TOPへ 佐伯物語目次

第7章 フトン舟

桜が咲いている。

大入島の山肌をひと挿しのかんぎしのように飾っているそれは山桜だった。街路樹や公園の桜として一般に親しまれている染丼吉野と違い、純白の花が若葉の緑に混じって咲く。素朴でけれん味がなく目立たないが、たとえば化粧服飾に凝った人々の中に混じると、無垢な輝きがひときわ光を放つ乙女のような、純な美しさをもつ。

染丼吉野は江戸時代に品種改良で生み出された品種であるから、古来、日本人が和歌などに謡ってきた桜とは、あるいは.この出桜であつたのかもしれない。

染丼吉野の名は、桜の名所として知られた大和の吉野に因んで命名されたといわれている。吉野はその昔、太閤秀吉が威勢を誇示するための大花見会を催したところでもある。

もしも秀吉の時代に染井吉野が存在していたら、派手好みの秀吉のことである。華やかなこの桜を何百本と植えさせて大いに自慢したかもしれない。だとしたら、さしずめ利休などは腹の中で眉をしかめたに違いない。

江戸に生まれた染丼吉野はやがて日本中に広まり、この国で桜といえばこの種を挿すようにさえなった。それほど愛されるだけのことはあり確かに美しい。美しいが、そこには人の手によって与えられた媚を少しく感じる。それまで出桜のつましい美を愛してきた人々の目には、それはなんとも危うく、うつろな華やかさとは映らなかったろうか。

江戸中期の国学者で「古事記」の研究者として有名な本居宣長が、自画像に賛として加えた一首がよく知られている。

 

しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花

 

敷島の 大和ごころを ひと問わば 朝日に匂う 山桜花。

 

敷島は大和にかかる枕詞で日本の国土の別称である。朝日もまた日本(ひのもと)に通じるだろう

ひととき乗しく咲いたのちは枯れた姿を枝に留めず、美しいまま散っていく桜の婆に、ひとの死生感、あるいは出処進退の潔さを暗示して、それが日本人のこころだという。

もっとも宣長にことさら武士道や大和魂を鼓吹する意図はなく、自画像の賛として書かれたことから見ても、これは自分自身の心構えを詠んだにすぎないという意見もあり、筆者もその解釈が好きである。

だが昭和二十年のこのころになると、この一首は「国のために潔く死ぬ」ための念仏として全国民に喧伝される運命を担わされていた。宣長にしてみれば決して予期せず、また喜ぶべきことでもなかったであろう。

昭和二十年.それは特攻の年であった。

特攻隊。正しくは特別攻撃隊。

この世界戦史に類を見ない凄烈な戦術、これを戦術と呼ぶべきかどうかの当否はおいてだが、それは昭和十九年十月のフィリピン攻防戦において初めて組織化され、実行された。

搭乗員が飛行機もろとも目壌に突入して.自爆の代償に敵を葬るという戦法は、それまでも戦場において幾度となく行われてきた。

心かし、これは被弾や燃料切れなどの物理的な理由によって、生還を諦めざるを得なかった時に「どの道死ぬのなら」という、搭乗員自身の判断によって行われたものである。これを特攻とは呼ばない。

特別攻撃隊とはあくまでも組織的かつ計画的に編成された部隊に与えられる名称で、しかも本来は「体当たり」を意味しない。

 厳密に書くならば、この戦争で最初に特別攻撃隊の名称が付与されたのは神風隊ではない。

それは真珠湾攻撃に参加した、特殊潜航艇による奇襲攻撃部隊だった。

特殊潜航艇は二人乗りの小型潜水艦で、大型潜水艦に搭載され目的地まで連れて行かれる。

この点は戦争末期に使用された特攻兵器「回天」いわゆる人間魚育と同じだが、戦場での運用方法はまったく異なり、体当たりではなく、搭載した二本の魚雷で敵艦艇を攻撃するのがその任務だった。

とは言え、この攻撃自体も生還を期しがたい極めて困難な作戦だったため、司令長官の山本五十六は、乗組員の生存救出のための措置を講じない限り、作戦の実施を許可しなかった。

このため実施部隊は、母艦である大型潜水艦に乗組員救助の任務を与え、攻撃終了後には、特殊潜航艇は廃棄しても「特攻隊員は救助する」ことを前提とした綿密な修正案を提出してようやく山本の許可を得たといういきさつがある。

結果としては参加した十人の内九人が戦死、ひとりが捕虜となり、救出は失敗に終わった。

山本はのちに「あれは出すんじゃなかったなあ」と述懐したというが、彼のこの考え方は、海軍の命令限度を示す「判例」として良く知られている。

海軍がその「判例」を棄てて、最初から生還の可能性を否定した体当たりによる攻撃方法を、組織的に、ただし隠密裡に研究するようになったのは、昭和十九年の初めごろかららしい。

海軍の作戦や兵器の開発などを担当する最高機関である軍令部は、最初の神風特別攻撃隊が編成される七ケ月前に、すでに体当たり兵器の開発を始めていた。

当然のことながら、兵器の開発はその運用の研究と平行して行われる。したがって軍令部は昭和十九年三月の段階で、体当たり特攻の宰施を視野に入れていたことになる。作戦の立案を担当する軍令部第一課には源田実、兵器開発担当の第二課には黒島亀人がいた。

参考までに書き添えると、対米開戦の時、源田は航空参謀として、黒島は首席参謀として、司令長官山本五十六を補佐する任にあり、真珠湾攻撃の実施計画の中心人物であつた。

山本は昭和十九年の時点で、すでに戦死していた。源田と黒島は、山本が遺した「判例」は棄て去ったが、特別攻撃隊の名は残した。この時よりのち、この国においてはおそらく永久に「特攻」は「体当たり」の同義語となった。

特別の二文字は、命令する例の傲慢と欺瞞とが沸騰し、その逋焔Cのような蒸気が結露してできた修辞と言えるだろう。

軍隊は命令に絶対服従を建前とする組織である。だからこそ、命令を発する側にも、相応の能力が要求され、かつ責任が課せられていた。海軍の将校ならば、体たりを命令することがいかに非道で、異常で、無茶なことか、誰でも理解できたはずである。その命令をあえて下すためには、彼ら自身にとっても、非道や異常や無茶に置き換える別の二文字が必要だったのだとも言える。

航空機による特攻を最初に実施した責任者は、当時フィリピン方面の海軍航空戦力の主力を率いていた、第三航空艦隊司令長官 大西瀧二郎中将である。

作戦の実施以降、中将には「特攻の生みの親」という悪名がついて回る。

事実、彼は最初に航空特攻を現地部隊に示唆(しさ)し、その了解を取り付けて実施命令を下達した人物であるし、その後も終戦に到るまで特攻の継続を主張したという事実も残っている

しかし、生みの親が大西ひとりではなかったことはすでに述べたとおりである。

源田や黒島を含め、軍令部で特攻に関与した海軍上級将校は、その命令責任については戦後から今日に到るまで、否定もしくは沈黙を貫いたため、結局は 「英霊に深謝する」という旨の遺書を遺して自決した大西だけが、その責を一身に負った形になっている。

 

昭和十九年十月二十月、特別攻撃隊の第一陣として、三機ないし四機の特攻機と、若干数の直援機で編成された四部隊が出撃命令を受けた。直援機とは特攻機に同行してこれを護衛し、同時に攻撃の結果を見届け、帰投して報告する任務を負っている。

この攻撃隊は「神風特別攻撃隊」と名づけられたが、それとは別に、出撃する編隊単位で、それぞれに固有の隊名が与えられていた。

宣長の歌にちなんで命名された 「敷島隊」 「大和隊」 「朝日隊」 「山桜隊」 である。

命名者は長いあいだ大西だとされてきたが、実際には軍令部の源田であったことが現在では通説になっている。

特攻隊員たちの多くは、出撃に際し、昔の武士さながらに辞世を残している。宣長の歌が、自分自身の心構えを詠ったものである、という解釈を好きなことと同じ理由で、死を命令する立場の者が借りもので美化した隊名の巧みさなどより、彼らの歌にこそ、筆者ははるかに胸を打たれる思いもする。

 

南溟に たとひこの身は果つるとも いくとせ後の春を思えば.

 

この歌は敷島隊四番機に搭乗した、永峰筆 海軍飛行兵長の辞世と伝えられている。

伝えられているというのは、この歌が、彼が辞世として正式に揮亳したものではなく、彼の搭乗機の操縦席に彫りこまれていたものだからである。出撃の前に基地の者がこれに気づき、写しをとっておいたものが、後に彼の両親に届けられたという。

南の海で、この命が果てるとしても、何年か先の平和な春を思えば。

思えば、で終わっている。このあとを、男子の本懐である、と読むべき、諦めがつく、続けるべきか、なるか、それは本人にしかわからない。

出撃のとき永峰兵長はまだ十九歳だった。宮崎県の農家の長男で学業成績抜群だったにもかかわらず、経済的な理由から上級学校への進学を諦め、無料で学べる予科練、つまり海軍の飛行兵養成学校へ進んだ。

永峰兵長の特攻隊参加は志願ではなく「お前も発来い」というような成り行き決定だったらしい。

長男は家を継ぐ立場であり、それは特攻隊の志願を辞退してもいい理由のひとつだったが、彼には弟、つまり彼以外の跡継ぎ候補がふたりいた。

人選した指揮官からそれを指摘されたのか、あるいは自分自身で決断したのか、肇青年は、そのまま機上の人となり、五回の索敵出撃ののち、十月二十五日、敵艦隊に突入、戦死した。

多くの若者たちがこの.十九歳の青年と同様に、やがて来るべき祖国の平和な春と、その時、それぞれの故郷の野に咲くであろう桜に自分を擬して、死出の出撃に臨んだ。

しかし、平和な春は遠かった。昭和二十年を迎えて戦局は悪化の一途をたどり、この年の桜はむしろ若者たちを特攻に駆り立てるように咲いて、そして散っていくことになる。

温暖な豊後の地ではあったが、桜はふつう三月の終わりに咲き始めるものであった。その日、三月十八日.大入島のその桜は、咲き急ぎ散り急ぐかのように、すでに満開の時を迎えようとしていた。

その日は日曜日だった。

文太郎と徳の五番日の子、のりえは、朝食のあといつもならしばらくは一緒に遊んでくれる恵美子が、今朝に限ってつねのように出動支度をしているのを見て、不安そうに聞いた。

いた.

