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腰抜け武勇伝

―或る出撃の想出

泉 五郎

 その日の朝は殊に印象的であった。私はなお、明けやらぬ軍港の朝靄を衝いて帰艦の途を急いだ。

 時は昭和20 416日、敗色は日に日に濃く、三軍の士気地に墜ちて、日本の前途は暗澹の一語に尽きる秋であった。

 私は踏みしめて歩く大地に限りない名残を覚えた。或はもう二度と踏む事も出来なくなるかも知れないと思うと、殊更に、一歩一歩にしみじみとした愛惜の情が湧く。

やがて工廠内の或る岸壁に横付け中の艦に帰りついた頃、天地の間を朱に染めて赤々と横須賀軍港の夜が明け放たれた。どうかすると朝靄自体が赤いのではないかと思われる位であった。或は前夜の酒にまだ私の眼の玉が赤く染って居たのかも知れない。

 その日、私の乗組む伊号第369号潜水艦が晴の出撃を迎へる予定であった。しかも、偶然にも私の第22回目の誕生日でもあった。私は自分の誕生日に出撃する奇縁に武運の長久を信じた。そして自分の士気を振い興した。

 出撃等というものは、殊にそれが戦局非なる時は尚更に有難いものではない。死が否応なしに対決を迫る。恐らく何回経験しても同じ事であったろう。

或は此の憶病たれ、何を抜かすとおっしゃる方があるかも知れない。また、護国の鬼と散った幾多英霊諸兄には誠に申し訳ないが、正直な所、我々が満身これ胆、尽忠報国の赤き血潮に満ち満ちて居ると自負して居た時分でも、実は心の奥隅の何処かに死を厭う気持はひそんで居たのではなかろうか。勿論「痩我慢と云う名の我慢」が流行して居た時分であるから、誰もこんな事は?(おくび)にも出さなかったが、今振り返って見るとあの時分は死と云うものを考えまい、考えまいとした時分ではなかろうか。考える事はおじけ付く事であった。考えない為には何でも威勢よくやっつけるに限る。我輩等はその空元気、痩我慢の見本見たいなものであった。

だから、その時も恰好だけは一応尤もらしく、至極勇ましいものであったに違いない。事、出撃とあらば、恐らく白鉢巻も凛々しく、一金70円か80円也の海軍刀をむんずと引掴んで艦橋に仁王立ちぐらいはして居たろう。もっとも、我輩が仁王立ち等と言うと本物の仁王がクシャミするかも知れんがまあ勘弁して貰おう。

 やがて刻々出撃の機は近付いて来た。出港用意の令が下されるのも間近に迫った一瞬である。遥か岸壁の彼方から「オーイ オーイ」と自転車を飛ばして来る親爺がある。よくよく見れば我が親愛なる下宿の親爺こと横須賀にその人ありと知られたる松岡先生御自らの御出ましではないか。我が親愛なる下宿の親爺等と言ったらそれこそ奴鳴られるかも知れんが、これがまた、大した下宿で、御存知の方もあろうが、先生は横須賀でも甚だ有名なその方の名医であった。我々と言っても私と石津 滋君とであるが、この二人の野人が下宿と称してただ呑み、ただ食い、ただ寝、看護婦を自分の家の女中位にこき使ってビタ一文払はかったのだから恐れ入る。それ所か、二六時中、先生と同行して「パイン」に出掛け、或は先生の酒席に(ちん)入してはその懐をあて込んで大酒を喰って居たのだから、今考えても誠に以て汗顔の至りである。尤も予めことわっておくが、我々はシックになって先生の御厄介になった事はない。その先生が何やら片手にかざし乍ら「オーイ、五郎は居るか」と奴鳴って居るのである。

何事かあらんと思って飛び出した小生に手渡されたものは、何とその当時は誠に貴重品とされていた2,3冊のヘルブックであった。先生が心を込めた出撃への餞別である。

出撃の銭別にヘルプック、誠に心憎い程情愛のこもった男らしい贈物ではないか。それも矍鑠(かくしゃく)壮者を凌ぐとはいえ、既に六十になんなんとする先生が、どこでどう知ったか我輩の出撃に間に合せようとして小一里の道を自転車で、しかも海軍工廠の正門を突破してやって来て呉れたのである。

