損害を確認する暇がなかった。

湾内も平静に帰ったが、艦も陸上もしばらくは煙に包まれていた。皆ホッとした。いつもとちがって、今日は無性に嬉しさが込み上げてくる。平素の敵機に対する睨みを思う存分に晴らした思いである。

戦闘準備を復旧して下に降りると、乗員皆賑やかに、生々しい激戦のあとを誇らしげに話し合っていた。その後第五戦隊は佐世保に回航、損傷を修理することになり、翌日ラバウルを去った。そして、その代りとして第二艦隊がラバウルに入港したが、入港早々に敵機動部隊の反覆空襲を受け大損害を受けたという電報を読んだ。

佐世保に帰り入渠してみると、右舷バルジの損傷は予想以上に大きく、又敵二十糎砲弾が十発も命中していた。皆不発弾であったが思わず身振いした敵弾も数発あった。一発は弾庫の入口で止まり転がっていた。他の一発は発令所の隣りの区画で止まっていた、又他の一発は舷側水線の近くで外板を貫き内板で斜めに支えられ眠っていた。若しもこれらが爆発していたら羽黒は危険状態に陥入り、ブーゲンビルの夜戦もどうなっていたか分らない。命中弾全部が、こうして炸裂しなかったということは羽黒にとってまことに幸運であった。

修理を終った羽黒は妙高と供に昭和十八年十二月中旬、再びトラックに回航、第二艦隊に復帰した。ラバウルで損傷した艦も、内地での修理を完了して逐次トラックに集結した。

トラックは再び大艦隊の泊地として日夜の訓練が続けられた。その間にも、敵の進攻の歩みは着々と進められソロモンめの島伝いの作戦もいよいよ急速調になってきた。

こういう状態でラバウル北方のカビエンに陸軍部隊の緊急輸送を命ぜられた。折から、敵機動部隊の二、三群がカビエンの南方海面に行動中であった。機動部隊の艦載機は水上艦艇としては最も若手である。その行動圏内に行動するということは危険極まりない。出港は一月二日、昼間は敵機の攻撃圏外を行動し、夕刻を待ってカビエンに急行し同日夜半入港。直ちに乗員は全力を挙げて陸軍の揚陸を応援、徹宵の陸揚げ作業を続けたが、最後の陸兵を乗せた大発が舷側を離れる頃には一月三日の朝が訪れようとしていた。

もう敵機が来る頃である。気が気でない。空は明るくなって来た。大発はカビエンに向っている。その時カビエンの陸上で空襲警報が発令された。敵艦上機の空襲である。陸上方面に小型機が乱舞しているのが見えだした。あちらこちらで急降下爆撃をやっている。羽黒は急遽出港した。こんな大きな好餌が近くにいて敵に見つからぬ筈はない。空襲必至! 対空戦闘の覚悟をきめて全速カで港外に出た。その途端に猛烈なスコールが見え、滑り込むようにしてスコールの中に入ってしまった。そしてそのスコールは幸いにもわれわれと同じ方向に進んでいたようである。お蔭で羽黒は長い間スコール中に隠れることが出来た。まさしく文字通り天の恵みであった。

これで敵機の攻撃を受くることなく無事退避し「トラック」に帰りついたのであった。この事件があって以来、誰かがいった。「幸運の艦羽黒」という言葉が、またたくうちに乗員の合言葉のようになってしまった。

 

(三)「あ」号作戦

艦隊は 敵の機動部隊による空襲を察知してトラックからパラオヘ。さらにはボルネオのブルネイ湾に退き、次に予想される決戦に備えていた。

その頃、敵の一群はニュ−ギニアを西進し、ビアクを占拠し、わが方は大和、武蔵の外、羽黒を含む巡洋艦五隻、駆逐艦五隻、その他をもってハルマヘラ島のバチヤン泊地に集結、ビアクに奇襲攻撃を加えるべく機会をうかがっていた。

昭和十九年六月十日、敵の騒動を察知した艦隊は「あ号作戦、決戦準備」が発令され、その翌十一日朝「敵機動部隊見ゆ、グアム島の九〇度一七〇浬、一二一五」の電報が受信され、まもなくサイパン、テニヤン、ロタ、グアム島が敵艦載機の反復攻撃を受けたのである。

敵機の空襲は翌十二日も繰り返され、艦砲射撃が味方陣地に向って始められた。敵はいよいよ本格的にサイパン攻略にかかったのである。

六月十三日の「あ号作戦決戦用意」が発令され、吾々は急遽ハルマヘラを出港、機動部隊に復帰することとなり、味方機動部隊も泊地タウイタウイ島を出撃した。ここに、いよいよ日米両軍は一斉に立ち上がったのである。

六月十五日聯合艦隊長官からは遂に「あ号作戦、決戦発動」が発せられ、サイパン、テニヤンでは敵が上陸を開始した。第五戦隊妙高、羽黒は第一戦隊と共に十六日味方機動部隊に合流。