「恵美ネエ、どこ行くん?」

「今日はなあ、日曜日じやけんどな、姉ちゃん組合に行かんといけんのよ。ごめんなあ」

「日曜日はお休みやないん。」

のりえはつまらなそうに尋ねる。七歳の彼女にとっては、日曜日はお休みの日で、やさしい若い母親のような恵美子にたっぷりかまってもらえる楽しい励一になるはずだった。

「組合のひとが兵隊さんに行くんよ.その代りに姉ちゃんががん。働き盛りの男性労働者が次々に徴兵され人事不足となった職場で、残った者の休日返上が増えるのは避けられない。

この日の恵葉子の場合は、週明けに臨時召集兵として出征する中年職員から業務の引継ぎを受けることになっていた。

三十路も半ばを過ぎた中年男が一兵卒として銃を担がされることも、その仕事を、いまだはたちに満たぬ娘が引き継がなければならないことも、この国の活力が確実に減衰しつつあることを証明していたが、それでも人びとは役目を与えられた自分を、義務感と責任感の両脚で支えることに疑義をはさまなかった。そうすることが、未来に希望の火をともし続ける唯一の方法だったとも言える。

もっとも恵美子の場合はさほど悲壮な覚悟を抱いていたわけではない。もともとが楽天的な明るい娘である。それでなくともこの日の場合は、彼女には休日出勤を楽しみにする特別な事情があった。

その日は桂佑が受験した佐伯中学の合格発表日であった。合否は学校の敷地内に掲示されることになっており、これは直接見に行くしかない。

当然それは桂佑自身が行く予定だったが、恵美子は休日出勤のついでに、こつそり発衷を見に行くつもりであった。

当時の学校制度はこんにちと異なっている。現在の小学校にあたるのが国民学校初等科で、これは六年間、で卒業する.ここまでは同じだが、進学する上級学校には二通りある.二年制の国民学校高等科と四年制の中学校がそれで、いずれも入学するには試験が諌せられる。

桂佑が受験した「中学」は、こんにちの高等学校にあたると考えて差し支えない。ちなみにこの中学は、戦後の学制改革を経て、現在の佐伯鶴城高校となっている。

恵美子は弟の合否をわが事のように気にしていて、この日はどうしてもその発表を見に行きたかった。それは過保護気味な母親の心情に多少は似たものであったかもしれない。首尾よく合格していたら校門で桂佑を待ち、祝いの買い物に連れ出すつもりでいた。恵美子が声をかけたが、桂佑は無愛想「まだ早え」と答えた。確かに同じ定期船に乗れば、合格発表が掲示される前に学校に着いてしまう。桂佑のことだから、それではいかにも結果を案じているようで格好悪い、などと思っているのだろう。

「そんなら、なんで、もう支度をしちょるん?」

「堀切のシゲを誘って、そこから定期に乗るんじゃ」

「シゲちゃんも佐伯中学を受けたんじゃ。二人とも受かっちょったらエエなあ」

恵美子はそう言いながら、ズック靴をはくと出かけていった。良く考えれば、万が一の場合は、桂佑と一緒でないほうが良いということもある。家の前の船着き場で、手漕ぎの定期連絡船を待ちながら、そんなことを考えていた

桂祐は手製のワラジの紐を念入りに締めた。特にそうすべき理由はなかったのだが、やはり心のどこかに、いつもとは逢うこわばりがあったのかもしれない。

次に、徳がこしらえた弁当を風呂敷ほどの古布にくるんで腰に巻きつけた。合格していれば手続きに多少の時間がかかるかもしれないと配慮し、徳が用意した奔当であった。

亮がその横を外に飛び出していく.どこへ行くかなどと桂祐も開きはしない。休みの日は、子供は外で遊ぶものであった.桂祐は亮の背中を見ながら、ゆっくりと玄関口を出て行った。

結局、のりえはまだ赤ん坊の恵子を相手に、お母さんごっこをして遊ぶしかなかった.そうしなければ徳が恵子を見なくてはならない。この七歳の少女ですら、自分がその時になうべき役割を自然と弁えている。これはこれでたいしたものである。

堀切浦は守後浦から時計回りに島をまわったところにあるが、道らしい道がなく、守後浦の裏手の山を越えて行くことになる。すでに書いた通りそれが彼らの通学路でもあった。

桂佑は山道を歩きながら、ずっと気にしていたことを、もう一度思い返していた。

試験の合否は心配ない。試験は簡単だった。自信はある。問題はそのあとだ。

中学校に行くには金がいる。家にはそんな金がない。いや、金の心配はせんでエエと父親が言うからには、それだけの貯えはあるのだろうが、それこそが問題なのだ。

その金を貯めるために家族はぎりぎりの生活に耐えている。正確には、文太郎の稼ぎで親子八人がなんとか食べているから、自分の学費は恵美子の給料から出してもらう勘定だ。次女の香代子は女子挺身隊に出て家計には負担をかけていないから、つまるところ自分ひとりだけが家族の苦労に支えられて、上の学校に行くことになる。

その上、どのみちその先は兵隊だ。中学校を出たからというだけで、いきなり将校になれるわけでもあるまい。であれば入隊までの間、少しでも金を稼いで家に残したほうがいいのではないか。もし戦地に行ってそのまま死んでしまうのならなおさらだ。それでは勉強のやり損であるばかりか、苦労して学校に行かせてくれた父や姉の貧乏損というものだ。

この十二歳の少年が、自分の直近の将来をそのように勘定していた。数年のあいだに戦争で死んでしまうことも予定のうちに入っていたし、それまでの僅かな間に、いや僅かな間だからこそ、家族に何をしてやれるかが重大な勘定科目だった。

俗に「死んでも死にきれない」という、およそ少年に似つかわしくない心境だった。

死ぬまでに、雨の夜には水が漏り、晴れた夜は夜の星が透けて見える。おんぼろな我が家の屋根の葺き替えだけでもしてやれたら、などと思うのである。

「勉強もエエが、あんまり俺の役には立っちょらん」

などとも思う。

勉強は嫌いではないが学校で習ったことはほとんど実益になっていない。たとえば彼らの少年社会の中では、まったくと言って良いほど、学校の成績が個人の評価の基準にならない。

あいつはなかなかの男だと評価され、そのうちリーダーとしての立場を認められるためには、勉強とはまったく別の能力と実績が必要なのである。

たとえば喧嘩は強いほうがいい。しかしそれは腕力ではなく度胸を採点される科目である。

年下格下をいくら打ち倒しても、それではむしろマイナス評備になるし、年上ふたりを相手にひとりで立ち向かったとなれば、ぼろ糞に負けても「大したやつだ」と、仲間からはもちろん敵からも賞賛されるという具合である。

 戦争ごっこ、魚の獲り方の巧みさ、素潜りの深さ、夏の前に一番先に海で泳いだ者は誰かという競争にいたるまで、少年たちの男ぶりを競う科目はすべて学校の外にあった。親のしっけとは別に、彼らにとってはそれも先輩同輩を教師とする勉強であった。そんな教育環境の中に育った桂祐にしてみれば、学校の勉強は「あんまり役に立ちょらん」ということになるのである。

「まあエエ.思うた通りで行けばエエんじゃ」

桂祐はそうつぶやいて、もう悩まないことにした。昨夜はこの件について腹を決めるために寝床に入って寝たふりをしながらずっと考えたのだ。合格していればそれでエエ.むしろ胸を張って中学には行かないとお父ゥに言える.そうだ、それでエエ、と。

薮の中の坂道を登りきったところで鮮やかな海の色が見えた。

堀切の集落が目の前にあった。まばらに見える人影は、女子供と年寄りばかりだ。

若者はみな戦争に行った。男は満十七歳で兵隊になる。それが一人前になったというしるしなのだ。少年がおとなになるのを早めた。それもひとつの要因であったのかもしれない。

桂祐が堀切浦にとりついたころ、恵美子は佐伯の町を歩いていた。定期船は大入島の対岸の葛港に着くのだが、そこから徒歩である。勤務先の木材組合までは二キロ半ほどの道のりで、女性の足でゆっくり歩いても一時間とはかからない。

葛港からすこし歩くと、日豊本線佐伯駅の前に出て、そこから線路沿いに城山のほうに歩く。

城山のふもとは、むかし毛利家家臣の武家屋敷が立ち並んでいた所で、ちょっと上質で閑静な住宅街であった。明治の文豪国木田独歩が寄寓していた屋敷が現在でも残っており、この街の旧跡として保存されている。

清田司令官の夫人が宿泊した老鋪の菅旅館や、日本海車の上級士官が利用するサロンである水交社もここにあった。佐伯中学、今日の佐伯鶴城高校もその一角にある。

木材組合はその一番端のほうに木造平屋の社屋を構えていた。恵美子は八時前には会社に到着しようとしていたが、この日は少し悪戯心を起こして少し寄り道をすることにした。

恵美子は会社に行く道をはずれて、少し先の佐伯中のほうに足を向けた。まだ合格発表は始まっていない。それはわかっていたが、ただ学校を見ておきたかった。何のためということではなく、見ておきたかったのだ。

いい天気だった。戦争中の暗い世情にあっても春の訪れはやはりうれしいものなのだろう。

道すじの人々は、よく晴れた空の下で、彼岸を控えた日曜日の朝を思い、おもいに楽しむような明るい笑顔と軽い足取りですれ違っている。

まして恵美子にとっては、この日はおとうとの晴れの門出となるはずの日である。

「お天気でよかったなあ」と、彼女は歌うようにひとりつぶやいた。

文太郎は、恵美予や桂祐たちが出かけてほどなく、のりえと恵子を隣の坪根の家に頼むと、徳と一緒に大入車を曳いて家を出た。

荷台の半分ほどには稲の(わら)と、残り半分はがらくたを載せているよく見ると、それらは板ギレや丸棒や荒縄などであった

文太郎はここ数日ひまを見つけては、持ち山の蜜柑畑の空いた場所で大工仕事に精を出していた。すでに八ヵ月を過ぎた徳の出産にそなえ、産屋を作ろうとしていたのである。

家には八人の家族が暮らしている。徳の産室に割り当てる部屋の余裕はとてもない。それに、桂祐や亮もすでに立派な男の子である。男は出産に立ち会わないものだ。そういう事情から、粗末ながらも「離れ」を作ることにしたのである。

