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第10章 一〇二号哨戒艇

 一隻の軍艦が、守後浦の沖に錨を下ろそうとしている。 正確に呼ぶならそのふねは軍艦とは言えなかった。まずはこの単語を使ったが、日本海軍においては、軍艦とはある一定の格式を与えられたふねにのみ与えられた呼称であって、兵器を装備した艦艇や船舶のすべてを軍艦と呼んで良いわけではない。

 軍艦の艦首の先端には、皇室の象徴である菊花の紋章が飾られることになっている。これは良く知られているが、人事制度上でも、軍艦の艦長には一般将校の最上級者である大佐が任命されることになっていた。つまり別格ということである。

 日本海軍で実際に軍艦の格式を与えられたふねは、ごく一部の例外を除けば、巡洋艦以上の大きさを持つ戦闘艦だけである。たとえば海防艦はもちろん、駆逐艦や潜水艦でも、厳密には軍艦のうちには数えられない。 

 軍艦は海軍の花形だった。将棋に例えれば金銀から上の駒である。この戦争の、特に海軍について書かれた多くの出版物の中でも軍艦はその主役となっている。

 だがどんな名人であっても歩《ふ》のない将棋は戦いようがない。事実この戦争でも、日本海軍は六百隻におよぶ「軍艦未満」の艦艇を歩の駒として戦い、その多くを失ったのである。

 これまでこの物語がみつめてきた佐伯や大入島の人びともまた歩であった。そしてこれから語ろうとする、まことに数奇な運命をたどった一隻のふねも歩であった。

 おそらくは今後永久に歴史の記述には登場しないであろう、歩と歩と出会いのものがたりを、このあとしばらく綴ってみたい。

 そのふねの名を「第一〇二号哨戒艇」といった。

 恵美子はここのところ会社を休んでいる。

 孝太郎が生まれてしばらくのあいだ、母親に代わって家事を取り仕切るためでもあったが、なによりも空襲が心配の種だった。爆弾が空から降って来る危険は島にいても同じなのだが、通勤に使う渡し舟の定期便が問題なのである。

 船は手漕ぎの伝馬船で速度は遅く、海上を二十分ほどもかけて進む。その途中をもし敵機に狙われたら、逃げも隠れもできずに蜂の巣である。

 それは最悪のケースだとしても、空襲警報が出ると渡し舟が欠航するから、通勤そのものができなくなる。特に出勤したあとで帰宅の便が欠航されるのが困る。これは十分に実現が予想されることだったので、文太郎の意見もあって休職を願い出た。

 四月末の二度にわたる空襲以来、佐伯の街では疎開する者が増えて、一日中雨戸の閉まっている家が目立ってきた。もともと売るものが無くなりかけていた店舗も、間口に戸板を立て、そこに疎開先を記した貼り紙を残して廃業した。通りを行き交う人々の数は目に見えて減り、子供たちの姿は消えた。佐伯の街から、人間の生活の匂いが消え始めていた。

 ところが、文太郎の家の雰囲気は逆だった。博多から帰った香代子、学校に行かなくなった桂佑、それに孝太郎。昼間の家族を数えてみれば一気に三人も増えたのである。急に家の中が明るくなったような気がして、特に子供たちは妙に元気づいていた。

 敵機の姿を、ここしばらく佐伯の空に見ないこともその理由だったようである。

 空襲警報自体は毎日のように発令されていたのだが、敵機は空の高いところを通過していくばかりで佐伯に襲いかかかってはこなかった。皮肉な話だが、佐伯が戦術拠点としての機能を失ってしまったために、米軍にとっても攻撃目標としての価値がなくなったのであろう。

 六月を迎えると、この地方では日没がずいぶんと遅くなり、夏至のころには夜八時過ぎまで残照が海を染めるようになる。この月の中ごろからは梅雨に入ってしまうが、それまでは島の少年たちにとって、晩飯までのあいだ外でたっぷり遊べる最高の季節だった。

 亮はその日、学校からの帰りに裏山へ入り、そろそろ真紅に染まり始めた山桃の実を採りに行った。まだ少し時期が早くて、持って行った布袋を満杯にするほどは生っていなかったが、それでもきょうだいみんなで少しづつ分けるくらいは採れた。

 その山桃の木は、山の小道から脇にそれて雑木林に分け入り、手足に引っ掻き傷の十ほどもこしらえないと辿りつけない、奥まった場所にあった。やや小ぶりであったが、そのおかげで周囲の木々に隠されており、ほかの子供たちが知らない、とっておきの木だった。

 もとはといえば桂佑の縄張りであったのだが、国民学校の卒業を機に、弟に伝授された。

「そういうことじゃから、お前ひとりで食うたらいけんぞ。時々は妹どもにも持って帰れ」

 桂佑は秘密の場所を教える条件として、それを亮に約束させた。

 亮としては「俺は兄貴から貰っちょらんがのう」という点が少し引っかかったが、そのころ妙に大人びてきた桂佑の物言いが、文太郎のそれに似ているようにも感じられて、その程度の軽い口ごたえもできないまま、条件を呑んだ。

 山から家の裏手に出て、最後の坂の手前まで来ると浦前の海が見える。まだ高さがあるので眺めがいい。亮はそこまでくると、いつもなら一気に駆け下りて勝手口へと飛び込むのだが、その日ばかりはぎょっとして足をすくめた。目の前に、グンカンが見えた。

 艦首に大砲が据わり、そのうしろで対空砲が空を睨んでいる。いつもそこらに浮いている、漁船にしか見えないグンカンもどきとは違う。ありゃあ本物のグンカンじゃ。

 そう見て取ると、亮は再び駆け出した。ひよどり越えの勢いで急な坂を下り、家の脇をすり抜けて海岸に飛び出す。そこまで来ると、そのふねはさらに大きく見えた。

 亮は、四月の終わりに石間浦に乗り上げた怒和島《ぬわじま》を、悪童たちと見物に行ったこともある。近くで見るグンカンはずいぶん大きく見えたものだが、目の前のふねは、それよりさらにひと回り大きいように見えた。

 海岸にはすでに何人かの見物人が出てきて、亮と同じようにそれを眺めている。

 文太郎の家から海沿いに二百歩ほど北へ歩くと、そこに小さな島が浮いている。浦の岸から石を投げれば届くような距離である。彼らはこれを竹島と呼んでいた。

 上から見ると長さ百五十メートルほどのサツマイモ型をしており、海に浮かんだ小山という感じの島で平地がない。このため畑も人家もなく、島全体を覆った雑木林にトンビの巣があるばかりである。

 グンカンは、その竹島の横に停泊しようとしているらしかった。

「ありゃあ駆逐艦かのう」

「いやあ、見たこともねえふねじゃ」

「煙突が三本立っちょるじゃろ、巡洋艦よ」

 大人たちが話している。

 恵美子は夕食の支度がだいたい済んだので、徳がいつもそうしていたように、浦のどこかで遊んでいるはずの亮を呼びに外に出てきた。

 彼女もまた、竹島の横にもうひとつ大きな何かが浮いているのに気づき、一瞬足を止めたがそれが海軍のふねだと判ると、岸壁の見物人の中に弟を探した。亮なら必ずここで眺めているはずだと思った。

 姉に捕まった亮は、もうちょっと見たいとせがんだ。恵美子は少し考えてからそれを許すと家に戻って、文太郎に事情を話した。

 やがて文太郎と桂佑も海岸に出てきた。

 彼らの目の前で、第一〇二号哨戒艇は錨を投じようとしていた。

 哨戒艇とは、おもに船団護衛に任じた小型の戦闘艦である。

 これまで物語にたびたび登場してきた海防艦と任務は似ているが、その成り立ちはまったく異なっており、そのすべてが旧式艦のリサイクルだった。

 南方資源地帯から日本本土への物資の輸送が、米潜水艦や航空機による攻撃で壊滅的状況に追い込まれたことはすでに何度も書いてきたし、その輸送船団を護衛し、海上輸送路の安全を確保するための艦艇や兵員が、質量ともに常に不足していたことも、また書いてきた。

 その原因を端的にいうならば予算の問題だった。

 海軍の予算はその多くが決戦兵力に割かれていた。敵艦隊との海上決戦に勝利するための、戦術研究と、艦艇建造と、兵員養成が最重要命題であった。昭和に入ってからは、これに航空部門の拡充がさらに加わる。しかもその競争相手は大国である。軍備は常に、最先端で、かつ最強のものが求められてきた。

 こんにちでは、その方向にのみ突き進んだ日本海軍が、シーレーン防衛の重要性をまったく理解できていなかったという認識が一般的になっている。

 だが、これは少々極端な論じ方と言っていい。海上輸送路の安全確保、いわゆる海上護衛戦についての研究も、まったくないがしろにされていたわけではない。その重要性を訴え続けた一部の人々の見識に対しては、これを正しく評価する必要があると思う。

 恨むべきは、そういう人々の意見を重く受け止めなかった、海軍首脳部の頑迷さであるが、彼らをそうさせたのは何より国力の貧弱さであった。

 それでなくとも貧乏な国なのだ。列強海軍に対抗しようとすれば、決戦戦力を備えるだけでもともと薄い財布が空っぽになってしまう。海上護衛戦に備える必要性を認識はしていても、無い袖は振れぬというのが実情だったらしい。

 こんな小噺がある。

 乞食が高級車を運転している。これを見て訝しむ人に、事情を知っている者が教える。

「そうじゃない、あの人は全財産をはたいて高級車を買ったので乞食になったんだ」

 世界最大の戦艦を保有した日本海軍の場合も、その内実は、笑えぬ話だがこれに近い。

 そういう台所事情だったから、日本海軍は護衛艦艇の不足を補うために、旧式化して、海上決戦には使えなくなった古い駆逐艦を改修し、小改造を施して運用することにした。

 こうして生まれた新艦種が哨戒艇である。海上護衛戦に対する、認識と認識不足のはざまに誕生した、いわば何でも屋の汎用艦であった。

 ところが第一〇二号哨戒艇の場合は、さらに事情が複雑だった。そもそも日本で建造されたふねでさえなく、その前身はアメリカ合衆国海軍の駆逐艦であった。歩は歩でも、敵の持ち駒だったわけである。

 しばらくは、このふねについて書く。

「太平洋」戦争の初期、日本軍は石油資源の確保を目的として、現在のインドネシア共和国にあたる蘭印方面を攻略した。スマトラ、ジャワ、バリ、ボルネオ《カリマンタン》、セレベス《スラヴェシ》といった島々からなるこの群島国家は、蘭の文字が示すとおりオランダ王国の植民地であった。

 当然その防衛にはオランダ軍があたっていたが、この方面のオランダ海軍はきわめて劣勢であったため、海上防衛には米英豪の海軍が協力することになった。こんにちの言葉でいうなら「多国籍海軍」を構成していたわけである。この一翼を担う米艦隊の中にスチュワートという名の旧式の駆逐艦があった。

 この米駆逐艦は平甲板型《フラッシュデッカー 》と呼ばれていた。

 第一次世界大戦中、ドイツのUボートによる船舶被害が増大したために、米海軍では船団を護衛するための駆逐艦を大量かつ急速に建造することになった。このために急いで設計され、大量生産された簡易構造型の護衛駆逐艦が平甲板型である。

 このタイプは同型または準同型艦が二百隻以上マスプロされ、イギリス海軍にも貸与されてUボートの制圧に確かに功績を残したが、それはまさに数の勝利と言って良かった。大戦後も相当数の平甲板型が現役にとどまっていたから、米海軍の関係者ならば、一度は必ずどこかの港で見たことがある、というほど、その姿を知られていた駆逐艦だった。

 スチュワートが所属する多国籍海軍と日本海軍は、ジャワ島やバリ島の周辺海域で、数度にわたって砲火を交え、まったく一方的に日本海軍が勝利した。

 多国籍海軍の艦艇はほとんどが撃沈されたが、スチュワートは、この海域での戦いの、ごく初期の小競り合いとなった「バリ島沖海戦」で損傷して修理中であったため、主力艦隊同士の海上決戦には参加できず、結果として命を永らえることになる。

