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桂佑と亮が通う国民学校は、この久保浦のもうひとつ先の集落である堀切《ほりきり》浦にあった。

 大入島は乱暴に書けばひょうたんの形をしており、堀切浦はそのくびれの位置、つまり島の中央部に位置する集落である。役場関係や病院もここに集中しており、大入島のいわば首府といえた。

 現在、守後浦から堀切浦までは島の外周に沿う道路が通っている。車なら十分もかからない距離だが、このころには石ころ道の一本とてなかった。守後浦の子供たちは集落の背後に迫る裏山に通った一本の山道を越え、山の向こうの堀切浦まで一時間半ほどもかけて通学するのである。

 山道は険しいが、子供たちにとっては絶好の寄り道どころも多かった。

 春から秋にかけてはさまざまな野生の果物や木の実が生り、菓子など滅多に食う機会のない彼らに、貴重な甘味を恵んでくれるのである。

 これが、道端に生えている野苺を摘むくらいならまだしも、自分だけが知っているアケビやヤマモモの穴場を目指して道から外れ山林に分け入っていくのであるから、寄り道といってもかなりの時間を要する。一時間半という通学時間の大半は、実はそんなことに費やされていたのであるが、なにしろ楽ではない通学路だった。

 しかし十月初めのこのころになると、佐伯の夜明けは午前六時半ごろである。この時刻では山を越える通学路はまだ暗い。寄り道も闇の中では面白くなく、また、そろそろ自然の果実も時期を過ぎようとしていたので、子供たちは、朝はややゆっくり出かけ、その分おそい夕方をたっぷり楽しむ、という季節になっていた。

 国民学校は昭和十六年に施行された学校制度で、初等科六年と高等科二年からなっていた。初等科六年が義務教育であり、こんにちの小学校にあたると考えてよいだろう。

 国民学校はその名が示すとおり、子供たちに大日本帝国の国民、つまり天皇の臣民としての自覚を強く植えつけることを教育方針としており、国家総力戦になると考えられた対米戦争に備えるための、いわば有事立法によって生まれた。

 その国民学校初等科の、このとき桂佑は六年生、亮は三年生だった。

 

 亮は休み時間になると、せっせと宿題にかかる。別にさほど勉強が好きなわけではないが、学校の勉強は学校ですませてこいという文太郎の方針に従っている。

 放課後にやるという手もあるのだが、それはもっとも大切な遊びの時間帯である。となれば、こうするしかなかった。

 宿題はたいした量ではない。いわゆるおさらいという性格のもので、授業さえ真剣に聞いていれば、短い休み時間の間に済ませてしまうのに造作もなかった。

 むしろ、つい先ほど授業で聞いたばかりの事をおさらいするのだから、後でやるよりも、楽に、短い時間でやれるということを、九歳の亮はすでに理解していた。案外、要領のいい子供だったようである。

 亮にしてみれば、放課後思うぞんぶん遊ぶための勤勉であったが、担任の教諭には教え子が真摯に勉強に熱中しているように見えるらしく、時々ほめられる。

 学校の立場からすると、家庭学習の習慣をつけさせるための宿題を学校で済まされたのでは具合が悪いはずだったが、少なくともこの時代には、仮にも勉強をしている児童に対して、「宿題を学校でやってはいけない」などという、訳の判らぬ規則を押し付けるような教育者はいなかった。

 亮の担任の教諭は舟木照子というひとで、この時まだ十八歳だった。この姉さん先生が亮をよくほめた。

「山本くんは感心じゃなあ」

 そういうとき、亮は少しはにかんだように笑い、余計なことを言わずまた鉛筆を走らせる。

 これがまた彼女には可愛らしく思えるようで、時には亮の手元をのぞきこみ、まだ半分ほどしか進んでいない宿題に合格点を出して終わらせてくれたりしたという。確かに要領がよい。

 戦争は児童の教育の現場にも深刻な人手不足を生起させていた。青壮年の男性教諭は次々に徴兵されてしまい、代わって師範学校を繰り上げ卒業したばかりの若い娘が、代用教員として教壇に立つのである。そんな事情で、このころの国民学校は老境にさしかかった男性教諭と、その末娘ほどの歳の若い女性教諭だけで児童を教育するという、いささか畸形的と言わざるを得ない運営を余儀なくされていた。

 妙齢の姉さん先生は、島の人々にとってまぶしく可憐な一輪の花だったが、それは亮たちにとっても同様で、餓鬼大将どももこの花の前では妙におとなしくなってしまう。

「先生ちゅうても、恵美ネェよりコマイ女子なんじゃけ、困らしたらいけんじゃろ」

 亮はそのように自分の神妙さを理由付けていたが、優しい姉のような存在に対するほのかな慕情の裏返しでもあったろう。男子は、たとえ母や姉であっても、女性には気やすく甘えたりするものではないというのが、彼ら少年の意気地だった。

 

 校舎の入り口に下足箱が並んでいる。

 靴の類は一足もない。やや古い言葉でズックと呼ばれた粗悪な布靴でさえ、履いてきている児童はいなかった。皆、履き古した草履か下駄か、さもなくば手製のワラジだった。

 大入島の子供たちの家庭は、みな一様に貧乏ではあったが、靴を買い与えてやれないのは、必ずしも貧乏のせいだけはなかった。靴の生産が需要にまったく追いつかないのである。

 児童の靴だけをとってみても、南方資源に依存しているゴムはもちろん、木綿や麻といったすべての原料が不足し、生産していた工場には軍需品の生産が優先的に割り当てられ、しかも職工は徴兵される、というふうに二重三重の悪条件が重なって、こういった民需品の供給は、このころ停滞の極に落ち込んでいた。

 そんな中でわずかに生産された児童用の靴が、それこそ安直な作りの布靴だったが、たまに学校単位で一足ないし二足ていど配給されることがあった。

 学校は公平を期すため、生徒にくじ引きをさせた。これで当たれば配給を受けられる。

 念のために書くが配給は無償ではない。物品が割り当てられたというだけのことで、実際にそれを手に入れるためには代金の支払いが必要だった。

 したがって、運良く配給を受ける権利を得ても、もし金がなければ品物を手に入れることはできない。その場合はなにがしかと交換する形で配給券を譲り渡すことも多かったという。