もっとも、それは粗末と呼べるほど上等な普請ではなく、木材を寄せ集めたほったて小屋にすぎなかった。遠目に見れば畑の農具小屋だと誰もが思うに違いない。これを文太郎と桂祐のふたりで建てた。

桂祐が国民学校を卒業して休みになるとそれは始まり、時には徳や亮も手伝いに来て草をむしり、地面に打ち込む杭航を支えた。彼らはまるで西部劇の開拓民の家族のように働いたが、そこには新しい家族の誕生の為という、常の労働にない喜びがあってこれを楽しんだ。

文太郎の家から海沿いに少し歩くと、浦の山手に登っていくゆるい坂道がある。その坂道の途中には墓地があって山本の累代の先祖が眠っており、さらにそこを過ぎた緩い谷の挟間にその蜜柑畑はあった。

緩い斜面は南に向いており日当たりがいい。.両側の丘は海風の防ぎになる。下の墓の近くに井戸があって、木桶二、三杯の水を常備するには何の苦労もなおし、徳の実弟である東の家が文太郎の家よりむしろ近いから何かの時には頼りになる。

何よりなのは、そこには子俄たちの騒がしさがなく、はるか上空を悠々と飛ぶトンビの声が聞こえるだけの静けさがあることだった。

この離れはすでに八分ほどまで出来上っていた。文太郎はこの日中に稲藁で屋根を葺き、おおむね完成までこぎつける算段でいた。子が産まれるのはふた月ほども先だが、そのころは麦の刈り入れで忙しくなるから、今のうちにと思っていた。

文太郎はまず、稲藁をひと抱えずつ縛って束にする作業にとりかかった。もちろん手先での作業である。徳も手伝った。

「これが出来上よがったらのう」

単調な作業なものだから、よせばいいのに文太郎が退屈しのぎの余計な事をいう。

「子が産まれたあとはええ休み場になるじゃろう。蜜柑を積んじょくのにもエエしの」

「ちょお。お父ゥ、ほいたらウチはミカン小屋で子を産むんじゃろか」

「知らんのか。聖徳太子は馬草小屋で生まれたんぞ。ミカン小屋で生まれた子でも健うならんちゅ法があろうかい」

そういうことではなくて、と徳が反駁しようとしたその時、文太郎が作業の手を止めて徳の口を制し、海のほうに聞き耳を立てた。対岸の町から、幾度も開き覚えのあるサイレンの音が聞こえてきたのである。

「ありゃあ」

文太郎は表情を変えずにそう言った。

「空襲警報じゃ」

やがて山ひとつ向こうの石間浦からも、同じ音が聞こえてきた。さらに数秒遅れて守後浦のサイレンが鳴りだした時、文太郎は立ち上がった。

桂祐は同級の重雄と一緒に、堀切浦の船着き場でこのサイレンを聞いた。

「防空演習じゃろうか」

重雄が不審そうに言った。

「演習ならこないだあったばっかりじゃ」

桂祐も不審に思った。ふつう防空演習は事前に通達があるものだ。

「空襲警報じゃ、みんな早よう防空壕に行け」

国民服を着た年かさの男が、そう言って周囲の人々を促した。島の住民は何度も避難訓練を体験しており、いつもならサイレンと同時に走りだすほどそれに慣れていたが、この時は誰の動きも鈍かった。

演習は演習であった。佐伯はまだ一度も本物の空襲を受けたことがない。誰もが、東京や、九州であれば八幡や大村が被災したことは知っていたが、この時は「まさか」という気持ちが人々の反応を遅くしていた。

「抜き打ちの演習かもしれんがな、警報は警報じゃ。早よう行け」

国民服の男はそう言って皆を追い立てた。

桂祐と重雄も走り出した。走りながら話した。

「桂、学校の防空壕に行くんがよかろうか」

「それより山に登ろうや、本当にアメリカが来ちょるんやったら見てやろう」

「けんど演習じゃったらあとで怒られるぞ」

「そん時ゃ山で遊んじょったっち言えばいいんじゃ.それにな」

桂祐は守後浦に抜ける浦山のほうに向かって辻を折れた。

「シゲ、こりやあのう、本モンの空襲じゃ」

「なんで分かるんか」

「県立中学の合格発表がある日に演習なんかするかい」

防空壕の中は暗く狭苦しい。何より退屈だ。だから桂佑は防空演習が大嫌いだった。それが引き金になったのかどうか、今は防空壕に向かうべきではないとこの二少年は判断した。そしてそれを後押ししていたのは、また別の衝動だった。

本当にアメリカの飛行機が来たのなら、佐伯航空隊の戦闘機がこれを迎え撃つに違いない。去年から日本のあちこちに空襲があったが、新開にはいつも決まって「来襲せる敵機を要撃、わが荒鷲の大戦果」と書かれているではないか。

もし本当にアメリカが飛んできたのなら、それこそ火に入る夏の虫だ.俺たちが小さな頃から慣れ親しんできた、佐伯航空隊の、翼に日の丸をつけて颯爽たる戦闘機が、おらが島の上空で敵機どもをかたっぱしから撃ち落とすのだ.いわば佐伯空の晴れ舞台である。これは見ものだ。

穴倉に閉じこもっている場合ではないのだ。

「そうじやろうシゲ、これを見らんでどうするんか」

「おお、言われてみたらその通りじゃ.桂、急げ」

「エエぞシゲ、堀部安兵衛じゃな」

「それならエエがのう。俵星玄播じゃ.見ちょるだけやからの」

ふたりはまるで活劇でも見に行くような気分になっていた。重雄の提案で、子供同士の戦争ゴツコの時に彼らが見張り台と呼んでいた、尾根の海側の見晴らしのいい所を観戦場と決めて、競うように山道を駆け上って行った。

戦争ゴツコはたいてい国民学校初等科までの遊びである。桂祐と重雄はついこのあいだまで最上級生だったから階級は大将だの中将だのであった。作戦をたて指揮をとり、時には陣頭に立って敵にぶち当たった。

彼らは国民学校入学前から新兵として入隊し、毎日のように戦争をした。進級するにつれて階級もあがった。正規の軍隊の階級を当てはめていたわけではないが、一年生の兵は三年で下士官になり、四年生でようやく士官、六年生になれば将軍というわけだ。そのような社会で、彼らは年上の士官にものを教わり、年下の部下を可愛がってきた。野球やサッカーといった、体育系のクラブなどまったくない環境であったから、その部隊が子供たちの自己鍛錬場であり人格形成の道場であった。

その遊びも初等科修了と同時に卒業である。子供心にも一抹の寂しさは拭えない。それでも彼らはそれを大人になるための区切りだと、潔く思い切ろうとしていた。

その門出の日に、戦争ゴツコではない本物の戦争を見ることができるのだ.命をかけて戦い、敵をなで斬りにする先輩たちの晴れ姿を見ることができるのだ。

「こんなフのエエことがあろうか」

というわけである。

「フが良い」.とは「ちょうど良い」という意味で使われる方言だが、多少運命的な意味合いを含んでいる。「巡り合せが良い」という訳が適当かもしれない。

桂佑たちがそろそろ息を上げながら見張り台にたどり着こうとしていた時、大入島の上空の空は、まだ静かだった。

恵美子も走り出していた。弟と違い、彼女はともかく防空壕に向かわねばならないと考えて、前の防空演習でも走り込んだ会社の近くの防空壕に行くことにした。

出先で防空警報に遭った場合は、えり好みをせず最寄りの壕に飛び込むよう通達されていたが、会社まではさほどの距離でもなかったし、どうせなら同僚や顔なじみの者たちと一緒のほうが、暗い壕の中で退屈せずに済むと考えた。

「よりによってこんな日に演習せんでもエエのになあ」

恵美子はそう思った。防空演習では、空襲警報が解除されるまでたっぷり一時間はかかる。その分仕事も遅れるし合格発表も遅くなろうというものだ。日頃の演習を億劫がったことのない娘ではあったが、この時ばかりは憂鬱であった。

ナマコ塀が続く武家屋敷通りにサイレンが鳴り響き、国民服の男とモンペ姿の女たちが走っていく。もともと日曜日だったために彼らはみな家にいたのだろう。ほとんどが家族づれであった。

文太郎の家の防空壕は裏山の崖を掘った洞窟のような代物だったが、平地の町場の防空壕はそれなりに人口的な建造物である。街角のちょっとした空地に半地下になる程度の穴を掘り、そのまわりを土壌で囲み更に材木で屋根を作ってその上にも土壌を積んでいる。

もちろん直撃弾を受ければひとたまりもないのだが、民間の手作りではそれ以上の耐久性は望めなかった。

それでも爆風から身を守ることができる、その程度である。

木材組合の近くまで来ると顔見しりの住人たちが防空壕に向うのに行き会った。

「あら、福ちゃん、どこに行くん?」

恵美子は人むれの中に、ひとりだけ防空壕とは反対方向に駆けていた娘を見とめて声をかけた。

福ちゃんと呼ばれた娘はちょっと困ったように笑い、「ご不浄」と短く答えると自宅のほうへ駆けて行った。

急ごしらえの防空壕には、冷暖房はもとより換気の備えさえなかったが、なにより婦女子を悩ませたのは便所が備わっていないことであった。すし詰めの壕の中ではとにかく我慢をするしかないのである。心構えとしては事前に用を足しておくペきなのだが、前もって予告された演習ならばともかく、この日のように抜き打ちの警報が出た場合はそうもいかないのだ。

「あらまあ」

恵葉子は防空壕に入りながら考えた。

「今日は演習じゃからエエけんど、本物の空襲じゃったらどうじゃろう?」

ひとごとではない.確かに大問題である。

「何時開も防空の中で我慢するのも大ごとじゃけんど、と言って、ご不浄に入っちょる時に爆弾が落ちてきても困るじゃろうなあ」

恵美子は防空壕に入ったあと、顔見知りの人々にひとしきり挨拶をして、むしろが敷かれた地面に腰を下ろした後、あんがい真剣に、その問題についてしばらく考えていた。

 

文太郎はまだ蜜柑畑にいた。空襲警報なら防空壕に向かわねばならない。文太郎の家の裏には、崖に横穴を掘った専用の防空壕があった。隣の坪根の家との共用である。それは文太郎と桂祐、そして坪根のあるじ重蔵が普請たもので、ふた家族全員が避難できる広さがあり、わずかながら水と味噌だけは蓄えられている。

しかしそこまで戻るとなると、身重の徳を伴ってはけっこうな時間がかかる。幸いなことにすぐ近くには徳の実家の、東の家があり、そこにも防空壕があるはずだ。いざとなればそこに邪魔をすればよかろうとタカをくくることにした。

「ひとまずな」

文太郎は畑の端のほうにある窪地に移動することに決め、座布団代わりとするための藁束を取りまとめてそこへ運んだ。もし空襲警報が本物でもその窪地に引っ込んでいさえすれば、まず流れ弾に当たることもなかろうと妻に言った。

ただこれが演習であった場合、徳はそのことを心配した。防空壕に入らない、これは厳密に言えば規則違反であり、演習をサボっていることになる。それを誰かに見咎められたら、少々まずいことになるだろう。

「大丈夫じゃろうか?」

徳はそのことを心配した.

