TOPへ 佐伯物語目次

第3章  泣かぬ谷

 明治時代、教師として佐伯に寄寓していた国木田独歩は、のちにその随筆の中で次のように述懐している。一部を現代仮名遣いに修正する。

「余初めて佐伯に入るや、まずこの山に心動き、余すでに佐伯を去るも、眼底その景容を拭い去るあたわず。この山なくば余にはほとんど佐伯なきなり」

 その山の上には、むかし城があった。

 それを伝えて佐伯の人々は城山と呼ぶ。

 標高百四十メートルほどで、頂上まで登るのもさほど難儀ではない。ゆっくり散歩するのであれば、おそらく老幼を問わず登ることができると思う。頂上からは足下に市全体を見おろし市内を流れる番匠川や、佐伯湾に浮かぶ大入島まで眺望できる。

 頂上はかなりの広さにわたって平らに均されており、かつてそこに三層の天守閣がそびえていた名残を留めている。逆に市街地からこれを遠望するなら、周囲の山々とは明らかに異なる頂上の平らかさと、そこからふもとに向けて流麗に流れる山裾の線とが、あたかも城山全体を巨大な石垣のようにも見せ、月明の夜などにはその石垣の上に、天守閣が立つのを見るような気さえする。

 鶴谷城、またの名を鶴ヶ城と呼ばれるその城は、佐伯の初代藩主となった毛利高政によって普請され、慶長十一年に落成をみた。一六〇六年である。

 

 高政は秀吉子飼いの武将だった。もともとの姓を森といい、近江の出である。のちに毛利の姓をもらうことになるのだが、この辺のいきさつが少し面白い。

 本能寺の変が起こったとき、高政は秀吉に従って中国毛利氏の備中《びっちゅう》高松城を囲む陣におり、日本の戦史に異彩を放つ軍略として知られる「高松城水攻め」の工事責任者を務めていた。

 森高政、このとき二十四歳である。まだ若いが秀吉の信任はすでに篤かったといえる。

 さて信長の死を知った秀吉は、ただちに毛利と停戦を結んで明智攻めに向かおうとしたが、このとき高政は人質として、毛利方に預けられることになった。

 高松城での停戦は秀吉の詐欺同然の謀略であった。毛利方が信長の横死を知らないうちに、その到着を仄めかして「わしと違って信長公は容赦のないお方だからなあ」と、いわば死者の威を借りて有利な停戦に持ち込んだのである。

 事情を知った毛利がこれを怒り、高政を斬って、当時日本最大の領土を挙げた大軍をもって追撃を図れば秀吉は窮地に陥る。

 当時はまだ織田軍の方面軍司令官にすぎない秀吉にとって、毛利は単独で戦って勝てる相手ではなかった。まして明智との戦いの背後から攻められ、二正面作戦を強いられたら、いかにいくさ巧者の秀吉といえども敗北は火を見るより明らかである。

 したがって、秀吉はどうあっても、毛利に高政を斬らせるわけにはいかなかった。このため秀吉は、この人質にとんでもない付加価値を与えることにした。

 森高政は、実は秀吉の子であると、こっそり毛利方に伝えたのである。

 

 高政は若年だが、戦場ではすでにいくつもの武勲を立てている。一騎当千と言ってもいい。明智との決戦ではぜひ手元に置いておきたい将校である。

 しかし人質として毛利に遣わせば、千どころではない敵を相手に見事な働きをするだろうと秀吉は算盤をはじいたわけである。このあたりが秀吉という男の凄みだろう。

 実際のところ、高政は実戦の勇将としてだけではなく、政略や外交の駆け引きにおいても、秀吉に信頼されるだけの才を有する武将だったらしい。その才に、実は秀吉の子であるという箔をつけられて、高政は毛利の陣に乗り込んだ。

 信長の死が知れても毛利は動かなかった。毛利の前線司令官であった分家の小早川隆景が、事情はどうあれ、いったん結んだ停戦条約を「誓紙の墨も乾かぬうちに」破ることは、信義に反すると主張したとも言われている。 

 高政が毛利姓を下賜されたのはこの時である。毛利輝元から下されたものであった。輝元は大毛利の祖、毛利元就の孫にあたる。

 高政を引見した輝元は、当然のこととして敵将秀吉の人となりやその軍略を、この人質から知ろうとしたはずである。高政がそこで、何をどうアピールしたのかは想像するしかないが、秀吉の明智攻めが主君の仇討ちであること、それが忠義に生きる武士として当然の行いであること、武士であれば明智を許しておけるはずがないこと、それらのことを堂々と胸を張って、おそらくは語ったことだろう。

 要約すれば秀吉の今回の行動は義挙と言うべきで、これを妨害するのは不義だということになる。そして、秀吉は輝元殿を義の人と信じているから、あえて背を向けたのだ、などというおべんちゃらも、言ったかどうか、多分言っただろう。

 さらに高政は、羽柴は向後毛利殿を御味方と頼み参らせ候、といった密約めいた駆け引きも秀吉から言い含められていたはずである。

 輝元が、高政が秀吉の子であると信じたかどうかはわからない。真偽は問題ではなかった。秀吉がそう言ったのである。それは、秀吉が毛利との同盟関係を本心から望んでいることの、何よりの証明だった。我が子を人質に出すということはそういうことである。