 さて、そうやってようやく靴を与えられた子も、それを学校に履いてはこない。

 ズックという粗末な布靴でも、彼らにとってはそれこそ一張羅にひとしい宝ものだったから、正月や祝日や、何かの行事といったハレの日に用いるばかりのもので、毎日の山道の通学には相変わらず古びた草履か下駄、あるいはワラジを使うのである。

 亮の履物はいつもワラジだった。

 これは自分で作る。だいたい寝る前の時間帯がその作業に充てられるのだが、下手をするとこれが毎日の仕事になってしまう。しょせん子供の手で作ったワラジだから、さほど丈夫には仕上がっていない、山道を駆け、木に登り、磯の岩の上を跳んでまわれば、一日でおしゃかになってしまうのだ。

 遊び疲れて、文太郎との畳相撲のあいだに寝入ってしまい、ワラジを作れずに起きた朝は、姉や兄の履き古した草履をつっかけて家を飛び出す。草履はくるぶしやかかとを締めるようにできていないから、ワラジよりも走りにくい。遊びの時間になって、それが面倒くさくなると裸足で走った。亮だけのことではなかった。この島の子供たちの毎日とは、多かれ少なかれ、そのような貧しさとの共存の中にあった。

 この日授業が終わったあと、亮たちは居残りを命じられた。例のくじだった。

 その日の配給品は雨傘だった。こんにち一般的なコウモリ傘ではなく、竹と和紙で作られた蛇の目傘である。

 このくじを、亮が当てた。

 雨が降れば傘をさす、という習慣が庶民に浸透したのは明治以降である。それまでの庶民は笠や蓑で雨をしのいでいた。さすがにこのころになると、大入島のような田舎の農漁村でも、雨傘は一般に普及していたが、それでもひとりに一本という訳ではなかった。  

 亮の家には二本の蛇の目傘があるきりだった。恵美子の通勤用と、もう一本は文太郎用で、こちらは大層な古ものだった。そんなわけで大雨ともなれば、桂佑や亮は江戸時代さながら、頭は雨に濡れるに任せ、蓑だけ背負って通学するのである。

 少々の雨ならば蓑も持たない。これには少年らしい理由がある。

 大入島の住民たちが、その地理的環境上、海軍びいきであることはすでに書いた通りだが、男の子には特にその傾向が強かった。そして、彼らが憧れる海軍士官という立場の人々こそ、雨でも傘をささないという人種だったのである。

 海軍士官には、制服を着用中に限ってのことだが、雨が降ろうが雪が降ろうが傘を用いてはならないという規則があった。

 海軍士官は船乗りなのだ。潮に洗われてこその海軍士官であって、たかが雨に濡れることを厭うような軟弱な真似をしてはならない、というわけであろう。これが少年たちには格好よく思え、傘は男らしくない持ち物であるという意識が少なからずあった。

 だから傘の配給券を受け取っても、亮はべつだんうれしくもなかった。

 それでも担任の舟木教諭から職員室で配給券を渡され、

「よかったなあ、山本君。落とさんように気をつけて帰るんよ」

 そう言って微笑まれた時には、亮はどんな場合でも彼女に対してはそうするように、大きな声で「はい」と答えた。傘は別にうれしくもないが、先生が喜んでいるのに味噌をつけるのも悪かろうなどと、いっぱしに気をつかっている。

「あら、とうとう雨になったなあ、これも山本君が蛇の目を当てたせいじゃろうか?」

 姉さん先生の他愛のない冗談だったが、彼女の視線を追って、降り始めた雨を窓の外に見た亮は面白くない顔になった。雨が降っては外での遊びに限りが出てくる上に、ワラジの傷みも早い。また今夜もワラを綯《な》わなければならなくなる。山道がぬかるむ前に帰るに限る。

「ほいたら先生、さいなら」

 亮はそう言うと、傘の配給券を雑嚢に押し込みながら職員室を飛び出していった。

 それから舟木教諭は机に向かって日誌の記帳を始めたが、数分ののちに、帰ったはずの亮が窓の外から自分を呼ぶ声に振り向くことになった。

「先生」

「山本君、どうした?」

「傘ちゃ、何銭か?」

 ナンセンとは、今なら「何円」ということになるだろう。要は「いくらですか?」という、この島の子供たちが物の値段を聞く時のもの言いだった。

「ちょっと待ってな」

 舟木教諭は書類の綴りをめくり一円五十銭であると亮に教えた。

 それを聞いた亮はしばらく呆けたような顔で黙っていたが、すぐに我に返ると、もう一度

「さいなら」と言って駆け出した。

 

 降り始めた雨は、まだ本格的になっていない。いつもなら野兎のように走って帰る山道を、亮はいつの間にか歩いていた。

 舟木教諭から聞いた雨傘の価格を、亮は現実感をもって受け止めることができないでいた。一円五十銭とはいくらなのかという漫才のような疑問が頭の中にある。

 もともと、かねというもの自体を、身近なものとして知らなかったこともある。このへんが当時の子供たちと現代の子供たちとの、大きく異なるところだろう。

 子供たちの経済感覚というものは、普通、おやつや学用品や玩具などの価格を知り、自分の小遣いと対照させるあたりから芽生えていくものだ。しかしこの時代の大入島の子供たちは、それらのすべてに対して無縁だった。かねを使って何かを買おうにも、島には駄菓子屋の一軒とてなかった。買う物がない以上かねは必要ない。亮などは生まれてこのかた、小遣いというものをもらったことがなかった。

 そういった初歩的な経済感覚さえ持ち合わせない亮には、雨傘の価格は実感の限度を越えていた。一円五十銭はこんにちの貨幣価値に直すとだいたい三千円ほどになる。

 安くはない。亮にもそれはわかる。円という単位がつくこと自体が、それを意味していた。だが欲しくもない蛇の目傘が、そんな値段であることが不思議な気もした。

「お父ゥはいらんち言うじゃろな」

 家では傘が少ないことに別段困ってはいない。だから無理をして買う必要はない。だが母や姉は欲しがるだろう。

(舟木先生を見ちょると、どうも女子というもんは傘が好きらしい)