 斯くして我出撃のマスコットとしては此の数冊のヘルプックと彼女が作って呉れたいと華やか枕とであった。私の膝枕代りにという意味でもあるまいが、此の枕の話はちと色気があり過ぎるのでやめておこう。

 さて愈々「出港用意」の令一下、船は出て行く未練は残る。そこで亦痩我慢である。未練がましい素振りは兵科将校の面目にかけても出来ない。士稼業またつらい哉である。

松岡先生や石津 滋君に見送られ、打振る帽子の波に揺れる艦艇の間を縫って我が伊369潜は堂々の出撃。港口迄は六艦隊だか、横鎮だか忘れてしまったが、要するにお偉方の乗って居る内火艇や水雷艇に送られ、それから先は神だのみと云う事に相成った。

 斯く申す我が堂々の出撃なるものは地獄島メレヨンへの輸送作戦、メレヨン等と言っても忘れてしまった御仁が多かろうが、大体トラックとヤップの中間に位置する小さな環礁である。陸海数千の兵力を擁するものの今や全く戦闘力なき航空基地であったが、ウルシー偵察機の不時着場として此の島を見殺す訳にはいかなかった。そしてその前にトラックにも立寄りメレヨンの状況確認傍々同島にも若干の物資を輸送しようというのであった。

 作戦方針は「見敵必遁」の四字あるのみ。出撃等と口幅ったい事等言えた義理ではないが、我に与へられたるものは水(とん)の術と大砲一挺、機銃一式、哀れ、はかなくも発射管は門扉を熔接、魚雷の代りに食糧をつめ込んで、絶えて補給の途なき友軍救援に赴こうというものであった。

 昼過ぎ、館山湾に投錨仮泊、夕刻迄待機する事になった。薄暮に乗じて敵潜の眼をごまかし東京湾口を脱出せんとの作戦である。自分の国のしかも首都の出口を出るのに脱出と言わねばならぬとは誠に情無い話乍ら、事程左様に我が制海制空権が衰退して居たのである。

 さてその時、館山湾上に艦長が総員を集めて合唱された歌は「鳴呼堂々の輸送船」とか何とか云う奴である。「何とか妻や子が千切れる程に振った旗、今も想えば眼がにじむ」とかいう歌詞の流行歌である。

ああ あ

 あの哀調を帯びたメロディ、私はとてもじゃないが軍歌の様に歌う気持にはなれなかった。昂然たる勇気あふれて居たからではない。

余りにも自分の気持にぴったりして居たからである。

当時先任将校であった私が変な顔して音頭取るのをしぶったので、艦長は自ら音頭をとって歌わせた。大の男が潜水艦のチャチな木甲板を踏み鳴して「暁に祈る」を唄う光景はどう見ても戦争の末期的症状であった。

私は内心艦長のセンチメンクリズムに苦笑し当惑した。人間というものは己のセンチを痩我慢でカモフアジユして居る時、他人の赤裸々なおセンチ振を見せつけられると余りいい気持はしないものらしい。

然し、此の事は決して艦長の怯儒(きょうじゅ)をあらわすものではない。むしろ余りにも人間的である事を示すのみである。

さて、その夕刻、我々は予定通り宵闇にまぎれてまんまと東京湾口の危険水域を脱出した。我が進路は90度、左舷遥か後方に明滅する野島崎の灯台を見送った頃には、四月とはいえまだ肌寒い潮風が身にしみて、とっぷりと暮れて黒潮の上には陰々たる静寂が訪れて来た。見えるものは夜光虫に光る航跡、時折噴き出す排気の白煙、聞えるものはただ我がエンジンのかすかな響きのみである。

 やがて艦内配備は哨戒直に切り換えられた。私はものも言わずにベッドにもぐり込んだ。前夜の睡眠不足をとり戻す為である。

 然し、矢張り出撃の第一夜は夢まどろかではない。想い出すのはインチの事ばかりである。鳴呼もう二度とインチとも相逢う事が出来ないかも知れない。生を享けて20有余年、純潔の身を国に捧げるのは悔ないとしても、二度と再び彼女に相見え得ざるかと思うと如何としても切ない気持である。