 輝元は暗愚ではなかったが、権謀術数をこととする戦国大名の資質を、十分に持ち合わせていたとは言いにくい人物であった。我が子を人質に出すというほどの秀吉の信義に対しては、こちらも相応の礼で応えねばならないなどと、律儀に考えたのかもしれない。

 あるいは秀吉の人物や将来性を見抜き、これはいずれ手を結ぶべき相手だと判断したのか、どちらにせよ、輝元が人質である高政に毛利の姓を与えるということは、秀吉に対して、まず最上級の好意を示したということになるだろう。

 毛利の姓を下賜するにあたって、輝元は高政と義兄弟の契りを結んだとも言われているが、それは輝元が、「わしも羽柴殿を義理の父と思う」と宣言したに等しい。

 さらに輝元は、兄弟となったからには高政を人質として扱うわけにはいかぬと、その直後に帰参を許し、秀吉の下に送り返している。

 輝元のお人好しも、ここまでくれば見上げたものである。ひとりのさむらいとしては最高の賞賛に値する人物であろう。けだし、善人はいつもこうして利用されるものである。

 かくして森高政は、毛利高政となることで、中国毛利二百万石を秀吉の陣営に取り込む功を挙げたわけである。こののち秀吉は背後に憂いを残すことなく、近江へ北陸へと、その軍団を縦横に駆使して天下獲りに邁進することができた。

 やがて天下統一の最終段階になると、秀吉は九州に大遠征軍を送ることになったが、これを成功させるためには兵士や物資の海上輸送が円滑に行われなければならない。

 秀吉はここで、高政にその輸送船団を統括させている。

 高政は、瀬戸内海水運の元締めともいえる毛利村上水軍の力を借りて、この輸送作戦を成功させるのだが、そこに輝元との親密な関係が大きく寄与していたことは間違いない。

 この実績をもとに、高政は朝鮮出兵においても船奉行として渡海輸送作戦の責任者となる。

 くどいかもしれないが、これらは海上戦を担当する役目ではなく、海路の人やモノの流通を司る仕事である。高政が、のちに日本屈指の海国大名となるその資質は、以上のような経験を積み重ねることで、彼の体内に醸成されていったらしい。

 

 二度目の朝鮮の役で、高政は現地軍の行動を監督し秀吉に報告する、目付役に任じられた。このころ高政は九州日田二万石の領主となっていた。小藩とはいえ城持ち大名である。

 この戦役では、石田光成の一派に何かと専横の振る舞いが多く、これが諸将の怒りを呼び、家康に付け入る隙を与えることになるのだが、高政もその渦中に巻き込まれることになる。

 加藤清正や福島正則らの光成批判は、少しく感情的だとは思うが、光成はひとり安全な後方司令部に座を占め、命がけで戦っている最前線の将兵の賞罰を思いのままに操作している、という筋合いのものだった。

 のちにその証拠とされたのが、高政が記録していた従軍日記である。それを巧みに高政から引き出したのが他ならぬ家康だった。家康は高政を証人として、朝鮮の役における光成一派の専横を断罪したわけである。

 人々はその日記を信用した。というより書いた高政を信用していた。

 高政は目付という、それを理由に後方に留まることもできる立場にあったが、常に最前線で戦い、ある時は乗っていた軍船を沈められて九死の一生を拾い、またある時は陸戦において、敵の大将を一騎打ちで生け捕るという凄まじい武功を挙げている。

 しかも高政は、諸将の功績を報告するのが目付役の仕事であり、その立場を利用して自分の手柄を声高に述べることはできないという、恐ろしいほど愚直な理由で、自身の功についてはいっさい秀吉に報告しなかった。そういう高政と並べられると、光成とその一派はどうしても分が悪い。結局高政はそれを企図したか否かに関わらず、反光成派の団結を促し、関ヶ原への扉を開く役割を果たしたことになる。

 ところが、その関ヶ原戦役において、高政は西軍大阪方として参戦したのである。

 彼は石田光成を好いてはいなかったが、光成が担ぎ上げた西軍の総大将は、名目上とはいえあの毛利輝元だった。おそらく高政は秀吉の恩顧に応えるためではなく、義兄輝元への義理を果たすために、大阪方に参陣したのであろう。

 ここで西軍参謀長格の石田光成は、緒戦においては全軍で家康に向かうことをせず、兵力を割いて畿内要所の制圧に向かわせる。

 この多方面作戦による戦力の分散は、のちに酷評される大失策ではあったが、光成としては後方の脅威を排除しておく意義を認めたのかもしれない。

 光成は、みずから秀吉の一番弟子をもって任じていたようだが、その肝も智も、彼の師には遠く及ばなかった。秀吉は十万の毛利軍を抑える大役を高政ひとりに託したが、光成は五百の兵が守る丹後の田辺城に、一万五千に及ぶ大部隊を送った。

 毛利高政は、その丹後に向かう西軍部隊の一翼を担っていた。

 

 丹後は現在の京都府の日本海側に位置している。緒戦において東西両軍の主力が対峙すると予測される岐阜方面にはまことに遠い。西軍は田辺城を一気に攻め落とし、すみやかに畿内の制圧を完了して主力と合流する必要があった。

 古来、城攻めには守備側に十倍する兵力が必要だといわれていたから、光成の戦術も試験の答案としては間違っていない。それどころか、さらに徹底した大兵力を投入しているあたりはさすがである。しかし所詮は教科書どおりの答案でしかなかった。この城がいつまで待っても落ちないのである。

