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捕虜になった、ある士官の手記

左近允尚敏

 【はじめに】
 去る2月にニュージーランドのフェザストンという町のミュージアムでミチハル シンヤ著 ”Beyond Death and Dishonour”2001年刊)を求めた(余談だが22日で、約3時間後におよそ南西約400キロのクライストチャーチ市が大地震に見舞われた)

新屋徳治中尉(兵68期)は194211月、乗艦の駆逐艦・暁がガダルカナルの近くで撃沈され、米軍に救助されてフェザストンの捕虜収容所に送られた。終戦翌年の462月に帰国後、神学を学びキリスト教の牧師になった。本書によると1988年にセイブンシャという出版社から“From the Death of the Sea to Pulpit”(死の海から牧師へ)という題名で日本語版が出版されているという。「セイブンシャ」を調べたが分からなかった。

豪州のカウラにある捕虜収容所がいっぱいになったので、捕虜はニュージーランドに送られたと聞いたが、実際には早い時期にソロモンからニュージーランドに送られている。

カウラでは448月に日本人捕虜が暴動を起こし死亡231人、負傷108人、豪州兵の死亡4人が出た。20年以上前にキャンベラの仲井隆夫防衛駐在官に案内されてこの地を訪れたことがあるが、フェザストンでもカウラより1年半前に暴動が起きたことを知った。

 

1.          暁が沈没して捕虜になるまで(要約)

 

暗闇の中で右舷にガダルカナルがかすかに見えてきた。駆逐艦・暁の艦橋では緊張感がみなぎり、だれもが見張に専念している。真夜中を過ぎ19421113日になった。私はガダルカナル挺身隊の護衛に当たっている‘駆逐艦)暁の水雷長で、魚雷の準備を命じてから艦橋右舷でいつでも発射を下令できる位置にいた。昨日B17に発見されたから奇襲の望みはなくなっている。

 山本連合艦隊長官が司令部を置くトラックは南方1400キロにあるラバウルを支援できる位置にある。ラバウルを基地とする艦艇はソロモン、あるいはニューギニアのどこにでも行動でき、航空機は遠く豪州のダーウィンを爆撃できる。

連合艦隊司令部は、戦艦戦隊をもってガダルカナルの飛行場を制圧することにした。ガダルカナルの米軍を駆逐し飛行場を奪回しなければならない。飛行場を制圧すればガダルカナル、さらには長さ約800キロのソロモン諸島を制圧することができる。米軍がガダルカナルを占領すれば、ラバウルの航空基地と地域の日本軍すべてに脅威を与える。

11戦隊(阿部弘毅少将)の比叡、霧島が1112日の深夜、36サンチ砲をもってガダルカナルの飛行場を砲撃する計画で、暁はその護衛の1艦である。近藤信竹中将の第2艦の主力は空母・隼鷹と共に戦艦隊の支援に当たる。敵が警戒している場合には、前衛の駆逐艦が警報を出すことになっているが、まだ何も言ってこない。

米軍はようやく真珠湾の災厄から立ち直り、8月7日にガダルカナルに上陸した。わが海軍の設営隊は飛行場の建設を終え、まもなく航空機が進出するというときだった。私たちは、陸軍が総攻撃をやれば飛行場は奪回できると思っていた。

見張員が「何か見える・・・敵らしい」と報告して緊張はさらに高まった。その直後に電話で「敵発見」がきた。いくつか黒いシルエットが見えてきた。その1隻が突然右舷正横から急速に接近してきた。1本煙突のフネで私は新型の駆逐艦と判断した。夜は日本側に有利である。夜戦の訓練を重ねてきたし、優れた双眼鏡と酸素魚雷がある。

やりすごすべきか? 攻撃すべきか? 敵に発見されたのか? やるのか、やられるのか? 艦長が識別を命じたので、私は「敵です、まちがいなし!」と大声で報告した。右舷にはさらにいくつかの艦影が現れた。