「エエわい」

文太郎はこともなげに答える。

仮に見られたとしても、誰がそれを沓めるというのか。文太郎はそう言った。

「町じゃあ隣組がうるせえらしいがの」

この当時の日本の家庭は、全世帯が「隣組」と呼ばれる組織に所属させられていた。

隣り合う数世帯を隣組として相互に助け合い、共同作業に参加し、各戸間の連絡を密にするという仕組みである。建前としては互助のための組織作りだったが、その裏には、左翼思想や反戦思想といった反体制分子を監視し、時には密告させるという狙いもあった。

だから演習をサボリなどして隣近所の監視に引っかかってしまうと注意を受ける。特に悪意を持った相手からは「非国民」.だの「不謹慎」だのという非難さえ受けることもある。

守後浦ではその心配はなかった。

心配どころではない。浦の内は、どこの誰が何歳まで寝小便をしていたかまでを、すべての住民が相互に熟知しているような共同体なのだ。

このような仕組みが出来るずっと前から、人びとは互いに、時には家族以上に協力し合ってきていたし、不文律としての共同体のルールで行いを律してきていた。一組の夫婦が防空壕に入らないでいることを、指さして責めるような者は誰もいなかった。

ただ、警察や憲兵にだけは用心しなければならなかった。

大入島は、それ自体はいっさい軍事施設を有しない。純粋に農薬と漁業だけの島であったが、対岸に海軍基地を臨む位置関係にあるため、いわゆるスパイが入り込む危険があった。

 

島民同士が顔なじみということは、この点でもまことに好都合で、仮に「よそ者」が島内に紛れ込めばたちまち怪しまれてしまい、駐在所なりに直ちに報されることになっていたが、軍や、警察の公安部が不定期に島内を見回ることも少なくなかった。彼らに見咎められたら、いささか面倒ではある。

「そうじやのう、そん時は」

文太郎はすっとぼけて、徳の心配を打ち消した。

「お母ァの腹がきつうて、よう歩けんで、ここで休ませちょったち言えばよかろう」

「ちょお、ウチのせいにするんかの」

徳は反論してみせたが、彼女も重い腹を抱えて暗い防空壕にこもるのは嫌だった。ふたりは藁束を敷いた窪地に腰を下ろしてひと休みを決め込むことになった。

(空襲が本物なら)

文太郎は患った.

(恵美子が危ねえのう)

彼が口に出さなかったのは、徳がこれを演習の警報だと思い込んでいるからであった。心配してもどうなるものではないことを心心配させても、彼女の不安を大きくするだけだった。

(こんな島を狙うては来んじゃろが、町のほうは危ねえ)

対岸の佐伯市。その奥行き方向に見える城山のふもとあたりを見つめた時、文太郎の耳に、開きなれぬ飛行機の爆音が届いた。

音のほうを見よげたが、雲が多く、飛行槻の姿は見えない。

それが日本軍機か敵機かを音だけで判別することは、文太郎には無理だったが、その直後、疑問への答えは対岸の海軍基地から示された。

基地に備えられた高射砲が射撃を開始したのである。

太鼓を叩くような音と共に発射された砲弾は上空で炸裂し、空中に、黒い爆発煙を残すため、高射砲が狙っているポイントがだいたいわかる。文太郎がその方向を凝視していると、やがて雲の切れ目に飛行機が見えた。

砲弾は命中していないのであろう。狙われた方の飛行概は編隊を崩さず、悠々と飛び続けている。空襲と呼ぷには、それはいかにものんびりとした、少し間の抜けた光景に感じられたが、これによって文太郎は自分の住む土地が、ついに戦場となったことを知った。

空襲は本物であった。

「やっぱり本物じゃ」

桂佑と重雄は高台の見張台で興奮して頷き合った。

勇んで見張台まで駆け登り、高みの見物を決め込んだまでは良かったのだが、空襲が本物と判ると、体がブルと震るえるの抑えられなかった。今からでも防空壕に入ろうかと、ふたりとも同じ思案をしたが、どちらも口には出さなかった。

少年たちは自分の臆病を自分から告白するのがしゃくだった。この我慢比べに、どちらかが負けを認めれば、二人はすぐにでも山を降りたに違いなかったが、なにしろこの島のガキ大将どもは、この手の張り合いで負けを認めるのを嫌った。

「のう、桂」

「なんじゃ」

二人の声が怒鳴りあうような大声になったのは、高射砲の射撃音で互いの声が聞こえにくいという理由だけではなかった。

「航空隊の戦闘機は、なんで上がらんのじゃろうか」

「俺もわからん.高射砲で全部落とすつもりじゃねえかのう」

「なんじゃ、つまらんの.せっかく空中戦を見られるっち思うちょったのに」

「そうじやなあ、ケチケチせんで戦闘機を上げたらエエのになあ」

「戦闘機は、どつか、とって置きでとって置くつもりかのう」

「おお、シゲ、それじゃ.戦闘機は爆弾積んで、敵艦隊に突っ込むんじゃろう」

「そのほうが勘定がエエけの。敵機は高射砲でやっつけて、戦闘機は敵の空母をやっつける」

「おお、冴えちょるのう。シゲ、・それじゃそれじゃ」

少年たちの思考は興奮と恐怖で沸き立っていた。理屈が通っているいないは関係なく、ただ威勢の良い文句を並べ続けることで、なんとか自分を強がらせていた。

彼らのその威勢の良さが一気に後退し、同時に、一瞬にして顔から血の気の引くのを覚えたのは敵機の急降下の音が響いた時であった。

桂佑は木登りをしていた木の幹から落ちる時のような、実に嫌な浮遊感に襲われた。尻からとも気色の悪い感覚を伴って力が抜けて行った。彼は、重雄はどうかと隣の友人の顔を見た。

重雄は桂佑を見ていた。

二人が顔を見合わせているうちに、急降下爆撃の爆音に、今まで聴いたこともない鋭い金属音が加わった。二人がそれに気づき、強烈な嫌悪感を伴ったその音お方に顔を向け直した時、対岸の海軍基地に小さな爆発音が起こった。航空隊の飛行場に残されていた「東海」が被弾したのである。

「畜生」

瞬間に恐怖を怒りが凌駕した。自分たちの国が敵国から、まるで長靴で蹴飛ばされるようなさまを、生まれて初めて見せられた少年たちは、今度は身じろぎもせずに基地に上がった炎を見つめた。体から震えが消えていた。

敵機はすべて戦闘機であった。

軍用機には種々な種類がある。戦う飛行機をすペて戦闘機と呼ぶわけではない。敵の基地や艦艇船舶を、爆弾や魚曹で攻撃するための飛行機は、爆撃機あるいは雷撃機と呼ばれていた。

戦闘機とは、敵の飛行機と空中戦を行って撃墜するための機種である。

もっとも戦闘機にも爆弾を搭載することはできる。しかしこの時佐伯を襲った米軍戦闘横は、爆弾を搭載していなかった。

米軍側の記録によれば、それは「コルセア」という名を持ったひとり乗りの艦よ戦闘機であって、日本軍からは「シコルスキー」と呼ばれていた。艦上とは空母に搭載可能という意味を持つ。

佐伯に飛来したコルセアは全部で十九機。このうち十五機は爆弾の類をいっさい搭載せず、四機が、新兵器であるロケット弾を一機あたり四発積んでいた。

ロケット弾はミサイルの祖先のようなもので、その形状は似ているが、目標への誘導装置を持たない。それでも弾体自体が推進力を有しているため、発射した機体から目標へはほとんど直線で進む。したがって放物線を描いて落下する爆弾より命中率が高い。

その代わり、飛ばすためには重量を軽くする必要があり、弾体自体は小さく作られている。そのぷん火薬の量は少なく、一発あたりの破壊力は低い。

また、これらの爆弾類を搭載していない戦闘機の場合、搭乗員が選択できる攻撃手段は搭載機関銃による機銃掃射のみである。

   慨

米軍機の目標は航空隊基地であった。

艦艇を撃沈するのが目的なら爆弾や魚雷を必要とするが、彼らはそれまでの戦闘経験から、日本機は防弾装備が貧弱なため撃たれ弱く、機銃掃射だけでも相当の損害を与えられることを知っていた。

彼らは雲の切れ目から突入してきた。迎え撃つほうにとってはほとんど奇襲となった。

その日の天気は「概ね晴、視界稍不良」と、佐伯防備隊の戦闘詳報にはあり、米軍の記録によれば、雲量七〇パーセント、高度千メートルに積雲あり、租界良好、となっている。

お天気用語での「晴」とは、雲量八〇パーセント以下を指す。

 

呉防備戦隊の清田は、航空隊庁舎の裏手にある、長島山の裾に掘られた防空壕にいる。

ただの避難用防空壕ではなく、内部は立って歩けるだけの高さと相当の広さを有しており、そこに戦闘指揮所が設けられていた。

ただし佐伯基地における対空戦闘の指揮は佐伯防備隊司令の小出大佐が執っている.基地の防衛は彼の責任である。清田は防備隊の上級組織である防備戦隊の司令官だから小山に対しても指揮権を有してはいるが、局地的な空襲でしかないこの状況で、隊司令を差し置いて指揮官陣頭で出しゃばらねばならない理由はなかった。

