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(豊後水道海戦続き)

当然ながら伊藤の操艦は天下一品といえた。そういう彼を、民間出身の新米艦長たちの指導担当に持って来たのは、いかにも適材適所という気もするのだが、これがどういう経緯の人事だったかはわからない。

 これまでたびたび名前を出した軍務局長三戸壽《ひさし》少将も伊藤の同期だったから、あるいは彼の肝煎りだったのかもしれない。伊藤の日記によれば、彼は鶴見を退艦したあと、三戸や清田に会っている。

 この時の会議は、会議と呼ぶほどのものではなく、清田の激励のあとは二、三の確認事項を交換して終わった。清田は、西岡や伊藤が艦長たちに望んだ以上のことを、自分が彼らに望むことはできないと承知していた。

 清田は最後に、西岡に言葉を求めた。西岡と清田は同じ少将だが、海軍のキャリアは西岡が二年先輩である。しかし少将に任官したのは清田のほうが少し早い。この場合は清田が先任、つまり軍隊の指揮官序列では上ということになる。

 このへんの人間関係は微妙であったかもしれないが、清田は、まだ訓練途上の艦と乗組員を出撃させるという、いわば無理な注文に応じてくれたこの先輩に、敬意を表したかった。

 西岡は会釈してから口を開いた。彼も伊藤と同じく、現場から叩き上げのノンキャリアで、ざっくばらんな船乗りだった。

「訓練どおりにやってくれ。ただし、明日は爆雷をけちらなくてよろしい。以上」

 笑い声が出た。このあたり、とても清田はかなわない。

 散会したあと伊藤と艦長たちは桟橋に向かった。彼らをそれぞれの艦に送るための内火艇が待っていた。一隻だけである。彼らは全員でそれに乗り込んで、自分のふねまで順番に送ってもらうのである。  

 連絡艇はすべての艦に搭載しているもので、本来であれば、艦長たちは自分の艦の内火艇を出して使うことができのだが、それを走らせる分の燃料だけでももったいないじゃないか、と伊藤が言い、一隻に乗り合わせて来ることにしたらしい。

 もっとも、もったいないは口実で、伊藤はできるだけ艦長たちと行動を共にし、その緊張をほぐそうとしていたようである。

 

 伊藤が指揮する第三特別掃蕩隊は、三月二十八日午前三時に佐伯基地を出撃した。

 出港してしばらくは右舷に陸地を見ながら走ることになるはずだが、その時刻では、そこはまだ夜の闇に包まれていた。それは豊後水道に突き出した細長い半島で、先端の岬を鶴見崎という。

 伊藤が艦長として乗り組んでいた給油艦鶴見の名は、このとき彼が暗闇の中に見ていたその岬から採られたものである。

 日本海軍の艦艇の名は艦種ごとに一定の基準で定められていた、たとえば、戦艦の場合なら日本各地の旧国名が与えられる。大和国、伊勢国が、大和と伊勢の名の由来である。   

 給油艦の場合は、岬の名前がつけられることになっており、たとえば知床、襟裳などという名のふねもあった。

 鶴見はそれらの中で最古参とも言える歴戦の古豪だったが、伊藤が転任のために艦を降りてから、わずか二ヵ月後の昭和十九年八月に、敵潜水艦の雷撃を受けて沈没した。

 鶴見崎を見れば、伊藤はどうしてもそれを思い出す。

 自分が後任の艦長より優秀だったなどとは露ほども思わない。それでも俺が艦長でいた間はどんなに激しい空襲を受けても、部下のひとりとして死なせなかった。華々しい戦果や勲章や出世なぞにはまったく無縁な海軍暮らしだったが、その往生際の悪さだけは、閻魔さんの前で自慢できることかも知れん。

「今回もそうありたいものだ」

 伊藤は腹の中でだけそう呟いた。それから闇の中の岬に向かって、同じ名の懐かしいふねにこれまた腹の中だけで敬礼を贈り、そして、

「まあひとつ、よろしく守ってやってくれよ」

 今はもう闇の向こうがわにいる彼のもと部下たちに、そう手を合わせた。

 

 第三特別掃蕩隊は、その名が示すとおり第三の部隊であり、訓練中の艦で臨時に編成された特別な艦隊である。

 この部隊とは別に、いつものように駆潜特務艇と特設駆潜艇で編成された小部隊が、水道の哨戒開始地点に急いでいた。第一掃討隊と第二掃討隊である。

 この両隊は呉防備戦隊の主力である。しかしその戦力は目を疑いたくなるほどに弱体化していた。出撃したのは、両隊を合わせて駆潜特務艇つまり木造漁船型が二隻、特設駆潜艇つまり徴用された民間船が八隻である。ほとんど休みなく続けられてきた対潜哨戒作戦は、呉防戦の戦力を確実にすり減らしていた。

 第三特別掃蕩隊は「男鹿《おしか》」「目斗《もくと》」「第五十九号」「第六十五号」の四隻である。

 漢字名と数字名が混在している。本来、海防艦には島の名が与えられることになっていたが海上護衛の重要性が認識されて大量建造が決定されると、適当な名前が足りなくなり、番号で名づけられることになったらしい。ともあれこの四隻は、防備戦隊主力の特設駆潜艇に比べてはるかに強力な対潜艦艇であった。

 伊藤は臨時に艦隊の指揮を執ることになったので、彼自身が乗るべきふねは、特に定まっていなかった。伊藤は四隻の中から第五十九号海防艦を選んで乗り組んだ。むろん艦長も一緒に乗艦する。伊藤は作戦の指揮を執るが、ふね自体の操艦は艦長の職権である。