 しかし父親のひとことで傘がいらないということになれば、この配給券は誰かにくれてやることになる。たぶん米か芋に変わるだろう。母や姉は残念がるに違いない。

 残念がるだけならいい。そういう時、徳は決まってめっぽう機嫌が悪くなる。

 徳は確かに働き者の子煩悩な母親だったし、文太郎に口答えをしたり逆らったりすることがまったくない従順な妻だったが、文太郎に対して何か気に入らないことがあると、むっつりと口をきかなくなってしまうのである。

 要はすねているだけなのだが、そこで妻の機嫌をとるような文太郎でもない。それどころか自分で宥める代わりに、子供たちに母親の手伝いをさせて、それで彼女の気を晴らさせようとするものだから、とばっちりは桂佑や亮に来るのである。

(また肥《こえ》を担がされたら負えんがのう)

 何が嫌だといって、肥桶を担がされるほど迷惑なものはない。汚い話だが、特に雨の後では肥溜めが緩くなっているためにハネが飛ぶのだ。ところが徳の機嫌をとるためには、そういうことを手伝うのがもっとも効果的なので、文太郎は容赦なくそれを命ずるのである。

 亮は、脈絡なく次々と思い浮かんではまとまらない考えに、子供らしくむーんと頭をひねりながら歩いている。

 ふと気づくと、彼はアケビの穴場に続く脇道の入り口にさしかかっていた。

 雨の日にアケビは採りにいかない。木肌が滑って登りにくいのと、服が汚れやすく、それを徳に叱られるためだった。

 亮は立ち止まり、ほんの少しものを考え、それから脇道に入っていった。

 

 その日の夕食はいつもより少し早めに始まった。雨は夕方近くになって本降りになり、徳は野良仕事を早々に切り上げなければならなかったし、宵の闇が早く訪れたために、子供たちもみな家の中で遊んでいたからである。

 献立は相変わらず魚だったがこの日は不漁だったらしい。わずかにヒメイチが十尾ほど手に入っただけだった。

 それは、一般的にはヒメジと呼ばれる小型の白身魚で、小骨が多い上に味はごく淡白なため煮ても焼いてもさほど旨くはない。この魚が珍重されるのは年に一度、正月の時だけである。 

 大入島の多くの家では祝いの膳に盛られる昆布巻きをこの魚で作る。昆布から覗くその色が華やかに膳を飾るからだろう。この魚は熱を加えると美しい桜色になるのである。

 さて、味が淡白で、しかも食いでのないこの魚を、全員の惣菜にするには次のようにする。

 まず焼く。炭で焼きたいところだが、木炭の備蓄も貴重なので、麦飯を炊いた後のかまどの置き火で焼くことになる。

 普通の焼魚ていどに焼けたらその身をほぐし、すり鉢で味噌を加えながら良く擂る。そこにイリコのだし汁を加え、さらに擂りこむと、ちょうど山芋のとろろ汁のような具合になる。

「さつま汁」という。これを飯にかけて食べる。

 こうすると淡白な魚の味に味噌とだしの風味が加わり、幾杯も碗をかえるほど飯がいける。暑い季節などは紫蘇の葉を刻んで加え、食欲を増す工夫をし、ゴマが採れる時期はたっぷりとすりゴマを加えてコクを出す。いずれも旨い。

 この料理が重宝なのは、その日の賄いに使える魚が少なくても、味噌とだし汁さえ加えれば何人分にでも作れる、というところにある。魚もヒメイチに限らない。白身であればなんでも使える。小鯛やエソなどが混じればなお旨くなる。

 もっとも使える魚が少ないと、出来上がりは「とろろ汁」というより、ちょっぴり魚の肉が入った「冷えた味噌汁」という程度の代物になってしまう。

 山本家では、めしのおかわりが進んで「さつまが足らん」という見通しが確定すると、徳がだし汁だけを加えてかさを増やす。だから「最初はとろろでも、最後は味噌汁になっちょる」という具合だったらしい。

 なぜ「さつま」と呼ぶのかは大入島で聞いてもよく分からない。

 薩摩とは言うまでもなく現在の鹿児島県の旧国名であり、厳密には薩摩半島がわの西半分を指す。大分県の郷土料理としてはまことに不可解な名である。材料にサツマイモを使ったなどという話も聞かない。

 ここでは筆者が取材したことをそのまま書く。偶然の話題だった。

 鹿児島県の薩摩半島に枕崎という小都市がある。鰹節の生産で有名な土地で、そこでも古くから鰹節加工生産をしている会社の、社長令夫人に聞いた話である。

 枕崎には昔から「茶節《ちゃぶし》」という料理がある。伝統的な古式の鰹節である枯れ節を削って椀にとり、味噌を加えて茶を注ぐ。これが急場の椀物として良く食べられていたらしい。

 ある時、開聞岳のふもとに住んでいた何某というひとが宮崎県に移り住むことになり、彼はそこでこの茶節をもとに、味噌汁とは作る工程の違う、しかし仕上がりは魚の味噌汁のようなものを作った。これが現在でも宮崎県の郷土料理として有名な「冷汁《ひやじる》」の起源だと思われる、というのである。

 この社長令夫人が語る「冷汁」の作り方が、大入島のさつま汁のそれと酷似していたことが筆者には気になった。念のために尋ねて見たのだが、彼女は佐伯にそういう料理があることを知らなかった。

 ところで宮崎県で情報を集めてみると、冷汁じたいは、それよりずっと昔から存在していたらしい。であれば、魚のほぐし身が入ったその汁を「冷汁の起源」と言うのはいささか無理がある。おそらくそれは冷汁の新しいバリエーションとして、宮崎の人々に「薩摩風の冷汁」と呼ばれただろう。これがさつま汁のルーツではないかと筆者は思う。

 ひとくちに宮崎と入ってもその冷汁が広まったのは、魚を使う以上は沿岸部のはずである。であれば、それが大入島に伝播するのは時間の問題だ。佐伯は大分県の最南部に位置しており宮崎県とは隣接している。しかも海に垣根はない。おそらく漁師たちの間でこの冷汁が人気となり、薩摩汁の名とともに定着したのではないだろうか。

 話が先にすすまない。とにかくこの夜の献立は、ヒメイチのさつま汁であった。

 