それよりも清田としては、彼の守備範囲である瀬戸内海西部から豊後水道全域にかけての今後の防衛方針を検討する事の方が当面の重要課題だった。

「これは威力偵察じゃっど」

溝田は首席参謀の朝廣中佐に言った。珍しく薩摩弁であった。

朝廣祐二中佐は、原田大佐に代わってこの二月着任した新顔参謀で、鹿児島志布志中学の出身である。同じ藤津人の清田はふたりだけの会話の時、たまに国の言葉を使ったが、新任の右腕との距離を出来るだけ早く埋めようとしていたのかもしれない。

「これは威力偵察だな」

情報を総合すると敵は戦闘機ばかりで、しかも、爆弾を携行いていない。この空襲は本格的な打撃を加えることを企図したものでなく、いわば本番前の小手調べデアロウトいう意味であった。

朝廣中佐は頷いたが少し間を置いて清田に反問した。無論、彼は上官に対して丁寧な標準語をつかった。

「敵機の航続距離の限界ということは考えられませんか。.爆装すれば足が短くなりますから、ここまで取り付けないんじゃないでしょうか」

取り付くとは、敵陣に到達し攻撃可能な状態となることである。

「そげもあるだろう。敵は十分な間合いを取って艦載機を飛ばしているんだろうね。そうして今日のところ.はこちらの反撃能力を探ってるんじゃないかな」

「では、本格的な空襲はこの後に」

それはいつでしょう、と言いかけて朝廣は黙った。清田は自分にそれを考えよと水を向けたのだ、と思い直した。

(それは明日か、それともこのすぐ後か)

朝廣は胸のうちで自問したが、すぐに清田がつないだ。

「明日だね。今日来た連中が露払いを務めるんだろうから、今日はない.明日だ」

言い終わってから清田は場違いに微笑んだ。朝廣に向けた目が、そんなに堅くなるなよ、と言っている。

朝廣は日本海軍における水中聴音機運用のパイオニアである。

水中聴音機は海中に伝わる音波を探知し、これを解析することによって敵艦の存在を知り、その方向、速度、距離などを測定する機器である。これで海中の潜水艦を捕捉する。

日本瀬軍は昭和の初期に水中聴音器の導入を始めているが、当初は外国からの輸入品を使い一からその研究を進めなければならなかった。

当時はまだ若手士官にすぎなかった朝廣も、このプロジェクトに参加し、のちに日本軍初の対潜艦艇「駆潜艇第一号」が竣工した時、その初代艇長を任されたという経歴を持っている。

海軍省はとっておきの人材を清田の下に配したことになるだろう。

「しかし相手が飛行機では撃たれっぱなしですね」

朝廣の口調も苦い。

 

この日佐伯基地や豊後水道沿岸の日本軍基地を空襲した米軍は、マーク・A・ミッチヤー提督が指揮する第五十八任務部隊の艦載機群であった。この艦隊は航空母艦を中心とした機動部隊であり、艦載機とは、この場合、それらの空母に搭載された航空機のことである。

このことについて少し述べる。

日本本土への空襲については、超大型戦略爆撃機B29による、大都市への無差別壌撃がよく知られている。戦略爆撃とは敵国の戦争継続能力を減殺するため、民間を含めたあらゆる生産施設や生活設を目標とする爆撃をいう。国を人体にたとえるなら、その体力そのものを消耗させつくすための軍事行動といえる。

 

米軍は日本の家屋が燃えやすい木や紙を多く使っていることに着目し、この爆撃で焼夷弾のちにナバーム弾と呼ばれるようになる、火災発生型の爆弾を多用した。これによって日本の大都市は敗戦までにほとんどが焼け野原と化す。

東京大空襲を描いた映画や記述などでは、大火災に逃げまどう人々の婆や、確災後の廃墟に累々と続く′

黒焦げの死体が痛ましく描写されており、その惨状は正視に耐えないほどである。

このようや焼夷弾による惨禍の印象があまりにも強烈であるため、米軍の日本本土爆撃と聞いて私たちが最初に思い浮かべるのは、B29による無差別爆撃と火災による被害である。

しかし大掛かりな軍事施設を抱いていた佐伯では、この辺の事情が大きく異なる。

この日の朝、佐伯を襲ったのは空母から飛んできた艦載機であり、目標とされたのは町ではなく基地であり、使用された兵器も焼夷弾ではなかった。

ミッチャー提督の第一の狙いは、日本の航空戦力をその基地において叩くことにあった。それは、この直後に予定されている沖縄上陸作戦の準備であった。

フィリピン攻略に先立ち、台湾や沖縄が空襲されたのと同様である。沖縄へ矛先を向ければ日本軍が反撃に出ることは当然予想されるから、その戦力を事前に撃砕しておこうとしたのである。米海軍にとっては、これはぜひとも実行しておかなければならない作戦だった。

日本の航空戦力は貧弱の一途をたどっていた。それは数の上でも質の上でも明らかだった。

九カ月前のサイパン攻防戦で、米海軍の戦闘機は来襲した日本機を苦もなく撃退している。その時の米軍パイロットは「まるで七面鳥を撃っているようだ」と口笛を吹きながら、数百の日本機を血祭に上げた。それは台湾沖航空戦でも同様であった。彼らはすでに日本の航空機を恐れる必要はなかった。そのはずだった。

ところがマッカーサーがレイテに上陸してから、事情がまったく変わったのである。

日本機はそれまでのように大編隊を組んで進撃してくるのではなく、三機や四機の小編隊でやってくる。米艦隊はレーダーでそれを捉えてはいても、編隊の規模から判断して、本格的な空襲ではなく偵察飛行だろうくらいに思っていたら、その敵機はいきなり雲間から現れると、急降下で.爆弾を抱いたまま突っ込んでくるのである。

体当たり自体は、この戦争でそれまでにも何度か見られたケースで、被弾して操縦が困難になった搭乗員がやむをえず自爆したのだと最初は考えられていた。しかしフィリピンの戦場で彼らが出会った現実はそうではなかった。

日本機は最初から自爆するために離陸し、自爆するために急降下し、自爆することで任務を果たす。そういう戦法を採用したのだと、米軍はやがて認識した。その攻撃がカミカゼという名前であることも同時に知った。彼らは戦慄した。

米艦隊はそれ以降、いわば空中からのゲリラ戦に連日さらされるようになった。

太陽が、特攻機の搭乗員に目標を視認できる明るさを提供する時間は、この季節の沖縄では夜明け前から日没後の残照までおよそ十五時間である。その間、米艦隊の乗組員は絶え間なく上空に注意を払わねばならなくなったし、夜間といえども安心はできなかった。

それは、疲らに作戦継続を断念させるほどの決定的な被害はもたらさなかったが、乗組員の疲労は確実に蓄積し、実際に損害を受ける艦艇も徐々に増えていく。.

カミカゼの脅威から艦隊を守るのは、艦隊自身の仕事だった。.ミッチャーに与えられたのはまずはそういう任務だった。

彼の機動部隊が襲ったのは九州東岸の航空隊基地だけではなかった。四国から和歌由に及ぷ広範囲の軍事施設を目標としており、空襲に使用された艦載機は千四百機に達する。

その中で、十九機のコルセアによる佐伯空襲はむしろ小規模だったといえるのだが、これはこの年の元旦以降、数次にわたって行われたB29による空中偵察で、佐伯基地には脅威となる戦力が、さほどには存在していないことを彼らが知っていたからである。

逆に、桂佑らが期待したような有力な戦闘機部隊がこの地に展開していたら、「まさしくカミカゼの基地」とばかりに、徹底的な破壊が加えられていただろう。

文太郎も、窪地に身を潜めながら、対岸の海軍基地を目標に急降下する敵機を見た。

彼らは大入島の背後から急降下をかけ、飛行場に露天繋止されている日本軍機に機銃掃射を加えると、上昇しながら南に離脱するというコースをとった。このため文太郎の位置からは、急降下する機体が目前に見える。

見慣れた日本軍機のスマートさとはまったく違う不恰好な機体であった。屈曲した主翼に、妙にヒヨロ長くバランスの悪い胴体、その横腹に星のマーク.文太郎が敵国の飛行機を実際に見たのは元旦に続いてこれが二度目だが、これほど近くで見たのはもちろん初めてである。

搭乗員の顔が見えた。

ぐっとあごを引き、肩をいからせて、なにやら喚くように大きく口を動かしている。それが恐怖心を言葉に出しているのでも、彼らの神に命乞いしているのでもないことが、文太郎には分った。

彼は闘魂を吐いていた。日本軍への敵愾心を、絶対命中の自信で装甲して吐き出していた。

文太郎にはそれがわかった。

搭乗員は大きな飛行眼鏡をつけていたうえに、その表情が文太郎の視界に入っていたのは、ごく僅かな間だったから、文太郎は、彼の表情からその叫びの意味を悟ったわけではなかった。そう理解したのには、少なくともそう確信するにいたったのには、別の理由があった。

文太郎は以前にも一度だけ、大入島の低い山々をかすめて急降下する飛行機の搭乗員の顔を間近に見たことがある。それはこの時から三年と半年前の、よく晴れた秋の朝だった。

文太郎は句をむかえた蜜柑の摘み取りのために畑に出ていた。たびたぴ書いたように、この畑は山の麓から少し登った南向きの斜面にあった。

そこは対岸の海軍基地に面していて、佐伯湾は畑や背後の山の向こう側に隠れている。その湾口のほうから、その朝に限ってただならぬ爆音が聞こえてきたため、彼は作業の手を休めて山の向こうの見えない空を仰ぎ見ていた。

突然爆音の中に別の音が加わった。飛行機が急降下する時特有の、長く尾を引く金属的な飛翔音が、いくつも続いて起こり、しかも近づいてくる。

文太郎の視界の中に、その飛行機はで突然飛び込んできた。山影から飛び出してきたそれは、文太郎の日の前で、少なくとも彼には目の前と思えるほどの距離で、急降下の姿勢から機首を持ち上げた。それから海面をなめるように対岸の航空隊の上空まで一気に飛ぶと上昇に転じ、基地のはるか高空へと飛び去っていった。