 五十九号は丙型海防艦と呼ばれるタイプで、艦隊の中で最強最速の「男鹿」よりやや小型で速度が少し遅い。

 伊藤がそれを旗艦にすると聞いた時、清田は友人に尋ねてみた。

「男鹿に乗ったらどうだ。艦長たちは実戦経験がない。いざ実際の戦闘となったら貴様の乗る艦が攻撃主力になるだろう。足が速いほうが良くはないか」

「うん。だけど相手は潜水艦だからね。攻める時の速度はさほど関係ないよ」

 このころの潜水艦の、水中での最高速度は時速十五キロがいいところである。これに対して男鹿と目斗は三十六キロを出せるが、二隻の丙型は三十キロと少し劣る。

「それより敵さんが張り切って魚雷を撃ってきた場合だよ。俺のふねに来りゃあいいんだが、敵にも都合があるだろうからなあ」

 伊藤がそう説明すると、清田はにっこり笑って納得したことを伝えた。

 艦隊運動は指揮官である伊藤が指図をするのだが、その中の一艦が魚雷攻撃を受けた場合は狙われた艦の艦長が独自の判断で操艦して、これを回避しなければならない。船脚が速ければそれだけ回避しやすく、したがって生存率が高くなる。

 この部隊の四隻を比べれば、足の遅い丙型のほうがこの点やや不利である。伊藤はそちらに乗り組み、いざという時は艦長をサポートするつもりなのだ。

 この男らしい。

 清田は、伊藤の計算を、指揮官自身が最も危険な環境に身をおくという、いわば部下思いの美談としては受け取らなかった。実戦経験豊富な者がリスクを引き受け、新人にはその未熟を補うアドバンテージを与える。これによって全体の生存率の平均値をあげるという、いかにも合理的なそろばんを、この老練な戦士である友人は弾いたに違いない。

 実際のところ、伊藤が何発もの爆弾や魚雷をかわしてきた鶴見の最高速度は、わずかに時速十七キロに過ぎなかったのである。

 いつものように眉を八の字に傾け、闘志のトの字も表情に表さない伊藤の顔を見つめながら清田はそう思った。

 

「それより清田、例の件をよろしく頼むよ」

「うん。全力を投入する。佐世保からの応援も来ているしな。任せておけ」

 ふたりが交わした約束とは、この作戦に佐伯航空隊を最大限に投入して、対潜掃蕩隊に協力させるというものだった。要は海空一体となった機動戦を行おうというのである。

 これは対潜訓練隊の若い指導官たちの提言だったという。

 海防艦はもともと受け身の戦闘を前提に作られている。輸送船団を襲撃してきた敵潜水艦を返り討ちにするのが任務であった。

 ところが掃蕩戦はそうではない。こちらから積極的に敵を捜し求め、先を制して敵を無力化するのが目的である。しかし時速十五キロの潜水艦を、時速三十キロの海防艦で探すのは骨が折れる。と言うより不可能であった。海防艦が最高速を出すと、自艦が発するスクリュー音やエンジン音で、音響探査兵器が役に立たなくなってしまうからである。

 その点、航空機なら短時間のうちに広範囲を索敵することができる。ところが航空機に搭載できる対潜爆弾の数は知れているので、敵に効果的な集中攻撃を加えることができない。

 そこで、この両者を有効に組み合わせて使おうというのである。

 航空機は敵潜を発見したら第一撃を加える。致命傷は与えなくてもいい。爆弾で追い立てて敵の針路を変えさせ、洋上を駆けつけてくる対潜艦艇の攻撃圏内に追い込むのである。

 これをハンター・キラーといい、大西洋のイギリス海軍はこの戦法で、Uボートを次つぎに血祭りに挙げていた。小型の護衛空母と護衛駆逐艦のコンビがその主役だった。

 もっとも日本海軍でもこの戦法には早くから着目しており、昭和十九年の四月には、遅まきながらも船団護衛部隊に小型空母を配備して対潜哨戒を行わせている。

 ところがこれらの空母はわずか半年の間に一隻を残してほとんど撃沈された。そのすべてが米潜水艦の雷撃による被害であった。食うべき敵に食われ、日本のハンター・キラーは失敗に終わったかに見えた。

 戦後、米海軍ではこの点について次のように論評している。

「日本の輸送船団が航海する海域は、陸上基地から発進する航空機でカバーできたはずなのに、なぜわざわざ不経済で脆弱な小型空母を同行させたのか理解に苦しむ」

 ところが日本海軍は、陸上基地の航空戦力を対潜掃蕩に活用するという、このしごく明解な方法を採用しなかった。理由はいくつもあるだろう。しかしその選択は、結果としては誤りであったようである。

 対潜訓練隊の若手指導官たちが提言したのは、まさに、この陸上基地の航空戦力と護衛艦の共同によるハンター・キラー戦法だった。

 たとえば樋口などにとっては、近代海戦の主戦兵器が航空機であることはすでに皮膚感覚と言ってよかったが、西岡や伊藤はその点で一歩を譲っていた。

 彼らはベテランだけに、新兵器や新戦術の発想という点では若い者にはかなわない。むろん航空戦についての研究はしていたが、感覚がついてこないのである。

 彼らはそれを知っており、対潜訓練隊の中では、たとえ樋口のような若手士官であっても、上官に率直な意見を述べることが許されていた。

 しかも、つい先月まで呉防戦の首席参謀だった原田耕作大佐は、樋口や航空隊の竹崎たちの兵学校教官である。彼らは海兵時代と同様に率直に意見を交わして机上作戦を練り上げた。