それでも国家興亡の大戦さ中、何故に斯くも匹夫の恋に身を焦がさねばならないのかと、内心忸怩(じくじ)たるものがあったのであるから全く純真なものであった。

――以上はセンチメンタル、プロローグである。此の出撃に於ける我輩の颯爽たる武者振りを知りたい人はお先をどうぞ。

 

第−話 スコールの切れ間より

 先ずは平穏無事な航海であった。今迄の出来事といえば精々浮流する棒切れを潜望鏡と間違えたり時折水煙をあげて突進するいるかを雷跡と見誤って胆を冷したぐらいに過ぎなかった。

 それもそうであろう。東京湾を出るや否や、一路針路を東へとって東経160度近く迄突っ走ったのである。それは沖縄、小笠原方面の主戦場とは随分かけ離れた水域であったから、敵も一寸その辺迄の哨戒は充分とは手が届き兼ねたのであろう。いやそれより、勝誇った敵にとっては、も早哨戒する程の価値もなかったに違いない。

そして南鳥島を右舷何十哩かに迂回して、そろそろ防暑服一枚でも暑くてやり切れなくなって来た頃だった。

船は沛然たるスコールをこれ幸とばかり、真っ昼間ではあったが堂々と水上航走を続けて居た。今迄の平穏になれて幾分艦全体の気分も弛んで居た様にも思われる。

折しも哨戒長は我輩、降りしきる雨が静かな海面に、一種独得の縞模様を画いては消し、画いては消しするのでもぼんやり見入って居たかも知れない。

 何しろ見渡す限りの大海原をしっとりと雨雲がとじ込み、篠つく雨がカーテンの如く我々の視界を遮る時は、海の詩情はいやまさに勝る。それは恰も、雨が木立に、水面が大地にとも思われ、あたりの風景に一種の閉鎖感、親近感が起る為のものであろう。こんな時にはどうかすると戦争して居る事すら忘れてしまう。

 私は今でも雨に洗われるあの静かな海面を想う時、もう一度艦に、それもあの低い艦橋の潜水艦に乗ってその中を走りたい程のノスタルジアを感じる。

 私は幾分ゆったりした気分で、丁度切れ目になったスコールの雲間を、しめしめ、またあそこに突込めば一安心出来るぞと考えながら次の真っ黒な雲目指して之字運動の針路を変えていた。

 その時である。艦橋の哨戒員が見張の眼鏡に敵の影ならぬ雑念の影を求めていた時である。

 その真黒な雲の水面近くの一部分が、更に凝然としてその濃さを増していたかと思うと、突如としてその黒さの中から1隻の艦影が踊り出た。

 真正面切って突込んで来る敵駆逐艦の姿である。いや我輩は驚いたの何のという事も出来ん。一瞬、私の網膜に映った艦影は距離にして千米もない様に思われた。何と言うか、視野一杯に拡がった感じであった。

 それでも、見張員の奴等が何とも言った覚えがないから、此の私が最初に発見したに違いない。

 咄嗟に脳裏に浮んだのはとにも角にも敵の態勢を充分に観測しなければならんと言う事であった。それも潜望鏡でである。何故に司令塔に飛込む迄の間にしっかり見ておく積りにならなかったか、等と思うのは、所謂後の祭りと云う奴、その時は何でもよいから早く潜望鏡を上げにゃならんとしか考えなかったのである。

 私は「両舷停止、潜航急げ」を叫ぶや否や、猿の如くハッチの中へ飛び込んだ。

所がである。「ペント開け」をかけようと思ったが、一向に「ハッチ宣し」の声がない。それもその筈、普通ならば最後から二番目に入る筈の哨成長の我輩が、何と真っ先かけて司令塔の中へ飛込んで居たのである。

 シマッタと思ったが、今更のこのこと這い出す訳にもいかない。漸くその時分になって、見張の連中がモタモタ這入って来た。

 やっとの事で「ペント開け」はかけたが、「ダウン、深さ」は幾らかけたか覚えては居ない。その間随分長い様に思われたが、時間にして二十秒は出て居まい。左手は勿論無意識の中に潜望鏡昇降用のスゥイッチをひねって居る。所が潜望鏡の奴、一向に上って呉れぬ。