 田辺城を守っていたのは細川幽斎である。

 若いころの名を藤孝といい、明智光秀の古くからの盟友だった人物である。すでにこの時、子の細川忠興に家督を譲って隠居の身となっていた。良く知られていることではあるが、この細川氏の子孫が、第七十二代内閣総理大臣 細川護煕である。

 当主の忠興は東軍の主力として岐阜方面に参陣しており、城兵の数は留守役のわずか五百にすぎない。しかし幽斎はこれを良く督戦指揮して、西軍連合軍の猛攻を支えた。

 結局、この攻城戦は五十日余に及んだが、長引いた理由は城兵の勇戦だけではなかった。

 幽斎は京都の御所や公家とのあいだに太い人脈を持つ、当時第一級の文化人として知られていた。たとえるなら、現在の人間国宝に認定される素養を十ほども備えていたと言っていい。 

 そういう彼の討ち死にを惜しんだ公家朝廷の斡旋によって、二ヶ月に及んだこの局地戦にはその間幾たびも、朝廷の高官からの、和睦を勧める使者が到来したのである。

 和睦を拒否したのは幽斎のほうであったが、朝廷が幽斎に肩入れしていると分かったので、寄せ手の勢いも自然に緩む。もし城を落として幽斎に切腹でもされたひには、こっちが後からどんな問責を受けるかわかったものではない。  

 攻めるべきか、手加減するべきか、迷う西軍の攻撃は消極的になる。幽斎が、寡兵をもって苛酷な篭城戦に耐え抜けたのにはそういう理由もあったのだろう。最終的には、天皇の勅命で講和が成立するのだが、幽斎がその勅命を畏み、開城を受け入れるのは、関ヶ原決戦のわずか二日前であった。田辺城の攻防戦はこうして西軍が勝利する。

 この数日の変転は非常に運命的である。

 周知のとおり関ヶ原の決戦では家康を主将とする東軍が大勝するが、このとき田辺城はまだ開城していない。幽斎が実際に城を出たのはその三日後だった。

 西軍の毛利高政は、勝利者として田辺城の開城に立ち会っていた時、すでに負けた側にいたことになる。しかし高政はこれで輝元への義理も果たしたと考えたのかもしれない。このあと家康に帰順を申し出て、日田に帰り沙汰を待つことになった。

 

 家康の戦後処理は過酷で、西軍大名のほとんどに、大幅な減封や取り潰し、あるいは大名の身一つで追放や幽閉という処分を下した。

 ところがこの戦後処理で、高政は日田二万石の所領を安堵された。無罪というわけである。そして約一年後に、のちの佐伯藩、豊後海部《あまべ 》郡二万石に転封されることになるのだが、これは西軍に加わった大名としては破格の処遇である。

 高政は関ヶ原の寝返り組である藤堂高虎と親交が篤かった。高政の朝鮮戦役における武功を秀吉に報告したのが高虎であり、このころ家康と高政のあいだを取り持ったのも高虎である。

 当然のことに、高虎は高政の罪を許すよう家康に働きかけたはずである。家康にとっても、高政は関ヶ原への扉を開いてくれた大功労者である。高政が許されたのは、おそらくそういう事情だろう。

 さらにもうひとつ、この時の高政には強力な後ろ盾が成立していた。

 調べてみると、田辺城攻めに参戦しながらそれを許された大名は、なにも高政ひとりだけのことではなかった。彼らはほとんどが罪を問われていないのである。

 天皇の勅命による講和だったことがその理由だろう。勅命に服した彼らの罪を問うことは、朝廷の権威に泥を塗ることである。家康がそんな割の合わぬことをするわけがない。

 源平の昔から天下の権は武士が握っているとはいえ、その権威は、最終的には朝廷によって公認されなければならない。家康が武士階級の頂点である征夷大将軍たることを欲するなら、朝廷に不快な思いをさせるわけにはいかなかった。

 さて、高政が許された理由はこれで十分すぎるほどである。その上で、もうひとつの疑問を提示してみたい。高政は、じつは家康に内応していたのではないかという疑問である。

 田辺城攻めに参加した西軍の中に、前田茂勝という武将がいた。

 茂勝の父親は前田玄以《げんい 》という。この人物がキーマンとなる。

 玄以は、はじめ信長に仕え、豊臣政権では京都所司代という役職にあった。これは京都市長であり警察署長である。それは、彼が朝廷との交渉役だったことを意味しており、その関係もあって、玄以は朝廷の公家たちはもちろんこと、幽斎とも親しく交わっていた。

 関ヶ原戦役の時、玄以は石田光成と同格の豊臣五奉行のひとりであり、西軍大阪方に組していたことになっているが、実は家康とも通じていたらしい。

 家康は敵方にいる玄以に、この合戦のあとにこそ大いに働いてもらわねばならなかった。

 征夷大将軍の印綬を受けるためには、任命権をもつ朝廷とのあいだに強力なコネクションが必要となる。玄以は徳川幕府を成立させるために、なくてはならぬ人材だった。

 西軍が田辺城を攻めたことは、家康にはこの上もない舞台装置となっただろう。

 光成の生兵法が、あろうことか田辺城を攻めさせている。家康にとっては最初から員数外のわずか五百の兵力で、一万を超える敵を後方に遊ばせることができているのだ。

 それだけでもありがたいというのに、守っているのは天皇や公家に絶大な人気を持つ幽斎、しかも寄せ手の内にはその朝廷に強力なコネを持つ、あの前田玄以の息子がいるという。