 彼らは、日本海軍にいまだ確立されていない対潜戦術を、手探りで構築しなければならない立場にいた。そのためには組織に官僚的な上下関係の硬直があってはならなかった。この点を虚心に認めたあたりも、西岡や伊藤のような、叩き上げの苦労人ならではかもしれない。

 

 日本海軍初の、基地航空戦力と海防艦艦隊による本格的なハンター・キラーが、豊後水道で始まろうとしていた。

 佐伯航空隊は大和の佐世保回航が予定された三月二十八日の朝、八機の零式水偵を飛ばして予定航路の対潜哨戒を実施した。この中には磁気探知装置を装備した機体も含まれている。

 この磁気探知機が最初に米潜水艦を感知したのは、午前十時二十七分であった。その位置は

「鶴見崎一六五度、三四浬」と、佐伯防備隊の戦闘詳報にある。

 零式水偵の機体から小型の爆弾のようなものが放り出された。

 これは敵潜水艦に打撃を与えるための兵器ではなく、煙を噴出して狼煙を上げ、味方の対潜艦艇に敵の所在を知らせるためのものである。

 そこから零式水偵の編隊は目視による敵発見に努めたが、敵の所在は確定できない。

 磁気探知機は「海中に鉄で出来たものがある」ということを感知するだけで、それから先の索敵は目視である。敵潜水艦が哨戒機の接近をいち早く探知して深く潜ってしまえば、これを上空から視認するのは容易ではない。

 そこで対潜艦艇の出番ということになる。海防艦には最新の音響水測装置が備えられており敵が発する音を探知するのはもちろん、自分から音波を出し、その反射によって目標の所在を掴むことができる。

 それから約九十分後、発煙弾による合図を確認して急行してきた第三特別掃討隊が、現場に到着した。そこは宮崎県日向市の沖、東に約七〇キロほどの地点で、豊後水道出口のほぼ東西中央にあたっている。

 第三特別掃蕩隊は、ただちに音響水測装置によって海中の目標を探査したが、敵潜の所在はついに掴めなかった。

 部隊はおっとり刀で現場まで駆けつけたが肩すかしを食った格好になっている。とは言え、足元の海中に敵が潜んでいることは確かなようだ。こういう時の気分はどうも落ち着かない。 

 対潜艦艇が逆撃の魚雷を食らって撃沈されるという例は、すでに幾らでも報告されている。このふねにも、いつ敵の魚雷が迫ってくるかわからない。

 伊藤は、せわしなく左右両舷の海面を見ていた艦長に声をかけた。

 若い少佐の艦長の名を青柳誌郎という。もし彼の気分を計るメーターがあるなら、その針は左右に大きく振れるに違いない、というような表情をしていた。

「潜ったな。音が聴こえんということは、敵さんは海の中で黙りっこだ。機関も動かせんから

この地点からは逃げられんよ。そこでだ」

 青柳に向けた顔の八の字眉が、この時は困ったような表情を作った。

「艦長、まず、あれだ。あれを、頼むよ」

 言っていることも要領を得ない。あれを思い出せなくて本当に困っているように見える。

「わかりました。潮流の計算ですね」

「そうだ、それそれ」

「了解です」

 青柳はすぐに艦橋に飛び込んだ。訓練の時、伊藤がよくこうしてかまをかける癖があるのを思い出して可笑しくなってしまい、思わずこぼれそうになった笑顔を見られないためだった。彼の気分のメーターは、これで完全に針を止めた。

 

 海中で息を潜めている潜水艦が、機関を始動させずにその場から離脱するには、潮に乗って流されるしかない。伊藤はそう読んで、部隊をその下流方向へ移動させながら探査を続けた。 

 最初に敵潜を感知した水偵隊が燃料切れで基地に引き返すと、それからしばらくして交代の水偵隊が、今度は二個編隊で飛んでくるのが見えた。

 おそらく第一陣の報告を受けて戦力を増強してきたのだろう。この編隊は佐伯航空隊の識別記号をつけておらず、佐世保空から訓練のために派遣されていた応援組らしかった。

 この編隊が、再び敵潜水艦を捕捉した。

 位置は数時間前に水偵隊が狼煙を上げた地点より、南南西に八キロほども移動していた。

「やはりこっちに来ていましたね」

「来たくなかったかもしれんがなあ」

 伊藤がそう言ったので、青柳はまた可笑しくなった。

 やがて、今度の編隊も発煙弾を投下して探知水面の所在を明らかにした。伊藤はその地点に部隊を移動させるように指示を出したが、その時であった。

「司令、敵大編隊、鹿屋上空、針路北、一六三〇」

 通信文を受け取った青柳の顔色が変わっている。しかし声は落ち着いていた。彼はそのあと「十分前です」と付け加えた。

 水上艦艇が最大の苦手とする、米機動部隊の艦載機に間違いなかった。その「大編隊」が「鹿児島県の鹿屋上空」を「北に向けて」飛んでいるという報告である。

 鹿屋からここまでは二百キロ足らずである。艦載機の巡航速度ならば四十分で到達できる。

「艦長、ひとまず東に距離をとろう」

 伊藤はとりあえず逃げることにした。どんなに勇気を奮い起こしても勝てる相手ではない。十日前の伊予灘では紫電隊の犠牲的な活躍で難を逃れたが、いつもそんな幸運がついてまわるとは限らない。四国陸岸に接近するコースをとれば敵からの距離は開くし、もし攻撃を受けて沈没するほどの損傷を受けたとしても、運がよければ海岸に乗り上げることもできる。