 損傷したスチュワートは、ジャワ島のスラバヤ基地で入渠修理中のところを、上陸してきた日本軍に拿捕された。

 守備に当たっていたオランダ軍は降伏したが、米海軍はただでは屈しなかった。彼らはこの艦を敵手に渡さぬようドックごと爆破して撤退したのだが、破壊処理が不十分であったため、日本海軍が修理して使うことになったのである。

 捕獲から約一年後、日本海軍は修理が完了したスチュワートを哨戒艇に分類し、第一〇二号という名を与えた。

 修理にあたって若干の改装が加えられている。特に煙突の形状変更が象徴的であった。 

 平甲板型駆逐艦の外観上の最大の特徴は、直立した四本煙突である。改装に際し、このうち前方の二本が合体されて日本ふうの長靴形煙突に整形されたが、これは敵味方の識別を明確にさせるためだった。このいわゆる曲がり煙突は日本海軍に特有の構造で、他国の海軍艦艇にはほとんど例を見ない。

 武装にも手が入れられた。オリジナルの艦砲のままだと砲弾の補給がきかないため、これを撤去して、降伏したオランダ陸軍が使っていた高射砲を取り付けた。こちらのほうは相当量の砲弾や弾薬類が、砲とセットで接収できていたらしい。

 変えたくても変えられぬものもあった。見た目の色である。スチュワートはもともと明るい灰色に塗装されていたが、これはそのままにされた。

 おそらく現地では塗料が調達できなかったのだろう。

 日本海軍の戦闘艦艇はふつう暗い灰色に塗装されていた。得意とした夜間戦闘で敵から視認されにくくするためである。このため一〇二号が艦隊や船団の中に混じると、南洋の真っ青な海に、その白い艦体がひときわ美しく映えて見えたという。

 一〇二号哨戒艇は昭和十八年の三月から、おもに蘭印方面で輸送船団の護送任務についた。この海域は、この当時はまだ日本軍の制圧下にあったが、海中深く忍び寄る敵の潜水艦だけはこれを完全に封殺することができなかったため、船団には対潜艦艇による護衛が必要だったのである。

 ドイツのUボートを制圧するために建造されたアメリカの駆逐艦が、今度は母国の潜水艦を敵として戦う役目を与えられたわけである。もし、ふねにも運命というものがあるとしたら、それはいかにも皮肉で残酷な運命と言えるだろう。そして、それを象徴するような戦場伝説がこのふねには現在でもなお、つきまとっているのである。

 昭和十九年八月二十三日。一〇二号哨戒艇はマニラを出港した。

 捷《しょう》一号作戦の約二カ月前である。台湾から来た輸送船「仁洋丸」が米潜水艦の蝕接を受け、マニラ湾口から北に二百キロほどの距離にあるダソール湾に避難している。一〇二号の任務はこの船を出迎えてマニラまで護衛することであった。これに海防艦二十二号が同行した。

 当時この海域には、通称「狼の群れ」と呼ばれる米潜水艦部隊が潜んでいた。狼の群れは、通常三ないし四隻の潜水艦によって構成されるのだが、この時の群れは補給のために帰投中の一隻を欠いていたため、二隻であった。

「ハーダー」と「ヘイク」である。

 ハーダーは歴戦の潜水艦で、この時までに日本海軍の戦闘艦艇六隻を撃沈していた。

 彼らの本来の役割は、輸送船を重点目標とする通商破壊戦なのだが、このころになると戦闘艦艇への攻撃でも着々と戦果を挙げるようになっていた。この二カ月前のマリアナ沖海戦では日本の大型空母二隻が米潜水艦に撃沈されている。

 しかしその中でもハーダーの戦歴は異彩を放っていた。撃沈した戦闘艦艇のすべてが、対潜兵装を備えていた護衛艦艇なのである。

 犠牲になった六隻のうち四隻が駆逐艦、二隻が海防艦であった。要するに、ハーダーは最も苦手とするはずの敵にあえて挑み、これを血祭りにあげたことになる。ハーダーが米潜水艦の中で武勲トップクラスといわれるゆえんである。

 しかし、その「駆逐艦殺し」と異名をとった凄腕の潜水艦もついに武運の尽きる時が来た。

 ハーダーはこの翌日八月二十四日、同海域で、日本の護衛艦艇によって撃沈されるのである。ここに、ハーダーを撃沈したのは一〇二号哨戒艇である、という戦場伝説が生まれた。

 ハーダーの艦長はサミュエル・E・デイリーという海軍少佐だった。彼が得意とした戦法は「喉笛攻撃」と伝えられている。

 敵艦正面に反航、つまり敵と向かい合う形で接近し、至近距離から魚雷を発射すると同時に急速潜航で海中に避退する。狙われたほうは、そのまま直進するなら艦首に魚雷を食らうし、もし回避しようとして、左右どちらかに舵をきれば横っ腹に被弾してしまう。

 しかしこれは一歩間違うと、敵からの逆撃を至近から受けることになるという相打ち覚悟の捨て身の戦法でもある。

 何度も持ち出して恐縮だが「深く静かに潜航せよ」の劇中でも、クラーク・ゲーブル艦長が宿敵アキカゼを倒すために、この喉笛戦法を乗組員に特訓させている。そしてついに実現した両者の対決は、まるで西部劇の、ガンマンの決闘シーンのようでもあった。

 一〇二号が、米潜水艦の中でも抜群の武勲を誇るハーダーを沈めた、という物語が事実なら、このふねの、米駆逐艦スチュワートとしての運命は、その悲劇性をさらに増すだろう。

 前述の通り、一〇二号は敵味方識別のため、煙突の形状を日本風の長靴型に改装していた。横から見たら、平甲板型駆逐艦とは異なる艦影だと認識できたはずである。事実、ハーダーと組んでいたヘイクの艦長は、潜望鏡に映った一〇二号をタイ王国の駆逐艦と誤認している。

 しかし正面から見れば、一〇二号は平甲板型駆逐艦の面影をそのまま残していた。鮮やかな艦体の白さも日本軍のそれではない。

 デイリー艦長にとっては、得意とした正面からの喉笛攻撃が、逆に仇となったことになる。

 まさに魚雷発射の態勢にあった彼は自分の目を疑ったに違いない。

 潜望鏡が捉えている標的は、まぎれもなく友軍の平甲板型駆逐艦なのだ。彼がいかに歴戦の艦長であったとしても、そこには一瞬の隙が生まれる。

 魚雷発射と、それに続く急速潜航の発令がほんの数秒遅れたかもしれない。

 ためらって発射した魚雷はかわされ、ハーダーはまだ深度をとれないうちに、反航してきた「味方」からすれ違いざまに爆雷の集中攻撃を受け、あれは幽霊か悪魔かと錯乱するデイリー艦長と共に、深海に沈んだ。

 これなら物語としても確かに凄みがある。

 ところが、これは言葉どおり伝説にすぎなかった。

 アメリカ合衆国海軍の駆逐艦が、不思議な運命の糸に操られて日本の哨戒艇となり、故国の潜水艦を、それも「駆逐艦殺し」と呼ばれたエース級のハーダーを撃沈した。

 この伝説は、少なくとも日本においては、最近まで長いあいだ信じられてきた。

 戦後発行されたさまざまな書籍や雑誌の中で何度も紹介されためである。小説の形をとっているものもあれば、軍事雑誌などの記事として書かれているものもある。

 なにより、この両艦の運命の巡り合わせは、あまりにも宿命的で悲劇的である。そのために小説や記事の題材としてたびたび取り上げられたのだろうが、残念ながら、この伝説が事実であったことを証明する史料は、現在のところ存在しない。少なくとも筆者が収集できた情報の中には存在しなかった。

 一〇二号ハーダー撃沈説の根拠となる資料の中で代表的なものは、一九七八年に小説として発刊された「帝国軍艦スチュワート」である。これは、当時一〇二号の先任将校であった人が書いたもので、そこには確かに一〇二号がハーダーを撃沈した旨の記述がある。

 ただし該当の戦闘を記述した部分は、実際に戦闘の現場にいたはずの、著者の目で見た戦闘経緯ではなく、別の戦記雑誌に掲載された文章をわざわざ引用する形で埋められている。

 しかもその引用文は米国側の記録を元にしたもので、その記録自体が、ハーダーとチームを組んでいたヘイクが、潜航して離脱中に、遠方で爆雷音を聴取したというだけのことであり、その爆雷を投下したのが一〇二号であると特定できる客観的な記述は一切ない。

 これに比べると、合衆国海軍の退役少将ウイリアム・H・ランゲンバーグ氏が、米国の戦記雑誌「World War 2 」に寄せた記事はより詳しい。それには一〇二号が投射した爆雷の数まで記述されており、その戦闘経過が克明に描写されている。

 爆雷の投射数まで判明しているということになると、同氏の記事は、その時一〇二号に乗艦していた者の個人的な記録か、もしくは公式記録である戦闘詳報に基づくものであると断じていいだろう。しかしランゲンバーグ氏は、いかなる史料をもとにこれを書いたのかについて、いっさい記していない。

 この物語で語ってきたさまざまな戦闘の経緯は、そのほとんどが防衛省から公開されている当時の日本海軍の公式記録が基になっている。

 しかしそれらの記録の中にも、ランゲンバーグ氏が記述したほどの詳しい記録はなく、それどころか一〇二号の当日の行動記録にも、潜水艦を発見したとか、攻撃したという類の記載がまったく存在しない。では彼はどこで、その詳細を知ったのか。これも謎である。

 しかしハーダーは現実に撃沈された。爆雷を投射したのが一〇二号でないとしたら、それはこのとき同艦と行動を共にしていた海防艦二十二号としか考えられない。

「海防艦戦史」という本がある。

 同書は、かつての海防艦の業績を記録に遺そうとした「海防艦顕彰会」が編纂したもので、一九八二年に発刊された。

 そこには二百隻に及ぶ海防艦の戦歴や乗組員の氏名などが、かなり詳しく記載されており、第二十二号の項には、同艦がハーダーらしき潜水艦と交戦した模様が克明に述べられている。

 それによれば、二十二号は真正面に反航してくる敵潜水艦から魚雷攻撃を受けたが、これを右舷に一本、左舷に二本かわし、その直後に敵の直上から爆雷攻撃を加え、撃沈の確証となる浮遊物を視認したことになっている。

 ハーダーらしき敵潜水艦の放った魚雷が三本、という部分がなるほどと思える。二十二号はこれを左右両舷にかわしているから、疑いなく正面からの喉笛攻撃であろう。中央に一射線、その左右に角度をつけてそれぞれ一射線。目標が直進しても、左右どちらかに舵をきっても、三本のうち一本は必ず命中するという、喉笛攻撃の基本パターンである。

 ところが二十二号は、この必殺の魚雷を驚くべき大胆さで回避している。

 三本を左右両舷にいなしたということは、二十二号は魚雷に向かって直進し、三本の雷跡のごくわずかな隙間をすり抜けたということになる。それこそ映画のような話だが、この艦ならそのくらいの芸当はやるかもしれない、と思えるだけの傍証がある。

 前章でも書いたが、海防艦の艦長の多くは高等商船学校などの民間出身であり、こと操艦に関しては、海軍兵学校生え抜きの艦長たちも顔負けの名人が少なくなかった。 

 しかも二十二号はこのあとにも、潜水艦一隻大破のちに廃艦、さらに一隻撃沈という戦果を挙げており、これらは米海軍の記録と照合してもほぼ確実である。この海防艦とその乗組員はかなりの腕前だったと考えていい。

 マニラ沖の戦闘のさい、同艦に航海士として乗り組んでいた平野孔久《よしひさ》少尉の手記によれば、ふねの底にいた機関科の兵士が「敵の魚雷が舷側をこする音を聴いた」というのだから、実に生なましい。

 これに比べると「帝国軍艦スチュワート」の記述はきわめて曖昧であり、海軍の公式記録である一〇二号の戦闘詳報にも、ハーダー攻撃の事実は記載されていない。

 これらの資料を検証すると、ハーダーを撃沈したのは海防艦二十二号であると結論づけてもいい気がしてくる。だが、ここではそれを避ける。

 先に書いたように、この物語では、戦闘について記述する場合は、海軍の公式記録をもとに書くことを墨守してきた。公式記録が絶対に正しいとは言わない。しかしどこかに拠って立つ原則を持たなければ、そのつど筆者の恣意的な判断が介入することになる。これは避けたい。