艦長は上部の射撃指揮所にいる砲術長に砲撃を命じた。砲身が旋回し、探照灯が米駆逐艦を照射した。こちらの位置を示したことになった。

ガーン! 目がくらむ閃光が走って次の瞬間、耳を聾する轟音があり、甲板は激しく振動して私は爆風でデッキに叩きつけられた。そうか、今死ぬのか・・・。一瞬、どこか遠くに連れられて行ったような気がした。

私は何とか立ち上がった。頭がガンガン鳴り右の頬が熱い。額から流れた血が右目に入る。夢なのか現実なのか分からない。思考力を失い、動物の本能だけで動く。暗闇の中では傷の程度は分からない。すぐに死ぬのかと思った。

艦長が取舵を令したが、そばにいた操舵員の姿はない。私は舵輪を回した。空回りするので「舵利きません!」と報告した。近くの者は倒れたまま動かない。艦橋に残ったのは、艦長、隊司令((注)第6駆逐隊司令)、航海長、航海士と私だった。私の帽子と靴はなくなっている。甲板には血が流れ、私の靴下は血でぐっしょりになっている。

艦長は上の射撃指揮所を呼んだが応答がない。爆風から生じた強い酸の匂いで喉が焼ける。艦橋の機器はすべて大きく損傷した。魚雷発射の管制員もやられた。隊の軍医長も補給長も死んだ。

砲弾はおそらく右艦首にいた米駆逐艦からのもので、艦橋後部を直撃した。フネをコントロールする機能はすべて失われた。死傷者は艦橋にとどまらない。右舷機械室も被弾した。暁は針路の保持ができなくなった。

私は後部の舵取機室に向かった。死体がハッチを邪魔している。暗闇の中、狭いラッタルを降りた。半分開いたドアから通信室を見ると、数人が配置についたまま動かないでいる。戦闘中は治療室になる士官室に目をやると、負傷者でいっぱいなところにさらに負傷者が後部からやってくる。ローソクの淡い光が負傷した者、死にかけている者を照らしている。

赤い炎が1缶室から後部に向かってきた。このまま行くべきか、それとも諦めるべきか。血が目に入る。看護兵に言って包帯をしてもらった。それから夢遊病者のような足どりで艦橋に戻った。

左舷機械室にも被害があったらしく、フネはなすすべもなく漂っている。米駆逐艦が高速で横を通っていった。艦長から機械室に連絡するよう言われたので呼んだが応答はない。戦場ははるか西に移り、暁は取り残された。

浸水が進んでフネは左に傾きながら沈み始めた。傾斜は徐々に増大する。艦橋にいるのは隊司令、航海長、私だけである。艦長はどこなのか。立っていられなくなった3人はまずコンパス、次いで窓枠にしがみついた。1缶室からの炎が艦橋の後部から迫ってくる。海面がせり上がってきたので3人は海に飛び込んだ。暁は左に横倒しになり、艦首を持ち上げてから姿を消した。

フネは沈むとき泳いでいる乗員を引きずり込むと聞いていたが、突然巨大の力で海中に引きずり込まれた。どれほど引き込まれたか分からない。もがいても駄目だと思ったので成り行きに任せた。

引き込まれたとき鈍い爆発音を耳にしたが、安全装置が外れた爆雷だったかもしれない。胸が苦しくなったので、少し海水を飲むと少し元気が出て必死に水を蹴り上に向かった。突然頭が海面に出た。

まもなく乗員の頭が点々と見えてきた。互いに呼び合い筏を探した。戦場はサボ島の方に移っており、米軍の打ち上げる星弾が空を明るくしたが、まもなく暗闇と沈黙の世界になった。

私は浮いていた木材につかまった。空が白み始めた。ガダルカナル島が見えたので、日本軍がなお保持している海岸に向かって泳いだ。私の運命は一晩で大きく変わった。私は現実を把握しようと努めたが、まだ夢の中にいる気持ちだった。

バラバラになっている30人か40人の乗員は、海が静穏なことに助けられている。どれも知った顔だった。隊司令や航海長はどうなったのであろうか。フネが沈みときおそらく引き込まれたのであろう。