 これらのファクターが、家康の頭脳の中で、彼にとってもっとも歓迎すべき結果を招くよう結合したのだろう。

 玄以に和睦をもちかけさせて寄せ手の気勢を殺ぐ。彼を通じて息子の茂勝には因果を含め、田辺城の包囲を長引かせれば、丹後の西軍一万をそこに釘付けにできる。幽斎を救えば玄以に手柄を挙げさせることになり、戦後の朝廷工作を任せる上でも有利となる。

 こう考えた家康が玄以に指図をしたのか、それとも玄以自身の策であったのか。

 玄以にしてみれば、この講和が実現すれば、敬友である幽斎の命を救えるばかりではない。朝廷は玄以の功績大なりと認めるに違いなく、家康と光成のどちらが勝とうとも、この玄以を裁断することはできなくなる。

 あるいは両者の思惑が、蛇の道はへび、という具合に一致を見たのかもしれないが、結局はこのとおりになった。

 玄以は、和睦を勧める朝廷からの使者をみずから田辺城まで案内した。勅命には逆らえず、ついに降伏を認めた幽斎の身柄は、玄以の息子、前田茂勝に預けられた。戦後、家康は当然のことに前田親子の罪を問わず、むしろ重用することになる。

 この間の事情を見ていくと、高政に対しても、寝返りを勧める家康からの密書が届いていた可能性が十分に考えられる。積極的な寝返りは必要ない。前田茂勝に歩調をあわせ、城攻めを手加減して日数を稼いでくれればいいのである。

 本当のところは誰にも分からない。

 ここからの結論は筆者の私見だが、高政は、伝えられる彼の事跡にあるように、真に無骨でまっすぐな人であったとしておきたい。家康の誘いは丁重にこれを謝絶したことだろう。

 しかしまた明敏な高政は、家康の策を通してこの戦いの帰趨を読み取ったはずである。

 事実丹後の戦況は家康の思惑通りになっている。彼はそこで、この上は無理をせず、大きな時代の流れに身を任せようとしたのかもしれない。自分はただ、あの素晴らしいお人好しへの義理を果たせばよいのだと。

 毛利はもともと勤皇の家柄で、中国全土を平定した折に「朝臣《あそん》」の称号を下賜されたほどである。高政が朝廷の意を汲むこともまた、大毛利への報恩と言えなくもなかった。

 その田辺城を、幽斎に腹を切らせることもなく開城させた時、関ヶ原決戦の勝敗も明らかになっていた。高政はそこで、すべてを終わらせるべき時が来たことを理解しただろう。

 高政は結局家康のもとに帰順することになるわけだが、彼がその決心をしたのは、おそらくこの時のことだったと筆者は思う。

 

 ところで高政に毛利姓を下賜した、かの毛利輝元は、この関ヶ原戦役において西軍総大将の立場にあった。彼自身は戦場に出馬することなく大阪城を守っていたのだが、関ヶ原決戦は、彼のまったく想定していなかった経過をたどり、思いもかけぬ大敗北となった。そして、その大敗北の主因は、毛利自身にあった。

 毛利本家の軍勢は、輝元の息子である秀元が率いていた。

 ところがこの軍勢は家康の本陣を背後から衝ける絶好の位置に布陣していながら、まったく動かなかった。秀元に参謀役として付き従っていた、分家の吉川広家が工作したのである。

 秀元の軍兵は、戦場の目の前で長々と弁当をつかわされ、ついに戦機を逃した。

 さらにもうひとつの毛利の分家である小早川秀秋が、こちらは絵に描いたような裏切りで、西軍を襲った。これが西軍崩壊の決定打となった。

 毛利輝元は、つまるところ、一族分家から手ひどい裏切りを受けたことになる。

 毛利元就の三本の矢の故事は、毛利本家、小早川家、吉川家をその三本に擬したものだが、その結束が最初に大きく緩んだのは秀吉の明智攻めに際してであった。

 小早川は前述のとおり追撃を不可としたが、このとき吉川家の当主元春は追撃を主張した。この点を記憶されたい。

 やがて秀吉が覇権を握ると、毛利本家と小早川家は、明智攻めの折の処置殊勝なりとして、大老の地位を与えられた。

 秀吉は、三本の矢の二本だけに、漆を塗り、金箔を貼ってやったわけである。これで残りの一本である吉川家の当主、吉川元春は、逆に秀吉に仕えるのを嫌い隠居することになる。

 吉川は「追撃すべきだ」と意見を言っただけで、毛利全体として不戦の方針が決まった後はそれに従っている。それなのにこの処置である。秀吉の巧妙な毛利一族離間策といえよう。

 小早川家の当主であった隆景は、この数年ののち、吉川元春の孫である広家に対し、

「明智攻めのとき、羽柴との停戦を遵守したから、今の毛利が安泰でいられるのだ」

 という意味のことを語っている。これも、いかにもまずい。

「おまえの祖父さんの言うことを聞いていたら、毛利はつぶれていたぞ」

 そう言ったのと同義である。広家が腹を立てぬわけがない。

 だいたい、兄弟三人仲良く協力せよなどという、しごく当たり前のことを、三本の矢などともったいつけて言うものだから、毛利一族の結束とは、逆にそういう教訓をわざわざ与えねばならないほどに脆いのかと、秀吉に見抜かれてしまうのであろう。