 さつま汁は旨い。しかし子供たちにとってはご馳走ではない。食卓はあまり盛り上がらず、ホウタレの唐人干しを齧りながら、とにかく、汁をかけた飯を腹の中に流し込む。

 くどいほど同じことを書くが、極端な食糧難の戦時下にあって、それでも彼らはまだ幸福なほうだった。とにかく三度のめしは食えるのだ。

 しかし、汁かけめし同然の飯を、イリコの親分ほどの干物をおかずに食べるという夕食は、少なくとも彼らの幸福感を高揚させはしなかった。

 文太郎の家は雨漏りがする。だから雨の日には気が沈む。それでなくとも灯火管制で薄暗い家の中である。明るい家族団欒というわけにはなかなかいかない。その沈んだ空気を少しでも盛り上げようとしたのか、恵美子がことさらに明るい声で言った。

「亮、あんた今日、傘の配給を当てたってなあ」

「ちょお、本当か、亮」

 徳が声を上げた。「ちょお」というのは、この母親が驚いた時や残念がる時に発する口癖のような感嘆詞だった。

「桂から聞いたんよ。なあ桂」

「おう、学校で聞いたぞ。どうせなら靴が良かったのう」

 桂佑は別に面白くもなさそうに言うが、恵美子は満面の笑みを崩さない。

「そんなこと言わんどき。なあ母ちゃん、傘でもエエわなあ」

 そう言われた徳のほうもとっくにはしゃぎ顔になっている。この母親は子供を誉めてやる時やみくもにその子を抱きしめる癖があって、飯台をはさんだ亮との距離がもう少し近ければ、亮は間違いなく徳にしがみつかれていたはずである。

「亮ァ、よう当てたなあ。配給券、貰うてきたんか」

 亮は、母と姉がはしゃいで話しているのを目だけで見ながら、表情も変えずにめしを食べていたが、そう聞かれたので仕方なく「うん」とぶっきらぼうに答えた。

「けんど、傘は、家にもあるにはあるじゃろ。無理して買わんでもエエんじゃろうけど」

 恵美子がそう言うと、徳はまた大げさにこう言った。

「ちょお、せっかく亮が当てたに、買わんちゅう法があろうかの」

 それから誰に言うとはなしに、おごそかにこう決め付ける。

「このご時世じゃけ、買えるときに買うちょかんと、あとから惜しなげえ言うても負えんけの」

 それが必要なものであっても品不足で買えぬ時代である。買える時に買っておかなければ、後から欲しかったと惜しんでも間に合わぬ。そういう徳の考えは、おそらく間違っていない。 

 かねは使えばなくなるが、物は残る。必要なものがあっても品不足で買えない時代だから、それは時としてかね以上の働きをすることもある。貧乏なればなおのこと、藁縄一本たりとも無駄にしないことを美徳として育った徳には、たとえ紙張りの蛇の目傘でも、それは是非とも手に入れておきたい財産だった。

 文太郎は黙っている。

 

「無うなかした」と、亮が言った。

 夕食後、母と姉に急かされて配給券を雑嚢から取り出そうとした亮は、やがてポカンとした表情でそう言ったのである。ニュアンスとしては「無くしちゃった」ほどの軽さであった。

 亮は雑嚢《ざつのう》をひっくり返し裏返して底まで見せたのだが、今度は母親から、自分が雑嚢同様にひん剥かれ、猿股一丁の半裸にされて、身のどこにも配給券がないことを確かめられる羽目になった。亮の方は悪びれる風もなく、かといって笑って誤魔化すわけでもなく、徳にされるにまかせていた。常と変わらない、きょとんとした目で母と姉を見ている。

 ところが徳のほうは顔色まで変わってしまっている。今にも泣き出さんばかりの顔つきで、亮に哀願するように、どこへやったか思い出してくれとすがっている。

「ちょお。亮よい、どっかに直した《しまった》んじゃねえんか? 忘れちょらせんか」

 対照的に恵美子は笑いながらこう言った。

「亮ァ、カバンに入れちょいたもんを、どうしたら落とすんじゃろうか」

「そうじゃなあ。おかしいのう」

 亮は、自分でも不審に耐えぬという顔で首をかしげて、もっともらしく言う。

「アケビをとってカバンに入れたときに落としたんじゃろうな」

 普段ならここで雨の日に木登りをしたことを叱る徳だが、この日はそれどころではない。

「ほいたらアケビの木に引っかかっちょるんじゃろうか」

 徳は真剣な表情でその疑問を娘に向けた。

 恵美子は、それが徳の本気の思案だと思うとおかしくてたまらず、笑いながら母親を台所に促した。

「母ちゃん、無うなかしたもんはしょうがねえわ」

「そうじゃけんど、惜しなげえのう。アケビの木じゃなかったら道に落ちとりゃせんか」

「そうじゃなあ。亮、あんた、明日学校に行くときは、よう見ながら歩きんさいよ」

 恵美子はそう言って、もう一度おとうとを見た。いくら捜して歩いても配給券は出てこないだろう。それだけはなぜか確信できた。

(この子のことじゃけ、気前のエエことに、誰かにやってしもうんたんじゃなかろうか)

 恵美子はあくまでも善意のお人好しである。そんなことを思い、それから

「ちょうどエエわ、そのまま相撲したらエエ」

 猿股一丁の弟にそう言って、にっこり笑った。

 

 いつものように相撲を終えたあと、文太郎は桂佑と亮を目の前に正座させ、話を始めた。

 傘の配給券の一件については、夕食の時からずっと、一切口を出さなかった文太郎だったが、このとき初めて亮にものを言った。

「お母ァがの、むげしねえじゃろ。明日は、ようとお母ァを手伝うてやらにゃいけん」

 文太郎は、亮が配給券を無くしたことを叱りはしなかった。ただ、がっかりしている母親がかわいそうだから、明日は母の仕事を手伝え、と言うのである。

 徳も恵美子も、亮に対して配給券の紛失を咎めることはしなかった。それは男の子に対してさもしい考えを押し付けることになるからである。さもしいとは、個人の内にあるさまざまな価値感の中で、物欲を上位に置く感覚をそう呼ぶ。

「うん」

 亮は素直にうなづいた。

「しもうた」

 と、しかし心の中では思った。しまった。話がそう行くとは思わなかった。こんなことなら無くすんじゃなかった、と思った。

 桂佑も渋い顔をした。

 文太郎が「お前は手伝わなくていい」と言うわけがないのである。

 野良仕事は単調で退屈で、夏は暑く、冬は寒く、肥は臭い。桂佑ほどの歳になると、何より畑で肥桶をかついでいるのを同級生、特に女の子に見られるのが一番の苦痛だった。

 だから、桂佑も母親の野良仕事を手伝うことからは極力逃げていた。ここまでは立派な躾ができているように描かれてきたこの少年たちも、その程度には立派にできの悪い子供だった。