艦隊は、三群に分かれ堂々の陣をもってサイパン指して進む。しかし、十七日まで敵機動部隊の位置は発見出来ない。サイパン方面では連日の空襲と艦砲射撃が続き、味方の苦戦は目に見えるようであるが、機動部隊は近づくことが出来ない。焦燥の気持ちは深くなるばかり。

十八日午後になって、ようやく敵機動部隊の全貌が次次ともたらされたが、その日の攻撃は行われなかった。サイパン方面は敵の猛攻に一歩一歩後退した。

明くれば六月十九日、今日は早朝から敵発見の報がしきりに入ってきた。敵機動部隊の動静は次第に明らかになった。

羽黒は、空母大鳳の護衛としてその右側に、妙高は翔鶴を護衛した。午前七時、大鳳の橋上高く「Z旗」が楊げられ、大鳳は艦首を風上に向けた。そしていよいよ攻撃隊発進、一機また一機、滑り出しては飛び上がって行く。次々に飛び出す若鷲達は乗員の打ち振る帽子に見送られ、乾坤一擲の壮途につくのである。吾々も祈るような持で帽子を振った。大鳳を飛び立った飛行機は上空で編隊を組み、東に向った。その時後尾にいた一機が急に反転したとみるや機首をグンと下げて一気に羽黒の左前方百メートルの海中に突込んでしまった。アッという間もない。「どうしたのか」と思った瞬間、大鳳の中央右舷に真白い水柱が飛行甲板よりも高く立ちのぼった。

「やられた!」と直感したが、大鳳は相変らず高速で走っている。傾いてもいない様子。敵潜水艦の雷撃を喰ったのである。そして自ら海中に突入した小松咲雄兵曹長機は雷跡を認めたものの母艦に連絡する暇なく突嗟に体当りをもって母艦を救おうとしたことが確認された。

大鳳は再び何事もなかったかのように進み、羽黒はその後方を続行した。その時大鳳から伝わる空気は羽黒乗員の目に泌み、異様な臭気を感ぜられた。それでも大鳳は外見悠々と、依然二十七ノットの高速で走り、まことに頼もしい堅艦ぶりであった。わが機動部隊三百機の大群は一路敵機動部隊撃滅の夢を抱いて東へ東へと飛び去った。我々れこの壮挙に対する期待は絶対であり、祈る気持ちであった。攻撃時刻を予定し快報を予期して待ちに待った。そして、時間としては大分たったが来ない。

そのうちに、味方機が一機、二機と帰って来た。これで攻撃の様相が次第に明らかになった。

「失敗!」と自然に唸った。攻撃の状況は、こうである。敵の機動部隊はわが空襲部隊を早くから電探によって発見し、残存全戦闘機を発進させ、待ち受けていた。その中に突入した空襲部隊は、上下からの狭み打ちにあい、双方の激しい空中戦闘が展開された。

そめために目標の空母に攻撃を加えたものは僅かなものとなり敵機にも相当の損害は与えたが、味方機も大損害を受け、墜ちるもの、サイパン、テニヤンに不時着するもの、帰艦するものなど、支離滅裂の状態に陥ったのである。

こうして貴重な航空戦力は、大半を失われたのであった。泣くにも泣けない惨敗、乗員の顔にも憂いがたちこめた。そして不幸はさらに続いた。

午後二時半、大鳳が全く突如、「グオーッ」という一大音響とともに大爆発を起こした。一瞬の出来事である。その赤黒い巨大な火焔は高く天を焦がすという言葉そのままのすさまじさで吹き上げられ、飛行甲板は大きく口を開き鉄板は飴のように曲げられている。ごうごうたる火焔の合間にはズシンズシンと爆発の音が聞こえる。もはや大鳳は救助の方法がない。羽黒は、駆逐艦と共に暫くの間大鳳の周囲を警戒して廻ったがもはや船体は放棄する以外に手の施しようもなく、生存の乗員は駆逐艦に、小沢長官以下の司令部はボートによって羽黒に移乗し、羽黒の艦上には初めて中将旗が翻った。

大鳳はまだ火焔を噴き上げ、無気味な爆発は続いている。その地響きは羽黒まで伝わってくる。そのうちに大鳳は少しずつ右に傾きかけた、と思った時、まくれ上がった飛行甲板の手前に一人の士官が立って、羽黒に向って手を振っていた。それは、羽黒からの信号を了解したという意味らしかった。(羽黒からは「本艦に移乗されたレポートを送る」と発信されたのである)

暫らくして彼は、両手で羽黒に対し「ご好意を謝す、皆様の「ご健闘闘を祈る」と信号した後、右手を大きく左右に振り、終ると焼け残った甲板をコツコツと歩き出した。サモ悟り切った人のように、従容と――。

大平洋の真只中、空母大鳳の飛行甲板上、墳き上げる火焔を背景とした彼の姿は、不動明王さながらの姿であった。やがて寿命尽きたか、大鳳は傾きが少しずつ大きくなった。と、彼は、急に右を向き「気を付け」の姿勢をとり、帽子を脱いで、深く深く最敬礼をした。われわれは襟を正す思いで、声もなく、ただそれを見守った。最敬礼を終った彼は、右手に持った帽子を羽黒に向けて暫く振っていた。われわれも帽子を振った。大鳳が又右に傾いたと見る間にその傾きは次第に大きくなった。

彼は、今やこれまでと覚悟したのか、帽子を振ることを止め、両手を高く上げて万才を三唱した。次いで羽黒に向って別れの敬礼をした後、小走りに右に走り出した。

大鳳は、その時グーッと傾いたが、とたんに彼は一気にフーッと飛び上がり、そのまま海中に!