 この原則に従うなら、二十二号がハーダーを撃沈したという公式記録が確認されない限り、この物語の中でそう確定するのは不可能と書かざるを得ない。

 ここまで書いておいて、なんと中途半端で杓子定規な結論ではあるが、なに、筆者の結論は別にある。それをこのあと述べる。

 以下は筆者に可能な最大限の、この件に関する「結論」であると前置きして書き進めたい。

 筆者はこの項を書くにあたり、その当時一〇二号に乗組んでいた下士官のおひとりに、直接お目にかかり、親しく話をうかがうことができた。

 このひとの名を出口《でぐち》弘という。この章の、主人公の一人である。

 筆者はさわりのないところから話題を選び、出口氏の思い出話も興に乗ってきたところで、さりげなく尋ねてみた。ハーダー撃沈の事実はあったか、と。

 その時の彼の答えを、戦争を知らない世代である筆者は素直に、そして重く受け止めたいと思う。

「わかりません」

 彼はとても丁寧な言葉遣いで、しかし首をふって答えた。

 その声は、諦めの成分が混じった嘆息を伴っているように思えた。

「いろんなところで、何発も何発も爆雷を落としましたよ。その時はまったく夢中なんです。敵の潜水艦を沈めたかどうかなんて、艇長や水雷長はどうか分かりませんけれど、私たちには考える余裕なんてないんです」

 映画やゲームではないのだ、と言われた気がした。

「海と空のほかには何も見えない場所で、殺すか殺されるかですよ。そういう命のやり取りをしていたんです」

 南国の海。まわりに何もない。

 わずかに太陽の位置だけがゆっくりと変化を見せるだけで、北も南もすぐにはわからない。 

 そういう場所で死ぬ。殺される。爆発で体を引き裂かれるのか。海に落ちて溺死するのか。サメに食い殺されるのか。それとも漂流して飢えて死ぬのか。

 それが嫌なら相手を殺すしかない。生き残るために。敵潜水艦撃沈などという戦果なぞは、そのついでに過ぎないのかもしれない。

 そんなことを考えている筆者を前にして、彼は続ける。

「爆雷を落としたら全速で逃げなきゃならんのです。爆発の衝撃で推進器をやられますから。舵をきると、艇はぐぐっと傾きながら突っ走るんです。甲板だって三十度も四十度も傾いて、まともに立ってなんかいられない」

「そのうえ全速ですよ。下手をすれば海に吹っ飛ばされる。必死で何かにつかまってました。ああ、ここで落ちたら助からんなあ、どうせなら陸軍に行っとけばよかったなあ。そんなことしか考えなかった」

 筆者はその段階で、この疑問についての詮索を終わりにすることに決めた。そこが自分には踏み込んではならない領域に思えたのである。この物語においても、この件についての検証はこれで終わることにする。

「そのうしろで、さっき放り込んだ爆雷が、なん十メートルもの大きな水柱をあげるんです」

 最後に彼はこう言った。

「あればかりはね、いま思っても、本当に夢の中の出来事みたいです」

  第一〇二号哨戒艇はそれからしばらくして、輸送船団の護衛に就き、台湾の高雄を経由して門司港に入港した。九月十一日のことである。一〇二号としては初めての本土帰投であったがスチュワートとしては二度目の日本であった。

 このふねが初めて日本の港に入ったのは一九二三年である。合衆国アジア艦隊に配属されて中国の大連に寄港中だったスチュワートは、関東大震災直後の横須賀に急行して、十六日間の救援活動に従事したという経歴をもっていた。日本との縁は、どうも濃い。

 昭和十九年に戻る。日本海軍の哨戒艇となって初めての内地では、一時呉鎮守府の指揮下に置かれ、老朽化した機関の修理や兵装の強化などの改修を受けていたが、物資不足や人員不足などに災いされて、工事ははかどらなかった。

 だから言ってその間休めるわけでもない。南方への輸送船団護衛任務は続いた。任務の間を縫って修理をしていた、というのが本当のところだろう。それは以前にも増して苛酷な航海の連続だった。

 台湾沖航空戦以来、この海域にはすでにミッチャー提督の機動部隊が進出しており、船団が安全に航海できる状況ではなくなっていた。それでも一〇二号は戦い続けた。

 戦い続けた、と書いた。

 しかしそれは、たとえば先に描写したハーダーとの一騎打ちのような、あるいは豊後水道の対潜掃蕩作戦のような、いわば戦闘らしい戦いではなかった。

 船団護衛あるいは海上護衛戦とは、たとえばサッカーの試合で、敵のフィールドに攻め込むことを許されず、守備に徹するようなものである。しかも相手はいつ攻めてくるか判らない。

 昼間は飛行機、そして昼も夜も潜水艦の脅威にさらされながらの航海が続く。当然のことに、乗組員は交代で二十四時間の厳戒態勢である。航海自体が戦いだった。

 一〇二号の前身は一二〇〇トンの中型駆逐艦である。ぎりぎりに切り詰めた設計の海防艦に比べれば艦体は大きく、米国製ということもあって、居住性も少しはましであったらしいが、大洋に浮かべば木の葉同然の小艦であることには違いがない。

 この程度の大きさの艦は、少し大きな波にぶつかれば艦体全体が海水をかぶり、露天甲板で作業中の者は海水でびしょ濡れとなる。航海中のふねの中では、真水は何よりの貴重品だから風呂やシャワーどころか洗濯もままならない。数日は潮に洗われた服のまま勤務する。

 水の話が出たついでに書いておくと、乗組員に配られる真水は、飲用水も含めて一日あたり大型の洗面器一杯分のみである。食事の時の湯茶は別に出るが、それ以外の飲用、洗面、体を拭くなどの用のすべてを、それだけの水で済まさねばならない。海軍に入ったばかりの新兵が最初に叩き込まれることのひとつが水の大切さである。コップの底に残った水を何気なく海に捨てたりすれば、「その倍の鼻血が出るまで殴られた」という。

 米海軍の艦艇は、列国海軍のそれに比べると乗組員の居住環境が非常に優れていたらしく、たとえばハーダーやトリガーが属する「ガトー級」の米潜水艦には、シャワーや電気洗濯機の装備まであったし、冷水器で冷やされた飲料水を好きな時に飲むこともできたという。さらにアイスクリームの製造機まで備えられていたというのだから恐れ入る。

 潜水艦に限らず、長い航海をする海軍の艦艇には、生鮮食品を保存するための電気冷蔵庫が不可欠であった。日本海軍でも昭和十年ごろになると、主要な艦艇には電気式の冷凍冷蔵庫が行き渡っていたらしい。

 ところが、一〇二号は米国製の駆逐艦でありながら、古い艦であったためか、冷蔵庫は氷で冷やすタイプのものだった。あるいはスチュワートを放棄した時の爆破によって、標準装備の電気冷蔵庫が壊れてしまい、日本製のものも調達できず、それを積み込んだのかもしれない。

 冷蔵庫がそんなだから、生鮮食料品は出港五日ほどで底をつき、それからは缶詰や乾燥食材だけとなる。生野菜といえば傷みにくい玉ネギぐらいのものである。出口二等兵曹によれば、「缶詰の肉と魚が一日おきだった」らしい。

 さすがに飯と味噌汁だけは出るのだが、味噌汁の実も豆腐などはとんでもない。切干大根を数センチに切ったものがプカリと浮いているだけである。ついでに書いておくと味噌は現在のインスタント食品と同じ、乾燥させた粉味噌だった。

 食欲も落ちていく。資源地帯への航路は、亜熱帯の台湾から熱帯のインドシナ半島を経て、赤道直下のインドネシアまで続いている。エアコンのない艦内は蒸し暑く、夜でも灯火管制で窓を開けられない場合もある。 

 そんな環境で何日も航海を続けていれば、体力も気力も衰えざるを得ない。だからといってへこたれてしまえば、それだけ自分の死を早めることになる。繰り返すが、彼らにはそういう航海そのものが戦いだった。

 昭和二十年四月二十七日。一〇二号はそれまでで最大の戦闘被害を受ける。

 その前日、佐伯の街に初めてB29の爆弾が落ちた日の朝、上海の沖で錨を上げた一〇二号は海防艦など五隻の護衛艦と共に、六隻の輸送船を護衛して日本に向かった。

 船団は敵潜水艦を警戒して、日本軍が対潜機雷を敷設していた水域を通るために、いったん大陸沿岸を北上し、済州島真西の地点で東に転針した。中国大陸と朝鮮半島に囲まれた黄海を大きな湾に見立てるなら、その湾口を横断することになる針路である。

 二十七日の朝から数度にわたって、船団は敵機の蝕接を受けた。米海軍はこの獲物を確実に捕捉していたことになるが、大規模な空襲は実施されなかった。この頃ミッチャー機動部隊は沖縄戦の支援で手一杯だったし、艦載機を飛ばすには少し距離がありすぎた。

 船団は夜十時には済州島の西、約二百キロの地点まで進んだ。すでに深夜に近い。薄く霧が発生しており、視界は三キロと記録にある。

 その霧の中に、護衛艦群は浮上中の敵潜水艦を発見した。船団を待ち伏せしていたと考えていいと思うのだが、浮上していた事情は不明である。霧のために潜望鏡では船団を発見できず水上レーダーを使用するためだったのかもしれない。

 護衛艦群はただちにこの敵に向かおうとしたが、その直後、米海軍の飛行艇が出現した。

 タイミングが良すぎる。

 あるいはこの潜水艦が何らかの故障を起こして浮上中であったために、飛行艇がその護衛に当たっていたのかもしれない。

 敵機は三機だった。一〇二号の戦闘詳報にはPBYと記録されている。

 これは「カタリナ」という愛称で呼ばれていた双発機で、約四千機が生産された、米海軍の代表的な飛行艇である。型番のBは爆撃機を示し、哨戒爆撃飛行艇という機種に分類されてはいるが、本格的な対艦爆撃は得意ではない。本来は近海警備用の哨戒機である。

 先に書いたように、黄海は日本の占領地域に囲まれた湾のような海域なのである。それにもかかわらず、その上空を、米海軍が日常的に使用している近海警備用の飛行艇が飛んでいる。その現実は、そこがすでに彼らの空となり、彼らの海となりつつあることを示していた。

 航続力から計算すると、このカタリナは沖縄から飛んできたものと考えていい。

 沖縄本島はこの時点ではまだ陥落しておらず、米空軍や海軍の大型機が進出できる飛行場も確保できていない。しかし周辺の海上はすでに制圧済みである。海上を発着できる飛行艇なら運用することができた。そして、飛行艇はこの時の米軍が同方面で使用できる飛行機の中で、もっとも脚が長い機体であった。

 カタリナの本業は沿海の哨戒と、海上に不時着した友軍機の搭乗員を救助することである。

 陸上では日米両軍の死闘が続いていたが、海と陸とを問わず、その上空では地上部隊の支援攻撃やカミカゼの迎撃のために、常に米海軍の艦載機が働いていた。

 沖縄に配備されたカタリナには、これらの飛行機が海上に不時着した場合に、その搭乗員を救助する任務が与えられていた。この夜来襲した敵機は、そういう事情で沖縄に展開していた機体ではないかと思う。

 なお、この戦闘について語られた複数の乗組員の回顧録などには、この米軍機はグラマンであったというものや、マーチン飛行艇であったとするものもある。しかしここでは戦闘詳報の記述にしたがってPBYとした。

 一〇二号は敵潜水艦を警戒しつつ、対空戦闘を開始した。

 出口二等兵曹はこの時、艇の中央部に設置された対空機関砲の射撃指揮官だった。

 この機関砲の口径は二五ミリだったが、日本海軍では、口径四〇ミリ以下の機関砲をすべて機銃と呼んでいた。以降はそれに従って機銃と呼ぶ。

 銃身が二本の連装機銃である。本体の左右に座席がついており、本体を台座ごと左右に旋回させる旋回手と、銃身を上下に動かし弾丸を発射させる砲手が、それぞれ座って操作をする。