「だいたいお前たちはの」

 文太郎は話好きで能弁である。子供たちが神妙に聞いているとだんだん調子に乗ってくる。亮への説諭は終わっているのだが、文太郎にすればここからが調子の出るところなのだ。

「親の手伝いをせんじゃろが」

 文太郎がそこまで言うと、桂佑が、得たりや応と合いの手を入れた。

「お父ゥ、正行《まさつら》の話じゃろ」

「だまって聞いちょれッ。親が話しちょるのにッ」

 一喝された桂佑が恐縮して見せる。

 

 鎌倉の末期から南北朝時代の初期にかけて、楠木正成、楠木正行という、武将の父子がいた。 

 時代は、幕府政治を否定し天皇親政を目指す後醍醐天皇と、武士の名門で幕府樹立の野望を燃やす足利尊氏が覇権を争い、日本全土の武士がふたつに割れて血みどろの戦いを繰り返すという、のちの戦国期にもおとらぬ大動乱期にあった。

 楠木正成はさほど身分の高くない武士であったが。あくまでも朝廷に忠義を尽くそうとし、絶対不利を承知の戦いにあえて出陣し戦死する。彼は天皇のために生き、天皇のために死んだ忠臣として、この時代の日本人の鑑と称揚される存在であり、その衣鉢を継いだ正行も同様に顕彰されていた。父を楠公、子を小楠公と呼ぶ。

 彼らほど、世代によって知名度に差がある歴史上の人物はまれである。

 戦後生まれの世代では、まずほとんどが彼らを知らないと言っていい。逆に戦前戦中世代で彼らを知らぬ者はいなかった。文太郎はそういう父子の話をしている。

 

「正行がの」と、文太郎は、知っているひとのように語る。

「親父が討ち死にをしたあとに、その親父の仏壇に向かっての、ベソをかきよったんじゃ」

 桂佑と亮は、この話を、もう何度聞かされたか憶えていない。

「そこにお母ァが来て正行を叱りつけたんじゃ。親父が死んだっちゅうて、男ン子がメソメソ泣くとは何事かッちゅうてな」

 父の死を嘆き悲しんで男子が泣くとは何事か。そう母親に叱責された正行は、こう答える。

「お母ァ、わしは悲しゅうて泣きよんじゃねえぞ。わしがまだコマイけえ、お父ゥの仇を討ついくさに連れて行ってもらえん。それが悔しゅうて泣きよるんじゃ。正行はそう言うたんぞ。どうか」

 悲しんで泣いているのではない。年少という理由で、父の仇を討つべき戦場に連れていってもらえないのが悔しくて泣いているのだ。正行はそう答えたという。どう思うか。

 文太郎は息子たちを睨みつけるでもなく、嘆じるように天井を仰ぐ。

 しかも正行はこの時まだ八歳だった、と文太郎は言う。

 そして、八歳の子供が、親父の仇討ちに行きたいと泣いて訴えているというのに、それより年上のお前たちが、親の手伝いの一ツもする気にならんというのは、なんと情けないことか、というぐあいに、この話は続くのである。

「わしは、もうじき行商に出るけの」

 文太郎は、いつもの話をいつものところで締めくくると最後にそう言った。

「わしが居らんじゃったら、桂佑、おまえが棟梁じゃけの。お母ァによう尽くせよ」

 それから亮には珍しくこう言った。

「おまえも正行ぞ。エエの」

 桂佑は長男であるから、確かに楠木正成にとっての正行にあたる。だが次男の亮にもまた、自分にとっては正行も同じだと言って聞かす。もともと兄弟を差別しない父親ではあったが、この時のひと言は、幼い亮にも少し意外な気がした。

 文太郎は、安藤の武士《たけし》と話した養子の一件を、まだ誰にも語ってはいない。

 

 すこし横道にそれる。

 この、文太郎が息子たちに語って聞かせた楠木正行の話は、一般に語られている彼の逸話とじつはかなり違っている。

 もともと軍記物語である「太平記」で語られている話で、伝承の域を出ない講談ばなしとも言えるのだが、小楠公、すなわち楠木正行の逸話とはおおむね次のようなものである。

 楠木正成は戦死したが、その首は、敵ながら彼を敬愛していた敵将足利尊氏のはからいで、遺族のもとに届けられた。正行は亡父の首級の前で自刃しようとする。殉死の覚悟だった。  

 これを正成の妻である母が諌止する。亡き父に代わって天皇に尽くすべきであり、そうすることが親孝行であると正行に教える。

 生きて天皇のために戦うことが、天皇に対しての道すなわち忠であり、同時に父に対しての道つまり孝になる、というわけである。正行は自分の考えの浅さを恥じ、それからのち一途に研鑽を積んで、やがて南朝側の勇将として足利幕府との戦いへおもむくことになる。

 忠孝ふたつの道はひとつと諭した母親は賢母と呼ばれたが、何よりそれを実践して戦死した正行は、この時代の為政者が、やがて天皇に命を捧げるべき少年の手本として祀り上げるのにうってつけな人物だった。この時代の子供たちであれば、この話を知らない者はまずいない。

 さて、しかしこれでは、文太郎の話は事実とずいぶん違う。あくまでも一般に語られていた小楠公の逸話を事実と仮定しての比較であるが、確かに違う。

 また原典に従うなら、父正成の戦死は正行が数えで十一歳の時となっているから、このとき八歳だったという文太郎の言いようにも、かなり無理がある。

 これは文太郎の意図した脚色であり、演出だったに違いない。

 かたや天皇のために命を捧げるという話が、こなたでは母親の野良仕事を手伝えという話にすり替えられるあたりがいかにもこの男らしい。また、このとき八歳という正行の年齢設定は、亮に対して「お前よりも年下」と言えるぎりぎりの帳面合わせだったのであろう。

 小楠公の話は、当時の大人たちが一度は子供に語って聞かせる定番の物語だった。これを、子供のころから本に親しみ尋常小学校にも入れてもらった、大入島ではインテリの部類に入る文太郎が、間違うはずがない。