 四隻の海防艦は現場から避退を始めたが、上空の水偵隊はまだ頑張っている。

 敵の空襲部隊が戦闘機を伴わずに来襲することはまず考えられない。捕捉されれば水偵隊も全滅である。

 それでも彼らはぎりぎりまで粘るつもりのようだった。敵編隊が到達するまでに、潜水艦を発見して攻撃できればいいのだ。そう腹をくくったらしい。

 伊藤は彼らのほうを見て「無理をするなよ」と、これは声に出して言った。その声は艦橋にいた全員の耳に届いた。

 

 しばらくして悲劇が起こった。

 九州の東岸沿いに飛んできた米艦載機はおよそ七十機。その全機が、海上に標的を見つけて攻撃態勢をとった。戦闘詳報はその機種をF6Fと記録している。

 グラマンF6Fヘルキャットはコルセアと同クラスの艦上戦闘機で、六門の機関銃を備え、それとは別に爆弾やロケット弾も搭載可能だった。

 彼らの標的は、伊藤の部隊でも上空の水偵隊でもなかった。狙われたのは第一第二掃討隊の特設駆潜艇と駆潜特務艇十隻である。

 この部隊は、宮崎県の東岸の、やや陸地側の水域を哨戒区域として受け持っていたのだが、それがちょうど米軍機の進行路の真下にあたっていた。不運といえば不運だったが、おそらく彼らが狙われた理由はそんなことではない。

 ほとんど漁船並みのふねばかり十隻である。この時期にミッチャーが主目標として指定するほどの相手ではない。そこに編隊七十機の全力投入はどうみても多すぎる。

 編隊の指揮官は、まず洋上にたなびく狼煙を発見したに違いない。それはその海域に味方の潜水艦が潜航していて、日本軍の攻撃を受けていることを示していた。

 彼らにしてみれば友軍の潜水艦は大切なパートナーである。敵地空襲中に被弾して、海上に不時着水する羽目になっても、その付近の海中で待機している潜水艦が必ず救助に来てくれるという強い信頼関係が、彼らの間にはあった。

 この人命救助については、米海軍は徹底していた。ミッチャーはその点でパイロットたちに絶大な信頼を得ていた提督だったし、米潜水艦の中には、極めて危険な状況下にありながらも決死の覚悟で搭乗員の救助を断行し、英雄的な行動と賞賛されたものが少なくない。

 その勇敢な潜水艦が、西部の大平原で野蛮な先住民に襲撃された開拓民の幌馬車のように、海中で息を殺して耐えている。

 凶暴な襲撃者どもをやっつけるのは、空中の騎兵隊である彼らにとって、当然の責務であり正義だった。海上高くあがった狼煙は、そんな錯覚を彼らに与えてしまったのかもしれない。

 海面を見ると、今まさに、そこに向かって走っていく小癪な敵どもがいる。狼煙の東側には別の敵艦もいるようだが少し遠い。まずは全力を挙げて、その十隻ばかりの襲撃者を血祭りにあげろと、標的を定めたのであろう。

 

 標的とされた第一第二掃討隊は、水偵隊があげた狼煙を確認し、まだ結構な距離はあったが音響水測で探知可能な範囲だと判断し、その位置で艇を停めて水測を開始したところだった。 そこへ敵機が来襲したのである。彼らはただちに水測を中止し陸に向かって全速で駆けた。

 伊藤と同じ判断で最悪の場合でも陸に乗り上げるためである。しかし全速といっても、特設駆潜艇はもともとが大型漁船であり、最高速度は時速二十五キロがいいところである。米軍機から見れば、それは洋上に停まっているも同然に見えただろう。

 そこは伊藤のいる場所から三十キロほど離れていたため、彼は敵が攻撃態勢に入ったことは理解したが、その翼の下にある標的が味方の掃討隊であることは確認できなかった。

 地球は丸い。だから視界を遮るものがなくても一定の距離しか見通せず、視界の果てにある水平線の向こうで何が起こっているのかはわからない。丙型海防艦の場合、艦橋の床の高さは海面から七メートルほどしかなく、そこから見通せる距離はせいぜい十キロほどである。

「あんなところに、敵さんが爆撃するようなものはなかったはずだがなあ」

 伊藤は艦長と一緒に海図を広げてそう言った。艦長は首を捻ったが、伊藤は海図を見つめたまま何かを考えている。

「掃討隊の本隊がつかまったのかもしれん」

 息を呑んだ青柳が、それをゆっくり飲み込んで伊藤に何か言おうとした時、艦橋後方にいた見張り員が叫んだ。

「味方哨戒機、急降下します」

 水偵隊が動いた。

 磁気探知機装備の四機編隊が、それまでの横列編隊を左右に散開させて急上昇すると、その上空に占位していた後続機三機編隊が、降下爆撃態勢に入った。

 彼らは一機につき四発の小型爆弾を積んでいた。最初の三機編隊が投弾を終了すると、次の三機編隊がこれに続いた。計二十四発の爆弾が二回に分けて、一定のリズムで炸裂し、海面に水柱をあげた。

 もし、これを上空から見ることが出来たならば、それはずいぶん奇妙な光景だっただろう。同じ豊後水道のあちらとこちらで、米軍機は日本艦隊を、日本機は米潜水艦を、まるで互いに見せつけあうかのように攻め立てている。