私は思はず下の発令所に大声で奴鳴った。

「下のスゥイッチ入れたか」

「ハッ、入れました」

 私は思い切りスゥイッチを回した。それでも潜望鏡は微動だにせん。艦は既に潜航を始めて居る。グズグズして居ると潜望鏡が上っても観測が出来ない。

 もう一度奴鳴った。

 「スゥイッチをよく見ろ!」

 「入って居ります」

 私は糞、癪にさわってふと自分の触って居るスゥイッチを見た。

 何たる事ぞ!スゥイッチは正しく「下」を指して居るではないか。

私は又してもシマッタと思った。思ったが、それこそどうにも仕様がない。斯くなる上は知らぬ顔の半兵衝をきめ込むより他に手はない。

 そこで何やらぶつぶつと訳の分らぬ事を呟(つぶや)いて、とにも角にも潜望鏡だけは上げる事が出来た。そして之に飛びついて覗き込んでは見たものの、見えたものは、ただ青々とした緑色の水面ばかり。それもアッと云う間に視界が水中に没して、僅かに艦首から飛ぶように近付いて来る気泡の二つ三つが私の腰抜振をのぞき込んでは笑って行った。

 それでもこちらの発見が一瞬早かったのであろうか。それとも敵さん全く油断して居たのであろうか、或はお陀仏かも知れんと声をひそめて居た我々は幸運にも一発の爆雷攻撃すら受けなかった。

 全く不思議である。

 「誰だ、その辺で、貴様、夢でも見とったんじゃないか」等と言う奴は?

 

2話 幸運の星

 それから又2・3日は平穏な航海が続いた。遥か南の空低く、サウザンクロスの輝きが如何にも澄み切った南溟の大気を偲ばせる夜であった。今宵一夜つっ走れば明日は天長節、とっくり潜航して御馳走でも鱈腹(たらふく)食ってやろう。好物の鰻の缶詰も毎朝毎朝食ったのでは些か食傷気味でもあるし、はて一体明日の御馳走は何にしたもんであろうか等と考へ乍ら、ふと見上げた天頂に、輝いては消え、消えては輝く白光がある。

その余りにも強い光に一瞬私は途まどった。が、之は確かに味方識別の信号だ。味方かなと思ったが、今時こんな所を飛んで居る味方の飛行機はある筈がない。とすると、こりゃいけない。

敵だ! 敵の哨戒機だ!

 私は思わず上から艦長の頭を叩き飛ばした。艦長の頭をぶん殴ったのは、残念乍ら後にも先にも此の一回切りである。

 私はその時何でも艦橋の潜望鏡の台の上にのんびり腰でも掛けて居た様に思う。

 艦長も吃驚したらしい。いきなり頭をぶん殴られて「敵だ! 敵だ!」と奴鳴られては 「潜航急げ」の一語あるのみ。

 それでもその時は前回の失敗にこりて、突入迄の寸秒の間に艦長と二人でゆっくりその白光を見直した。

 然し、敵も敵なら、味方も味方、お互いに随分間の抜けた同志である.恐らく敵さん、今時分こんな所をウロウロする日本の潜水艦があるとは思はなかったらしい。それにしても、ウエーキとグワムの真只中、いくら之字運動をやって居るとはいえ、トラック方面目指して南下する潜水艦を見れば敵か味方か判断位はすぐつく筈である。それを丁度こちらの頭の真上まで来て、のんびり味方識別の信号迄やらかすのだから恐れ入る。その飛行機に気付かなかったこちらは尚更タルンで居た訳だ。

我々はこんどこそはと観念したが、又も敵さん一向に攻撃を加へてこない。水測員必死の測的にも一向敵らしきスクリュー音は捕捉出来ない。さらば水上航走で危地を離脱するに如くはなしとばかり、約一時間の後に恐る恐る浮上して見た。

艦長と私とはハッチの開くのも遅しとばかりに踊り上って、まだ水のひきやらぬ艦橋に飛び出した。

真っ先に見廻したのは大空である。

 と、燦然たる大空は、恰も宝石を撒き散らした如く無数の星が青白い光を放って居た。中でも東天高度40度のあたり、一際際立って輝く白光は星にしては余りにも明るい。よくよく見れば微かに移動して居る様でもある。