そして、その上から傾いた大鳳の巨体が大きくのしかかり、彼の姿は大鳳に覆いかぶされてしまった。こうして横倒しとなった大鳳は、彼をしっかり抱きすくめながら、ズルズルと海底に沈んでいった。

羽黒では「国の鎮め」のラッパが嚠哢と鳴りわたり、われわれは静かに沈む巨艦とその士官を見送ったのであった。

その士官とは、大鳳内務長土橋豪実大佐であったと推察されるのである。十九日の不幸は、まだそれだけではなかった。遥か左前方を航行していた空母翔鶴が午後二時頃、突然物凄い火焔を噴き上げた。敵潜水艦の魚雷四本を喰ったのである。

艦は見る見るうちに火達磨となり、やがて大きく傾いたかと思うと、逆立ちになって沈んでいった。大鳳が爆発したのは、時間的にはその三十分位後であった。

僅か一日にして搭載機多数を失い、今また虎の子の空母二隻を失つた艦隊は、全軍肅として声なき有様であったが、それでも、明日を期し、残存兵力をもって空襲を決行することとなった。

六月二十日、最後の空撃を敢行するため、早朝から索敵機が発進したが、敵機動部隊を発見することが出来ない。そうこうしている間に時間は過ぎて午後となり、味方機のあとを追って来たのか触接機が誘導したのか敵戦爆聯合の編隊が来襲した。

味方機は直ちに発進して喰い下り、各艦は敵機の進人を見定め、全力で右に左に回避運動を行いながら、全砲火をあげて集中攻撃を加えた。敵機も、果敢執拗に攻撃し、空母はいく度か爆弾の水柱にかくれ、思わずひやりとさせられ、船影が現われるとホッとした。

また、時々火災を起したが艦員の手でその都度消し止められた。敵の攻撃第一波か去って暫くするとまた第二波、彼我の攻防戦が繰りひろげられる。

この時、空母飛鷹が雷爆撃を受け航行不能となり、さらに敵潜水艦の雷撃を受け大火災となり、夜七時三十分沈没した。

この戦闘でも味方機に相当の損害があり、もはや、敵機動部隊に対する攻撃は中止せざるを得ない情況となり、恨みを呑んで中城湾に退避するに至った。サイパン島守備隊の悲報は次々に伝わってくるが、ただ見殺しに等しいものであった。今は施す術もなく、日本の前途には刻一刻危期が迫ってきた。

 

(四)捷一号作戦発動

パラオ諸鳥陥落、マリアナ諸島も遂に力尽き矢折れた形で南雲中将以下全員玉砕し、在留邦人の悲惨な最後が報ぜられた。艦隊は「あ」号作戦の損傷を修理補強して遂次マレー半島の南方りンガ泊地に集結、次の決戦に備えた。

今や次に来るものは、比島、台湾、沖縄である。そこで計画されたのが捷号作戦であった。それは、比島、台湾等の地上兵力及び航空兵力を急速に増強し、敵の来襲にあたっては比島、台湾の航空兵力を軸とし、戦艦を中心とする第二艦隊は南方から、空母を中心とする機動部隊は内地を出港して北方から敵艦隊を攻撃するというものであった。

果して、昭和十九年十月十五日、敵来襲の兆候があり、捷一号作戦警戒が発令された。第二艦隊約四十隻は出動準備を整えて待機するうちに、敵機動部隊の比島空襲が始まり、続いて十七日、比島中部東海岸のレイテ湾に敵は本格的上陸を開始した。レイテ湾上陸は全く意外で虚を突かれた形であった。

艦隊はその夜半、リンガ泊地を出港、ボルネオの北西部ブルネイ湾に向かった。十八日「捷一号作戦発動」。艦隊は、二十日ブルネイ湾に入港、燃料補給と幹部の打合会が行われ、内地からは山城、扶桑の旧式戦艦を中心とした部隊が馳せ参じ、艦隊の威容をさらに大きくした。

ここで艦隊は、レイテ湾奪回を決行すべく立上った。すなわち、第二艦隊主力は比島西方海上を通ってシブヤン海からサンベルナルジルノ海峡を通過、太平洋側からレイテ湾へ、山城、扶桑を中心に第五戦隊その他の部隊はスルー海からレイテ湾へ。那智、足柄を中心とした部隊は、コロン湾スルー海を経てレイテ湾へ向うこととなり、二十二日全艦隊ブルネイ湾を出撃、二十五日突入と予定された。