 伊藤はそれをじっと直視していたが、一度時計を見てから言った。

「艦長、針路を戻そう。まず北、それから西」

「はい。ですが」

 青柳は説明を求めている。伊藤はそれを理解した。

「敵が来る心配はない。やられているのはたぶん本隊だ。彼らが敵を引きつけてくれている。気の毒だけどね」

 伊藤の言葉にならって第一第二掃討隊を本隊と呼ぼう。

 本隊がいる海面では、いくつもの火柱が続けて上がった。

 彼らは速度の出ないふねをそれでも必死に操って、攻撃を回避するために蛇行させながら、装備した対空機関銃で反撃を試みた。ところがこれが、高速で飛び回る飛行機にはそう簡単に中るものではない上に、小型の船体は大きく波に揺られ、狙いをつけるどころではなかった。

 ヘルキャットの編隊は対空機関銃のか細い火箭を苦もなくよけながら、その数十倍の弾丸を撃ちこむことができた。

 爆発を起こすふねも出た。戦闘終了後に書かれた報告書に小型爆弾命中という被害の記載があるが、爆弾にしては被弾箇所の損壊がやや小さいようである。ロケット弾であった可能性も高い。

 最初に被弾したのは新港丸という特設駆潜艇であった。積載していた爆雷が被弾して火災を生じ黒煙をあげた。この爆雷は点火装置を外していたので爆発には至らず、とりあえずは火災だけですんだらしい。

 しかし続いて被弾した二水丸ではこの爆雷が爆発、艇長以下二十一名が死傷し、艇は猛火に包まれる。さらに麻豆《まとう》丸は燃料タンクに被弾、爆発を起こして大火災を生じ、まもなく沈んだ。

 なぶり殺しであった。攻撃を免れたふねは一隻もなかった。

 これらの特設駆潜艇は、現在の日本水産などの民間会社から徴用されたふねで、もともとは底曳き網漁船や、捕鯨のキャッチャーボートである。

 防御装甲を持たないので撃たれ弱くはあるが、その代わり、軍艦のように重い兵器を積んでいないおかげで予備浮力が大きい。だから船体自体は簡単には沈まない。

 だが、それがかえって敵機のパイロットの怒りを増幅させ「これでもか」という反復攻撃を呼び込むことになった。機銃掃射が、生身の乗組員たちの上に繰り返して浴びせられた。

 被弾炎上するふねが上空に噴き上げた黒煙は、伊藤たちからも確認できた。

 伊藤はあらためて、艦隊針路を北から西、つまり水偵隊の爆撃水面に向けるよう指示した。その先にはすでに数条の黒煙が上がっている。

 

「司令、まだ敵は攻撃を続行中です」

 青柳が、反論でも質問でもない、というふうな、平坦な語調で声をかけた。彼が言うとおり敵機の編隊は、この時まだ急降下と銃撃を繰り返していた。そこへ向かっていくのか、という反論と質問の両方が、その言葉の調子とは裏腹な彼の本音だった。

「そうだよ、続行中だから、もうすぐ燃料がなくなるんだ」

 敵機はここまで来られない。

 最初からこちらに向かって来ていれば、我々を袋叩きにするのに十分な燃料があったはず。ところが彼らは、最も手近にいた本隊に手を出してしまったために、そこで全力運転を行って燃料を消費してしまっている。戦闘速度で飛ぶと燃費は一気に悪くなるのだ。

「今からこちらへ来ようと思えば来られるが、来るだけで燃料は精一杯だと思うよ。反復して銃撃を加えるほどの余裕はない。それは無駄な散歩だ」

 だから、彼らは来ない。伊藤はそれらのことを、いちいち数字を出して艦長に教えた。

 それにしてもむごい。

 たとえば塀の向こうで虎が人を食っているのだが、その虎が絶対に自分には飛びかかれないのが分かっている。しかし自分にはその犠牲者を助ける術もない。それと同じだ。

「たった三万メートルなんだがなあ」

 その三万メートルが青柳にはぴんとこない。戦場の間合いというものは、白刃の下をくぐり抜けてきた体験によってしか体得できないものなのかもしれない。

「しかし我々が接近すれば、敵は無理をしてもこちらに矛先を向けるのではありませんか」

「それはそれで本隊を助けることになる。我々が敵の攻撃を引き受ければ、とどめを刺される前に離脱できるふねもあるだろう」

 青柳ははっとした。そうだ。撃たれているのは味方なのだ。

「了解しました。余計なことをお尋ねして申し訳ありません」

「かまわんよ、これも訓練だ。じゃあ行こうか」

 青柳は艦橋に立ち胸を張った。それから北北西に向かう針路三三〇を指示した。

 

 第三特別掃討隊はそれからしばらくして針路を真西にとると、水偵隊が爆撃を加えた水域に全速で向かった。その間に敵機は編隊を組み引き上げを開始した。伊藤の予想通りである。

 この編隊が帰ってしまえば第二次攻撃の心配はない。  

 今から来たとしたら、その編隊が母艦に帰り着くのは日没後になる。艦載機でも夜間飛行が出来ないわけではないが、暗闇の洋上で空母の狭い甲板に降りるのは、熟練操縦員であっても至難の技なのだ。彼らにしてみれば、我々はそれほどの危険を冒してまで攻撃したい相手ではないだろう。