 さらに秀吉は、自分の甥である秀秋を、毛利家の養子に送り込むことによって、毛利本家の乗っ取りを画策する。これを防ぐために小早川隆景は秀吉に直訴し、秀秋を小早川家の養子に迎えて本家を守った。こうして、のちの関ヶ原の、裏切り中納言秀秋が誕生する。

 だが小早川隆景の捨て身の一策も、所詮は本家を守っただけである。三本の矢の一本である小早川家はこれでまったく秀吉のものとなった。

 秀吉の死後、徳川家康の権勢が強大になると、ひとり本家を補佐する任にあった吉川広家は頼りない本家の輝元に代わって。自分こそが毛利を守るとばかりに家康に接近し、関ヶ原での工作の代償として毛利の本領安堵を願い出た。毛利の長《なが》弁当という故事は、この密約によって生まれた。

 ところがこの約束も老獪な家康の手のうちで反古にされ、毛利家は三十六万石の地方大名に転落することになるのである。

 この毛利家衰退のいきさつに、佐伯の毛利高政は直接の関係はない。だがそのはるか昔に、明智攻めに向かう秀吉への追撃を一身で食い止めた森高政は、企図していなかったとはいえ、その手で毛利一族離反の種をまいていたことになる。

 大毛利衰退の源流に高政という小さな水脈があり、その因縁の渕に咲く仇花として佐伯藩の毛利姓が残ったことを思えば、筆者としては、そこに歴史の綾の面白さを感じざるを得ない。そんなことでつい横道ばなしが長くなった。

 なお、高政が秀吉の子であったことを証明する史料は現在まで見つかっていない。この段の最後になったが、この点書き添えておきたい。

 

 佐伯に封じられた高政は、それまでこの地の支配拠点であった栂牟礼《とがむれ》城が不便であるとして、それより四キロほど北の八幡山と呼ばれる山の頂上に城を築いた。こんにちの城山である。 

 佐伯藩は高政を藩祖として幕末までに十二代を重ね、明治維新を迎えるまで存続した。

 秀吉子飼いの武将でありながら、徳川幕府の下で大名になりえた者の中で、幕末に至るまでその家名を存続させることができた大名は、佐伯藩毛利家だけである。

 ついでながら書き添えると、それ以外の、秀吉子飼いの大名家は結局すべて取り潰されたがその第一号はあの小早川家であった。

 徳川幕府はそういった危険要素を持つ外様大名に対して様々な外圧を加え、時には謀略さえ用いて取り潰しの機会を作ろうとした。佐伯藩に対しても、江戸城の手伝い普請などの労役をたびたび課してその経済力の減殺を計っている。

 当然ながら藩の経済状態は楽ではなかったはずだが、それでも幕末まで生き延びた事実は、佐伯毛利がいかに巧みに、かつ辛抱強く国政を摂ってきたかの良い証左といえるだろう。

 初代藩主となった高政の、領内の農民に対する触れ書きが残っていて、それを要約すれば、「農繁期には男も女も田畑に出なければならない」と訓告している。ここまでは普通の心得のようであるが、続いて「もし家にいるのを見つけたら罪に問う」というのだから、なかなかに厳しい殿様であったようである。

 高政は農業を厳しく督励すると同時に、領地が豊後水道に面し、長大な海岸線を有しているところに着目して漁業の振興を図っている。その中で特筆すべきは、一六二三年九月に出した触れである。この中で高政は海に接した山林での伐採と野焼きを禁止している。

「山繁らず候えば、いわし寄り申さず候う旨、聞き届き候」

 読みやすくするために一部仮名づかいを修正したが、要は山に木が繁っていないと、沿岸にイワシが寄り付かなくなるからであるという。

 高政は漁業振興のために、なんと山林の保護を命じたわけである。

 この禁令の対象となった現在の大分県津久見市の沿岸一帯には、ウバメガシを主とする広葉樹林が広がっていたらしい。この木は今でも紀州備長炭の材料木として重用されているほどの木だから、あるいはこのあたりでも木炭の原料として伐採が盛んだったのかもしれない。

 樹木は土を豊穣にし、そこに多くの生命を育む。それらの死骸や排泄物までも含めた豊富な有機物が、雨水や地下水によって川に溶け、川から海に流れ込み、沿岸一帯にプランクトンを成育させる。これが魚の餌となり「イワシが寄り付く」のである。        

 また、樹木が有する保水能力は、森林の下流域の生態系を維持するために不可欠である。

 仮に沿岸や河川流域の樹木が伐採され、山が丸裸になった場合、雨は山肌を洗い、その水は直接濁流となって海に流れ込み、沿岸の生態系を破壊してしまう。

 水産資源を保護するために山の木を伐ってはならぬという、いわゆるエコロジカルな知恵については、不思議なことに昔の日本人のほうが良く知っていた、と言うより弁えていたようである。高政は日田二万石に封じられる前まで、現在の兵庫県で瀬戸内海に面した明石に領地を与えられていたから、あるいはそのころ土地の漁師から学んだことかもしれない。

 かくして佐伯藩は、俗に「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われるほどの、水産業の隆盛を見ることになる。第一章で触れたように、佐伯藩は水産業と海上流通から生まれる利益によって、実質四万石程度の経済力を有していたと試算する研究者もいる。

 