(注)日本名、第4次コロンバンガラ沖海戦、米国名、第1次ガダルカナルの戦い、となっているこの海戦の参加兵力と被害は次のとおり。

  日本:戦艦・比叡(中破)霧島/軽巡1/駆逐艦11(暁と夕立、沈没、2中破、2軽微

  米国:重巡2(1大破、1中破)/軽巡3(1沈没、1大破、1中破)/駆逐艦8(3沈没、2中破、1軽微)  なおスコット、キャラハン両少将が戦死。

 

乗員にはほとんど無傷の者と重傷を負った者がいる。水雷科の下士官の一人はかなり弱っていて顔面蒼白である。ようやく彼を少し大きな板に乗せ、泳ぎながら見守った。突然エンジン音が聞こえてきた。小さな上陸用舟艇が真っ直ぐに向かってくる。われわれを拾いにきたのだ。私は「気をつけないと捕虜になるぞ!と叫んだ。

日本の軍人にとって捕虜になるのは耐え難い恥辱である。われわれはちりじりになった。別の上陸用舟艇が横を通った。近かったのでアメリカの水兵の顔が見えた。波がきて海水を飲む。死んだ方がましだと思った。少し離れて乗員が拾い上げられている。

上陸用舟艇は去り、私は落ち着きを取り戻した。陸に向かって泳いでも一向に距離は詰まらない。潮で引き戻されているのか。しかし海岸は見えている。夜までにはたどり着けるかもしれない。

1万トンのオーガスタ級巡洋艦が私と海岸の間にきた。突如前部の8インチ砲が発砲したが23発でやめた。まだ交戦中なのか。巡洋艦はまもなく旋回を始めた。太陽が容赦なくわれわれの頭に照りつける。ときどき頭を海中に入れてみたが効果はない。からだは重油にまみれている。

目は海水で痛み、なかなか開けられない。耳鳴りは続き頭の傷が気になる。右手の傷口は変色している。重油を少し飲んだらしい。からだから力が抜けていく。ぼんやりした頭で前方を見ると、米巡洋艦の水上機、2機が着水した。うち1機はすぐそばだったので急いで離れる。もう1機は離水して飛び去った。頭上でエンジン音がするので見上げると1機がすぐそばにきた。機銃掃射を受けるのかと思ったが、間もなく離水して姿を消した。私の位置をだれかに知らせるにちがいない。

上陸用舟艇がやってきた。胸の動悸が激しくなり、混乱して物がぼんやりと見える。二人の水兵が手を伸ばした。私は「ノーサンキュー!」と叫んだ。しかし弱ったからだでは抵抗してもだめだった。私は引き上げられるとデッキに倒れた。暁の乗員数名がすでに拾われていた。

私は408月に兵学校を卒業、練習巡洋艦・鹿島にしばらく乗ってから重巡・那智の艦長付兼見張士、開戦当初は第20駆逐隊の天霧の航海長としてマレー、仏印、スマトラ、インド洋の作戦に従事した。第1段作戦は成功裏に終わり帰国した。次いで横須賀の水雷学校の学生になり、425月に暁に転勤したのである。

しばらくするとエンジンが止まり、フネは海岸に乗り上げた。ルンガ岬よりすっと東の海岸だった。トラックに乗せられ、鉄条網を張り巡らせた建物についた。建物は2つあって、その一つに暁の乗員10人以上が入れられた。私は立っていられなくなって倒れてしまった。衛生兵が一人ずつチェックし、傷を包帯で巻いてくれた。われわれはもはや戦士ではなく乞食か難民だった。私が捕虜になったのは1113日の正午ころであったろう。

 

2、          捕虜となって以後

   (注)要点のみ箇条書きで示す。捕虜になったことの苦痛、その時々の感想、キリスト教に傾斜していく様子などについてはおおむね省略する】

 