翼の前面に描かれた日の丸の赤が、残像として残づた。

文太畑は蜜柑の背負いカゴを放り出して、視界のひらける畑の端まで駆け出した。

佐伯湾の入り口のほうから高空を飛んできた海軍機が、つぱさをきらりと輝かせて飛んできた海軍機がつばさをきらりと輝かせて横転し、第7章ー3

そのまま大入島に向かって急降下してくる。

それも一機ではない。十数機がまるで集団舞踏でも踊るかのように、編隊のまま一糸乱れず突込んでくるのである。

素人目には、そのまま島に突入して木っ端微塵になるのではないかとさえ見える。そう肝を冷やした刹那、彼らは爆音とともに身を翻すと海上を海燕のように鮮やかに滑空し、それから上昇運動に転じて、真っ青な空へ力強く駆け上がって行く。

それは迫力などという感覚を超えて、見ている者の体中の精気がまなこの裏に集まり、熱く沸騰した涙になるのでないかと思えるほどの、恍惚感をもたらす見事さであった。

文太郎が見とれていると、次の一機は、まるでたった一人の観客に応えるように、今までの誰よりも文太郎のいる斜面に急接近して通り過ぎていった。文太郎には、その飛行機の主翼が屋根に立っていた松の木の幹を叩き切ったように見え、ほとんど同時に搭乗員の顔が見えた。

今度は搭乗員の真っ白なマフラーが、残像として残った。若い搭乗員であった。

「えらいもんじゃのう」

たいしたものだなあ、と叫んだ自分の声さえ爆音で聞こえなかった。

 

この編隊は全機が零式艦上戦闘機、いわゆる零戦であり、やがてハワイ真珠湾攻撃の主力となる第一航空艦隊の所属機だった。

零戦は戦闘機であり、第一の任務は空襲主力の爆撃機や雷撃機の援護だったが、真珠湾では機銃掃射によって陸上の敵機を破壊する任務も担っていた。そこで彼らは、佐伯航空隊基地を米軍飛行場に見立て、実戦さながらの攻撃訓練を行っていたのである。

真珠湾攻撃の訓練風景としては、海面ギリギリの低空を飛行してきた雷撃機が魚雷を投下、というシーンが、多くの映画で描かれたことでよく知られているが、これは艦上攻撃機による魚雷攻撃訓練である。この種の訓練は、鹿児島錦江湾、同じく鹿児島県の出水、大分県宇佐の各基地で行われていたと記録にある。

この場合も、海面高度五メートルという超低空飛行そのものが命がけの高等技術なのだが、当時の熟練搭乗員たちからは「雑巾がけ」と呼ばれていたように、黙々と精度と連度を高めていくという性質の飛行訓練だったので、傍で見ている者には案外地味にも感じられたようである。

それに比べると佐伯における訓練は、機首がもっとも軽快で運動性能に優れる零戦だったということもあって、無責任に書くことを許されるなら、見ているものを無条件に興奮させる、いわば空中サーカスのような曲技飛行に彩られていた。文太郎はまさにそれを目前に見たのである。

 

この零戦隊は、第一航空艦隊の主力である空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を母艦とする一団だった。その搭乗貞のレベルは、日米開戦直前のこのころ、疑いなく世界一だったと言われている。

 

あの時の飛行機はすべて翼に真っ赤な日の丸をつけていた。しかし今、目の前を急降下していったやつは違う。あれはアメリカの飛行機だ。疑いなく敵の飛行機なのだ。しかし。

「あん時とおんなじじゃ」

文太郎が見た米軍機は、三年前に彼を感嘆させた連中にいささかも劣らない見事さで、目の前を通り過ぎていく。

もとより、文太郎が飛行機の細かい理屈など知っていようはずがない。しかし、彼らが激突寸前まで体当たり同然に突っ込んでくる迫力から、生き物としての本能的な感覚が、操縦者の度胸の凄まじさを、見ている者に教えるのである。

文太郎が米軍機の搭乗員の表情を視界に捉えたのは一瞬のことだったが、彼の激しい闘志を感じとるにはそれだけで十分だった。文太郎は、かつて彼が日本海軍の搭乗員に贈った賞賛と同じものを、敵に贈った。

「えらいもんじゃのう」

文太郎は恐怖を忘れて感嘆したが、やがて無意識のうちに、何とも不快な感覚が湧き出して彼を襲った。

それは「帳面が合わん」という感覚だった。

この男はきわめて情緒的な価値観の所有者だったが、算盤だけは合理性を欠けないものだということを体得していた。

この当時の日本人でも、それが文太郎のような庶民でも、アメリカが世界の大国であるとはもちろん知っていた。その大国に勝負を挑んで勝ち目はあるのか。その疑開を打ち消すために人々はいつもこう語り合っていたものだ。

「アメリカは個人主義の国だから、軍人でも命を惜しむ。お国のためならいつでも命を捨てる日本人とはそこが逢う。だから、いぎ戦闘となれば米兵は逃げ腰でいくさにならない。数で劣ることなど、それこそものの数ではないのだ」

経済的にも物最的にもはるかに勝る敵国に対し、日本人は大和魂の無敵をよりどころとして勝利を信じていた。国家はその戦意を維持させるために、アメリカ人をことさらに怯懦(きょうだ)未練と宣伝する必要があった。新聞などのマスコミもこぞってそれを後押ししていた。

だから庶民の感覚では、米軍の爆撃などは、へっぴり腰で高い所から爆弾をばらまくだけで、そんなものはなかなか当たるものではないはずだった。

その大前提が、文太郎の中で崩れた。

祖国のために命を捨てて戦う。それはアメリカの若者たちも同じだった。

文太郎にはそれがむしろ痛ましかった。彼らもまた速く親元を離れ、はるかな異国の空で、死を決して戦っているではないか。なかなか敵どももたいした連中だ。そう思えた。であれば大和魂が無敵だという前提は崩れる。今までの帳面勘定は合わなくなる道理であった。

「お母ァ」

空を見上げるのをやめて徳のほうに向き直った文太郎は、つねと変わらぬ表情で言った。

「この戦争は負けじゃ」

徳は亭主が明日の天気を予想するような平穏さで口に出した言葉の意味を直ぐには理解しなかった。文太郎がそこに座り込み、もう一度空を見上げるまでほどの間をおいて、やっと大慌てに言った。

「お父ゥ」

それから少し声をひそめて

「どうするんか、憲兵に聞かれたら」

そう言った。

文太郎はそれに答えず空を見ている。憲兵どころの騒ぎではない。それどころではない大事だというに、やはり女子は目先のことしか思わんもんじゃのう。そんなことを考えた。

徳にしてみれば、戦争に勝とうが負けようが、そんな大きなことは自分たちにはどうしようもあるか。亭主と子供たちが無事であればこそだ。もし戦争に負けたとしても、亭主が健在で、子供たちが元気ならば、という気持ちがそれを言わせたのだが、その心理を自分では意識していない。

「そんなことよりお父ウ、早う帰ろう」

空襲が本物だと知った時、徳の胸中を支配したのは、置いてきた子供たちの安否だった。下の娘ふたりは坪根の家に預けていたが、亮は家をとぴ出して遊びに行ったきりだったし、桂佑もまだ堀切の船着場あたりにいるのではなかろうか。

しかしまだ動くわけにはいかなかった。敵機は疑いなく対岸の佐伯基地を目標にしているが、流れ弾ということもある。しばらくはここに身をひそめていた方がいい。文太郎はどかりと胡坐をかいた。

「桂も亮も心配ねえ。何のために毎日戦争ゴツコをやっちょるか」

そう言った。彼はそれを、妻を落ち着かせるためにだけ言った。

 

佐伯防備隊があった場所については前にも書いた。

海軍基地が広がっていた番匠川の河口から川沿いに上流を臨むと、ちょっとした高さの丘が見える。当時はここに高射砲陣地が築かれていて、一帯の地名から()(しま)陣地とも呼ばれていた。

この高射砲陣地は敵機の機銃掃射が始まる前から射撃を開始していたから、大入島から沖にかけでの高空には、丸くまとまった爆煙がすでに点々と浮かんでいた。桂佑たちにも、それは初めて見る光景だった。

「のう桂。俺はよう知らんのじゃが、あっちの空を見ちょるとな、ポンポンと煙が沸いちょるじゃろ。あれは、あれか、高射砲の弾が敵に当たって爆発しちょる煙じゃろうか」

「空ッ屁じゃ。見てみい、煙の間からグラマンが突っ込んで来るじゃろうが」

島の少年たちには、米軍の艦載機は全部グラマンである。

「なんじゃ、煙の数だけ敵機が爆発しちょるんなら、こりやエエ気味じゃと思うたが」

高射砲の弾丸は、敵に命中して爆発しているのではなぐ、発射前に調節された時間通りに空中で炸裂しているだけである。

要するに花火を打ち上げているようなもので、直撃弾などは滅多に望めない。もっとも爆発した破片だけでも命中すれば、小型機ならば十分に撃墜できる破壊力を持ってはいる。しかしそれとて簡単に当たるものではない。

桂佑の言う空ツ屁、つまり命中しない場合は爆発による空気の振動で操縦を阻害し、壌煙で視界を妨げ、爆発音で精神的なプレッシャーを搭乗員に与えるのがせいぜいである。

少年たちを最初に襲った恐怖心は、基地に被群の火の手が上がった瞬間に消え去っていた。

それからは敵に対する怒りと憎悪が少年たちの心を支配したが、戦闘を見守っているうちに、その怒りと憎悪は、やがて、微妙に温度を変えながらではあったが、味方である佐伯防備隊に向けられ初めていた。

「何をやっちょるんか」

という気分であった。

敵機を迎え撃つ戦闘機は一機も上がらない。対空機関砲の音だけは景気良く響いてくるが、ただの一機も撃墜した様子がない。高射砲は、空に黒い煙の染みを増やすばかりではないか。

「ええい、歯がゆいのう。アメリカの好き放題じゃねえか」

敵機は飛行場に機銃掃射を加えると、いったん佐伯市の南かなたまで飛んでから反転し、再び突入してきた。

反転してきた機体が目標に選んだのは、大入島西側の海面に避退中だった海軍の小型艦艇群だった。そのコースを桂佑たちから見ると、敵はほぼ正面から飛んできて彼らの右手に抜けることになる。

「またこっちに来るぞ」

「畜生。ここに高射砲がありやあ俺たちが撃っても中るんじゃがなあ」

そう歯噛みした重雄と桂佑の目に、敵戦闘機がまた一機、降下態勢に入りながら城山の上をこちらに向かってくるのが見えた。少年たちは敵機の姿を正面に捉え、意識の中の高射砲を、その湾曲した主翼を持つ逆さカモメのような機体に撃ち込んだ。