 出口の任務は、狙うべき標的を決定し、その方向と上下角を、実際に操作を担当する二名の部下に指示し、射撃の実行を命令することであった。彼は機銃の脇に立つ。

 一基の機銃を担当するのはこの三名だけではない。弾丸の補給員がいる。

 この機銃の発射速度は毎分一二〇発、つまり一秒に二発である。弾丸の補給は弾丸を詰めた弾倉、つまりカートリッジを装填することで行うのだが、この中に仕込んである弾丸は十五発しかない。七秒半で撃ちつくしてしまうということになる。

 短すぎるようにも思えるが、これ以上弾丸を詰めるとすれば重量がかさむ。弾倉は人の手で運んで装填するから、これがあまりに重いと迅速な給弾に支障をきたす。十五発入りの弾倉の重量はおよそ十五キロだったという。

 この弾倉の装填を担当する係が、銃身一本につき二名配置される。したがって出口が指揮を執る部下は合計六名であった。

 夜間である。護衛艦群は敵機の爆音に向けてサーチライトを照射した。

 これは自らの位置を敵機に教えることにもなるのだが、搭乗員の目を幻惑し、光学式の爆撃照準装置を無力化するという効果もある。暗闇の中で一方的に撃たれるよりはましだった。

 カタリナは船団に対して十発ほどの小型爆弾を投下したが、それは全弾が海上に落ちた。

 爆弾を落としてしまうと、敵の攻撃手段は機銃掃射だけになる。その程度の打撃力で艦艇を撃沈することは難しい。それはふね自体にとっては安心材料だったが、露天甲板に生身の体をさらしている機銃員にとっては、同じことであった。

 出口はサーチライトが捉えた一機を目標に特定し、方位と上下角を指示して射撃を命じた。彼の配置のすぐ後ろには煙突があって、その中を通る排煙の熱で背中が妙に熱い。そのせいかどうかはわからないが、彼はすでに汗をかいている。

 射撃が開始された。発射音が耳を裂き、硝煙の匂いが嗅覚を刺激する。

 全速で走っている艇の上は、台風並みの風が吹いているのと同じである。機銃が吐き出した硝煙はたちまち艦尾方向に流れていく。いま出口たちが吸っている嫌な匂いの煙は、前甲板に設置された機銃と対空砲のものだ。

 その煙は目も襲う。煙に混じって海水の飛沫も目に入る。いつも対空戦闘をやったあとは、半日ほども目が腫れて痒みのある痛さに悩まされる。それでも目をつぶることは許されない。敵機の位置と、機銃の弾道、つまり弾の飛ぶコースから目を離すわけにはいかないのだ。

 対空戦闘に使用する機銃弾は、弾丸自体が発火しながら飛ぶ曳光弾という種類である。

 普通の弾丸だと、空という何もない空間に向けて撃つのだから、目標に命中しないかぎり、弾丸がどこに向かって飛んでいるのか判らない。そこで発火式の弾丸を使う。要は燃えながら飛んでいく弾である。昼間でも確実に見えるほどの明るさなので、これを夜間に撃ち上げるとまるで花火のようだったという。

 敵機もおとなしく撃たれてはくれない。搭載した機銃で撃ち込んでくる。爆弾を使い切ってしまった以上、とっとと引き上げればいいようなものだが、味方の潜水艦を逃がすための時間稼ぎだったのかもしれない。

 上空の飛行機から、夜間の海上を航行中の艦艇を視認するのはむつかしい。それどころか、サーチライトに捉えられてしまうと、ちょうど暗闇で車のヘッドライトに照らされたように、搭乗員の目は視力を失ってしまう。いきおい敵機の機銃員は、そのサーチライトの光源付近を狙うか、飛んでくる花火《@@》のコースで狙いをつけるしかない。

 出口の配置は艇の中央ほどにあって次々と花火を打ち上げている。しかもサーチライトから二十メートルほどしか離れていない。敵の機銃員に狙われる条件を、嫌なことに、ふたつとも備えていた。

 カタリナに搭載されていた機銃はやや小口径だが、そのぶん発射速度が速く、一定時間内に撃ち出される弾丸の量は機関砲に数倍する。弾丸は爆発しないタイプだが、本来は敵戦闘機を撃退するためのものだから、貫通力はかなり大きい。

 出口のまわりで、その機銃弾が跳ねた。

 一〇二号は対空戦闘を開始してから十五分後、敵機の機銃掃射によって、舵を動かすためのケーブルを切断された。これは鋼鉄製ではあったがいわゆるワイヤーである。しかも甲板上に露出した状態で張られていたものだから、いとも簡単に切断されてしまった。

 これでは艇の進む方向を変える事ができず、敵機の攻撃を回避することもできない。しかし幸いなことに、この被害を受けた直後に敵機は去り、対空戦闘は終了した。

 カタリナの機銃員が乱射した無数の弾丸は、一〇二号の艦体に百を超える着弾痕を残した。そしてその中のいくつかは、艦上の構造物に穴をうがつ前に、人間の体を貫いていた。

 出口の配置ではふたり死んだ。

 機銃の左側についた座席で射撃を担当していた砲手は、銃身を上下させるためのハンドルにもたれかかるようにして死んでいた。こめかみに直撃を受けたらしく、側頭部が無残に損壊し飛び散った脳漿が煙突の壁面まで飛び散ってこびりついていた。

 うしろでは、弾倉の運搬を担当していた、通常勤務では電信員の若い水兵が、自らの体からあふれた血の海の中に倒れている。夜が明けて出口が遺体を確認すると胸に穴が開いていた。それは彼のこぶしがそのまますっぽり入るほどの大きさだった。血で黒く汚れたその傷口から向こう側が見えた。

 カタリナが搭載する機銃は、口径が七・七ミリのものと、十二・七ミリの二種類である。

 その小さな弾丸が、人間の肉体に負わせる傷がそれほど大きいということを、出口はこの時初めて自分の目で確かめた。

 死んだふたりと出口とは二歩か三歩の距離しか離れていなかった。ひとつ間違えば、死んでいたのは自分のほうだった。しかし、彼がそのことを、幸運とか運命とかいった種類の言葉を使って考えるようになるのは戦後のことである。その時の出口は、次にこうなるのは自分の番だと、わりと冷静に考えていたという。

 この夜の戦闘で、一〇二号は十名の戦死者と二十名の負傷者を出した。戦闘の発端となった米潜水艦は、その後も彼らの前に姿を現していない。

 船団は五月二日にようやく門司港へ入港したが、一〇二号はその前日一日付けで呉鎮守府の所属となり、三日の午後には呉に入港した。

 呉防備戦隊司令官清田孝彦が一〇二号に乗艦したのは五月十七日である。彼は、一〇二号を旗艦として編成する呉海上防備部隊を直卒し、瀬戸内海西部の掃海作戦を指揮すべし、という命令を受けていた。

 艇長水谷保少佐が、司令官を迎える礼式で舷側に整列した乗組員と共に、清田と彼の幕僚の到着を待っていた。

 清田が乗艦するとマストに少将旗が掲げられた。これは、少将つまり司令官クラスの将官が乗艦していることを周囲に示す旗である。同時に一〇二号から手旗信号が発せられた。

「我、呉防備戦隊司令官ノ将旗を掲グ」

 この信号を読み取った、在港の各艦から返信があったかどうかは記録にないが、気の利いた艦からは、「ゴ着任ヲ祝ス」とか「我、将旗ヲ仰グ」といった祝辞が返信されたかもしれない。

 なにしろ司令官が乗組むということは、そのふねにとって大きな名誉なのである。司令官となりうる少将は天皇の勅任官だったから、いわば「陛下の股肱」である。一〇二号の乗組員は鼻を高くしたことだろう。

 一〇二号艇長の水谷は日本郵船の出身である。このひともまた生粋の船乗りで、乗組員から「親父」と慕われていた。ただし、彼はまだ若い。この時三十四歳か三十五歳である。

 狭い艦橋の中で、その水谷の横に清田がいる。

「やるなあ艇長。あの手旗信号は」

「ご覧になってましたか。いや申し訳ありません」

 そこに清田の主席参謀の朝廣中佐が口を挟んだ。少し難しい顔をしている。

「司令官、あれではまるで本艇が呉防戦の旗艦のようではありませんか」

 この時の一〇二号は、あくまでも呉海上防備部隊の旗艦であって、呉防備戦隊の旗艦として定められていたわけではない。部隊とはその時どきで臨機に編成される戦術単位の名称であり、戦隊とは海軍という国家機関の中の組織名である。海軍の用語はややこしい。

 分かりやすく一般企業にたとえるなら、戦隊とは地方支社や営業所のようなもので、旗艦は支社長室の所在地である。戦隊旗艦を定める場合は、事前に海軍省に届出をして認定を受けることになっていて、そう簡単に変更はできない。手続きまでややこしいのである。

 戦隊が支社なら、部隊はキャンペーンのプロジェクトチームである。真珠湾攻撃を担当した南雲機動部隊などがこれにあたる。部隊のトップを指揮官と呼ぶ。これもややこしい。

 ややこしいことをもうひとつだけ書いておくと、清田は呉防戦の司令官のまま、呉海上防備部隊の指揮官を任されたことになる。司令官だの指揮官だのと、読者にとってはどうでもいいことだろうが、おそらく清田にとってもそうだったろう。

「かまわんよ。確かに呉防戦司令官の将旗を掲げた。嘘を言ってるわけじゃない」

「本艇の乗組員を代表してお礼を申し上げます」

 水谷は清田に頭を下げると、続けて朝廣にも同じようにした。もとより朝廣にも重箱の隅をつつくつもりはない。清田がそう言うならそれでいい。笑顔になっている。

「戦死者もかなり出たんだってね。旗の一譌で元気を出してもらえるなら安いもんだ」

 清田はそう言うと、水谷に艇の案内を頼み、一緒に甲板に出た。

「このふねには、わたしも少々縁があるんだよ」

 彼は一〇二号がスチュワートだった来歴を承知しており、艇のちょっとした造作の部分に、日本の艦艇とは異なるところを見つけては、興味深そうに覗き込むなどしながら、水谷に話しかけた。

「開戦のころ、わたしは大佐でね。那智に乗っておったんだが」

 この章の最初に書いた通り、大佐という階級は軍艦の艦長だったことを意味している。

「那智もあのころ、ジャワ海に出ていてね」

「は、左様でありますか」

「めぐり合わせが少し違っていたら、私はこのふねと撃ち合っていたかもしれん」

「は」と、水谷は短く答えた。

「このふね、と言っては失礼だった。一〇二号哨戒艇になる前のアメリカ駆逐艦を撃ったのは阿部さんの弟八駆逐隊だよ。那智の五戦隊ともよく共同したものだ」

 那智はオランダ領インドネシアを占領するための一連の海上戦闘に、水上部隊の主力として参加し、多国籍海軍と砲火を交えた。同艦は第五戦隊の旗艦だったので、この時は戦隊司令官高木武雄少将が座乗していた。

 先に書いたように、この海域での戦闘は、全体としては日本軍の完勝で幕を下ろすのだが、那智と、同型艦の「羽黒」が主役となった「スラバヤ沖海戦」において、清田自身は冷や汗をかくような失態を演じてしまう。

「初めての実戦でね、会敵した時はあちらさんのほうが数も多いし、最初はどうなるものかと不安だったが、戦闘が始まればさすがに肝は据わったよ。ところが、最初の魚雷攻撃の時だ。那智は発射管の閉塞弁に故障を起こして魚雷が出ない。あれは恥ずかしかった」

 機械の故障は清田のミスリードではないが、最終的な責任は艦長としての彼にある。

 第一章と重複するが、清田はこの戦いから凱旋すると、スラバヤ海戦記念と白く印字された万年筆を乗組員全員に配った。下衆な根性で計算すれば、現在の貨幣価値で八百万円あまりのポケットマネーの散財である。これは海軍大佐の俸給一年分の額とほぼ等しい。

 これについては、清田の金銭に対しての考え方や、部下思いの人柄を偲ばせるエピソードとして先には紹介したのだが、実は少し気になっていたことがある。

 つまらないことを書く。筆者には万年筆が魚雷の形に思えてしまうのである。

 もしやしてこの万年筆は、信玄に大敗した家康が自分の情けない姿を絵に遺させたように、清田にとっては自戒を込めた記念品だったのではないか。

 日本海軍の最大の秘密兵器として、長年その訓練に精魂を傾けてきた必殺の魚雷が、よりによって実戦の場で、艦側の故障のために不発となったことは、艦長としては切腹ものの失態であったのだから。

