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海軍兵学校と私

西尾 博

私が海軍兵学枚に入校したのは皇紀、二六〇〇年といわれた年、昭和十五年十二月一日でした。第七十二期です。

兼六園の成専閣の中にあった梅桜会というところで受験勉強をしましたが海軍人事部長の釣谷中佐が熱心に指導をされていました。

世界の情勢は風雲急で、いつでしたかみんなで釣谷中佐に「日米戦争は起るのですか」と聞いたことがあります。中佐は「必ず起る。だが諸君が兵学校を卒業するころまでに

は終わっているよ」といわれたものです。

「カイヘイゴウカク」の電報が来て、十一月二十五日に江田島に着きました。入校までの数日間は体力測定と軍医の検診がありましたが、採用予定者六八〇人のうちニ○人もが不合格となって帰国しました。

十二月一日、入校式が終って、四十八の分隊に十数人ずつ配置になりましたが、まず、どぎもを抜かれたのが、姓名申告という自己紹介。「声が小さい!きこえん!やりなおせ!」。

みんなどんなに大きな声でやってもどなりかえされ腰が震えてしまう。スマートな海軍兵学枚のお兄さんとのイメージはこれで一辺に吹っ飛んでしまいました。

この鬼のような最上級生が一号生徒といわれる第六十九機生徒、私達は四号生徒といいます。兵学校ではこの一号生徒が絶対的権力をもっていて、二号、三号、特に四号を鍛えるのです。細かく日常の躾まで徹底的に江田島精神をたたきこんでくれます。

昭和十六年十二月、遂に日米戦争が始まり私共は修業期間を三年に短縮されました。天下に一号生活を十ヶ月で終えて十八年九月、軍鹿マーチとロングサインで兵学校の表桟橋を出発したのです。

卒業六二五人。このうち三〇八人が飛行機に進みました。

私は水上機操縦として鹿島海軍航空隊に入りました。二座水偵八人、三座水偵八人。私は二座水偵です。

「業くわしからざれば、胆大ならず」ここでの飛行学生生活十カ月の間に、零式観測機などで三〇〇時間を超える名人教育を受け、完璧なまで腕を磨いたと思っています。

十九年七月飛行学生卒業。呉海軍航空隊へ転勤、ここで水上戦闘機「強風」に乗ることになりました。9月海軍中尉。

 

 七十二期の飛行機乗りはこのへんから戦死が出はじめます。台湾上空、フィリピン、沖縄と続くのです。飛行轢三〇八人のうち、戦死は一九五人。とくに戦闘機の一五〇人は一

〇〇人以上が戦死しました。

 十九年十一月呉空にも特攻隊の募集があり私も志願しました。その直後から呉空搭乗員の転入転出が頻繁となり、二十年に入るとB29の空爆を受ける都市が全国にひろがり、また特攻隊もさかんに出てゆくようになりました。

 三月十九日、呉空は敵艦載機の攻撃を受け私の強風も水に下りないうちに後方から銃撃されて発進が問にあわず、全くくやしい思いをしました。松山の紫電隊が活躍しました。

 特攻隊への転勤がないまま、翌三月二十日に名古星の明治基地にある第二一〇海軍航空隊へ転勤となり、念願の零戦搭乗員になりました。

 名古屋は毎晩B29の猛爆を受け、真赤な夜空の日が続いていました。私が着任してすぐ二一〇空飛行機隊は戦闘機五〇、爆撃機五〇、攻撃機五〇、偵察機二〇機が鹿屋国府に進出、私は第二次進出隊に編入され四月十日出撃と決まりました。連日の猛訓練に入りましたが、突如九日になって進出延期の命が下りました。

 第一次進出隊が旬日にして壊滅してしまったためで、第二次進出は訓練やりなおしのうえとなったのです。二一〇空は錬成部隊に指定され、第一次進出部隊の生き残りも汽車で

帰ってきました。

 各地から搭乗員の着任が頻りとなり、新造零戦が続々空輸されてきて、猛訓練がはじまりました。一騎当千のパイロットが集まったと思います。全国で特攻隊の募集がありまし

たが、二一〇空は志願しないことになりました。一回で死ぬわけにはいかない。何回でも何回でも戦って生き残れというのです。

 六月一日任海軍大尉。われわれにはもう転勤はないらしい。身の回りの品はすべて家へ送り返し、軍服もシャツも靴も現地借用品でまかなうこととなり、小さなバック一つになって渡り鳥のようにいつでもどこへでも飛んでゆける態勢をとりました。壕に草をかぶせた三角兵舎に分散居住、連日連夜敵の来襲が絶えない。一々遊撃に上る燃料はない。決号作戦が八月に発令されるという。

 こうして、われわれは本土決戦のための温存部隊となったまま終戦を迎えました。

 七十二期の戦死は三三五人。戦死率54%で人数では各期中最高ですが、戦死率では六十八期と七十期が66%を超えています。

 兵学校時代に「海軍生活の殆んど大部分は準備である」と教えられましたが、海軍生活の「全部」を準備だけで終ってしまった私は亡き友やそのご遺族に何といったらよいのでしょうか。遠洋航海で世界を見てきた諸先輩たちが、どんな思いでこの戦争を戦ったか。

釣谷中佐が言われたように日米戦争を短期間で終らすことができなかったことは痛恨のきわみです。

 終戦時の兵学校在校生は明治二年からの全卒業生よりも多い一万四千人、この人たちが海軍精神を堅持して、戦後の日本再建に貢献されました。そして古きよき海軍の伝統と遺産は、いま海上自衛隊によって受け継がれています。世界に明るい、小さな大海軍になってほしいと思います。

(なにわ会ニュース第78号17頁  平成10年3月)

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