 温暖な豊後の地でも、十月の声を聞くと風も爽やかとなり、空には鱗雲が浮かぶようになる。

 このころから大入島でもっとも旨くなるのがアジである。もっともこの魚の旬は夏だから、この表現は誤解を招く。正確に書くならアジの丸干しがもっとも旨くなる季節なのである。

 アジの塩干ものと言えばまず開きが思い浮かぶが、大入島では丸干しの加工も盛んだった。丸干しは内臓を除かずに干すため、その苦さが食味に加わって、開きより一段と深い味わいが楽しめる。大人の味と呼んでも良いし、魚ほんらいの滋味とも言える。

 先に書いたようにアジの旬は夏である。だが丸干しに加工し遠路売り歩くには、夏の気候はあまりに過酷である。

 傷みやすい内臓を取り除き、ダシをとるための煮干のように固干しにしてしまえば日持ちはするだろう。

 だがそれでは旨くない。海水の湿り気がしっとりと残り、炭火で軽くあぶって腹を割ると、ひと筋ふた筋の湯気がすうっと立ちのぼるほどに生ッ気がある、このくらいがもっとも旨いのである。だから丸干しの加工は涼しい海風でゆっくり乾燥させることができて、数日間の行商にも品質が耐え得る秋口を待ってから行われるのである。

 大入島の海岸に小アジを干す竹製の台が並びはじめると、文太郎もそろそろ家を出る支度にとりかからねばならない。行商に出る日が近づいている。

 

「金が足らんのう」

 文太郎が蓄えてあった金を勘定してみると、今回の仕入れに少々足りない。

 仕入れは現金払いであった。仕入先は顔なじみの漁師たちだから、頼み込めば何割ほどかは後払いにしてもらえないこともなかった。だがそのためには幾分か色もつけねばならないし、金銭以外の借りを背負うことにもなる。

 文太郎は金を借りることにした。

 守後浦の北隣の久保浦に安藤という家があった。もともとこの島では一般的な半農半漁の家だったが、このころ当主だった安藤武士は、若いころ家を出て朝鮮の平壌で事業を成功させ、結構な資産家となって島に戻ったという経歴を持っている。

「武ニィが帰って来た時、風呂敷包みが札束でパンパンにふくらんじょった」

 と言うのは桂佑である。山本家と安藤家は親戚筋だった。

 武士の妻が、徳の妹なのである。名を美弥という。幼いころ母親を早く亡くした彼女には、徳が母親代わりであった。姉妹の年齢は十ほども違うから、徳が十九歳で文太郎に嫁いだ時、美弥はまだ少女だったことになる。

 やがて安藤家に嫁いだ美弥は夫に従って一度故郷を離れたが、その彼女が成功した夫と共に島に帰ってきた時、徳がどれほどの喜びをもって彼女を出迎えたかは想像に難くない。

 そのときは桂佑も、叔父の凱旋を田舎の少年らしい単純な興奮をもって迎えたものである。

 言ってみれば、金持ちなどという人種を見た初めての経験であった。島の住民はみな貧乏で、そして貧乏が人にとってあたりまえの姿であるというのが、この島の、桂佑たち少年の共通の感覚だった。

 武士は帰郷したのち家業の漁と農業を継いだが、蓄えた金を元手に金融を始めた。文太郎が借金を申し込む相手はこの義理の弟であった。

 武士から金を借りるのはこれが初めてではない。

 文太郎から初めて借金の頼み入れがあった時、武士はさすがに義理の兄から利息は取れぬとためらったが、文太郎はあくまでも普通の取引として貸してもらえるように頼んだ。親戚間の借金には、そうするほうが良いとも言った。

「誰に借りてもどうせ利息を払うんじゃから、身内に儲けてもろうたほうがエエじゃろ」

 その兄の、このくだけた物言いに気を安くして、武士は融資を請け負うことにしたのだが、文太郎も返済については完璧にこれを履行したので、この付き合いは長く続くことになった。   

 文太郎は借金を返済する際のちょっとしたコツを持っており、のちに彼の子供たちが事業を起こし、銀行から融資を受ける立場になった時、それを伝授している。

「ひとつはの」

 返す金は返済期日の一日前に持っていけ、と言う。

 人間というものは、どんなに信頼しあっていてもどこかに、毛ほどではあっても疑いの心というものを持つ。貸した方にしてみれば、返済の期日になると、その日は金が返ってくるまで気になってしょうがない。前日に返済すればその心配をさせないですむ。気分がいい。すると次もまた気持ちよく貸してくれる。

「毎度まいど前日に持っていけば、今度は前日が心配な日になる。同じことではないか」

 その疑問には、

「そん時は、楽しみになるんじゃ」と答えた。

 毎回前日に返済するということを続けていれば、「さて今回はどうか」と面白がってくれる。一日違うだけで、心配させるか面白がらせるかという正反対の印象が残る、と言うのである。

「ふたつめは」

 鯛を持っていけ、と言う。

「鯛はめでタイじゃ。祝儀じゃ」

 借りた金のおかげで自分の事業が成功したことを、共に喜んで欲しいというしるしを持って行けというのである。そうすれば金を貸した方は、その者にとっては小銭同然の利息を儲けたことより、自分の金が活きたことに大きな喜びを感じる。それが一番の礼であると言う。

 要は借りた金がどのように役に立ち、自分がどれほど感謝しているか、それをまず伝えよ、というのである。だがそれならそれで最初からそう言えばいいものを、まず鯛を持って行けというところが人を食っている。このあたりが、生身の極意というものかもしれない。