   10日以上経ってから貨物船に乗せられニューへブリデスに着き、仮の収容所に入れられた。先着の捕虜もいた。

   尋問されたが偽名を使い、階級は水兵だと答えた。

   45日後に輸送船に乗せられ数日後にニューカレドニアに着いた。

   決心して断食を始めたがまもなく止めた。

   2週間入院した。医官、看護婦、看護兵に囲まれている間に死のうという気持ちがなくなった。右頬の断片も取ってくれ回復した。

   1224日、患者全員が豪州赤十字社からのクリスマスプレゼントをもらった。

   退院して収容所に帰ると「ほかの暁の乗員はニュージーランドに移った、キミも移ることになる」と言われた。

   暁の乗員がいたところには暁よりあとの海戦で捕虜になった(駆逐艦)高波乗員、約20人がいた。

・ 42年の大晦日に別の収容所に移された。ここでも尋問された。となりの収容所には航空員の下士官兵が20人ほどいた。

   ようやく輸送船に乗せられてニュージーランドに向かった。

   オークランドに入港、列車でフェザストンに着いた。2箇所に分かれてテントに入れられた。収容所は建設中だった。

   捕虜は重巡・古鷹の乗員約200人、ガダルカナルの設営隊の徴用工員400人弱、艦艇乗員、航空員、陸軍を合わせ約750人だった。

(注)あるアメリカの文献によると、古鷹と駆逐艦・吹雪の乗員、計113人が捕  虜になっている。

 

   われわれの区画は古鷹の乗員が多かった。士官も7名ほどいた。もう一つの区画はガダルカナルの設営隊員だった。

   私はこれまで士官であることを隠していたが、下士官兵との関係がぎごちないものになったので、士官の部屋に入れてもらうことにして手続きをした。階級は中尉としたが、名前はカサイ マサハルにした。

   収容所では国際法によって士官は働かない、下士官兵は働くと決められているが、日本人捕虜にとって敵のために働くことに強い抵抗があり、抵抗派は穏健派と対立しつつ暴動を計画した。

   225にニュージーランド兵の1個小隊がきた。暴動が起きて捕虜122人が死傷、ニュージーランドの兵3人と士官1人が負傷した。

(注)後述するが240人以上が暴動を起こし、捕虜は31人がその場で死亡、17人が負傷後死亡、74人が負傷。ニュージーランド側は味方の跳弾により1人が死亡、6人が負傷、捕虜の投石により7人が負傷。

 

   私は現場にいなかったが、丸腰の捕虜に対するニュージーランド側の過剰な行動に強い怒りを覚えた。

   下士官兵と設営隊員の捕虜の収容所が完成し、最後に(43)6月に士官の収容所が完成して移された。このころソロモンからの、やせ衰えた陸軍の兵士20ないし30人が加わった。

   私は当初キリスト教には無関心だったが、やがて週1回の軍の牧師の説教を聞くのが最も充実した時間になった。

   444月、私はマラリアで2週間ほど入院した。

   458月、戦争が終わった。1230日に列車でウエリントンに移動、米海軍のLST2隻に分乗して日本に向かった。

   ガダルカナルに1泊、グアムに1泊、小笠原の父島に数時間寄港したのち4622日に浦賀沖に投錨、捕虜たちは故郷に帰った。

 

3.   著者あとがき(20014月)

 

研究を終えてから3年後、私は栃木県の鹿沼と宇都宮の教会で奉仕した。こうして福音を広める牧師をしての第1歩を踏み出したのである。

1980年、私は妻と娘と共にフェザストンの捕虜収容所跡に戻り、当時収容所に関係した数人のニュージーランド人と再会した。回顧すると、1943225日の事件はあったものの、当時われわれに対するニュージーランド側の扱いはとてもよかった。

戦後私は、日本人の外国人捕虜に対する扱いはよくなかったことを知った。日本人の残虐な行為について、私は捕虜とその家族に対して心から深くお詫びしたい。当時の日本人は、自分たちは優越した人種であり、捕虜になることはこの上ない恥辱だと考えていたから、外国人捕虜、あるいは個人の尊厳に、ほとんど意を払わなかったのである。