 また文太郎が語って聞かせた正行の話には、同じくこの時代の精神教育の教材として、大正時代以来ずっと国語教科書に掲載されてきた「水兵の母」を思わせる部分もある。

 文太郎はそういったいくつかの教訓ばなしを、そのまま語って聞かせるのではなく、今風に書けばTPOに合わせ、いわゆるアレンジをして、子供たちに講義していたようである。

 どこかの偉い人から下された話をそのままありがたく鵜呑みにして、寸分間違わずに語って聞かせることに心を砕くより、その話を良く噛んでから体内に入れ、相手に合わせて、今度は自分自身の言葉で語ろうとしていた、ということになる。

 しかも必要があれば、もとの話を少々曲げても構わない。大切なのは知識を教えることではない。その知識を通して父親である自分の思いや、信念や、願いといったものを、子供たちに伝えることを大事にしていた。筆者にはそう思えるのである。

 

 翌日、しかし桂佑も亮も、徳の野良仕事を手伝いはしなかった。

 雨上がりの浦前ではボラが良く獲れる。桂佑がそう言って亮を誘い、ふたりして舟を漕いで網を打ちに行った。はたして背負いカゴ三杯ぶんもの大漁となり、徳を狂喜させた。

 ボラは、この島では格別に旨いというほどの評価は与えられていなかったが、体が大き目でそこそこ食いでがあり、刺身で食べてもさつま汁にしてもいいし、味噌汁にも使える。

 しかしそれだけでは徳が狂喜する理由にはならない。

 このころ、魚はもちろんあらゆる食糧が統制化に置かれてはいたのだが、いつの時代にも、どんな世の中でも裏という世界が存在するもので、法律の目をくぐって、不法に食糧や物資を流通させる「ヤミ」というルートがあった。ヤミとは闇である。桂祐たちが獲ってきた魚は、このヤミのルートで現金に換えることができたのである。

 魚を買い上げてくれるのは、数日おきに島に渡ってくるヤミの仲買人である。この日桂佑がボラ漁に出たのも、今日あたり仲買人の誰それが来るころだと見越してのことだった。

 もっともこれは、正しく書けば違法だった。違法だったが誰もがやっていた。

 別にこの家族を弁護するわけではないが、この程度のヤミ商いは日本全国で行われていた。確信犯的な、生存のための必要悪と見なされていたと言ってもいい。

 それは売るほうだけの理屈ではなく、消費者にとっても同様だった。決まった配給だけでは必要なカロリーや栄養を満たせなくなっていた人々は、生きるためにヤミを必要としていた。

 だから亮が仲買人の所へ走るのにしても、別に人目を避けながら隠れて行くわけではない。走っていくあいだには、近所の知り顔の大人とこんな会話もする。

「おう亮、何処ェ行きよるんか」

「仲買のおっちゃんが来ちょらんかのう」

「ああ、今日あたり来るころじゃのう。何が獲れたんか」

「ボラじゃ」

「ボラじゃあ、あんまり銭にゃならんのう、ははは」

 もしヤミで魚を売ることが、人目を避けてコソコソと立ち回らなければならない程の悪事であったなら、文太郎は息子たちがそれをすることを決して許さなかったであろう。その程度の可愛げある小悪事だったが、違法は違法であった。さらに念を入れて書いておく。

 そういうわけで、三杯のカゴいっぱいのボラを見たとき、徳は狂喜した。

 それから傘の配給券の時には飯台で隔てられてできなかったことをした。徳は亮を思い切り抱きしめ、顔じゅうに接吻をした。亮はそれを嫌がってもがいた。

 

 文太郎の行商の商品は、イリコと魚の干物である。

 流通の発達した現在と違い、日常的に鮮魚を食べることができるのは、沿岸部かその近在に暮らすものに限られていた。

 内陸の土地に住む人々にとっては、いわゆる塩干物《えんかんもの》がほとんど唯一の海の幸であり、貴重な蛋白質とミネラル類の補給源だったが、その中でもっとも必要とされたのは、味噌汁をはじめ多くの料理のダシとして使われるイリコだった。

 大分県の地図を広げてみる。

 九州の中央東側を占める大分県は東に複雑な海岸線を持つが、西には英彦山系、九重山系、さらに遠く熊本県の阿蘇山系に連なる広大な山地を有している。この、海から遠く隔絶された山間の市町村が文太郎たち行商人の市場だった。

 佐伯の西およそ五十キロほどのところに竹田という小都市がある。今では市制が敷かれたが当時は町制で竹田町と呼ばれている。たけた、と読む。

 この古い城下町が文太郎の大得意先であった。

 文太郎だけの市場というわけでもない。大入島の行商人たちは、この町にそれぞれ得意先というべき家を持っていて、その、いわば縄張りを守って商いをして回るのである。 

 佐伯から竹田までは、今なら自動車で一時間少々の道のりだが、当時は自動車用の道路など整備されておらず、まして、こういった小商いに自動車を使うことはあり得なかった。

 竹田へもっとも速い交通機関は国鉄である。日豊本線でいったん北に向い、大分で豊肥線に乗り換えて、今度は南に走り、やがて西下して竹田に至る。

 佐伯から見ると竹田はほぼ真西にあたるのだが、鉄道路線の関係で腹立たしいほど迂回したコースをとらなければならない。だが大量の品物を輸送する手段としては、これが唯一の方法だった。

 大入島の行商人は、商品をまずは手漕ぎ舟で守後浦対岸の葛港《かづらみなと》まで運び、そこから大八車で佐伯駅まで持ち込む。駅からは商品だけを貨物列車に乗せて竹田まで送るのだが、これは竹田駅内に留め置かれるので、追っかけこれを引き取りに行くのである。

 さて、文太郎が商品を追いかけて竹田まで乗り込むには、同様に鉄道を使えばいいのだが、前章でも書いたように、このころ鉄道の切符はきわめて入手が困難な状況にあった。いま少し詳しく書くと、切符を購入するためには、旅行の目的を書いた申請書を提出し許可が下りて、それから空きの便を待たなくてはならなかった。

 文太郎は荷物の送り出しに先立って切符を買いに来たが、望んだ切符は手に入らなかった。今までと同様の余裕をもって申請してはいたのだが、旅客鉄道の便数制限はこのころますます激しくなっていて、あてが外れた。荷は送れるのだが、自分が乗る便は数日後になるという。しかしそれでは、イリコはともかく干物類の品質が落ちる。それは困る。

