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平成22年4月23日 校正すみ

第二艦隊及び東支那海

輸送船団洋上慰霊の旅

池田 武邦

慰霊祭時の池田武邦 左池田武邦 

四月三日、大型客船「ふじ丸」(総トン数約二万四千トン)は呉川原石桟橋を午前八時に出港、第二艦隊が六十一年前、最後の給油を行った徳山港に午後三時に入港し、参加者全員が乗船した。午後四時結団式を行い、軍艦旗を掲揚し、暮れなずむ瀬戸内海へと出港した。

船内メインホールには祭壇がしつらえてあり、戦没者(三七二一名)の氏名が所属艦名ごとに広い壁面一杯に楷書で掲げられていた。団長挨拶、遺族代表挨拶のあと、第二艦隊と富山丸(敵潜水艦の攻撃により昭和十九年六月二十九日徳之島沖で被雷沈没し、陸兵三七〇三名が戦死)の合同慰霊祭が行われ、団長が慰霊の祭文を奏上した。

 

四月四日午前、沖縄特攻生還者も含めて講話(当時の出撃から戦闘状況、艦内生活などの貴重な体験談)が行われた。

各艦の追悼式は、午後から、駆逐艦朝霜、巡洋艦矢矧、駆逐艦霞、駆逐艦濱風、駆逐艦磯風、戦艦大和の順に行われた。僧侶読経の中、花束や故人の好物を海面に撒く、英霊あての通信文をしたためて海面に投下した。天候は雲低く曇り、小雨時々晴の変化に富む、戦闘当日の天候と同じような気象条件であった。遺族は肉親に届けとばかり声を張り上げていた。

四月五日は午前六時から船内デッキで富山丸の追悼式が行われた。しかし。低気圧は活発で海面は風波が強く、船長は何度か徳の島への接岸の機会をうかがったが遂に断念し、洋上から富山丸慰霊碑(なごみの岬)と第二艦隊慰霊碑(犬田布岬)を遥拝することになった。犬田布岬には天幕が張られ、地元の方々による慰霊祭が望見できた。佐世保地方隊DE型護衛艦三隻、鹿屋航空基地からP―3C対潜哨戒機一機がそれぞれ参加していた。

 

四月六日、天気は快晴となり鹿児島港入港、当時特攻機が飛び立った鹿屋航空基地の史料館を見学し、枕崎市で宿泊した。

 

四月七日は英霊にとって祥月命日となるが、火之神公園で例年どおりの第二艦隊追悼式に参加した。晴天のもと、枕崎市商工会議所や婦人会の方々、さらに佐世保地方隊の掃海艇二隻の支援があり、大和最後の爆発時。沖天に達する煙が望めた高台には慰霊のラッパや音楽隊の奏でる軍歌鳴り響き、生存者、遺族ともども一層感銘を深くした。

 

慰 霊 祭 祭 文

池田 武邦

謹んで過ぐる昭和二十年四月七日に沖縄海上特攻作戦に参加され、祖国の為に生命を捧げられた第二艦隊司令長官故伊藤整一大将以下三千七百二十一柱、並に富山丸三千七百三柱を始め、東支那海方面で敵潜水艦或いは敵航空機により撃沈され尊い生命を捧げられた数多くの御霊の御前に申し上げます。

  今を去る六十一年前、三年余に及ぶ太平洋戦争死闘の果て、最後に残った日本海軍歴戦の精鋭艦第二艦隊旗艦「大和」、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」及びその麾下の第四十一駆逐隊「冬月」「涼月」、第十七駆逐隊「磯風」「濱風」「雪風」、第二十一駆逐隊「朝霜」「初霜」「霞」の十隻は、世界海戦史上空前絶後といわれる「海上特攻艦隊」を編成し沖縄の戦場に向かって徳山沖を抜錨、出撃の途につきました。

時は昭和二十年四月六日午後三時二十分、満開の桜が瀬戸内の島々や陸の野山に咲き乱れていました。

  当時沖縄方面に於いて我が特攻艦隊を待ち構えていた敵艦隊は、戦艦二十隻・空母十九隻・巡洋艦駆逐艦など合わせて実に百五十余隻。加うるに戦闘の主力をなす航空機は千数百機を数え、我が軍の十数倍の戦力を備えていました。

  日本に比べ、工業生産力とそれを支える資源を二十倍以上有するアメリカを始めとする連合国を相手に緒戦は日本軍が優位に戦を進めていましたが、やがて資源と工業生産力との絶大な差が総合戦力の差となって現れてくる近代戦の特色は時が経つと共に顕著となり、如何に精鋭を誇る日本海軍と雖も一度失った戦力の補給が続かないのに対して、潤沢な補給を無限に続ける敵との三年余の死闘の果ての戦力差は絶望的な状況になっていました。生還を期さない特攻艦隊と名付けられたのは以上のような戦況下にあったからに他なりません。

  徳山沖を出てから対潜警戒を厳にしつつ豊後水道を南下する艦隊は、夜九時頃暗黒の海面に敵潜水艦を発見、敵の発する電波を傍受。息詰まる緊張の中無事水道を通過。翌未明日向灘を経て大隈海峡を通過する頃、上空を味方零戦隊が護衛してくれました。然し丁度その頃、六時五十七分「矢矧」の左舷後方に占位していた「朝霜」が「ワレ機関故障」の旗旒(きりゅう)信号を揚げ次第に取り残され始めました。「矢矧」艦上の古村司令官は「朝霜」に「鹿児島湾に回航せよ」と信号で命じましたが、「朝霜」から「ワレ十二ノット可能、本隊ニ続ク」の返信がありました。然し「朝霜」は次第に後方霧の中に消えつつありました。「矢矧」艦橋に異様な沈黙が漂ったことを鮮明に思い出します。