次の瞬間、その機体が火を吹いた。

少年たちはまず呆気にとられた。そしてそれが現実の高射砲弾が命中したのだと理解した瞬間、狂喜した。

「桂、当たったんか」

「おお、当たったんじや、当たったんじゃ」

ふたりは素っ頓狂な声をあげた。泣き出さんばかりの歓声であった。口の端が、これ以上は無理というところまで伸びきって頬に食い込んだ。その獅子口の奥から搾り出す悲鳴のような笑い声が、それまでの鬱憤を一気に吹き飛ばした。

実際に命中したのは機関銃弾だったらしい。被弾した敵機は、火に包まれながらも緩降下でしばらく飛行を続けた。そこまでは、少年たちの目もまるでスローモーション映像のように見えていたが、やがて機体を回転させて、ほとんど海と垂直になると、今度はあっという間に逆落としのまま海面に激突し巨大な水牲をあげた。

守礫浦から目と鼻の距離だった。少年たちの歓声は絶叫にまで高揚した。

敵機は去った。

その一機が墜落すると、これを潮時と見たかのように全機が上昇運動に移り、高々度に避退していった。

長く書いた。しかし実際には佐伯基地の対空機関砲が射撃を開始し、敵機の避退後、射撃待機命令が下されるまで、わずか十分そこそこの出来事であった。

文太郎は敵機が去ったのを見届けると、荷物を手早くまとめて、あっという間に帰り仕度を済ませた。

敵機は見えなくなったが空襲警報は解除されていない。本来なら防空壕に避難しているべき情況はまだ続いている。それでも彼は早く家に帰ろうと思った。家に帰りたかった。このまま窪地に寝転がって、警報の解除を待つ気にはなれなかった。

なにより子供の無事を確かめたかった。それは夫婦に共通した欲求だったが、文太郎のその思いは、徳のそれよりもやや複雑だった。

(生きちょれよ)

戦争はもうすぐ終わる。それまで、とにかく子供たちを生かさねばならない。そのためには、いまこの時を生き延びていてもらわねば困るのだ。

(いま死ぬるこたあねえ。戦争は終わるんじゃ)

それは十分に重苦しくつらい帝望ではあった。肝心の終戦がいつになるかはわからないし、それが敗職という形で到来するからには、今まで以上の苦難と共にある希望だということを、文太郎は理解していた。

それでも光は点った。それを知ったからには、そこに向かって歩き出したかった。

余った稲藁を家の真の防空壕に敷き、いざとなればそこで出産ができるようにしておこう。この男はすでにそんなことを考え始めている。

文太郎と徳は家に帰る地中で、守後浦の人々がぼつぼつと外に出て来ているのに出会った。

空襲警報はまだ解除されていないのだが、人々は案外のんきなふうに見えた。

出会った住民は全員が男どもであった。

防空壕に入って飛行機の爆音や対空砲の射撃音に身を縮めてはいたものの、それらは十分かそこらで聞こえなくなってしまった。

正体のはっきりしている恐怖が去れば、今度は不安が襲ってくる。暗くて狭苦しく、しかも物音ひとつ聞こえない壕の中は、その不安を培養するのに最高の環境だった。

その不安に耐えてじっとしている家族の苦痛を和らげるためも、自分自身の苛立ちを宥めるためにも、男たちはむしろ積極的に外に出て様子を確かめようとした。

彼らは対岸の基地にあがった火災による煙や、まだ生々しく上空に浮かぶ対空砲弾の爆煙を、あれこれと物言いながら眺めていた。それは彼らにとっても初めて観る光景だった。

「あれは女島のほうじやのう」

佐伯航空隊では、敵機のロケット弾を受けて東海が1機炎上していたが、その煙が彼らにもはっきり見えた。だが、それは彼らにとって、さほど深刻な被害には思えなかった。

男たちの中に、防空壕に入らず庭先に踏ん張っていた者がいた。

「グラマンがの、急降下してダダダっち撃ち込んでいったんじゃが、いきなり火を吹いての、こう、グラッときて、あとは真っ逆さまじや。竹島の沖のほうに落ちていったわ」

「ははあ、それなら搭乗員もお陀仏じゃな」

「やっぱりたいしたこたあねえのう アメリカは」

「まだ来るんじゃろうか、空襲警報は解除にならんが」

「オ、文ニイと穂ネエじゃ」

浦の人間はみな顔見知りであるから、夫婦がなぜそこにいるのかも大方察しがついている。

「エライことじやのう、文ニイ。上で空襲に遭うたんか」

「去ぬるに去ぬれんけの、上で()こう(すん)やった(でいた)。ははは こっちの衆はどうか」

「おおかたは防空壕に入っちょったけの、怪我人もねえし、まあ、どうっちゅうことはねえ」

「何よりじや。ほいたら亮どもが気になるけ、とっとと去ぬるわ」

文太郎が大入車を家のほうに向けなおした時、ずっと黙っていた徳が口を開いた。

「そうじや、亮じゃ。あん子はこつちに来ちょらんじゃろうか」

亮を見なかったかと聞かれて、男たちは顔を見合わせたが、見かけた者はいなかった。

それから二人は、そこから家まで五分ほどの道を黙って歩いた。徳は少し気が急いていた。足が速くなって、少し息が切れた。

 

空襲はまだ終わっていなかった。

夫婦が家に着いたまさにその時、空襲の第二波が来た。

今度は戦闘機四機の編隊が、大入島周辺に避難停泊していた船艇に機銃掃射を加え、同時に別の二個編隊七機

が、佐伯航空隊基地を銃撃して去った。

この攻撃でも大入島に直接的な被害はなかったが、当然ながら人々に与えた精神的な衝撃は小さくなかった。特に海上の船艇攻撃は彼らに強烈な印象を残した。

このころ佐伯基地周辺に停泊していた船艇は、ほとんどが特設特務艇であった。特務艇とは小型の雑役船の総称で、特設のこ文字がつくものは第四章で紹介したが、民間の船を徴用してにわか武装を施したふねである。これらの中で最も被害が大きかったのは「大衆丸」で、艇長植木千代吉大尉以下四名が戦死し、船体には無数の弾痕が残された。

大衆丸は、守後浦と久保浦のちょうど中間の沖合いに停泊していた。岸からの距離はわずか三百メートルほどしかない。

そこは、ふたつの浦の住人にとって庭先とも言える場所であった。漁場というよりは、毎日の夕食のおかずをちょいとりに行く場であり、夏には子供たちがはしゃぎ泳ぐ場だった。

そこを凶暴な機関銃で薙ぎ払われたのである。

敵機が去ったあと海岸に出た人々は、沖に分散している船艇のどれもが、慌ただしいざわめきに包まれているのを感じとった。

機銃掃射による被害は遠くから見ただけではわからない。それでも船上を忙しく動きまわる乗組員の様子や、風に乗って聞こえてくる、緊迫した調子の号令が、事態が決して安らかではないことを彼らに教えた。人々は誰もみな、自分たちの住む土地が戦場になったという現実を改めて思い知らされたが、男たちは間近に戦闘を体感したことで少なからぬ興奮状態にあって、妙に活気づいてもいた。

彼らの中には、空襲が続くようなら漁に出られないと、ただでさえ足りない食い物の確保に懸念を表明する者もいたし、なんの、いっそ敵さんが爆弾を落としてくれるなら魚が浮かんで食い放題だと、豪気な冗談を放言する者もいた。弱気も強気も人それぞれであったが、戦争がそれまでと違う段階入ったという事実は、誰もがしっかりと腹に呑みこもうとしていた。

女たちの。多くは日々の生活がこれからどうなっていくのだろうだろう、と実に漠然とした、しかし、大きな不安に支配された。我が家や我が子に向って、いつまた敵の次の弾か飛んでくるか分からな。そういう不安がこれから毎日続くのだ。

そしてそれは、いつまで我慢すればよいという期限がまったくない絶望的な情況だったが、幸か不幸か、ずっと困苦の中に生きて来た彼女たちには絶望という名の捨て方がこの世にあることを知らなかった。

彼女らに許されたのは、絶望的な情況の中でもひたすらに目前の苦しさに}耐えて、日常を営むという凄まじい生き方だけだった。それは絶望するよりもつらく苦しい道であったが、彼女たちには。それができたし、それより外の選択肢は考えられていなかぅた。

この二度目の攻撃を、文太郎と徳は奥の台所にこもり、首をすくめるだけでやりすごしたが、それはわずか一分間かそこらのことだった。

敵機の音が聞こえな<なると、ふたりは隣の坪根の家に声をかけた。蜜柑畑に出掛ける前にのりえと恵子を預かってもらったので、彼女たちを引き取るつもりだった。

まず徳が勝手口に入った。

「お園ネェ、おるじゃろか」

「徳ネエか。上がっちょくれ。慶子がむずがっちょるけ 手が離せん」

園は奥の部屋で慶子を抱いて座っていた。周りにはありったけの布団が乱暴に放り出されている。その中に、達磨ように頭から掛け布団をかぶった園の子供たちがへたり込んでいたが、その中に。のりえもいた。

のりえは徳の姿を見ると布団を放り出して飛びついてきた。恵子は園の腕の中から、母親のほうへ行くと手を伸ばして身をよじっている。

穂はのりえを腰にまとわりつかせたまま、園の腕から恵子を受け取って抱き上げた。

「迷惑かけたな、お園ネェ。おおきに」

()まがった(どろい)わあ()、ははは、子供どもをどうしょうかと思ってな、まず押入れに押し込めて、頭から蒲団をかぶらせちょったんじゃけど、それで暑苦しゅうなったんじゃろう、さっきからむずがっちょる」

ふたりはそれから、少なくとも身の回りには空襲の被害がなかったことを喜び合い、互いの家族のうち、出かけてしまった者たちの安否を気遣うやりとりを交わしていた。

やがて園の子供たちが蒲団の中にうずくまっている退屈さに耐え切れなくなったらしく、わらわらと台所のほうに立った。園もそれを追うように立ち上がる。

「今の内に芋をふかしちょこう。あんたんとこの分もふかすけな、()こう(すん)ちょきんさい(でいなさい)

「ちょお、どうしてか。エエんよ。お園ネェ」

「エエけ。のりがエエ子じゃったんよ、抱っこして()っちょ(げていな)(さい)