当時レイテ湾には、敵戦艦以下約三十隻あり、その機動部隊は二乃至三群が直接間接これを掩護し、比島各地を攻撃していた。

第五戦隊妙高、羽黒は、扶桑、山城等と共にレイテ湾西方から湾内に突入して一か八かの海上白兵戦を演ずることとなり、二十一日夜打合せのため幹部は旗艦山城に集合、約一時間半談笑し、祝杯を挙げて別れを告げた。しかし、これが妙高、羽黒をしてこの部隊の人達との最後の別れになろうとは神ならぬ身の知る由もなかった。

翌二十二日、出撃の日である。朝になると、われわれ第五戦隊は予定変更、北方廻りの主力部隊に編入せられ、その代りとして重巡最上が行くこととなった。

後日のことになるが、この山城、扶桑部隊はレイテ湾突入後殆ど全滅したのである。

 

(五)愛宕・武蔵などの悲劇

昭和十九年十月二十二日、第二艦隊主力はブルネイ湾を出撃した。

これがいわゆる「栗田囮艦隊」である。右側に妙高、羽黒、摩耶、大和、武蔵左側に愛宕、高雄、鳥海、長門、その後方に、さらに戦艦巡洋艦が続行し両隊の中央及び外側に駆逐艦を配した。

この行動に比島に配置された基地航空部隊が協同する。北から南下してくるわが空母が牽制部隊となり敵機動部隊を引懸ける。これがうまく運んで陸海空協同の徹底的攻撃となったら、戦局はどのように転回するだろうか。

出港は午前八時、その日は無事に終った。静かな海を威容堂々たる艦隊の航行は壮観であった。そして翌二十三日の朝「配置につけ」の号令で目を覚ました。辺りはまだうす暗い。この号令は警戒のため朝晩行われるものであった。艦隊は延々長蛇の陣を張って進んでいる。四戦隊を先頭とする左側の列はよく見えるようになったので何処まで続いているかと体を乗り出して見ようとした。その時その最先頭に立っていた愛宕の右中央部に白い水柱が高々と上がった。

「敵潜水艦! 旗艦がやられた!」と同時に羽黒は急転回。「潜水艦をよく見張れ!」と発令された。愛宕は、水柱がくずれ落ちると、はや少しずつ沈み始めた。ずるずると淘底に引込まれるように。

と、また、二番艦高雄の中央右舷に水柱が上った。「又か!」高雄もまた沈みかけた。愛宕はますます沈んでゆく。あまりにも天は非情だ。と嘆息したとたん「雷跡、左前方!雷跡五本!」「魚雷は本鑑に向ってくる−ー」と見張員が怒鳴った。折柄の当直将校はすかさず「面舵一杯!前進一杯!急げ!」を令した。五本の魚雷は羽黒めがけて驀進してくる。

羽黒は魚雷を一本、二本と、これをかわした。しかし最後の魚雷はどうしてもかわしきれない。命中必至! 機銃員はたまりかねて、魚雷めがけて機銃を打ち出した。効果のないことが分かっていても艦を守ろうとする一心だろう。私も魚雷を追って体を乗り出した。アーウーと思わず出る唸り声。その時不思議にも、その魚雷は水面航走を始めた。魚雷の速力はグッと落ちて艦尾すれすれの所を走り過ぎた。全くホッとした。幸運だった。われわれは奇蹟に会った。ところが、その奇蹟は他艦の不幸となった。すなわち後続艦摩耶は前の四本の魚雷をかわし、次の魚雷をかわそうとしたが、大艦になるとそんな軽妙な業は出来ない。遂に麻耶は不運の魚雷を後部に受けた。

艦隊は一瞬にして戦列から虎の子の重巡三隻を失うという痛手を負った。艦隊は旗艦を大和に移し予定行動を続けたが、出撃日にして第一の悲劇に見舞われたのであった。艦隊は、哀愁を含んでさらに北上し、その夜、ミンドロ海峡を通過二十四日朝比島中央にあるシブヤン海に入った。南国特有の青く晴れわたった大空、波一つない静かな海、なだらかな山々。艦隊は、ようやく生気を取りもどし、滑るようにして東に走る。

先頭の第一部隊は、旗艦大和を中心に武蔵、長門及び妙高、羽黒以下の巡洋艦に駆逐艦・・・・。

第一部隊の後方十ニキロに金剛を中心とする榛名、鈴谷、熊野、利根、筑摩、矢矧及び駆逐艦が続く。

第一群、第二群ともに輪形陣を作って進む。午前七時四十五分、東方に敵大型機を発見したが悠々反転して姿を消した。艦隊は早くも敵に発見されたのである。今日は味方航空機の掩護は望み増ない。艦隊は自力をもって応戦するより外にない。艦隊は旗艦に做って一斉に戦闘旗を掲げ、その二時間後に電探が東方に敵機を探知した。