 魚雷と万年筆の形状が酷似していることは偶然としても、清田には、それまでの俸給を返上しても足らぬという慙愧があったに違いない。少なくとも、この記念品は、勝利に酔った者の驕りの象徴ではなかったことを、筆者は確信している。ここで書いておきたい。

「あの時ばかりは、普段の整備の大切さを思い知りました」

 水谷は頷いた。もちろん彼が万年筆のことを知っているはずもないが、一〇二号も就役以来老朽化した機関の不具合をだましだまし戦ってきたのである。いざという時に本来の力を発揮できなかった悔しさは、戦った者でなければわからない。

「水谷くん、だから今回の整備は徹底的にやってもらう。上へは私からも言っておく。出撃を急がずに、万全を期して、全力を発揮できるように仕上げてください」

 清田はこのふねに乗る前まで考えていたことと反対を言った。彼としては一刻も早く海上に出たいと思っていたが、乗ってみれば、なんともはやおんぼろなふねだった。それに加えて、このふねの来歴はどうしてもジャワ海での失敗を思い出させる。整備を急がせることは、どう考えても正しくないと思えた。

 水谷は思った。この司令官はいい人だなと。それは、彼らに勝利や生存を約束する資質ではなかったが、それでも便利屋のようにこき使われてきた今までを考えれば、有難かった。

 しかし清田の言葉は、水谷が思ったよりも、もっと冷徹な、軍人としての思考が導いた結果だったとも言える。

「あのころ蘭印で一緒に戦ったふねはほとんど沈みました。生き残っていても燃料がなくて、油を余計に喰う大きなふねは作戦航海ができないでいる」

 彼らの場所からは見えなかったが、一〇二号の周辺の島影には、清田の言う大きなふねが、動けないまま錨を下ろしている。戦艦もいれば、空母もいた。

「そんな中で水谷くん、その蘭印で生まれ変わった一〇二号がここに来たのも、何かの縁だ。このふねはここからの日本を守る貴重な戦力だ。私も頼りにしている。ふねも乗組員もどうかいたわって、大切にしてやってください」

 清田はそこでいったん話を打ち切ると、水谷に案内の礼を言って、本来の任務に戻るように促した。艇長は忙しい。いつまでも付き合わせるわけにはいかなかった。

 清田はそれから司令部の居室の準備ができるまで、艦上を少し歩いた。

 駆逐艦には司令部要員のための部室や居室がなく、士官室などの比較的居心地の良い部屋をそれに割り当てるしかない。記録では、この日ベッドやふとんなどを艇内に搬入したとあるがおそらく彼らのためのものであろう。そういう作業中に司令官がそばにいたのでは、急かしているようでみっともない、つまりスマートではなかったから。

 清田の前には、兵学校のころから見なれた瀬戸内海の風景が広がっていた。今から三年前、そこには無敵艦隊を呼号した連合艦隊がその威容を誇っていた。

 ここから太平洋へ押し出して、真珠湾で米太平洋艦隊の主力に大損害を与え、マレー沖では英東洋艦隊の不沈戦艦を葬り、そして遠く蘭印で多国籍海軍を壊滅させた連合艦隊は、その時確かに、無敵艦隊と呼ばれるにふさわしい栄光の中にいた。分捕り品の古びた駆逐艦などは、その栄光の味噌っカスに過ぎないはずだった。

 しかし今、緒戦に常勝を誇った機動部隊は壊滅し、世界最大最強をうたわれた大和と武蔵もすでにない。味噌っカスだったはずのアメリカ製の旧式駆逐艦が、三年後、同じこの広島湾で最大級の可動戦力として頼りにされようなどと、あのとき誰が想像できただろうか。

「皮肉と言うなら、これほどの皮肉もあるまい」

 それは清田自身にとっても同じことだった。

 彼はこの二日後、日本海軍「最強」の対潜部隊を任せられることになるのである。

 

 もともと清田が受けていた命令は、瀬戸内海西部の掃海作戦の実施だった。

 掃海とは敵が落として行った機雷を排除する作業である。むろん重要な任務であることには違いないが、戦隊司令官が直接指揮するほど戦術性の高い作業ではない。

 おそらくこれは暫定的な命令であって、呉鎮守府が清田に対して出した指令は、

「とりあえず一〇二号を用意したから呉に来い。今後の作戦について意見を聞きたい」

 というほどの意味だったのではないか、そう思えるふしがある。

 というのも、この命令が、清田が呉に到着した二日のちに大きく変わるのである。

 新任務は、呉鎮守府の担当海面における哨戒および海上護衛全般とされ、一〇二号のほかに三隻の海防艦が清田の直接指揮下に置かれることになった。命令は電信で伝達されているが、電文ではこれを主隊と呼称している。加えてこの月の終わりには掃海部隊も編成され、清田はそれらの統一指揮をとることになっていた。

 この命令変更と戦力配置は清田の意見具申によるものと推測していいだろう。

 この布陣は明らかに三月末の豊後水道対潜掃討作戦で、伊藤義一大佐が率いた特別掃蕩隊を意識している。あの時は臨時の寄せ集め部隊であったが、それを常設の部隊として組織化することを、清田は以前から呉鎮守府司令部に進言していた。

 さらにここに来て事態はいっそう切迫している。清田は言っただろう。

「沖縄が陥ちれば、次の戦場は南九州の沿海部ということになる。その方面へ兵員物資を送る輸送路の安全は、なんとしても確保しなければならない。ところがその豊後水道を守るための佐伯基地は、敵の空襲を受けてすでに壊滅状態です」

 先に書いたように、佐伯防備隊は五月十三日の空襲で甚大な被害を出している。

「今では兵員も武器も防空壕に避難させるしかしかない有様です。爆雷をふねに積むにしても一個づつ防空壕から出して、何百メートルも先の駆潜艇まで人の手で運ぶしかない。これでは事態に即応した対潜作戦など実施しようがありません」

 それでなくとも特設駆潜艇は対潜能力が低い上に、その数も激減していた。

「そこで、一〇二号だけでなく、訓練を修了した海防艦の相当数を投入して有力な水上部隊を編制し、佐伯空の対潜哨戒機と連携した対潜機動部隊とする。これしかありません」

 それは、対潜訓練隊の樋口中尉や航空隊の竹崎中尉ら若手士官が、呉防戦首席参謀の原田とともに練り上げ、上官の清田や西岡に語った構想そのものだった。

 訓練隊はすでに日本海に去った。彼らが研究し、伊藤が豊後水道でその有効性を実証した、海空戦力の集中機動運用というプランの実現を、この時上級司令部に訴えることができるのは清田だけだった。

 呉鎮守府司令部はようやくこれに応えた。それが命令変更と新部隊の編成という形になって表れたのであろう。

 部隊を構成する艦艇は一〇二号ほか三隻の新鋭海防艦で、対空対艦および対潜戦闘の能力は漁船改造の特設駆潜艇で編制されていた呉防戦の部隊とは、比較にならないほど強力だった。その打撃力は伊藤が率いた第三特別掃蕩隊に匹敵し、しかも優速の一〇二号がいる。

 さらに、清田は呉防備戦隊司令官として佐伯航空隊に命令できる立場だから、航空部隊との共同作戦を、他からの掣肘を受けずに立案実行することが可能である。

 これが先に日本海軍最強と書いた部隊のことである。わずかに小型艦艇四隻。本当に最強と呼んでいいかどうか、検証するのも無意味のような艦隊だが、航空戦力を統一指揮の下に動員できるところが強みであった。

 しかし、清田が命令を受領した段階では、これは画に書いた餅でしかなかった。ふねがまだ揃っていないのである。

 清田に与えられた四隻のうち、直ちに行動可能なのは海防艦一隻だけだった。残りは能登の五十一戦隊から、これから送ってもらうのである。一〇二号の整備が仕上がるのも、しばらく先のことになるだろう。

 清田は最近の上級司令部が朝令暮改であることに少し不安を残しながら、命令を受領した。それは、ふねが揃う前に司令部の気が変わらなければいいが、という、まことに情けない不安だった。別に鎮守府司令部が無能だったのではない。完全に受身の戦局では、敵の打った手にそのつど応えていくしかなかったのである。

 それは詰め将棋だった。ただし詰めているのは米海軍のほうで、詰みきられるのはいつか、それもまた時間の問題に思えた。

 

 一〇二号がようやく整備を終えて、清田と共に佐伯に入港し、守後浦の岸壁に艦首を向けて錨を投じたのは、それからおよそひと月後の、六月十一日のことであった。

 清田の不安は的中していた。頼りにしていた三隻の海防艦のうち、第四十八号は佐伯入港の前日に編成替えとなって下関に派遣された。第七十七号は舞鶴で整備中であり、結局のところこのとき彼の指揮下にあったのは、一〇二号と、第一二六号海防艦の二隻だけである。

 清田は司令部を陸上に移し、そこで指揮をとることになった。弱小ではあっても現有戦力を集中して機動運用しようという彼の提案は、この段階で大幅に縮小された形となった。

 守後浦のそれぞれの家では、浦前の海に泊まったグンカンについて、その夜ひとしきり話が弾んだが、その中には、こういう心配をする者も多かった。

 ああいうふねがすぐそばいると浦が敵機の目標にされやすい。もし爆弾が少しでもそれて、浦の中に落ちたらエライことで、家の五軒や六軒は吹きとんでしまう。

 翌日、文太郎は遅い昼飯を済ませると、寄り合いがあると言い残して家を出て行った。何のための寄り合いなのかは家族には伝えていなかったが、議題はそのことだった。

「なあ文ニィ、もうチイと沖に泊まってもらうように頼むわけにいかんじゃろうか」

「そうじゃ、ほれ、怒和島《ぬわじま》とやらいうのが浜に乗り上げた石間の浦ではの、そのねきの衆は、家財道具もあらかた他所に移しちょるらしい」

「だいたい、文ニィんとこが一番あぶねえじゃねえか。目と鼻の先じゃ。アメリカがちょっとクシャミでもすりゃあ、文ニィんとこにドカンちくるぞ」

 衆論はどうやら「立ち退き要請」に傾いている。彼らはそんな請願が受け入れられるはずはないことを知っていたが、文太郎なら良い知恵も出るのではないかと期待しているらしい。

 文太郎は困った。さすがに今回ばかりは彼らを安心させるうまい考えが浮かばない。しかしそれを表情に出さずに、いかにものんびりした口調で言った。

「ほいてもアメリカにの、ちゃんとふねに中ててくれ、とも頼めんじゃろうが」

 誰も笑わなかった。隣家の坪根の重蔵だけが「そうじゃのう」と相槌を打った。

「だいたい、あのふねがいつまで居るんかもわからんじゃろ。何ちゅうふねか、あれは」

 人々の中に耳の早いのがいて、哨戒艇一〇二号だと文太郎に教える。

「ははあ、それなら心配ねえ」

「文ニィ、名前聞いただけで何が分かった」

「ええか、哨戒艇ちゅうたら、そりゃあ脚が速えふねじゃ。敵機が来たら、これがな」

「どうするんか」

「すぐ逃げる」

「おお、逃げるか」

「煙突が三本も四本も立っちょったじゃろ。ありゃあな、釜がその数だけあるちゅうことで、そのぶん脚が速えちゅうことよ」

「そういやあ、石間のは一本煙突じゃ」

「じゃろ。まあ、あんまり心配することはあるめえ」

 文太郎は口からでまかせを言ったが、仕方がなかった。いくらなんでも海軍に出て行けとは言えないではないか。言えたとしても相手がきく訳がない。

「そういや孝太郎はどうか」

 ひと安心したのだろう。誰かがそんなお愛想を言った。

 