 私は肩をたたいて艦長にその光を指さした。斯くて我々は、慌てふためいて再び海中に遁入した。

それから数刻、我が水中聴音機は左舷遥かかなたに、微かなスクリュー音を捕捉した。

 直ちに自動懸吊に移る。

全艦のありとあらゆるモーターはひそっと停止した。転輪羅針儀さへ止って、当にもならぬ磁気羅針儀だけが、うす暗い予防灯の光に照らされて右に左にかすかに揺れて居る。

 無気味な一瞬、死の静寂が艦内を支配する。

 トリム修正の為、兵員が一人、二人前部から後部へ移動する。その靴音が金属的な響きを立てて艦内に(こだま)する。

 畜生!あれ程言ってあるのに靴に鋲を打ってやがる。

 「馬鹿! 靴を脱げ! 靴を!」

思はず大声で怒鳴った。

 又しても静寂、発射管を持たぬ潜水艦は全くつらい。

 水中聴音機は刻々スクリュー音の近接を報ずる。

 

 高速である。

 駆逐艦らしい。

  一隻ではない。二隻か、三隻か。

 益々近づく。

 至近距離。

 もう距離も方角も判らない。

 愈々「喰ふ」かと思うと何とも云へない気持だ。「グワン」と云う物凄い衝撃。艦内の電灯は一度に消える。リベットの弛目からはすざましい勢いで海水が噴き出す。次第に艦は傾いて行く。そして見る見る気圧が高まって行く。息苦しい。苦しい。深度計は指度一杯を指してもう動かない。艦は益々落ちて行く。やがて艦は水圧にペシャンコになるであろう。−体死とはどんな状態であろうか。一瞬こんな妄想が脳裏をかすめる。

艦内伝令の声は細い。細い。まるで蚊の鳴く様な心細さ。

 又奴鳴る。

「馬鹿! 元気を出せ、元気を!」

 直接艦体に触れて海中に逸出する金属音と伝声管を伝わる声も同じだと思って居るらしい。

「声はいくら大声でも敵には聞えん。もっと大きな声を出せ!」

生か死かの別れ。それでも部下を叱咤すれば優越感が湧く。一艦八十の魂が不安そうに司令塔の我々を見つめて居るのかと思うと、それ又、例の痩せ我慢。

痩せ我慢でもそれに徹すれば、しまいにはどうにでもなりやがれと云うふてぶてしい糞度胸が生まれるものだ。

 私は艦長の方を眺めた。もともと黒い顔が南海の日に焦がされてどちらが表だか裏だか分らなくなって居る。その真剣な顔付きがニヤリと綻ぶ。いい度胸だ。

 それから丸一昼夜。我々は断続するスクリュー音に悩まされ続けた。艦長の判定によれば11隻の敵艦船が我が頭上を右往左往した。尤も此の11隻というのはちと眉唾かも知れない。というのは磁気羅針儀が暫くセットして居るかと思うと急に、それこそ急にスーツと40度も50度も振れる事が屡々あったからだ。いくら自動懸吊でもこんな事はおかしい。明かにコンパスの不調である。二度も三度も音源を新な敵として測的したに違いない

それにしても一発の爆雷すら喰はなかったのは幸運を通り越して不思議である。

翌日の夜、あまりおかしいので艦長はそっと潜望鏡をあげて見た。

「航海長、覗いて見ろ」

代った私が覗込んだ潜望鏡の、その視野に捉へられて居たのは、煌々たる灯を点けた敵の輸送船である。しかも護衝もなしにだった

1隻。左右舷灯の赤と禄の色が今でも生々しく瞼に残る。

此の野郎、ふざけやがってと思ったが、敵にとっては此の辺りはも早や危険水域ではなかったのだ。残念乍らこと程左様に我々はナメられて居た訳である。

 艦長はその舟をやり過してから遂に浮上を決意した。気圧920耗、湿度100.発令所から司令塔迄昇るのに死力を尽し、潜望鏡を廻すのにさえ「フーフーハーハー」、玉なす汗はもう蒸発する余地がなかった。