 艦隊が目標海面に到達すると、今度はすぐに敵潜水艦を捕捉した。

 敵はまだ、そこにいた。伊藤は爆雷戦の用意を命じると、青柳と一緒に艦橋のうしろの露天デッキに出た。

「ずいぶんあっさりと見つかりましたね」

「あれだよ」

 伊藤は本隊が残した黒煙を目で示した。

「こちらの駆潜艇がやられているのを聴いていて、友軍の艦載機が来たのを知ったんだ」

「それだけのことで安心して浮上をかけるとは、敵も少し軽率ではありませんか」

「いやいや、そうじゃない」

 潜水艦には搭乗員の救助という重要な任務がある。

 海上の敵を友軍機が攻撃しているのであれば爆雷攻撃を受ける心配はほとんどない。そしてその攻撃終了後にはすぐに出番が回ってくる。

 そのとき潜水艦は救助すべき不時着機の有無を確認するために、潜望鏡を上げるか、無線を受信するためのアンテナを上げるか、いずれにせよ浅海面まで浮上しなければならない。

 浮上すれば発見される危険は確かに大きい。しかしこの潜水艦はそれをやった。

「敵ながら天晴れな奴だよ」

「しかし我々の接近には気づかなかったんでしょうか」

「まず友軍の水偵が爆撃をしただろう。そのあとはむこうで敵機が派手に海面を撃ちまくっていたね。爆発もあった。あれだけ音をたてられては、俺たちの足音なぞ聴こえるわけがない。敵機が去って静かになったころ、やっと気づいたというところだろう。しかし遅かった」

「では」

 青柳は一息のあいだ考えを巡らせて、それからまた聞いた。

「我々が敵機の引き上げるのを待って、つまり海上が静かになるのを待って接近していたら、逃げられていた、ということに」

「そういうことだね。運が良かったね」

(本当に運だろうか。それとも計算づくで敵の攻撃さえ利用したのか、このひとは)

 青柳はそれを伊藤に聞きたかったが、すでに敵の推測位置の目前である。もう話をしている暇はない。

「攻撃を開始します」

 伊藤は短く「うん」と答えて時計を見た。午後五時四十三分。まもなく日没を迎える。

 爆雷攻撃の艦隊陣形は横陣である。四隻が横一列になって進みながら左右に爆雷を投射し、真後ろに向かってはレールを使って投下する。

 一斉攻撃である。爆雷が水中で爆発しているあいだは、音によって敵の存在を捉えるための音響水測兵器はまったく役に立たない。したがって常に敵を捕捉したまま攻撃を反復するのは不可能なのである。そこで、このあたりだといったん狙いをつけたら、その周りの広い範囲に一気に多量の爆雷を叩き込むという攻め方をする。

 この第一回目の一斉攻撃で、伊藤が乗った五十九号海防艦では二十七発の爆雷を投射したという記録が残っている。部隊全体ではおそらく百発を超えていただろう。しかし攻撃の効果は不明であった。

 午後六時五分には、男鹿から魚雷攻撃を受けたという報告が入った。記録には「雷跡二」と残されているだけで男鹿に被害はない。もしこれが男鹿の誤認でなければ、敵潜水艦は海中にまだ健在だということになる。

 

 このとき海上護衛総司令部の第一護衛艦隊から派遣された二隻の海防艦が、この爆雷攻撃に加わっていたという記述がほかの文献に存在する。

 この二隻は「御蔵」と第三十三号海防艦である。しかしこれには少し無理がある。

 第三十三号海防艦は午後四時四十五分に敵機発見の報告を行っており、その時の艦の位置を宮崎県都井岬の北東、野生の猿の島として有名な幸島《さちしま》の、東六キロの地点と伝えている。この敵編隊が、前述の掃蕩隊本隊を襲った艦載機群であったことは疑いない。

 三十三号海防艦は、続いて十五分後の午後五時ちょうどに次のような報告を送る。

「漂流者多数がいるが、我が艦は敵潜捜索中なので、至急救助艇を派遣してほしい」

 同艦の報告だけではこの漂流者が何者なのかはわからないが、同行していた御蔵の乗組員であると考えるのが自然であろう。

 このふたつの報告電を発信したのが三十三号であるという点が、その根拠となる。

 それまでこの二隻の部隊からの報告電は、御蔵の艦長の名で発信されていた。これは御蔵の艦長が先任で指揮権を有していたことを意味しているが、それにもかかわらず、ここで御蔵が沈黙している理由は、同艦に何らかの事故が起こったからだとしか考えられない。

 いずれにせよ三十三号海防艦はこの報告を最後に消息を絶った。御蔵もまた帰らなかった。両艦を攻撃したのは艦載機であるとも、潜水艦「スレッドフィン」だとも伝えられているが、事実は不明のままである。

 さて、このとき三十三号海防艦が報告した同艦の位置は、伊藤の部隊が爆雷攻撃を開始した地点からおよそ一〇〇キロ離れている。海防艦の脚では全速でも三時間はかかる距離である。 

 したがって、五時ちょうどに幸島の沖で戦闘中だった三十三号が、五時四十三分に始まった伊藤部隊の爆雷攻撃に参加することは不可能だったことになる。正直に書くならば、おそらくその時刻には、すでに御蔵と三十三号の姿は海上になかったはずである。

 