前橋にはZ旗が掲げられ、対空戦闘の準備を整えて敵の来襲に備えた。敵機は東方に現われ、視界限度を右に進む双方音無しの構えである。敵の機数は約五十機。右に廻った敵機は太陽を背にする頃右に急転回、編隊を解いて一気に襲いかかる。艦隊各艦は砲撃を開始した。主砲続いて高角砲それに続いて機銃と間断のない砲火。その弾幕の中を敵機は急降下爆撃してくる。避弾運動で大きく右に左に変針する艦隊、爆弾によって上る水柱、爆撃に続いた低空からの雷撃。波静かなシブヤン港は、一転して壮烈な修羅場と化した。敵の攻撃は大和、武蔵を主目標としていることがわかった。われわれは、いわばおすそ分けであり、そば杖を喰った訳である。

こうして敵の攻撃第一波は、約三十分にして終った。艦隊はまた元の輪形陣におさまり東に進む。各艦共に多少の被害はあったが、外見では分らない。

十二時、敵の第二波がまたも東に現われ、右に進み、太陽を背にして編隊を解き右旋回、突込んでくる。機数はやはり五十機くらい。艦隊各艦もまた絶え間のない砲火を浴びせながら避弾運動を行なう。双方捨身の真剣勝負である。敵は一機又一機と続いて襲いかかり、エンジンを唸らせながら上昇してゆく。そのたびにあちこちで真白な水柱が艦影を覆いつくす。各艦の中に火災を起したものが出る。応急員が戦闘の合間を縫うようにして懸命の消火活動をする。

その激闘のさ中、敵雷撃機が右手の山を背景にして超低空で浸入してきた。急降下爆撃に呼応した雷撃   上空と超低空との二刀流だ。その中の数機が羽黒に突入して来た。右舷に発見した時はもはや近距離だった。機銃は一斉に集中砲火を浴びせるが、なかなか落ちない。魚雷発射!羽黒危し!

だが、羽黒の回避も巧みだった。艦橋の羅針盤を前に仁王立ちになった巨漢の航海長は大音声をはりあげた。「取舵−杯、急げ!」艦は見る見る左に廻り出した。雷撃機は無念そうに艦首をすれすれに横切って左に逃げてゆく。数本の魚雷は両舷側を挟み込んで通過した。ほんの僅かの差で魚雷をかわすことができたのである。

この戦闘でも敵の主目標は大和、武蔵であり、空襲はおよそ二十分位で終った。僚艦妙高は艦尾に魚雷を受け、左に傾き戦列から離れた。そこで第五戦隊司令部は羽黒に移乗した。

巨艦武蔵は敵の二五〇キロ爆弾を二番砲塔に受けたが傷跡さえ残さず炸裂によって徒らに附近の人員兵器を殺傷したのみであったが、右舷中部に魚雷数発命中、浸水のため高速を出し得ずとのことで少しずつ、艦隊からおくれながらついてきた。

第三波、午後一時半頃、約八十機同じように攻撃主目標は大和、武蔵である。敵が去って武蔵は遂に隊列から遅れるようになった。爆弾も魚雷も相当に命中したらしく、乾舷は中央附近まで沈んでいる。十六ノットくらいは出しているようである。ここで敵の空襲が終ったらと思う。

第四波、午後二時半頃、敵機は二群に分かれ一群は武蔵の攻撃に集中した。約三十分の激闘を終る時、武蔵は遠くに離れてしまった。しかしまだ航行を止めていない。大分沈み傾いているのが敵機の猛撃を物語っている。それにしても驚くべき巨艦である。緒戦におけるマレー沖海戦では英国の誇る最新鋭四万五千噸のプリンス・オブ・ウエルスはわが航空部隊の攻撃を受け、僅か四十五分にして沈んだ。

それにひきかえ武蔵はまだ沈まない。第五波、午後三時半頃、約百五十機の大半が武蔵に向った。武蔵には駆逐艦二隻が付き添い、コロン湾に引返し始めていた。艦隊は反転して武蔵に近づき主砲、高角砲をもって敵機に猛火を浴びせかけた。しかしもはや武蔵は回避運動すら自由でない。高角砲も機銃も殆んど鳴りを静めている。敵機のなすがままである。艦首も次第に沈み、速力も次第に落ちていく。今は武蔵を見るさえいたいたしくなった。その後、残された巨艦武蔵も遂に午後七時二十五分、幾多の乗員と共にシブヤンの底に沈んたことを暗い気持で聞いた。

 

(六)レイテ沖の海戦 空母撃沈

聯合艦隊長官からは「天裕を確信し、全軍レイテ湾に突撃せよ」の電命が下った。艦隊は東進を続け闇夜のサンベルナルジノ海峡を夜半突破、大平洋に出た。その途端に猛烈なるスコールに包まれ咫尺を弁ぜずという猛雨に見舞われた。このスコールは朝方まで続き、艦隊はその間に接敵隊形に移った。