「おかげさんで荷物を送る切符は買えたんでなあ、身ひとつ乗れりゃあ、それでええんじゃが、どげんもならんじゃろうか」

 文太郎は、いかにも代用職員と見える、窓口の出札係の若い娘に聞いてみたが、答えは同じだった。その娘は近所の知り合いにものを言うような、正直な口調で答えた。

「ごめんなあ、おじさん。ウチもまだ勤労奉仕でこの仕事始めたばっかりなんでなあ、決まり通りに切符を出さんと、上の人から怒られるんよ」

 繕いではなく本音なのだろう。それを声を落として申し訳なさそうに言われれば、文太郎も引き下がるしかなかった。

「なんのい。いや、そりゃあご苦労さんなことじゃった。おおきに」

 文太郎はそう言って窓口を離れた。

「ほいたら、歩いて行こうかのう」

 ぜひもなく、文太郎は歩いて竹田まで行くことに決めた。

 

 数日後、島で仕入れを終わらせた文太郎は、その荷を佐伯駅から送り出す手配を行商仲間に頼み、その便の前日に佐伯を発った。二日がかりで竹田まで歩くのである。

 竹田まで歩いて行くのは、これが初めてではなかった。父親の太十郎について歩いたことが何度もあった。

 彼が父親と一緒に竹田に通い始めたのは明治の末年である。

 このころの大入島の行商人は、太十郎父子同様だれもが徒歩で竹田を往復していた。鉄道の路線が大分から佐伯まで届いたのは大正五年。大分から竹田までつながったのは、さらにその八年後のことである。

 佐伯から竹田までの道を現在の名称で辿れば、佐伯市の西に位置する尺間《しゃくま》山の南麓を通り、国道十号線を野津町まで出て、そのまま西に進み三重町を経て竹田に至る。ただしこれは平成十七年の市町村合併前の旧町名での案内である。このルートだと、行程の大部分が、平野部か山間の平地を歩くことになり、徒歩での旅もさほど難儀ではない。

 その中で唯一の難所と呼ばれていたのが、佐伯からの出口となる弥生町と、隣接する野津町との県境に跨る山中の峠だった。

 佐伯市はその周辺をぐるりと山地に囲まれている。それらの山々は、さほど高くない、ごくありふれた連山なのだが奥行きがなかなか深い。その山々の谷間を縫うように西へひとすじの街道が通っているが、どうしても一ヶ所だけ山を登って越えて行かねばならない場所があった。その難所の名を、中ノ谷《なかのたに》峠といった。

 峠の標高は二百メートルをわずかに超える程度だが、そこに至るまでまっすぐに登りきるのではなく、上り下がりが連続する山道を延々と辿っていくことになるために、踏破はなかなか楽ではない。

 行商人たちは五十キロもの重い売り荷を背負って歩かねばならず、彼らの鍛えられた足腰にとってもこの峠越えばかりは苦行であったという。彼らはいつしかそれを、次のような言葉で語るようになっていた。

「中ン谷こそ泣く谷よ」

 少年の日、太十郎からそれを聞かされた文太郎は、この島の屈強な男どもを泣かせるという険しい峠の姿を想像するのに苦労したが、やがて実際に父について行商に出るようになると、どれほどのものかと多寡をくくっていた峠越えに、たちまちあごを出す羽目になった。

 文太郎少年は小柄で痩せ型だった。特に手足が華奢で、肋骨も浮いていた。大正四年に徴兵年齢に達したが、身体が徴兵基準に達せず、結局入隊していない。

 少しくわしく書くと、徴兵検査では個人の身体能力によってランク付けがなされるのだが、健康で身長体重と運動能力等が一定以上のものが甲種合格、それに満たないものが乙種合格とされ、以下、身体的に劣るものや身体障害を有する者が丙種丁種と続く。

 この検査で、やせっぽちで上背のない文太郎は寸法足らず目方足らずの丙種合格であった。検査結果には、あるいは栄養失調とでも書かれていたかもしれない。

 これは字義通り合格は合格なのだが、いわば補欠合格のようなもので、戦争でも起こらないかぎり軍隊からお呼びはかからない。

 文太郎にとって幸か不幸か、この当時は日露戦争後も続いていた軍拡路線による国家財政の危機が叫ばれ始めたころで、徴兵数も拡大から安定へと移行しつつある時代だった。

 またヨーロッパでは世界大戦の火の手が上がっていたが、日本の周辺には、さしあたっての純軍事的脅威は存在しなかった。このため補欠の文太郎に出番はなかったのである。

 軍隊に行かずにすんで良かったなどと言える時代ではない。丙種合格は、天皇陛下のために戦う兵としてあてにされないという、男としてはまことに情けない格付けをされたに等しく、世間に対しても肩身が狭かった。文太郎が、片田舎の行商人には身に過ぎるほど、書物による修養に熱中したのは、あるいはその反動だったのかもしれない。

 文太郎の体躯は、まずそのようなものであったが、しかし山と海しか遊び場のない大入島で鍛えられた体力は、町場育ちの甲種合格など問題にならないほどに強靭だったという。これは鶏ガラのような体つきの桂佑や亮たち島の少年が、体格に勝る佐伯市本土の子供相手に相撲で負けたことがないという、すでに書いた話とも符合する。なにしろ麦飯とイワシだけを食い、一日中泳ぐか木登り崖登りに明け暮れていた肉体には、粘りがあった。

 その文太郎が、しかし初めての中ノ谷峠ではあごを出した。

 

 峰の細道を太十郎はどんどん先へ登って行く。文太郎は最初のうちこそ威勢が良かったが、やがて息が上がって腰がふらつき始めていた。背負った売り荷がどうにも重い。

 荷を背負って歩くにはそれなりのコツがある。文太郎はまだそれを呑み込んでいないから、体に無理な力がかかり、力任せのがんばりはすぐに限界に達してしまうのだった。

 太十郎が息子を待って声をかける。

「おう、だいぶ参っちょるのう」

 親父の息に乱れひとつないのが、文太郎には憎らしい。

「参っちょりゃせん」

 弱音は吐かない。吐いたところで甘い顔をしてくれる親父ではない。それなら弱みを見せるだけ損というものだ。文太郎は虚勢を張った。太十郎がおっ被せて言う。

「中ン谷こそ泣く谷じゃ、ここだけは泣いてもエエぞ。ははは」

 文太郎は父親にからかわれていると思った。

(誰が泣くか)