 男鹿から「雷跡二」との報告が届いた直後、部隊は再び敵潜を補足して二度目の爆雷攻撃を行ったが、結局、敵潜水艦への有効弾は確認できていない。

 伊藤はそれから深夜に至るまで、その海域周辺に留まって索敵を継続し、目標艦の再発見と戦果の確認に努めたが、音響水測装置には、それきり何の反応もなかった。

 大和が出ていく以上、翌朝は必ず敵機が来ると確信していた伊藤は、そのあと部隊を四国の宿毛湾に向かわせた。

 やるだけのことはやった。乗組員たちを休ませておいたほうがいい。そう考えたのであろう。四隻の海防艦が宿毛湾福浦に錨を入れたのは、翌二十九日の午前一時である。

 伊藤はただちに各艦長を招集して戦闘経過の報告を聴き、いくつか指示を与えて彼らを帰艦させたあと、指導官の朝倉少佐に、司令部に報告する電文を起草するよう命じた。

 朝倉が電文のメモを持ってくると、伊藤はそれを二度読み、それから目線で鉛筆を求めて、「すまんな」とひとこと断ってから、修正の筆を入れた。

 原文には攻撃開始に至る経緯を述べたあと、爆雷攻撃の「効果アリト認ム」とあったのだが伊藤はそこに線を入れるでもなく、脇に「効果不明」と書いた。

 目標を確実に捕捉した上で、新型海防艦が誇る爆雷一斉投射を行ったのだから、間違いなく何らかの損害を敵に与えているはずだった。「効果ありと判断する」くらいの報告は、決して誇大な戦果報告とは言われないだろう。「効果不明」はいささか遠慮に過ぎるかもしれない。

 戦果報告は慎重に、という方針かと朝倉は思ったが、伊藤は別のことを言った。

「犠牲も出ているしね」

 仮に敵潜水艦を撃破しているとしても、その戦果は友軍の大きな犠牲の上に成立している。第三特別掃蕩隊からは一人の怪我人さえ出なかったが、結果的に、敵をひきつける囮のような役回りになった本隊では何人死んだことか。それを思えば、自分の部隊だけが功を誇る気にはなれなかった。

「わかりました。ただちに打電します。指揮官も早くお休みください」

 そう言って敬礼をした朝倉には、八の字を描く伊藤の眉が、この時には悲しみに沈んだ形にしか見えなかった。

 

 樋口はこのとき二番艦に乗艦していた。艦名ははっきりしない。

 彼は知らなかったが、海戦翌日の早朝、夜明けにはまだかなり時間があるころ、佐伯基地でもっとも早く伊藤部隊の戦果を確認していたのが、例の、日系二世の通訳士だった。

 彼らは毎朝、敵潜水艦が相互に連絡を取り合う無線の傍受にあたっていたのである。

 この当時、豊後水道とその外縁に展開していた米潜水艦は十隻を下らないが、彼らは数隻のチームごとに行動しており、定期的に無線連絡をとって健在を確認しあっていた。

 無線交信を行うためにはアンテナを海上に露出させなければならないから、日本軍の哨戒にひっかからないよう、定時連絡は必ず夜間に行われる。樋口によれば、交信は暗号を使わない平文で行われていたという。つまり、なまの英語である。

 その通信を傍受した結果、この朝に限って僚艦の呼びかけに応答しない潜水艦が、二隻存在することが確認されたのである。

 報告を受けた呉防戦の朝廣中佐は問い直した。報告は応答しない敵潜がいるということだけだったので、こういう言い方になった。

「ホウ、やったかな」

「通信機の故障ということも考えられますが、それにしても二隻同時とは変だと思います」

「ふむ、傍受だけではそこまでしか分からんか」

「いえ、そこで、敵の調子なんですが」

「調子?」

「言葉の調子です。呼び出しの回数が多いだけで調子は冷静です。ただ」

「うん」

「冷静すぎる気がします。彼らが良く頭に付けるグッモーニンが、今朝はありません」

「それはグッドモーニングのことかい」

「はい」

「なるほどな、敵さんには良い朝ではないということか」

 朝廣はこの会話をそのまま清田に伝えた。清田は哨戒機による調査を命じた。

 

 実際にはこの海戦で沈没した米潜水艦は一隻だったが、夜明けを待って飛び立った哨戒機によって、その戦果は決定的なものとなった。

 第三特別掃蕩隊が爆雷攻撃を実施した海域で、水面に大量の油が帯になって浮いているのを零式水偵が確認したのである。

 第四章でも書いているが、海中の潜水艦の撃沈を直接視認することはできないから、撃沈の判定は、破壊された艦体から流失した油、木製の器物、あるいは乗組員の死体などが浮揚して漂流しているのを確認されることで下される。

 油は水より比重が軽いから海面に浮くのだが、たとえばコップ一杯の油であっても、海面に広がる油膜は三十メートルほどの長さになるという。

 このときの哨戒機の報告には「長サ五浬、幅一浬ノ濃油帯」を発見したとあり、メートルに直せば、その油の範囲はおおむね長さ九キロ以上、幅およそ二キロということになる。しかも濃ということは、それだけ大量の油が流出したことを意味していたので、呉防備戦隊司令部はこれをもって敵潜水艦撃沈と確定した。

「司令官、おめでとうございます」

 朝廣中佐が、あらためて清田に祝いを述べた。確かにこの戦果は呉防備戦隊が挙げたものに違いはなかった。しかし清田は首を振って、むしろそれより嬉しそうにこう言った。

「伊藤君のお手柄だよ。それと西岡サンのおかげだ。私は助けられたほうだよ」

 

 戦後に判明したことだが、この米潜水艦の名は「トリガー」といった。

 トリガーがこの物語に登場するのはこれで二度目である。

 この時点から一年前の昭和十九年四月、清田が第二護衛船団司令官として、東松四号船団を率いてサイパンへの輸送任務にあたった時、この船団を襲った潜水艦の中の一隻が、まさしくこのトリガーだった。

 清田は爆雷攻撃によってトリガーに大打撃を与えたが、ついに撃沈には至らず取り逃がしてしまう。彼の任務は船団の護衛であって潜水艦の撃沈ではなかった。手負いの敵に止めを刺すことにこだわって、その海域に留まるわけにはいかなかった。