私はその頃艦橋の上の射撃指揮所にいた。昨日の戦闘の疲れからかグッスリ眠ったらしい。篠つく雨に起こされたが暫くして雨はやんだ。深呼吸を二つ三つして外を見ると朝はきれいにあけかかっていた。艦豚はレイテに向って南へ南へと進んでいる。

このレイテこそ一昨日来、重なる苦闘と被害とをわれわれに耐えさせた最後の目的地である。今日こそは東西から挟撃して覆滅しなければならぬ。

この時、左前方水平線上に点々と何かが見える。点々は左右に拡がり細長い棒数本が現われる。漁船にしてはおかしい。近づくに従ってマストらしいことが判り、さらに飛行甲板が現われた。まぎれもなく敵航母。旗艦大和にはするすると旗?が掲げられた。

「全軍突撃せよ」今ここでは好餌敵空母に遭遇しようとは全く思いもかけぬことであった。まことに幸先のよい獲物である。艦隊は全速力をもって敵に接近した。

水上艦艇としては、今の今まで敵機動部隊は命取りの敵であったが、ここまで懐に飛び込んでしまえば、その立場は完全に逆転する。砲戦、魚雷船になると、何と言ってもこちらのものである。しかも今は、ぽっかりと出現したのである。全将兵は喜び勇み立った。その間にも彼我の距離は近づき、敵空母の甲板上からは、あわてて敵

機が発艦しようとしているが、われわれの圧迫によってその発進も思うように行っていないらしい。

まず大和が轟然と発砲した。艦隊は、積年の怨を晴らすはこの時とばかりに猛然と突撃に移った。目指すは敵の空母である。巡洋艦駆逐艦などには目もくれない。

敵空母は巡洋艦、駆逐艦に護られながら全速力で逃げてゆく。敵発見時全艦隊の先頭にあった羽黒は逃げる敵を追った。その距離は次第に縮まる。

敵空母の艦影は双眼鏡に大きく写し出され、羽黒は火蓋を切った。射撃用電探も優秀であり、敵必滅の一念が二十サンチ砲弾に凝集していた。つるべ打ちに砲弾を浴びせる。しかし、敵空母にはさしたる変化が起こらない。しかも弾着が見えない。時々命中弾らしい火花が見えるが、炸裂とか炎上とかの確実な効果が現われない。よく見ると徹甲弾が敵の戦体をスポりと突き抜けている。猛撃を受けた敵空母の船体はそれこそ蜂の巣のように破れていた。畜生!と思ううちに、敵の駆逐艦が羽黒目がけて突撃して来た。敵ながら天晴れである。空母危し、と見て身を挺して救援に来たのである。時を移さず主砲を駆逐艦に振り向けたが、主砲の二斉目にこの駆逐艦は朦々たる黒煙の中に包みこまれて姿を消した。

この頃から敵機の攻撃はげしさを加えてきた。一方敵の巡洋艦、駆逐艦は空母の一大事と盛んに打ってくる。落すなら落せ、射つなら射て、われわれの目指すものはただ空母である。しかしこの時またもや敵の巡洋艦、駆逐艦が煙幕を張って視認を妨害する。羽黒は目標を巡洋艦に向けて砲撃を開始した。こうして敵機をかわしながら敵巡洋艦を砲撃していたが――突如左舷から魚雷が走って来た。敵雷撃機が発射したのものだ。

「取舵一杯!」 辛くもこれを回避したと思った時、今度は右舷から一本の魚雷が走ってくる。近い。転舵してももはや及ばない。全身か凍る思い。

「命中必至!!」と、いつまでたっても何のことはない。「或いは!?」と反対舷を見ると、雷跡は遠ざかってゆくではないか。

助かった!魚雷は艦の中央機械室の下あたりを通り抜けたのであった。暫くして敵の空母四隻の姿が再びようやく現われてきた。この時重巡は羽黒に続く利根、鳥海。再び敵空母に対する猛撃が始まった。羽黒は敵機の来襲を左右にかわしながら、空母群の一番艦に対し寸刻の休みなく射ちまくった。しかし、前と同様、効果があらわれない。じりじりしながら「これでもか!」「これでもか!」と打つうち「ピカッ!」と大きな火花が敵空母の艦首に見えた。思わず、「命中!」と口走る。

空母は次の瞬間火焔を吹き上げ、右に傾き始めた。更に一斉射。見る見るうちに敵空母は傾きずるずると沈んでいった。これを砲塔内で聞いた砲員達は心から万歳を叫んだ。羽黒はさらに突き進んで敵空母を追った。打って、打って、打ちまくる。全員が火の玉となって砲撃した。この頃鳥海も落伍し、空母群を追うものは羽黒、利根の二艦だけとなった。

羽黒被爆

敵機の来襲は激烈だった。爆撃、雷撃を終った敵機は銃撃に来る。遂に敵機も爆弾、魚雷を使い果たしたのか殆んど銃撃を加えてくるだけとなったようである。味方もこれに対し猛烈に反撃し全艦の機銃を射ち上げる。彼我の火線は、あたかもわらぶき家の火事さながらに、火の子が縦横に馳せ飛んだ。