 家では恵美子と香代子が夕飯の支度を始めようとしていた。桂佑は野良仕事に出かけており徳は孝太郎を連れて、実家の東《あずま》の家へ何か用を足しに行っていた。

 表から「こんにちは」と、聞き慣れない声がした。

 聞き慣れなかったのは、知らない声だというばかりではなく、張りがあって少し甘い、若い男の声だったからである。島の住人でないことはすぐ知れた。

 言葉も、この島の者はまず話さない、きれいな標準語のイントネーションだった。恵美子と香代子は顔を見合わせてお互いの不審を交換したが、すぐに恵美子が出て行った。

 玄関脇の土間の入り口から外に出てみると、海軍の略服である三種軍装の若い男が、ふたり立っていた。

 恵美子はすぐに「あのグンカンの人じゃな」と気づき、「ごくろうさまです」と頭を下げた。男たちはそれに応えて、顔を相手に向けたまま、上体を小さく前に傾ける会釈式の敬礼をしてそれから名乗った。

「私は、昨日そこの岸壁につけた、哨戒艇一〇二号乗り組みの出口と申します」

「伊藤です」

「はあ、ごくろうさまです」

 もう一度そう言った時には恵美子はもう落ち着いていた。お辞儀をしたときに袖章を見て、相手が下士官であることも知った。

「お父さんはいらっしゃいますか」

 出口と名乗った、背の低い方の兵曹が言った。彼らは下宿を頼みに来ていた。

 

 一〇二号の乗組員は、艇長以下二一七名である。

 ちょうどこの日、六月十二日付の戦時日誌に乗組員の構成が記されているが、それによると艇長を含めて准士官以上十二名、下士官六十名、兵百四十五名となっている。

 彼らは、航海中はむろんふねを家として全員が共同生活をするが、入泊中はそうではない。港に錨を下ろしている間は定められたローテーションで上陸が許可されており、外泊することができた。これを入湯上陸と呼ぶ。

 外泊といっても、上陸のたびに、旅館や、夜通し遊べるその筋の施設に泊まっていたのでは金がいくらあっても足りない。普通は下宿を借りて、そこに泊まることが多かった。

 上陸のローテーションは階級によって区別されており、最下級の水兵になると一週間に一度ていどだが、これが下士官になると一日おきに増える。そこで、下士官は二人ひと組となって一軒の下宿を借りるのである。こうすれば、ひと月分の下宿料でふたりが泊まれる。

 一〇二号の乗組員たちは、その半数以上が大入島に下宿することになった。それ以外の者がどのようにしたのか、例えば佐伯の街のほうに下宿先を探したのかどうかは分からない。

 山本家の人びとの記憶によれば、艇長の水谷少佐は、守後浦の浜野というわりと大きな家に部屋を借りたらしいが、これも確証はない。

 下宿は個人契約である。それぞれが勝手に下宿先を探し、家人と交渉しなければならない。下宿料も個人の懐から直接支払う。しかし、文太郎の家だけでなく、守後浦の人びとは今まで海軍さんに下宿を提供した経験がなかった。恵美子も要領が分からない。

「はい、ご用はわかりました」

 恵美子は一度頷いてから、

「けんど今は父も母も出ておりますので、私ではお返事ができません」

 そう答えた。

「お帰りは遅いでしょうか」

「さあ、寄り合いがあっちょりますから。ちょっと待っとってもらえますか」

 恵美子はそう言うと坪根の家に声をかけに行った。文太郎は帰りの時刻を言わなかったが、重蔵は何かを言い残して行ったかもしれない。そう考えた。

 出口はその間、家や庭をなんとなく眺めていたが、別棟になっている建屋の足元のところに薪が積んであって、風呂の焚き口に灰が溜まっているのに気づいた。

「風呂がある。ここがいいな」

「ほんとだ。出口、ここに世話になろうや」

 守後浦の家にはたいてい風呂があるのだが、彼らはそれを知らない。

「隣にも家があったんだな。道からは見えなかったが」

「稲田に世話してやろう。俺たちが隣ならあいつも気が楽だろう」

 こんなことを話しているうちに恵美子が戻ってきて、やはり帰りは分からないと告げ、明日もう一度来てくれませんかと付け加えた。

 出口と伊藤はそれでは明日と言い、もう一度会釈の敬礼をして、恵美子のお辞儀を受けた。

 ここでほかの家を訪ねることをせず、明日もう一度来るということは、彼らはこの家を気に入ったということだった。しかし恵美子のほうは、台所に戻って妹に事情を話すと、最後に

「この狭い家に大の男のもう一人は、いくら何でも無理じゃろう」

 そう言って笑った。

 家は今で言うところの4Kの間取りで、田の字型に仕切られている。台所は土間にあって、田の中には入らない。このうち左二部屋が家族の食堂兼居間で、右には座敷と狭い蒲団部屋があった。この十畳ほどの座敷に、徳と孝太郎を除く七人が寝る。

 徳は孝太郎に添うて居間で寝る。赤ん坊は夜中であっても乳を欲しがり、おしめが濡れたといっては泣くものだから、そうしていた。

 客に寝室を提供するとなれば座敷しかない。そこは蒲団部屋への通路にもあたるから、田の右半分には、家人は誰も寝られなくなる。家族全員で居間に寝ることになれば、それは大層な窮屈さになるはずであった。

 ところが、翌日ふたりの再訪を受けた文太郎は、ふたつ返事で彼らの下宿を請け負った。

「見た通り狭い家じゃけんど、それでもええですかの」

「結構です。わたくしたちより、ご家族が不便ではありませんか」

「なんのい、家の者どもはどこでも寝られます。今の季節なら蒲団もいらんしの」

「ありがとうございます。それでは早速」

 今夜からでもと出口は言いかけたが、それはさすがに慌しすぎて迷惑がかかるのではないかと気づき、口ごもった。

「ああ、今日からおいでんさい」

 文太郎はこともなげにそう言った。それから出口たちがいったん家を辞すと、恵美子たちに家の掃除と、片づけを命じた。

「もうすぐ死ぬる衆なんじゃ。できるだけのことをしてやらんとの」とも言った。

 

 この日、家に泊まることになったのは出口兵曹のほうである。

 出口弘はこのとき二十四歳。名古屋の酒屋の家に七人兄弟の末子として生まれ、対米開戦の昭和十六年に徴兵されて、新兵教育機関である海兵団に入った。

 初期教育修了後、特設掃海艇「第六玉丸」に配属されるが、それが開戦の一週間後だった。掃海艇は海中の機雷を処分するふねである。特設の文字が示すように、第六玉丸も徴用された民間船で、その前身は大洋捕鯨のキャッチャーボートだった。

 このふねは第三十一掃海隊に所属していたが、この掃海隊は呉防備戦隊の構成単位だった。これなども、縁かもしれない。

 出口はやがて江田島海軍兵学校付きとなり、海軍砲術学校練習生を経て、昭和十八年七月に第一〇二号哨戒艇乗組みの辞令を受け、インドネシアのスラバヤに赴いた。

「砲術学校を出るということは、将来は下士官になるぞということです。家には上に兄たちがおりましたから家業を継ぐこともありません。それで職業軍人になろうと思いました」

 食うためでしたと出口は言う。下士官になれば除隊後の恩給もつく。

「今ふうに言うなら、軍隊の正社員になる、というところです」

 下士官の階級である二等兵曹に進級したのは昭和十九年の十一月である。

 これは単なる昇級ではない。兵隊までは兵役の義務に服しただけのことであるが、下士官は官の文字が示すとおり、国家の官僚として任官されたのであり、また自分の意志で軍人という国家公務員になったことを意味する。

 艦内での下士官は、配置部署ごとの指揮官と言ってよいと思う。彼らの中でもっとも軍歴の長い者は先任下士官と呼ばれ、一般兵からは神様のような存在として重んじられるが、出口や伊藤は、まだそこまでの身分ではない。

 

 この日から、山本家の一番風呂は彼らがつかうようになった。

 食事も彼らが先である。文太郎は家族にそれを徹底させたが、ことさらに細かく言いつけたわけでもない。

「桂佑と亮ははたちで死ぬる」

 それゆえに、ふたりの息子には、幼いころから、家族の中ではいいめしを食べさせてきた。そういう家であった。徳や恵美子や、香代子には、出口たちをどう遇すればいいか、言われずとも分かっていた。

 この夜の食卓には、琉球と唐人干しがたっぷりと用意された。味噌汁の実はアオサである。さらに小イカの墨煮が出た。味付けは塩だけだが、わたや墨も一緒に煮るので味が濃い。

 出口はまだ明るいうちから風呂をつかわせてもらったが、上がってくると、そういう料理が高脚の膳に並んでいた。その脇にはめしびつがあって、それにかけた布巾が湯気でしっとりと湿っている。

 給仕は恵美子である。そのようにして、家族とは別の間で、出口ひとりだけで膳に向かう。

 家族はその間どうしているか。文太郎は風呂に入る。香代子は台所で家族のぶんを用意している。そのほかの子供たちは、父親が風呂からあがるまで飯台につくことが許されないから、小さいのが台所の隅で遊んでいたり、桂佑が納屋のそばで野良の道具の手入れをしていたり、亮は明日の分のわらじを作っていたりと、それぞれが、それぞれにめしを待っていた。

 そういう中で、徳だけが恵美子のとなりで出口の相手をする。

「ようけ食べてくださいな。たいしたもんが無うて気の毒じゃけんど」

 出口としては、いえ、とても美味いです、としか答えようがない。ありきたりな返答だなと自分でも分かっているが、食事中に、しかも初対面同然の女性と、口数多く会話をするようなしつけを、彼は家でも海軍でも受けていない。

 ところがこの家のおかみさんときたら、めしはまだあるか、汁はしょっぱくないか、さらに膝を崩して食べなさいなどと、世話を焼きたがることおびただしい。

 徳があんまりすすめるものだから、出口は、もうこれ以上は入らぬというまでめしを替え、汁を替えた。さすがにめしが三杯目になった辺りで畏まっていても仕方がなくなり、くだけた物言いになった。

「いやあ、本当に美味いです。こんな美味い魚は今まで食ったことがありません」

「けんど軍艦の中じゃあご馳走が出るんでしょう」

「いえ。とてもこんなごはんは食べられません。特に、航海に出ると缶詰ばかりです」

 これはお愛想でもあったし、本音でもあった。

 国民は飢えに苦しんでいても、軍へは優先的に食糧が供給されていた。彼らは肉も魚も卵も食べることができた。航海中の食事の味気なさは先に書いたが、三食とも麦入りとはいえ米のめしだったし、副食はたとえ缶詰であっても肉や魚の料理だった。

 生鮮食品ばかりは我慢するしかないのだが、料理の味は悪くなかったらしい。長い航海では食事が唯一の楽しみである。それをおろそかにするなら士気も低下する。そんなことで海軍のめしは美味いというのが当時の定評だった。 

 たとえば醤油の香ばしさが食欲をそそる竜田揚げなども、もとは巡洋艦「龍田」の烹炊所で発明された海軍料理である。徳が言ったように、海軍のめしは、このころ芋ばかり食べていた民間に比べれば大ご馳走であった。

 だいたい肉など、桂佑や亮の口に入るのは一年に一度きりである。それにしても文太郎から佐伯の街に連れ出してもらった時にだけ、食堂で食べさせてもらえる親子丼の中の、わずかな鶏肉だけだった。

 鳥獣肉の摂取量、年間たったの五〇グラムである。配給がまったくない訳ではなかったが、前にも書いたように、配給とは購入許可が出るだけであって、ただで配られるわけではない。そもそも肉屋というものが守後浦にはなかった。

 ところが海軍では、少し古いが昭和十七年の資料によると、一人あたり一日一三〇グラムの肉類が配食されることになっている。肉は豚牛鯨を主として、兎肉や鹿肉などもあった。

 そういう食生活をおくってきた出口が、この家の田舎料理を心底美味いという。確かにこの家の膳は、兵食よりもはるかに新鮮な海の幸に恵まれていたが、美味さの理由はそれだけではなかったのだろう。

 ぜんぶ手料理である。めしも炊きたてだ。それを妹のような恵美子の給仕で、母親のような徳から「ゆっくりたくさん食べなさい」と声をかけられながら食べる。彼にはそれが何よりのご馳走だった。