しかし私は、フェザストンでの経験とキリスト教に接したことから、人は国、人種、からだの色を超えてお互い兄弟姉妹であることを学んだ。私たちはキリストへの忠誠を通じてお互いを許し、お互いに愛し合うことができるのである。

戦争中の日本の残虐行為を許していただきたい。まだ苦痛が残っていることは承知しているが、お互いが和解することを心から望む次第である。

 

4.本書の英訳者、エリック・トンプソンの暴動についての記述(要約)

 

1942年の遅くから43年にかけてフェザストンに捕虜収容所が建設された。431月に数百人の日本人捕虜が急にニュージーランドに引き渡されたのである。さらに増えると予想されたが、その後の捕虜は米本土あるいは豪州のカワラに送られたので、フェザストンの捕虜は増えず、結果として必要以上に大きな収容所になった。捕虜の数は半数がガダルカナル設営隊の徴用工員、半数は軍人で主として海軍だった。

43225日、武装したニュージーランド兵約30人が収容所に配置され、捕虜250人かそれ以上と対峙した。2時間ほどの間にニュージーランド側は捕虜に労働隊を出すよう繰り返し要求した。

仲介にたった日本の士官のうちニシムラ大尉は兵士によって士官収容所に戻されたが、アダチ トシオ少尉(?)は兵士たちから少し離れていた。彼は穏健派とみられていたが、マルコルム中尉とにらみ合い、みんなが見守る中で「必要となれば、仲間と共に死ぬ用意がある」という意味のことを言った。

マルコルムは警告してから発砲してアダチを負傷させた。捕虜は怒り兵士たちに突進して石を投げた。15ないし30秒のうちにライフルとサブマシンガンが火を吹き(前者が約150発、後者が約70発)、捕虜31人が死に17人が致命傷を負い、約74人が負傷した。ニュージーラン側は士官1人、兵士6人が味方のタマで負傷(兵士のうちの1人はのち死亡)、捕虜の投石で士官1人、兵士7人が負傷した。

アダチは負傷から回復、後に帰国したが、呉海軍墓地にある古鷹の碑に定期的にお参りした。

 

【付】関連するビデオ“The Lost Fleet of Guadalcanal”について

 

アメリカのナショナルジオグラフィック社は、暁など彼我のフネが沈んでから50年後の19928月から9月にかけて、海底のタイタニック、ビスマルクの発見で著名な海洋学者、ドクター、バラードを長とするチームを送り、ガダルカナルのすぐ北西の海底(アイアンボトム、サウンドと呼ばれる)を探索した。新屋中尉も同じ海戦で沈んだ米軽巡アトランタのや、米軍上陸直後サボ島付近で沈んだ豪重巡キャンベラの乗員らと共に同行した。その様子が標記の106分のビデオになっている。

ここで新屋中尉は最初に米巡洋艦(アトランタ)を発見したと語っており、前記1.の説明とやや異なる。ビンセンと・オハラ“The U.S. Navy Against AXIS”には「阿部は比叡に照射を命じた。暁と長良も点灯した。・・・(駆逐艦)ラフィは右舷の目標を追っていたが、左舷の暁に変えた。・・・アメリカの各艦は次の目標を攻撃した。アトランタは比叡と暁、サンフランシスコは・・・」とある。

このビデオで新屋中尉はアメリカの舟艇が近づいたとき「ノーサンキュー」と言ったが、結局引き上げられたと語っており、本書の記述と同じである。海底の映像で出てくるのは米重巡クインシー(194289日沈没)、豪重巡キャンベラ(同)、米軽巡アトランタ(1113日)。

このあと日本の駆逐艦で「あ」の文字が見えるが、新屋中尉は暁(1113日)か綾波(1114日)か判定できないと言っている。最後は転覆した霧島の巨大な推進器で、ドクター、バラードの説明によると、裏返しになっている大きなフネはきわめて珍しいとのことである。

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