 商いは売り買いの双方が儲からなければならない、という文太郎の哲学は、このようにして息子たちに受け継がれていったのだが、それはまた後の話とすべきであろう。

 

 文太郎はこの日もいつものように、ふらりと安藤の家を訪ねてみた。

 武士は家におり庭先で蜜柑の出荷のための荷造りをしていた。資産家となった今でも、彼は古びた農家屋に住み、ツギがあたった野良着を着ていた。皆と同じように畑に出て枇杷を作り西瓜を育て、時どき漁に出た。このころは早生《わせ》蜜柑の収穫時期であった。狭い庭先で、武士はひとりで蜜柑を箱に詰めていた。

 実はまだ青かったが、陽を浴びて若い緑色に輝き、宝石のように見えた。今では当たり前に食べられるこの庶民的な果物も、このころにはぜいたくな味覚であったという。

「おう、文ニィか。このたんびはエライことじゃったのう」

 武士は文太郎をみとめると、腰掛に座ったまま手を休めて声をかけた。彼は義理の弟であり文太郎より年下だったが、この島では年下が年上に敬語を使うということをあまりしない。  

 もとより年長と年下の間には厳然たる上下関係が存在する。しかしそれは狭い地域共同体の中では周知の関係性であり、わざわざ敬語を使って両者の関係を明確にする必要性そのものがなかったと言える。 

 武士は清田のことを言っている。

「久保浦の衆が言いよったわ。文ニィのおかげでっちのう」

「なんのい」

 文太郎は事も無げにその話を折って、蜜柑を見て言った。

「ほう、ええミカンじゃが、まだちょっと早うねえか」

「どうしてか。こりゃあ海軍さんの買い上げじゃ。軍艦に積むんも、外地に送るんも、ちいと早う摘んでやらんといけんじゃろ。置いちょるうちに甘うなってくる」

「そうじゃったな」

 しかしその軍艦がもういないのだ。文太郎は思ったが口には出さないでいた。

 たとえ戦争がどうなろうとも、彼らの目の前には家族を食わせていくための仕事があった。そのためになさねばならないことは、今までと何の変わりもなかった。自分もそのために金を借りにきたのだ。文太郎はほんのしばらくのあいだ、この男には珍しくぼんやりと呆けた顔を蜜柑に向けていた。武士はそれに気づいていない。

 

 金を借りる話はすぐに済んだ。

「ほいたら確かめてくれるかのう」

 武士がタンスから出して前に置いた金を、文太郎は押し頂いてから数え始めた。数え終わるとあらためて武士に頭を下げ、

「確かに貸してもろうた。おおきに」と言った。

 文太郎が金をふところにしまうあいだ、武士は庭先から持ってきた蜜柑を文太郎にも勧めるように彼の座前に置き、自分もひとつをとって皮をむき始めた。青い蜜柑特有の清冽な酸味を含んだ甘い香りが漂う。

「ああ、こりゃあさすがにまだ酸ええが、のどが渇いちょる時は悪うねえ」

 武士が促すように言うので文太郎もひとつをとり、彼に合い槌を打つようにむき始めた。

「文ニィ、なんぼか持って行って、徳ネェと子供どもに食わせちゃったらええが」

「なんのい、ミカンならうちの畑でなんぼでも採れる。せっかく摘んだちゅうに、餓鬼どもに食わせることがあるか。全部売りゃあよかろう」

 文太郎が言うと、武士はさも楽しそうに笑ってこう言った。

「どのみち桂佑と亮は学校から帰りよる道で、ようもいで行きよるが」

「桂どもがか」

「ビワの時もじゃ。スイカはさすがにようけ持って行かんじゃったがの、ははは」

 やれやれ、という気分であろう。文太郎は軽く困ったような顔をして武士に詫びた。

「大きにすまんことじゃのう」

「どうか」と武士は笑った。

 どれほどのことであるか、たいしたことではない、という意味である。

 事実、今彼らが食べている蜜柑は、傷があったりへたが取れていたりして、売りものにならない不出来なものであった。そして、桂佑や亮たちがちょいと失敬するとしても、彼らもまたそういう要領を知っていて、畑の主にさほどの損害はなかった。

「それでの文ニィ、今日はちょうどええ、ちょっと相談してえことがあるんじゃが」

 武士は食べかけの蜜柑を脇に置いて、ややあらたまった風情で身を乗り出した。

「俺んとこにはどうしてか子が出来んでの。どうじゃろう、亮を養子にもらえんじゃろうか」

 

 武士が言うには、妻の美弥にはことのほか甥の亮が可愛いらしい。

 自分の母親代わりだった姉の子ということもあるのだろう。安藤の家は、亮の学校の近くにあったから、時おり甥っ子の姿を見つけては家に招き入れ、芋や菓子などを与えているうちに、まったく情が移ってしまったと言うのである。

「そうは言うても、お前んとこも、まだこれから子はできるじゃろう」

「子はなんぼおってもエエ。亮なら文ニィと徳ネェの子じゃ。我が子も同じじゃ。俺んとこにあとから子ができても粗末にゃせんが」

 文太郎はもとよりそんなことを気にしてはいない。だがこれはさすがに即答できる問題ではなかった。

 まず、核心を避けて義理の妹の立場について水を向けてみる。

「美弥も肩身が狭かろうけの」

 この時代、一家の主婦の、最大の責任のひとつには家の跡継ぎを産むということがあった。若い読者には実感がわかないかも知れないが、これはなにも名家や商家に限ったことではなく、一般の家庭においても同じであった。さらに田舎ではその傾向が強い。