 しかし、あんまり美味いうまいとばかり言うのも、本音ではあっても白々しいと思ったか、出口はふねの食事を少しだけほめた。

「ふねの上で一番美味いのは夜食です。当直に立つ時などは特に楽しみです」

 二十四時間勤務体制の艦内では間食も出される。握り飯が多いが、時には汁粉やいなり寿司などというものが出る。

「このいなり寿司というのが缶詰でして、なかなか美味いんです」

 出口はそう言って、そこまでにした。手料理をいただきながら、よその食い物を褒めるのはなんにせよ行儀のいいことではなかったから。

 ところが恵美子は気になった。いなり寿司がどうやったら缶詰になるんじゃろう。

 気にはなったが、それを出口に尋ねることはできなかった。嫁入り前の若い娘が、食べ物のことを、会ったばかりの若い軍人に尋ねるなど、それこそはしたない話である。

 恵美子はそのことに気を取られて、ほんのわずかな間であったが、ぼんやりと出口を見た。その時、ちょうど顔を上げた出口と目が合ってしまったものだから、どぎまぎした。彼女は、とっさにその場を取り繕うために席を立った。

「お茶をお持ちしますから。お母さん、ここお願いします」

「お母さんちゃ誰のことか」と徳は思ったが、よそさまの前なのだから、母ちゃんでは確かにみっともない。そう合点したあとは気にもしなかった。

 

 下宿に泊まった乗組員は、翌朝点呼までにふねに戻らなければならない。この季節であれば朝六時である。

 出口が泊まった翌日は伊藤兵曹がやってくる。こんなふうにして、文太郎の家ではふたりの新しい家族を迎えたのだが、それは意外なほど平穏な毎日だった。

 彼らは朝になると、まるで会社に出勤していくような足取りで出かけたし、帰って来た時はよほどそれがうれしいのか、子供がただいまを言うようなにこやかさで玄関を揚がってくる。その様子を見ていると、彼らが命がけの仕事に就いているとはとても思えなかった。

 実際のところ、ここに来て以来、出口たちの勤務はまことに悠々としていた。というのも、出撃命令が降りてこないのである。彼らは日がな一日艇の各部の整備作業にかかり、あるいは定例の艦上訓練に時を費やしていた。

 時には作業要員として十数名が島に上陸することもあった。彼らは徒歩で石間浦に移動し、浜に乗り上げたままの怒和島から機銃を降ろして、別の特設駆潜艇に載せ換えるというような作業を行った。軍装ではあったが、ほとんど手ぶらの水兵が隊列を組み、まるで遠足のように行進している姿は、何とはなしに頼りなく見えた。

 守後浦では集落のはずれの山肌に洞窟陣地を掘る土木作業が始まった。これは爆雷その他の弾薬類を避難保管するための、防空壕になるということだった。

 そこまではまだよかったのだが、さらに日が経つと、彼らは島の手ごろな場所で開墾作業を始めた。芋畑を作るためだった。また一部の者は、艇に搭載している小型のボートを下ろし、網を打って魚を獲るという、漁師の真似事をはじめた。

 まだある。これは梅雨が明けてからの話だが、浜では海水を原料にした製塩まで始まった。海水を煮詰める燃料としての薪をとるために、山にも入る。

 これらの作業は余暇を利用してのことではない。一〇二号はふねをあげて食料確保のための労働に取りかかったのである。

 さすがに守後浦の住人たちは、あきれた。

「あん衆は、佐伯まで何をしにきたんじゃ」ということになった。

 彼らの目の前を、手製の「もっこ」に薪を満載して背負った、帝国海軍が歩いていく。

 

 清田と朝廣たち幕僚は佐伯入港と同時に艇を下りて、佐伯航空隊の庁舎に移っていた。

 先に書いたように、清田の指揮下に入るはずだった四隻のうち、実際に配備されたのは二隻のみである。しかし戦力の多寡は問うべきではない。清田らは、命令が下れば手持ちの戦力を動員して最善を尽くすつもりであった。ところが、その命令が来なかった。

 理由は沖縄である。

 六月十三日、出口が初めて文太郎の家に泊まった日である。沖縄では、海軍根拠地隊司令官太田実少将が自決した。

 この時点で日本軍はすでに壊滅状態だったが、守備軍主力である陸軍部隊の司令部が同様の最期を迎え、大本営が沖縄戦の終了を宣言したのは二十五日である。

 沖縄の失陥は、日本軍がそれまで重ねてきた敗北とは、まったく異なる意味を持っていた。次の戦場は本土である。九州か、関東か、いずれ国民全員を直接戦闘に巻き込む地獄が、目の前に口を開けて迫ったことを意味していた。

 これ以降、日本軍の作戦計画は、連合軍の本土侵攻作戦をいかにして迎え撃つかという点に集約されることになる。作戦という名に値するかどうかは置き、それは特攻の集中であった。航空機や小型艦船を使っての体当たり攻撃だけが、日本に残された唯一の戦い方だった。

 このため通常戦力で編成された部隊は、その行動をいわば凍結されることになった。原因は燃料である。それでなくとも底をつきかけている上に補給の見込みもない。特攻兵器以外での消費はできるだけ控えさせねばならなかった。

 清田の部隊に出撃命令がおりない理由はそれだけではない。そもそも護衛すべき艦隊や船団自体がすでに存在しないのである。

 豊後水道を出て行くふねはほとんど絶えた。行き先はすでになかった。この時点でも台湾やインドネシアは日本の制圧下にあったが、そこへ至る道は完全に米軍が封鎖しており、航海は自殺行為だった。残り少ない輸送船舶は日本海航路に回された。

 呉防備戦隊そのものの存在価値がなくなってしまったのと同じだった。

 そしてそれは、このあとすぐに形となって表れるのだが、もうしばらくは出口たちの様子を追ってみたい。

 

「のう、文ニィ。あの衆は何をしに来ちょるんじゃろか」

 文太郎が、守後浦の住人からこんな具合に話を向けられたのは、一度や二度ではなかった。彼はそのつど「腹が減っちょるんじゃろう」などと素っとぼけていたが、時には、

「屯田《とんでん》というての、軍隊が行った先で、自分で食料を賄うのは昔からあることじゃ」

 などと、例によって物知りぐちをきいて、人びとの不審を拭ってやった。

 文太郎にしても、海軍の船乗りが漁師や百姓の真似をせねばならないという事態は、決して喜ばしいことではないと分かっている。しかし海軍には海軍の都合もあるだろう。別に悪さをしているわけでもなし、目くじらをたてることもなかろうと思っていた。

 当の出口たちも、島民たちにそんな口を叩かれているだろうとは察し、肩身は狭かったが、しかし実際に、彼らの耳にその手の悪口が入ってくることはなかった。島びとは率直な疑問を抱きはしたが、彼らの海軍に対する好意は、まださほど失われていなかった。

 出口にとって、文太郎の家はじつに居心地がよかった。

 彼はすでに初日の夜から、夫婦のことを「お父さん、お母さん」と呼んでいた。初めの頃はその家のお母さんというほどの温度だったが、それは日毎にぬくもりを増した。

 出口の順番の、何度目かの夜。徳は文太郎の浴衣を出して出口に着せた。上物であるはずもなく、襟のあたりの擦り切れにあてが当たっていた。出口はそれからこの家に泊まるたびに、風呂から上がるとこの浴衣をつけた。

 糊こそ利いていなかったが洗いざらしである。肌に直接つけると体中の皮膚が息を吹き返すような気がする。その格好で新鮮な魚を腹いっぱい食ったあと、西向きの縁側から暮れかかる浦前の海を見る。

 梅雨だったから雨もよく降ったが、それも悪くなかった。

 降る日は海がけぶって見えなくなる。

 出口にとって海は戦場である。恐ろしいところでしかない。

 それが見えなくなる。敵も味方も見えなくなってしまう。戦争が彼岸に去って、ひとときの安息が訪れたように思える。

 庭の緑が洗われているのを見る。葉は大きな雨粒にずっと弾かれているのに、むしろそれを喜ぶようにピンと張ってたわみもしない。生きているのだと胸を張っているように。

 そうしていると奥の部屋から食事をとる家族の声が聞こえてくる。いただきますのあとにはあまり会話がなく静かなのだが、時々恵美ちゃんと香代ちゃんの声がする。いま香代ちゃんが「はいはい」と言ったのは、桂佑君がお替りでもしたのだろうか。

 そう言えば飯台とかいう、あの大きなちゃぶ台はいいものだなあ。みんながひとつの食卓に並んだり向かい合ったりして、肘をつき合わせてめしを食うのがいい。亮くんやのりちゃんが飯の粒を口元につけたりすると、横にいる恵美ちゃんがそれをとってやる。優しい目をもっと優しくしてな。うん、お母さんがふたりいるみたいだな、この家は。

 商家に生まれた出口の食卓は、子供の時からずっと銘々膳だった。ことさらに厳格な家庭であったわけではないのだが、この家のひとつ飯台での食事は、家族がそろって膳を囲む幸福をひとしお濃く感じさせた。少し羨ましかった。

 出口と伊藤の食事はいつも恵美子の給仕で、徳が話相手だった。このことはふねの中でも、「出口と伊藤はうまくやったなあ」などとかなり羨ましがられていた。

 それは恵美子のことを言っている。何といってもはたちの娘だ。しかも、実はけっこう美人なのである。

 だからまわりではそんなふうに言う。出口も悪い気はしない。それでもこの家族に馴染んでくると、いつまでも自分ひとりがお客さん扱いなのが、少し寂しくなってくる。

「俺もこれから、あそこで一緒に食わせてもらえんかなあ」

 そんなことも思う。

 もっとも、山本家にしてみれば、それはちょっと具合が悪かった。

 徳は食料の配分など考えもしないように、その日手に入った魚をほとんど全部、出口たちの膳に出していた。このため子供たちの食事は目に見えて粗末になった。飯と味噌汁と唐人干し以外には、三日に一度さつま汁があるかないかだけになった。

 飯もそれまでに比べると麦の割合が増えた。芋も混じった。このころの全国平均からすればそれでもトップクラスの飯だったが、今までに比べれば明らかにグレードが落ちた。

 米が足りなくなったのだ。出口たちには白い米だけで炊いた飯を出していたからである。

 海軍でもいわゆる銀シャリは士官しか食べられない。下士官や兵の飯は麦飯である。これは階級差別というよりは、兵の健康管理のためだった。

 有史以来、長い航海をする船乗りにとって最大の敵のひとつとされていたのが、ビタミンの不足によって罹患する脚気である。麦飯はその予防のために導入されたのだが、不味いものはまずい。だから出口たちには白い米だけの飯もご馳走だった。

 そこまでして上げなければいけないのか、とは、この家の誰も思わなかった。

 桂佑や亮も不満を口にしない。そんなことをすれば、文太郎の「ほいたら食うな」の一言で終わりであることを分かっていたし、めしの格付けの優先順位が、死ぬる順であることも十分承知していた。あの人たちはもうすぐ死ぬのだ。だから白い飯なのだ。

 そういう食卓であったから、そこに出口や伊藤が一緒ということになると、飯や魚の配分上つごうが悪い。まさか彼らの前で、これ見よがしに麦だらけの飯を食うわけにもいかないではないか。出口らにしても、自分たちだけ美味い魚を食っているとなれば居心地が悪かろう。

 そんなことで、もし出口らが「一緒に食べさせてください」と申し出たなら、徳と恵美子はそれを断る理由を探すのに苦労したかもしれない。

 しかし、さすがに出口も伊藤もその事情を察していた。察していたが、だからといって特に忖度しなかった。それはお母さんに恥をかかせることだった。

 彼らはその代わりに、下士官の顔で調達した、この家にとってはむしろ有難い品物を土産に持ってくるようになった。

 海軍艦艇や兵営には売店があって、これを酒保という。ここではもう町場に出回っていない菓子や、ちょっとした雑貨なども買えた。まったく自由な買物ができるわけではなく、階級によって様々な制限があるのだが、そこで下士官の顔が利く。

 士官は制度上さらに優遇されているのだが、立場上こすっからい真似ができない。それより兵の親分格である下士官のほうが、こういうところでは闇の自由が利くのである。

 彼らは石鹸やマッチなどのほか、時にはキャラメルや饅頭なども持って来た。そしてそれを子供たちに直接あげることをせず、必ず徳に手渡した。

「恵美ちゃんや香代ちゃんにあげるものがなくってなあ」

 出口がある時そう言った。それはそうだろう。海軍のふねの中に、若い娘の喜ぶような物を売っているはずがない。

 彼女たちは、もともと何が欲しいなどという考えそのものを持ちつけない娘たちだったから出口にそう言われても恐縮するだけだった。

 ただ一度だけ、恵美子が出口に、鉛筆が手に入らないでしょうかと頼んだことがある。亮が学校で使うためのもので、そのころ亮は数センチにまでちびた鉛筆を、ちょうどそれがはまる太さの竹を伐ったものに継いで使っていた。