姉のような口調で園にそう言われ、徳はのりえを見た。少し鼻を垂らした赤い頬ののりえが、何かを我慢しているように、じつと黙って自分を見つめていた。

徳は肩腕で慶子を抱いたまま、もう一方の腕でのりえを抱き寄せ、頬ずりをして、それからいつものように顔中に接吻しながら、偉かった、えらかったと褒めてやった。

本当はこの家に入ってすでにそうしてやりたかった。それを徳は我慢した。のりえもじつとこらえていた。娘の健気さを思うと母の胸は詰まった。のりえは接吻されながらベソをかき、その涙の味が徳に伝わった。

 

「しもうた」

勝手口まで来てその様子を見た文太郎は、徳に遅れてきたことを後悔した。

「お園ネェの前で、こりや()げし(のど)ねえ(くだ)

徳が接吻するに任せて、のりえは小さくしゃくりあげながら母の胸に顔をうずめている。

園はその光景から逃げるようにかまどの前にうずくまって、火種を吹いている。

その日は特別な日だった。園が我が子と別れなければならない、その前日なのだ。

徳はそれを忘れている。穂とのりえの睦まじさは、園にとっては残酷ではないかと、文太郎には思えた。

坪根の家には七人の子がいた。長男の直弘はすでに志願して海軍にいる。次男の義弘は大正十二年生まれの二十三歳だが、造船所に勤務していたおかげで徴兵から免れていた。

そこは海軍のふねを建造あるいは修理する造船所で、義弘はそこですでに一人前と呼ばれるだけの経験を積んでいた。海軍省は彼らのような技術者もまた重要な戦力と認め、徴兵免除の措置をとっていた。

しかしその彼にもついに召集令状がきた。この国ではふねを作るための鉄も、作ったふねを動かすための油もすでに底を尽きかけており、彼らの技術も宝の持ち腐れとなってしまっていたのである。義弘は長崎県の佐世保にある造船所からいったん帰郷し、そして出征するのが明日のことであった。

義弘は挨拶回りに出かけていて留守だった。園の亭主の岩蔵もこの時は家にいない。息子の

59

出征を祝う魚を漁るために漁に出ていた。今はどこぞに避難しているに違いない。

園は台所にこもったまま、手近に積んであった薪をかまどにくべ始めている。

文太郎はわざと顔を合わせぬように彼女に礼を言い、土間から室内を覗いて徳を促し自宅に引き取らせ、自分も続いて勝手口をくぐった。

外に出ると煙突から煙が出始めていた。火付きの悪い薪が、園の目を腫らしているだろう。

桂佑と亮がその歳になるまでに戦争は終わると予想した自分を、そこに光明を見た自分を、文太郎はこの時、わずかに責めた。

囲がふかした苧は、結局、義弘の昼飯になった。

義弘は挨拶まわりから帰ってくると急に身仕度を始め、それを訝しがる母親に今から発つと告げて、彼女を驚かせた。

「でも入営は明後日じゃろうに。あした発てば十分間に合うじゃろ。どうして今日発たにゃいけんことがあろうか」

縋るようなまなざしの母親を見ずに、義弘荷造りをしながら答える。

「空襲が今日限りならエエけどな、アメリカども明日も来るかも分からんじゃろ。もし明日も来たら、とてもじゃねえが町まで渡れんし汽車にも乗れん。それで、もし入営に遅れでもしたらエライことじや。今のうちに汽車に乗った方が安心じゃ」

弘が入営する先は佐伯の防備隊ではなかった。防備隊は実戦部隊であって、新兵の教育は行っていない。入営する者は、まず地方におかれた鎮守府で新兵訓練を受ける。

彼は大分の海軍基地に出頭することになっていた。九州各県から集まる新兵を管轄するのは佐世保鎮守府だが、大分にもその支所のようなものがあったのかもしれない。

「そうは言うても、空襲で間に合わんのじゃったら、しようがねえじゃろうに」

無論、軍隊は園が口にしたような言い訳が通るところではない。義弘はそれを十分に知っている。彼が今まで勤務していたのは軍艦を作る造船所だったのだ。

数年前「二号艦」と呼ばれていた大型艦の建造に参加した時などは、現場へ出入りする度に厳重な人員点呼と持物検査が行われ、宿舎の周りにも衛兵が立ち、少しでも遅刻したりすれば何かと誰何され、時には取り網調べまがいの尋問を受けることさえあった。

その大型艦は完成後「武蔵」と呼ばれることになる日本海軍の主力戦艦であったから、その機密保持のためには、職工といえども、軍人同様か、それ以上の厳しい管理体制化におかれていたのである。

もし園が言うような理由で出頭期限に遅刻するようなことがあればどんな扱いを受けるか、義弘は骨身に組みて知っている。

「お母ァ、すまんけどな」

義弘は駄々をこねる子を宥めるように笑った。それから荷造りをしていたずた袋のベルトを締めると園に向き直って胡坐をかき、腹が減った、と言った。

園はまだ何か言いたげであったがそのまま台所に立った。ふかした薯をザルにのせながら、怒ったような声で独りごとを言っているのが義弘にも聞こえた。

「ほいても、汽車にゃ明日乗るはずじゃったんに、今日行って今日の切符が貰えようかの」

義弘は聞こえないふりをしていた。このころ国銑の切符の入手は確かに困難ではあったが、軍人や出征

に対しては最優先で便宜を図ってくれることを知っていた。しかし、それを口にしたとしても、母親には何の

休めにもならないだろう。

「こんなことなら、飯を炊いちょきやよかったのう」

園は、この日夕食の膳には米だけで炊いた飯を上げるつもりだった。そのために少しづつ米を節約して貯めておいたのだ。

その膳にはお父ゥが獲って来た魚ものせてやろう。一匹でもいいし、小さくてもいいから、鯛かチヌが手に入ればいいのだが。そしたら刺身にして食わせてやろう。

かしらは味噌汁にして、そうだ、いつも味噌汁は味噌を節約してしまうけど、今日はそんなことをせずにうんと味噌を溶いてやろう。

今朝までそんなことを思っていた。

 しかし今の園の手には、くたびれたザルにゴロリと転がったサツマイモがあるだけだった。

これが最後の別れになるかもしれない息子に食べさせるめしが、これなのか。

嗚咽がこみ上げてきた。この母親はしかし直ぐに、泣くのも悔しいではないかと気を奮って薯を息子の前に運んだ。

「さあ、食え」

いつもと同じ言葉で促された義弘は、黙って芋を食べ始めた。園も黙って息子を見ていたがやがてそれに耐え切れなくなって、また座を立った。

「それを食うちょる間にな、やっぱり飯を炊くけな。弁当にゃにぎり飯を持っていけ」

そう言って再びかまどの前にしやがみこんだ。義弘はその言葉には逆らわずに薯を食べた。煙突から、また湿った煙が昇り初めた。

 

義弘が守後浦を発ったのは昼過ぎである。

対岸の佐伯の街に渡るための定期渡船は欠航していた。空襲警報は解除されていたが、もうひとつ下の警報である警戒警報は発令継続中であった。そのためである。

義弘は家の手漕ぎ舟で対岸に渡るつもりだったが、帰宅していた重蔵が送っていくと言う。

重蔵はその船に、家から持ち出した蒲団を積めるだけ積み込んだ。

「お父ゥ、こりや何か」

「敵機がいつまた飛んでくるかわからんじゃろうが」

「敵機ちゅうが、じやあ、これはあれか、弾除けか」

「そうじや、これでも無エよりましじや。敵機が撃ってきたら、これにくるまっちょれ」

鉄板に穴を開ける敵の槻銃掃射に対して、綿布団がどれほどの防弾効果を有するか、重蔵にとってはどうでもいいことだった。今、戦地に向かう息子にしてやれる精一杯がそれだった。

「お父ゥ、ありがてえけんど、布団が波をかぶったら妹どもがむげしねえわ(かわいそうだよ)

あほう

ほげえ(あほう)、波をかぶらせるような下手をするか」

重蔵がそう言った時、家の方から文太郎が歩いてくるのが見えた。

文太郎と徳は、隣人が一家総出で布団を抱えて外へ持ち出しているという、常ならぬ光景に気づくと表へ出てきた。

事の次第を園から開き、その慌ただしさに、何も見送りらしい真似をしてことをしえやれぬことを嘆じたが、それ以上口を挟むことはできなかった。文太郎は、義弘が発つことを近所に触れてこいと徳に命じた。

それからしばらくのあいだ、坪根の家の人々は、何かをするのでなく、近隣の人々が集まるのを待っていた。その数分間が、園が息子との別れを惜しむことを許された最後の機会だった。

 

儀式が始まるや

 

 

3 しかしその時この母子が交わした会話は、弁当。を持ったか、ああ持った、という、そういうものであった。

やがて二十人ほどの浦の人々が集まった。

「義弘、上官さまの言うことを良う開いて、可愛がってもらえやい」

そう言ったのは徳である。義弘は桂佑より十歳年上だったから、桂佑が生まれるまで、徳は義弘を本当の息子のように可愛がっていた。徳の胸も詰まった。

「うん、お徳ネェ、桂佑にも恵乗ちゃんにもよろしゅうな」

義弘はそう言うと、園が差し出した出征兵士のたすきを袈裟(けさ)懸けにかけた。儀式が始まる。

出征兵士は直立不動の姿勢をとって出発を宣言し、人々はこれを万歳で送る。万歳の音戸は文太郎がとった。小さな妹たちの声が混じった万歳を背に、義弘は船に乗り込んだ。

重蔵は二本の櫓をとると、鮮やかな手つき腰つきで漕ぎ出した。義弘は船の真ん中に立って人々のほうを向き、しばらくのあいだ手を振っていたが、やがて船が揺れだすと座り込んだ。

義弘はそれからも時折大きく手を振った。

彼の目がただそれだけを見つめていたその人は、いつまでもそれに応え続けるわけにはいかなかった。

息子が乗った船の影が小さくなったところで、園は息子の目に背を向け、集まった人々に頭を下げ、丁重に一人びとりに礼を言った。

やがて浦の誰かがそれをとどめて言う。

「お園ネエ、もうエエけ、ほれ、義弘を見送ってやりい」

そう促されて園がもういちど沖を見つめた時、彼女の息子を乗せた船は、すでにはるかに小さくなっていた。

TOPへ   佐伯物語目次