ここで、羽黒と利根は敵機が襲って来ても、もう回避運動を一切しないことにした。千メートルでも二千メートルでも敵空母との距離を縮め徹底的に撃滅しよう。敵機は機銃にまかせてと、一路直進する。この時、敵の一機が急降下に移った。全機銃弾が真赤な奔流となって敵機を包む。しかし、この敵機は腹からぽつりと黒いものを落した。「爆弾!」われわれは完全に虚をつかれたのである。しまった!と臍をかむうち― 前部の二番砲塔に命中― 炸裂一瞬にして砲塔の天蓋は吹っ飛び、その後には、火焔と朦々たる褐色の煙りが渦巻いた。

痛恨の焼け火箸がぐいぐいと胸につきささる。何はともあれ、火薬庫の爆発を防がねばならぬ。「ニ番砲塔弾火薬庫注水」を発令して艦長にも報告した。敵空母に対する攻撃の手は緩めることはできない。残る八門の主砲を続けざまに発射し、その激動はその度に羽黒を震わせ、耳をつんざくばかりである。

二番砲塔ヘの注水命令は下ったが、まだ誰も上甲板に現われない。注水ハンドルは上甲板にある。早く注水しなければならない。火薬が誘爆したら羽黒は轟沈だ。大艦陸奥の爆沈がフト脳裏をかすめてひやりともなる。

この時、二番砲塔の噴煙の中から一人の下士官が砲塔の後部に現われた。顔は爆発の火焔のために黒く焼けただれ、衣服はボロボロに破れている。彼はヒラリと上甲板に飛び降りた。飛び降りたものの、彼はその場に崩れてしまった。続いて又一人、同じように黒焦げの下士官が飛び降りたが、また甲板に倒れてしまった。前後にある主砲は依然打ち続けている。暫くして、初めの下士官がうごめき始め、ついでヨロヨロと立ち上り、注水弁にたどりつき懸命に廻そうとするが、どうしても廻らない。
 時々艦橋を仰いで、何か訴えている。「注水!注水!」と叫んでいるらしい。そのうちにパッタリと甲板に倒れた。続く下士官もまた、重傷の身をむちうって注水弁に這い寄った。弁を廻そうとするが、焼けただれた手に力が出る筈がない。無常にも弁はいうことをきかない。なおも力の限りに廻すうち、ただれた手の甲の肉か弁の金具に喰い付いた。ハンドルを握りかえようとするが、その手が離れない。やがて力尽きたのか、彼は弁を握ったまま、弁にかぶさるようにして倒れていった。続いて三人目の下士官が降りて来たが、彼は、そのまま動き得ないで、注水弁の方を指したまま息絶えた。激戦の最中、どうしようもなかった。しかし二番砲塔の火薬庫は爆発しなかった。この間にも懸命の処置が続けられていたのである。

爆弾よる砲塔爆発とともに、その激動で火薬庫員は全員が気絶した。次に襲った爆発ガスは火薬庫に浸入し充満してゆく。火薬庫爆発の危機は刻一刻に追った。その時、火薬庫内にあった一人が意識を取り戻した。彼は、海軍に入って一、二年にしかならない若い兵であった。見れば送薬口から火薬庫へ煙とともに火焔が吹き込んでいる。彼は愕然とした。その火焔の下には次の射撃のために準備した装薬が裸のまま置いてある。装薬には伝火薬というものがつけてある。これは引火しやすい黒色火薬で、これに火がつけば強力な装薬が一瞬に爆発する。一発でも爆発すれば、そこには何百の火薬がおいてあるのだ、忽ち誘爆、一万トンの重巡でも木っ葉微塵に粉砕される。陸奥の二の舞以上である。その危機が目前にある。何秒か、いや何分の一秒か。彼は突嗟に、送薬口の扉をピシャリと力まかせに閉めた。ついで一升びんにつめた応急用の水を、その裸の伝火薬と装薬の頭からザンブリとかけて、まず当座の安全をはかった。

これについて火薬庫にもつけられた注水弁を開き、艦底から火薬庫に水を入れ始めた。これだけの処置を的確にやった後、そこに気絶している三人を起してみたが身動きもしない。既に床を這う一酸化炭素にやられたのか心臓の鼓動は止まっていたのである。そこで彼は、念入りにいま一度火薬の状態と注水を確かめた上、火薬庫の外に出た。激戦はまだ続いている。彼はすぐさま隣の三番砲塔の火薬庫に移り、平然とそこの仕事を手伝っていたのであった。

こうして羽黒は、一発轟沈の危機を年若い一水兵の沈着、的確な行為によって救われたのである。

(注)前の砲塔の下士官といい、今この水兵といい、今もって忘れ得ぬ人々としてその名をメモに書き連ねておいたが、長い間にメモを紛失した。どうしても思い出せないのが残念であり、本当にこれらの英霊に対し申訳ないと思っている。