 当時の民法では家を継ぐのは男子であると規定されていた。男子が生まれなくても、せめて娘がいれば婿をとって家督を継がせることが認められていたが、女子もおらず、養子を迎えることもできなければ、その家は断絶してしまう。

 それは数千年間受け継がれてきた家系の一流が絶えることであり、これを悪とする考え方はこんにちよりずっと強固であった。したがって、子を産めない妻、もしくは嫁は、その責任を負って肩身の狭い思いをするということになるのである。

「本人はそう思うちょるかもしれん」

 武士は言った。その言い振りではどうやら美弥だけの気兼ねのようである。周囲はさほどに気にしてはいないらしかった。

「お父ゥもお母ァも、早よう孫の顔を見てえと俺には言うんじゃ。ほいてもな」

 嫁は嫁で十分気にしているだろうから、余計なことを言って肩身の狭い思いをさせるなと、わざわざ息子に釘を刺すくらいだという。武士はそう言って文太郎の心配を打ち消し、

「そうじゃのうて亮がむどらしい《かわいい》ちゅうことじゃ。俺もな、亮なら土建の仕事を教え込んで、大陸あたりで一旗あげさせてやろうち気にもなるしの。あれはの、小せえくせに気が強えのがエエ。文ニィ知っちょるか、亮は相撲で負けたことがねえらしいぞ」

 知っちょるどころではない。

 佐伯の街を連れ歩くとき、亮に辻斬り相撲をさせぬよう苦労しているのは、相手に怪我でもさせたら面倒というだけで、息子の身を心配する必要はまったくなかった。

 島でも負けなしというのは、同年代が相手という条件つきならまず本当だろう。とは言え、そういうことを吹聴してまわる息子ではないし、おそらくは美弥がどこからか仕入れた話を、うれしさのあまり誇大に武士に伝えたものであろうと思った。

 もし亮自身がそんなことを自慢してまわれば、年長の餓鬼大将共からしたたかに鍛えられて毎日びっこをひいて帰って来ることになるのがおちである。

「そういうことじゃ。なんぼ子供相撲が強ええと言うても、九つじゃけな。まだお母ァの乳を吸いよるのと同じじゃけ。武ニィな、もうなんぼか考えさせてもろうて良かろうか」

「そりゃそうじゃ。いますぐ徳ネェから取り上げるんもむげしねえ。どのくらいじゃろう」

「そうじゃのう、国民学校を出るまでは」

「エエで。そりゃあ楽しみなことじゃ。あと何年かのう」

 亮がこんにちの小学校にあたる国民学校を卒業するまでには、あと三年半が必要であった。それを文太郎は考える時間と思い、武士は待つ時間と思った。

 

 安藤家を出る時、文太郎は振り向いて、古びた藁ぶきの農家屋を見上げた。

 今の安藤家なら、これを豪勢な瓦ぶきの網元造りに建て替えることもたやすいはずだった。それをしないのは、先祖からの家を守るという武士の気持ちの表れに違いない。しかし、亮が跡取りとしてこの家に入れば、その時こそ武士はここに、新しい息子のための立派な邸宅を、財を惜しまずに注いで新築することになるだろう。

「それもエエかもしれん」

 省みれば文太郎はまことに貧乏であった。貧乏人の子だくさんで、子供たちはいつでも腹を空かせている。この家の子になれば少なくとも衣食について不自由はしないですむだろう。

 上の学校にも行かせてもらえる。そのありがたさは、文太郎がいちばん良く知っている。

 そう思うと、今まで一度たりとも感じたことのなかった自分の貧乏に対する反省が、少しの切なさをともなって湧き上がってくる。「親父が貧乏なせいで俺はよそに養子に出された」と亮は言うだろうか。

 もっとも文太郎は貧乏であることの価値を否定しない。男の子にとっては、むしろ好ましい教育環境であるとさえ思っている。読書家だったこの男は、西郷隆盛が遺した「児孫のために美田を買わず」という言葉を知っており、好いていた。

 好いてはいたが、そのために金銭そのものの価値を見失うほど、文太郎がその観念に対して愚直だったわけでもない。 

 美田は買わぬ。しかし田んぼはいるぞ。田んぼで一所懸命働く親父の背中を見てこそ子供は育つのだ。だいいち田んぼがなくてどうやって飯を食うのか。文太郎はそう言う。

 彼はこの時、美田ではなく、良い田んぼを亮にもらってやってもよいと思った。

「武士は平壌で一旗揚げたほどの男じゃ。どう可愛いというても甘やかしはせんじゃろ」

 息子にとっては、あるいは貧乏よりもさらに厳しい生活かも知れないが、男の子である以上それはむしろ幸福な人生である。この父親はそう考え、そう考えると気が楽になった。

「なに、まだ三年も先のことじゃ」

 文太郎はそう言って、たった今まで深刻に向かい合っていた思案を放り出し、踵をかえして泊めてあった船のほうへ歩き始めた。

 まだ陽は高かったが、海からの風が、潮とはちがう湿り気を含み始めていた。雨になる前に家に帰り着こうと思い、文太郎は急いで船のとも綱をほどきはじめた。

(続く)

TOPへ   佐伯物語目次