午前十時ごろ、上空直衛の零戦隊が引き上げて間もなく、敵PBM飛行艇二機が艦隊に接触を始め、敵本隊に作戦緊急電を発信。「大和」は直ちに妨害電波を出すと共に副砲と高角砲で砲撃しましたが、敵機は尚射程外で接触を続けていました。

 十一時七分、「大和」の電探が敵航空機の大編隊を探知。同十四分、低く垂れ込めた雲間にF6F六機を発見。「大和」は旗旒信号で全軍に空襲警報を発令。速力を二十四ノットに増速。この時から「大和」沈没まで度重なる波状攻撃の下、延べ三百五十機と約三時間余に渉る激戦が繰り広げられました。

 十二時十分、「朝霜」から「ワレ敵機ト交戦中」に続き、同三十一分、「九十度方向ニ敵機三十機ヲ探知ス」の発信を最後に消息を絶ちました。遥か後方水平線の上空に敵航空機に対し戦っている対空砲火の火煙のみが「矢矧」艦橋からも望見できました。「矢矧」も上空から襲ってくる敵に手一杯で如何ともし難く、只「朝霜」の武運を祈るのみでした。

 十二時四十八分、「濱風」は度重なる雷爆撃をかわし乍らもついに艦尾に直撃弾を受け、航行不能に陥ったところに、右舷に魚雷を受け艦体切断により沈没。「矢矧」も度重なる雷爆撃を次々とかわし勇戦奮闘していましたが、十三時三十分頃遂に機械室に直撃弾を受け航行不能に陥りました。回避運動が出来なくなった後は次々と被弾、直撃弾十一発・魚雷七本を受け遂に十四時五分沈没。

 不沈艦といわれた「大和」も「矢矧」沈没後十八分、十四時二十三分、大傾斜して艦底が露出した後、弾火薬庫が爆発し黒煙を天に沖して沈没しました。

 それぞれの艦が沈没した後、僅かに残された生存者の多くは負傷したまま重油が厚く浮く海面に漂流を余儀なくされていました。その海面に向かって、全く無抵抗の漂流者めがけ勝ち誇った敵航空機は、その操縦者の顔が見えるほど海面すれすれに機銃掃射を反復繰り返し、多くの漂流者が犠牲となりました。

 「大和」沈没から約二時間余の後、十六時三十九分、聯合艦隊司令長官から残存艦の指揮官宛に「作戦中止と生存者救助の上佐世保に帰投すべし」の電令が発せられ、残った「冬月」「雪風」「初霜」の三隻が漂流している生存者を救助しました。その間「霞」は直撃弾及び至近弾により缶室全部が浸水し、敵機が去った後生存者は「冬月」に移乗し、十六時五十七分、「冬月」の魚雷で処分沈没しました。

 「磯風」は至近弾により機械室が満水、航行不能に陥り「雪風」に生存者を移載の上、二十二時四十分、砲撃処分されました。全員を収容し佐世保港に向かったのは日没後大分経ってからでした。「涼月」は沈没を免れましたが、艦首を大破し前進することは出来ず、後進のみで「冬月」「雪風」「初霜」よりずっと遅れ、八日遅く佐世保港にたどり着くことができました。

此の戦闘で戦死した英霊は、「大和」は伊藤司令長官・有賀艦長以下乗員の八割に及ぶ二千七百四十柱。「矢矧」は内野副長以下乗員の六割強の四百四十六柱。「朝霜」は小滝司令・杉原艦長以下全員三百二十六柱。他「濱風」百柱、「磯風」二十柱、「霞」十七柱、「冬月」十二柱、「雪風」三柱、計三千七百二十一柱の尊い生命が祖国に捧げられました。

 本来日本の国を護ることを使命とした日本海軍は、死力を尽くして戦ったにも拘わらず、以上第二艦隊の死闘に見る通り全滅の運命にあり、多くの非戦闘員を輸送する船舶がこの東支那海に沈められ、大きな犠牲を余儀なくされました。此の事は嘗て海軍軍人として戦いに臨んだ一人として、生涯消えることなく心の底に深い痛みとして残っております。

それから六十年余、多くの御霊が最後まで心残りであったご両親や奥様、お子様や兄弟姉妹等々も皆年をとられ、中には既に他界された方も少なくない年月を経てしまいました。然し私達残された者の心の中に、御霊は当時の姿のまま生き続けておられます。その御霊が静かに眠っておられるその海上で慰霊申し上げることは、ご遺族を始め私共残された者の心からの願いでありました。御霊が自らの生命に替えて護ろうとされた祖国への思い、亦、何ら対抗する手立てもないまま犠牲になられた無念の想いを私共は決して忘れることは出来ません。

  祖国の繁栄と世界の真の平和の為に御霊のご遺志を無にしないことを誓い、ご参列の方々と共に心からご冥福をお祈り申し上げます。どうか安らかにお眠り下さい。 合掌

平成十八年四月三日

  第二艦隊及び東支那海輸送船団洋上慰霊団団長 元軍艦矢矧乗組 池田武邦

(なにわ会ニュース95号74頁 平成18年9月から掲載)

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