反転

羽黒、利根は、なおも敵空母を追って攻撃の手を緩めなかった。見ればレイテの山々が薄黒く彼方に見えている。ここで敵空母の息の根を止めねばと思う時、四番砲塔から「弾丸がなくなった」という報告。だが、この時旗艦大和から「集まれ」を命じて来たのである。とわいえ、群がる敵機を振り払い、折角空母をここまで追い込んで来たのに、空しく反転するのは残念至極である。まだ幸に、魚雷という武器が待っていた。羽黒は利根を指揮して統一魚雷戦を行い敵空母目がけて全魚雷を発射したが、何といっても追打ちの対勢である。果して魚雷は無念にも外れてしまった。

羽黒と利根は、空母に心を残しながら反転し、追撃もここに打ち切られたのである。この時味方部隊は戦艦のマストが遥かの水平線に見えるくらいの後方にいた。いまさらながら、われわれ二艦だけが敵を無二無三に追撃し、遠く飛び出していたのには少からす驚ろかされた。

スリガオ水道からレイテに突入した扶桑、山城らの部隊は、攻撃に成功してくれたであろうか。艦隊は帰路についた。この頃になると敵機の来襲も殆んどなくなった。暫く北上するうちに爆撃を喰った筑摩が動かれず停止しているのを右に見、又暫くすると、撃沈された敵空母の乗員が多数海中に泳いでいるのを見、続いて鈴谷が敵機の爆弾命中、遂に爆沈する様を目のあたりに見させられた。そして、さらに暫く北上した頃、急に機銃が火を吹き始めた。「スワ!」と上を見たが、敵機二機が左上空から急降下に入って襲いかかろうとしている。ついで三個宛の爆弾が機体から離れた。自分の真上に落ちてくる。野球だったら、このフライは確かに手に受け止めてアウトに出来ると、瞬間そう思った。奇妙なことを考えたものだが、余りの激戦を続けて恐怖に対する神経が麻痺してしまったのだろう。

目は爆弾を追っった。中部に命中?と思った時、艦が急旋回していた。爆弾は右舷ほとんどスレスレに落下し、高い水柱を吹き上げ附近にいた者はその水をかぶってびしょ濡れにさせられただけで済んだ。これも幸運だった。

艦隊はその夜九時半、再びサンベルナルジノ海峡を西に通過、二十六日夜明けには早くもシブヤン海からタプラス海峡に出た。この日敵機二回の来襲を受け、巡洋艦能代もまた沈没するに至ったが、これで艦隊は敵の空襲からようやく逃れ、コロン湾を経て再びブルネイ湾に帰投した。

さて、安全地帯に入って艦の被害調査を行ったが、勿論二番砲塔が最大で、その他に爆弾二発を受けており、機銃弾痕に至っては無慮数千といっても過言ではなく、四番砲塔などそれこそ全く蜂の巣になっていた。対空指揮所だけでも、ひしゃげた機銃弾、掃いて棄てる程に落ちていた。しかも、あれ程の奮戦にもかかわらず、二番砲塔の外はなお全力発揮可能という幸運に恵まれ、これは全艦隊中羽黒だけであった。

われわれは、ブルネイ湾に帰投したが、レイテの西方から突入した部隊はその時迄一隻も帰ってこなかった。ようようと帰りついたのは駆逐艦時雨わずか一隻、殆んど全滅だった。その部隊の戦果については全く霧の中であった。僅かに集った艦隊は寂として声なく憂愁(ゆうしゅう)に閉ざされていた。しばらくして、艦隊はわれわれを残して内地に帰港、羽黒は駆逐艦とともに大破した妙高を護衛してシンガポールに向い、ここで応急修理を行い、終っその南方のリンガ泊地に入港碇泊した。

 

(七)羽黒の最期

私は昭和二十年三月内地転勤を命ぜられ、約一年八ケ月の愛艦羽黒に名残りを惜しんで去ることになった。そしてその二ケ月後、すなわち昭和二十年五月十六日、アンダマン強行輸送作戦に従事した羽黒は、ペナン島西方海上において、英国駆逐艦四隻の包囲攻撃を受け、さらに巡洋艦の砲撃により遂に力尽き矢折れて悲壮なる最期を遂げたということであった。

思えば、羽黒は昭和四年四月二十五日、一万トン巡洋艦として誕生、当時は世界海軍の注視を集めた艦であった。大東亜戦においては幸運の艦として大平洋、印度洋、ベーリング海の各海域で勇戦奮闘を続けてきた。その武勲輝く艦も、ついに昭和二十年五月十六日、敵の集中攻撃を受け、沈没の悲運に見舞われたのである。しかも一砲一銃に減じてもなお戦いを止めず、沈没寸前まで不屈の闘志を発揮したのである。戦後、英国海軍も、このペナンに於ける羽黒の「闘魂」に対し絶讃の言葉を贈ったということである。

この事実を羽黒の英霊の前に餞として謹んで捧げる。

 (海軍兵学校56期集から)

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