「泣いてもエエがの、ようついてこい。親を待たせたらいけんじゃろ」

 太十郎はそう言ってどんどん先に進んでいく。

 文太郎は(それ思った通りじゃ。くそ親父)と内心で毒づきながら、重い足を先に進めた。

(けんど)

 どこかがこそばゆい。

(お父ゥから、泣いてもエエなんち言われたんは初めてじゃろうな)

 男の子は、どんなにつらいことがあっても絶対に泣かないものだった。それが文太郎に物心ついてから今までの父の教えだった。彼の前には、いつもそういう太十郎の背中があった。

 峠の頂上で二人は弁当をつかった。麦飯のにぎりめしにホウタレの丸干し。にぎりめしには母のヤエが漬けた梅干が詰まっている。文太郎の旺盛な食欲は、あっという間に弁当の包みを空にしていた。

「おう、参っちょるように見えとって、そんだけ食えりゃあ上等じゃ」

 太十郎はそう言って笑った。

 確かに文太郎の顔色はすでに落ち着き、それまでの疲れを感じさせていなかったが、両肩に小さな異変が起きていた。背負いかごの重量を支える両肩の皮が真っ赤に腫れ上がり、少しの血が滲み出している。

「これはの、肩だけで背負うとこうなるんじゃ。背中全部で背負わにゃいけんのじゃが」

「難しいのう。背中全部で背負おうと思うたら、お婆みてえに腰が曲がるじゃろ」

「だんだん分かってくるもんじゃ。肩の皮の五、六枚も剥いたらコツが呑み込めるじゃろ」

「お父ゥも剥いたか?」

「剥いたのう。最初は痛ェけんどな、だんだん慣れてくる」

 それならしょうがないと文太郎は思った。このまま歩けば今日中に肩の皮は破れるだろう。明日からは皮が破れて血の滲んだ肩に、粗い背負い紐を負って歩かなければならない。しかしそうなることが、次にそうならないために必要であるのなら我慢するしかない。自分の父親はそうしてきたのだから。

  文太郎は立ち上がって歩き出した。少しでも父親の先をかせいでおこうと思った。太十郎が腰を上げたころ、彼の息子はすでに二十間ほども先を行っていた。

 うしろ姿が小さくなっていく。

 それを見つめる太十郎は、彼の息子がいつかそうやって、ひとりでこの峠を越える姿を思い浮かべていたのかもしれない。むろん、文太郎はそんなことを思いもしなかった。

 

 その文太郎が、数年ぶりの峠にさしかかろうとしている。

 鉄道が開通すると荷運びは汽車に任せるようになった。文太郎自身は初めのうちこそ徒歩で竹田を往復していたが、やがで汽車を使うようになった。大量の商品をさばけるようになり、交通費の余裕が出たのか、あるいはけち臭いことの嫌いな性格のためだったかもしれない。

  久しぶりの峠だった。やがて視界が開けた。

 連なっている山々の尾根に遮られて、海まではさすがに見えなかったが、山の向こうに海があると思い、海を想ったらその先に自分の故郷が見えた気がする。父親とともに、初めて峠を越えた日のことも思い出されてくる。肩の皮を破ったことも、ヤエの梅干の味も。

「けんど」

 文太郎は思う。

「中ン谷をこうして歩くんも俺で終わりじゃ」

 行商は自分の代で終わりだということを、文太郎は考えるようになっていた。戦争の影響で商売はずっと不景気であるし、何より、その戦争がこの先どうなるか分からない。

 息子たちは幸いに戦死を免れたとしても、日本という国そのものが、今よりもさらに難しく厳しい時代に進んでいくことは間違いない。

 戦争に負ければ日本そのものが滅ぶかもしれず、勝てばアジアの盟主として大発展を遂げるかもしれず、どのみち世の中は大きく変わる。その激しい変革の時代に世に出て、男として、日本人として、息子たちがなすべき仕事を、自分が押し付けていいものとは思えない。

 来春国民学校を卒業する桂佑は上の中学校へ進学させる。貧しい生活だが、その蓄えだけは残してきた。三才年下の亮には何をしてやれるかわからないが、自分につかせて行商の修行をさせるくらいなら安藤に養子にやるのもよかろう。いずれにせよ、今までの山本家の家業は、自分の代で終わらせるのだ。

「泣かん谷か」

 文太郎は峠に立った。

 汽車を使うようになってから峠越えはなくなっていたが、久しぶりな気がしない。今までに何度もなんども泣かん谷を越えてきたような気がする。それは見えない峠であったが、いつも太十郎と歩いたこの峠の姿をしていたような気もする。

 

 太十郎と同じように、文太郎もまた息子たちに「男の子は泣くな」と言って育てた。

 親は誰しも、わが子に「転ぶな」と願う。

 しかし子は転ぶ。転ばない子はいない。すると親は、今度は「泣くな」と教える。

 それでも泣く。子供は泣く。泣かずにはおられぬ転び方をすることが人にはある。

 そのとき「泣くな」と教え続けた親が言う。「泣いてもいいから自分の足で立て」と。

 そして、その子が自分の足で立ったならば、そこからどこへ向かって歩けばよいか、それはもう親が教えてやれることではなくなっている。

 中学に進む桂佑も、養子にやるだろう亮も、もはや自分と共に中ノ谷峠を越えることはない。そして目には見えない別の峠に向かって、息子たちは歩いて行くことになるだろう。

「中ン谷こそ、泣く谷か」

 文太郎はこみ上げてくるやるせなさを言葉ごと吐き出した。語呂合わせの軽口に紛らわせているうちは泣かずにすむ。

 男は泣いてはいけないという考えは、文太郎自身にはなかった。一度自分の足で立った男はもう決して泣かないものであった。

 戦後、このルートには国道十号線が敷かれ、中ノ谷峠の中腹にトンネルが開通した。以後、峠越えをする必要はまったくなくなり、かつて大入島の行商人たちが苦吟しつつ辿った峠道はいまは猪と野兎の通い道になっている。

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