 出口は酒保で聞いてみたが在庫がなく、代わりに自分の使っていた鉛筆を恵美子に渡した。

 彼は「使いさしだから」と言って、恵美子が用意した代金を受け取らなかった。困りますと抗議する彼女に、出口は、それではと食い物の無心をした。

「干し芋でいいんだけど、手に入らないかなあ」

 恵美子は喜んで都合をつけてやったが。ちょっと合点がいかなかった。

「キャラメルや饅頭をふねの中で買えて、いなり寿司の缶詰を食べちょるひとが、なんでまた干し芋なんかを欲しがるんじゃろう」

 いなり寿司にこだわっている。

 要するに、出口にしてみれば、甘いものはいくらでも欲しかったということである。いくら下士官の顔が利くとはいっても、酒保で買える回数も品物の数も知れている。

 干し芋を受け取った出口は心底うれしそうに目を細めて、恵美子に礼を言った。彼のほうが年上なのだが、小柄ということもあって、恵美子にはそういう出口が妙に可愛らしく見えた。

「あらまあ、桂や亮とかわらんこと」

 恵美子が徳にそれを話した。恵美子は面白げに話して聞かせたのだが、徳はそんな娘を見て寂しそうに笑って見せた。それからため息混じりに「むげしえのう」と言った。

「ウチもなあ、あの人たちが息子みてえに思えるわあ。けんどなあ恵美子」

 徳は娘から視線をそらして、手元の繕い物を見つめていた。

「エエ人たちじゃけどな、死ぬるひとじゃけな。忘れたらいけんよ」

 彼らを肉親のようにいとおしく思うほど、それだけ別れが辛くなる。そういう意味のことを言った。徳はそれを言ってから、それを言うのが少し遅すぎたかもしれないと思った。自分にとってもそうであったし、娘にとってもそうなのに違いない、と思った。

 恵美子はひとこと「うん」と言うと、台所に立ってイカの身を剥き始めた。干しイカにして出口に持たせてやろうと貰ってきたものだった。彼女がそれを終わらせるまで、母と娘はもう何も話さなかった。

 

 ある日の夕暮れ時。と言っても、夏至を過ぎたばかりのこの頃では、すでに八時をまわっていたが、坪根の家に下宿していた稲田一等水兵が、夕食の後に、園が盛ってくれた枇杷の鉢を「おすそ分けです」と言って出口に持って来た。出口は稲田を海岸に誘った。

 その日は梅雨の中休みか、ほとんど一日中太陽が顔を出していて、西に向いた浦前の海では夕焼けが綺麗だった。

 出口は岸壁に腰掛けた。稲田が横で畏まっている。

「遠慮するな。貴様も座れよ」

「いえ、わたくしはこのままで」

「馬鹿だなあ。まあ遠慮はいいが、俺が落ちつかん。いいから座れ」

 稲田は、それではと会釈をして出口の横に座ったが、座れと言った出口がそれを見咎めた。

「ははあ稲田。貴様、バッターをやられたな。吉水か、土居か」

「いえ。はい」

 どのみちばれている。稲田一水は一度否定して、すぐに認めた。

 バッターとは、上級者が下級者に加える体罰の一種である。

 精神注入棒と称するバットのような棒で、ふんばって立つ受刑者の尻を思い切り強打する。一発だけでもかなりの苦痛である上に、執行人の腹の虫の居所によっては何発もやられるのが当たり前で、海軍経験者の回想記などの中でもすこぶる評判が悪い。

「座り方ですぐ判るんだ。ははは、それで座りたくなかったのか」

「すみません」

「災難だったな。みんなイライラしてるんだ。毎日野良仕事に穴掘り。何だって、こんな作業ばっかりなんだってな。貴様の班じゃなんて言ってる」

 出口が聞くと、稲田は少し声を低めて言った。

「みんな本土決戦なんだからしょうがないって言ってます」

 こういう時の兵隊は、たとえ不満の声が上がっていても、上級者に対してそれを馬鹿正直に言ったりはしない。しょうがないという言い方も、不満と受け取られかねないギリギリの表現だといえた。やはり不満が出てるんだなあ、と出口は理解した。

「そうか。本土決戦だからしょうがない、か」

「はい。だからきっと、この島に立てこもるんだって」

 出口は部下の顔を睨んだ。ついそんな顔になった。考えてもいなかった。一〇二号で洋上に出て、敵機に撃たれるか潜水艦にやられるか、自分の最期はそのどちらかだと思っていた。

 下士官に睨まれてしまった稲田がたじろぐと、出口があわててなだめた。

「すまんすまん。いや参ったなあ。そうか。俺たちは立てこもるのか。ここに」

「ちがうんですか」

「心配するな。俺たち護衛がヘマやって輸送船がボカチン《ボカン沈没 》喰うもんだから、その罰直みたいなもんだ。食い物が沈んだ分は自分たちで作れってことだろう」

 出口はそう言うと枇杷にかぶりついた。

「だけど、こんなもんばかり食えるんなら、篭城も悪くないぞ」

 そんな軽口を叩きながら鉢の枇杷を平らげると、出口は稲田に、なにしろこの島の人たちを怖がらせるようなことは言うなよと、念を押して帰らせた。

 それからしばらく、出口は海を見ながらものを考えた。夕陽はすでに落ちたが、対岸の街に灯かりは点らない。それはいつものことだったが、この時の出口には、それが嵐の前の静けさにも見えた。

 この島に立てこもるとはどういうことだ。俺たちが小銃をかまえて岸に並び、敵の上陸軍を迎え撃つのか。そんなことをしたら、敵から艦砲で滅多打ちだ。急ごしらえの海岸陣地などは一時間ももたずに粉砕されるだろう。そしたら山に後退しての遊撃戦か。どのみち玉砕だ。

 俺たちはしょうがない。だけどこの家の家族はどうなる。

 サイパンのことが思い出される。新聞にも書いてあった。守備軍は玉砕し、在島の邦人は「軍に良く協力したのち、おおむね運命を共にした」と言っていた。

 あの頃でさえそうだった。ましてや今は本土決戦だの一億特攻だのが大はやりだ。だったらこの島がサイパンと同じ運命をたどるのは分かりきっている。

 出口は、今彼がいる場所で、海に向かって小銃を構えている自分を想像した。彼の後ろには弾丸や手榴弾の運搬係として文太郎と桂佑がいた。桂佑は額に鉢巻をしている。

 まず空襲が来るだろう。爆撃のあと機銃掃射だ。そこらじゅうに土煙が上がる。ふたりとも声も出さずに倒れる。文太郎のこめかみを銃弾が貫通し、桂佑の胸には、げんこつがすっぽり入るほどの穴が開く。黄海で空襲を受けたあの時のままだ。

 そのあとこの浜は、島の人々の血で波まで染まるだろう。死体の中には徳や恵美子もいるにちがいない。

 一〇二号の甲板上で、ぼろきれのようになって死んだ部下たちと同じように、ここの家族もあっけなく簡単に、しかし死にざまだけはむごく死ぬ。さっき飯台で一緒にめしを食っていた家族の幸福が、そんなふうに終わる。

 自分は彼らを守れない。守ろうと思えば守れるというのなら、いくらでもそう決心しよう。だが守れない。戦闘で人がどれほど簡単に死に、それに対して自分がどれほど無力であるかを俺は知っている。

 狂おしく胸が騒ぐ。出口はそれで、自分が、この家族の幸福を自分の手で守りたいと思っていることに気づいた。

 それは初めての経験だった。それまで彼が守るべき対象は自分の家族であり、故郷だったが、そこに新しい家族と新しい故郷が加わったことを、彼はこのとき初めて意識した。

 ある日の昼ごろである。野良仕事に出ていた香代子が、雨が降り始めたものだから孝太郎を背負って、一足先に家に帰ってきた。家族の昼食の準備をしているはずの恵美子を手伝おうと思い、台所に入って来ると、恵美子はかまどで飯粒を煎っている。

「あらお姉ちゃん、また」

「そうなんよ」

「ふうん。どうしてなんじゃろうなあ」

 恵美子が手にしてゆすっていたフライパン、と言っても今時のそれではなく、飯盒のふたのような代物だったが、その中には白い飯粒がふたつまみ分ほど入っていて、すでに薄く狐色になりかけている。

 それは昨夜、伊藤が食べ残した飯だった。捨てる訳にもいかず、だからといって、よそ様が食べ残した飯をつまみ食いするような真似はさすがにできない。そこでこのように煎り上げてから、茶に浮かべて飲むのである。

 伊藤一三《いちぞう》は三重県の出身で、出口とは地元が近いこともあって仲が良かった。年齢は伊藤がひとつふたつ上なだけだが、彼はある材木商の家に乞われて養子に入り、すでに妻帯している。この男がどういうわけか、飯の最後の一口ぶんを必ず残すのである。

 初めのころ、徳と恵美子は、自分らがお替りを勧めすぎたせいで残させてしまったと思い、それにしても一口くらい無理をしても食べてくれれば良かろうに、などと話していたのだが、それが三度も続いたので、さすがに何かの縁起担ぎだろうということに気づいた。

 徳がそのことを訊ねてみたが、どういう縁起を担いでいるのか、何の願掛けなのか、伊藤は絶対に答えないのである。

「いっつもな、にっこり笑って、ごちそうさまって言うだけなんよ」

「お姉ちゃん、出口さんに聞いてみてよ。気になるわ」

「聞きました」

「あら、早いこと」

「ウチじゃのうて、お母さんが聞いたんよ。でも出口さんも知らないって」

 香代子はへえと応じたが、姉の一言で興味は別のところに移ってしまった。それに気づかず恵美子が続ける。

「船乗りさんはだいたい縁起を担ぐもんよ。ほら、あの人たちにお母さんが大根漬《こっこ》を出す時、いつも四切れで出すじゃろ。あれ、どうしてか知っちょる?」

「お姉ちゃん」

「なに」

「近頃、母ちゃんのことをお母さんって呼ぶんじゃなあ」

「あんたもそうしなさいよ。出口さんたちの前で母ちゃんはみっともないでしょう」

「ああ、そうか」

「そうです」

「ほいたら父ちゃんはお父さん」

「そうです」

「お姉ちゃんはお姉さま」

「ははは、品のエエこと」

 そうこうしているうちに両親と桂佑が帰ってくる。恵美子が用意した味噌汁とふかし芋での昼食が始まる。

 ぱさつく芋を喉に流し込むのに味噌汁は欠かせない。その味噌汁も、ここのところめっきり味噌が薄くなったようである。

 恵美子は味噌の節約を始めていた。味噌は毎年仕込む。今年の大豆も順調に育ってはいるが、味噌を仕込むためには大量の塩が要る。この塩の配給が滞っていた。今年も今まで通りの量を仕込めるのか、それが彼女を心配させていた。

 もっとも文太郎などは、

「アオサの味噌汁は味噌が薄いほうが具合がエエ」

 そう言って恵美子の味付けを褒める。今時はちょうどアサリが太っちょるが、あれも味噌が薄いほうが旨いなどとも言い、まったく悲壮感がない。

 出口たちの勤務はそのように一見平穏な日常作業に明け暮れていたが、乗組員の半数以上を占める兵隊の多くは、稲田が出口に語ったように、それがより深刻な情勢に備えての作業だということを感じ取っていた。

 それまでも彼らのこういう予測が、良い方に裏切られることはまずなかった。自らの生存を求める本能が彼らの感覚を鋭敏にしていたのかもしれないし、事態そのものが常にその予測を超えて、悪化の方向へ進んでいたせいかもしれなかった。

 呉防備戦隊の清田は七月の初めに新任務の辞令を受ける。

 呉防戦はその組織を挙げて新編の戦隊に編制替えとなり、清田は引き続き、その司令官職に就くことになった。

 佐伯航空隊や一〇二号はそのまま新しい戦隊に所属することになる。

 清田に与えられた新しい職名は、第八特攻戦隊司令官であった。

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