 丁度あれから24時間、全くとんでもない天長節であった。

 やがて「ハッチ開け」の声と共に噴き出す気流の物凄さ。掌航海長が見事帽子を吹き飛ばされてしまった。

 私も艦長の後を追って飛び出した。艦は最大戦速13節半で一路南下する。その左舷、高度40度の東天に亦も輝く白光は幸運の星であったろうか。

私は艦長と顔を見合せて苦笑した。此の星が木星であったか金星であったかそんな事はどうでもよい。夙の昔に忘れてしまった事だ

から。

第3話 君島水道にて

 目指すトラック島も間近い。予定の時刻、予定の方向に、紫色に霞むトラック諸島の山頂を発見した時は何かホットした気持だった。

 確か旧式な水上機が一機、翌を左右に振り乍ら我々を出迎えへて呉れた様に思う。その日の丸の鮮やかな色合が、にじむ涙でかすんだとしても無理はあるまい。

 やがて島影は次第にその影を濃いめいて来た。トラック環礁の入口、南水道も程近い。その時、見張員の一人がけたたましい叫び声を出した。

「マストらしきもの、艦首水平線」

艦長も私も見張員をつきのけて左右二十倍の眼鏡にかじりついた。成程見える。水平線の遥か彼方、確かにマストらしいものが見える。それも前檣の先端だ。私の山勘では相当大きい艦である・戦艦かも知れん。

 我々の情勢判断は敵の艦砲射撃かも知れんと云う事に落ちついた。それでは又どえらい所へ舞込んだものだと観念した。然しどうも

ぉかしい。おかしいが見た所確かに戦艦のマストである。

 仕方がないので潜航した。そして亦例の如く水中聴音機に全神経を集中した。

 それから数刻、スクリュー音も爆発音も一向に聞えない。が、突如水測員の声が伝声管にひびいた。

「右舷45度、波の音近い」

潜望鏡をのぞいた艦長は直ちに浮上を指令した。

危ない哉! 環礁は間近い。

打ち寄せる大波が砕け散って白い飛沫を上げて居た。僅かな環礁の切れ間を乗越えて、渦巻く潮の流れが手に取る様に見える。スンデの事で地球と衝突する所であった。

「取舵一杯」で左回頭90度。

 その艦首前方を平ったいちっぽけな島が、椰子の樹がほんの申し訳に4・5本生えて居ると云った位のちっばけな島が、すまな相によ切って行った。

 君島水道での出来事である。

 トラック入港後聞いた話では何でもその島は軍艦島と云う相な。

 

4話 トラック島での歓待

トラックでの歓待は全く素晴らしかった。

  尤も敵さんの歓迎振りも相当なもので、南水道の入口から夏島脇の泊地迄、ほんの一跨ぎの所を丸一昼夜かかったのだから、その空襲の激しさも想像されようと云うものである。

空襲と云っても、その多くは偵察機か、ごく少数の編隊だったらしいが特にその日は激しかったらしい。三度も四度も環礁内に沈座した。浮上する度毎に見張所の赤旗や赤ランプが空襲警報の発令を伝へて居た。

 所で冬島の脇に沈坐した時の事である。海図によれば水深は60米足らずである。然るに深度計の針は5560、段々に下るが、艦は一向に着床しない。今か今かと思うが却って行脚をつけて落ちて行く。65707580

私は深度計をみつめて息を凝らした。艦長の顔色も変って居る。安全潜航深度は80米である。

 もう「メインタンクブロー」をしないと何処まで落ちるか判らんと思った途端、ガツンと後部が着床した。が、まだ前部が下る。

危ない!

 グーッと右舷に傾く。

 やっと落付いた時には深度計指針85米、前部へ10度、右舷へ約5度余り傾斜して居た。

 私は冷汗をかいて海図を拡げた。

 然し、そのあたり、幾ら眺めても8085等と云う水深はない。海図も大して当にならん事を知った次第。

 さて、そのトラックでの歓待であるが、泊地に投錨してから艦長と私の二人だけが(或は鉄砲も一緒だったかも知れん)が連絡の為、上陸した。乗員の士気弛緩を恐れての為である。

 波止場には四艦隊司令長官用の乗用車が迎えにきていた。

中尉の分際で長官用の自動車に乗ったのは余り居まい。空襲警報で待避したのも特に長官用の防空壕である。尤も、いくら防空壕とはいえ長官と同席じゃちと煙ったいのですぐに幕僚連の所へ駈け込んだが、兎に角大した待遇だった。

 四艦隊司令部附で消息の知れなかった兄貴がロタ島で健在である事を確認したのもこの司令部の地下室での事であった。練習艦隊当

時、乗艦八雲で御世話になった主計長が四艦隊の副官として.この司令部に居られたが、わざわざロタ島からの発信電文迄持って来て健在を強調されたのには全く感激した。之全く我々が珍客であった故である。

 この司令部で出された藷はふかし立てで、ホクホクと白く如何にも旨そうであった。缶詰料理に辟易していた私は、早速頂戴に及んだが、一口で御免蒙った。それでも、珍客にと、特に旨そうな奴を出して貰ったのである。私は今でも申し訳なく思って居るが、南方の藷のまずいのも確かだ。

 潜水艦基地隊では乏しい中から、やれ汁粉、やれアルコールと、全く素晴しい歓迎の宴が開かれた。勿論中味は我々潜水艦乗員の平

素の食事にも及ばぬ程の貧弱なものであったかも知れないが、私はそこに溢れた真心の味を、あのコプラの味と共に永久に忘れる事が出来ない.二十日の苦労も一瞬にして消え去るのを覚えた。

期友吉江幹之助君や太田威夫君に会ったのもこのトラックに停泊中の事である。

例のマスコットのヘルプックは吉江君に没収されてしまった。

 「吉江医師(せんせい)!今も持っていたら返して呉れ」

 名物男、松金コト 松元金一君に会へなかったのは残念である。最も痛ましかったのは、広瀬遼太郎君がほんの数日前ウルシー偵察に征って還らぬとの話を聞いた事である。

 我々は搭載物資を揚陸後、尽きぬ名残をトラックの島々に残し、一路メレヨンを目指した。基地隊の大発が出港の寸前、バナナと椰子の実を山盛り、積み切れない程持って来て呉れたが、青いバナナが黄色く熟れるのは全くあの歌詞の通りである。一本一本下から熟れて行く。士官室にも一房ぶら下げてあったが、今度哨戒から下りて来たら食ってやろうと目鼻をつけて置いても、どうかすると何時の間にか無くなって居るのであった。犯人は概ね軍医長であった。それもその筈、バナナは彼のベッドの丁度頭の上にぶら下がっていたのである。手持無沙汰に悩んで居た軍医長が、寝ころんだままひょいと手を伸し、ちょいと挽切りしたのも無理はない。

 椰子の実は遠路遥々内地迄持って帰ったが、皆横須賀で海の中へたたき込んでしまった。メレヨンよりの帰途、艦内に発生したチプス、アミ−バー赤痢の為である。誰や彼やの土産にと思って居ただけに今想い出しても癪の種である。

 

――あとがき――

 書き殴ったら原稿用紙30枚にもなった。もともと小生は編集子に過ぎず、こんなに原稿書くのはお門違いだが、今回は原稿の集りが甚だ悪く、止むを得ず筆を執った。悪筆、痴話、誠に以て恥しいが、書き出したら次から次へと想い出は尽きない。

 トラックからメレヨン迄、天測らしい天測もせずにつっ走ったが、着いた所がメレヨンだ。いやメレヨンじゃないと言って騒いだ話。

 メレヨンでは我々の到着を一日千秋の想いで待って居たらしく、司令部の附近で浮上するや否や、そのマストにスルスルと大軍艦旗の揚がった時の感激.そしてその軍艦旗の揚がった時、うれしさの余り万歳と叫んであの世へ行ってしまった人の哀れにもはかない物語。

 徹夜での揚陸作業.艦橋で絶えず艦位に注意して居たが――その時艦は投錨せず漂泊して揚陸作業した。疲労と眠気の余り眼の前がグルグルと廻って、とてもじゃないがこんな苦しい事は無かった話。メレヨン沖で試験潜航の時、潜横舵下舵一杯で故障し、危なくお陀仏になりかけた話。田中歳春君に逢ったのもそのメレヨソでの事である.

 こんな話は又の機会に譲るとして漸く内地に辿り着き館山湾に入港したが、敵の機雷で東京湾に入れない。止むなく横鎮に電話連絡すべく館山航空隊に上陸したが久し振りに大地地を踏むと膝がガクガクして歩けなかった。所が電話交換室の側迄行くと、締め切った扉の内側から洩れる女の匂に、それこそ腰が抜ける程フラフラとした話.之が本当に腰抜け武勇伝である。では我輩の馬鹿話も此の辺でサラバと致そう。

(なにわ会会誌第2号64頁 昭和29年1月掲載) 

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