 トリガーはそのあと四日間、戦闘行動を停止し、昼は海中に潜み、夜は浮上して応急修理を完了させ、戦線に復帰している。以上のことはすでに第四章で書いた。

 映画やドラマではない。だから宿敵などという言葉を軽はずみに使いたくはないが、清田とトリガーには、そういう因縁があった。もちろんこの時の清田も、伊藤も、そして豊後水道の水底深くに沈んだトリガーの乗組員たちも、この運命的な邂逅を知ってはいない。

 因縁ついでに余談を書けば、同じく第四章で紹介した映画「深く静かに潜航せよ」の中で、豊後水道を魔の海域と表現した、原作者エドワード・L・ビーチは、トリガーが清田の艦隊と戦った時、副長として同艦に乗り組んでいた人物である。

 

 清田には伊藤の戦果を手放しで喜ぶわけにはいかなかった。掃蕩本隊の詳細な被害報告がすでに届けられていたからである。

 沈没したもの二隻、沿岸の浅瀬に乗り上げて航行不能三隻、戦死および行方不明四十九名、重傷二十九名、軽傷十九名。筆者の推計だが兵員の死傷率四割である。生還した残りの五隻もそれぞれに大きな傷を負っていた。

 掃蕩隊の帰還後に書かれた戦闘詳報には、撃沈された二水丸の乗組員が述べたと思われる、同艇の被害の模様がくわしく記載されている。専門用語や海軍独特の言い回しを分かりやすく書き直すが、筆者の創作表現は加えずに、これを転載してみたい。

 最初に戦闘開始の時刻と位置が述べられる。

 

 二十八日一七一〇、深島の一一〇度十一浬において作戦中、対空戦闘開始。初弾により一番二番機関銃員が倒れ、爆雷が爆発、忽《たちま》ち上甲板兵員室と艦橋が猛火に包まれ、指揮官艇長以下多数が、戦死ならびに行方不明の惨状を呈した。

 この時、一番二番機銃員の、今上等水兵、池野上等水兵、青山上等水兵は、最後の力を奮い憤激の機銃射撃を敵機に浴びせること数十発。のち昏倒した。

 艇は陸岸に向かって航走。生き残った五名は上甲板で消火作業に従事中、第二撃によって、海中に投げ出された。しばらくして艇が停止したので、五名は艇に泳ぎ着き、再び防火作業を開始、機械室に移ろうとしていた火災を食い止めた。

 天野機関長は黒煙の機関室に突入、機関を応急処置の上、再始動後ふたたび上甲板に上がり応急操舵にて防火作業を続行しつつ陸岸に近づいたが、火勢は衰えず、浸水が増加したために二十九日〇四三〇ごろ艇を脱出した。続いて〇七三〇、艇は蒲江《かまえ》港の入り口で沈没した。

 

 同戦闘詳報によれば二水丸の戦死者はゼロである。その代わり未帰還者が艇長以下十六名。全員が行方不明だった。加えて重軽傷者が四名いる。報告文の中にある「生き残り五名」は、おそらくこの四名を含む人々だろう。

 米軍機が引き上げたのは二十八日の午後五時三十分ごろである。

 生き残った五名は、それからおよそ十一時間をかけて二十五キロほどを走り、現在の佐伯市蒲江の湾口までたどり着いたことになる。

 子供が歩くような速度である。エンジンもたびたび止まったのだろう。彼らの戦いは敵機が去ったあともずっと続いていたのである。

 その間、船上の火災は鎮まらず、五人は消火作業と、エンジンの修理と、浸水の防止作業、そしてお互いの手当てなどを、おそらく血みどろの甲板上や船底で続けていたに違いない。

 

 この無名の海戦のきっかけとなった大和の佐世保回航はすでに延期されていた。大和部隊、すなわち第一遊撃部隊の指揮官、伊藤整一中将の判断による措置である。

 掃蕩隊が襲撃された事実から見ても、敵の機動部隊が九州の南方洋上まで進出しているのは明らかであった。

 佐世保回航は連合艦隊司令部の命令だったが、この時点での出撃は自殺行為であると考えた伊藤中将は、独自の判断で出撃を延期することを連合艦隊司令部に通達した。

 中止ではなく延期である。彼の職権で許される、ぎりぎりの措置であった。

 しかし、連合艦隊司令部は、このわずか一週間後に、伊藤中将に対して沖縄への特攻出撃を命令する。

 大和の特攻を教唆したのは、軍令部総長及川古志郎であると伝えられているが、誰が企画し誰が決定したにせよ、上級司令部は血迷っていたとしか思えない。

 もっとも、命令そのものは特攻ではなかった。沖縄沖に突入して米艦隊を撃滅せよという、いかにも勇ましい命令だった。しかし、それが現実には絶対に不可能であることを、命令するほうも、されたほうも承知していた。

 第一遊撃部隊の出撃は四月六日の夕刻であった。

 呉防備戦隊は前回と同様に、航空機と対潜艦艇による針路哨戒を行った。対潜訓練隊からは二隻の海防艦が出撃したが、西岡や伊藤はこの直接指揮を執っていない。

 呉防戦ではこの掃討戦でも潜水艦一隻の撃沈を確認したが、米海軍の記録には、当日に該当海域で沈没した潜水艦が見当たらない。

 司令部は、この時も流出した油を発見して撃沈と判定したのだが、記録によるとその油帯がかなり小振りである。米潜水艦が意図的に燃料を流して沈没を装い、死んだふりをして攻撃を免れるのは珍しいことではなかったから、あるいはそういうケースかもしれない。

 第一遊撃部隊は翌日夜明けごろ太平洋に出たが、待ち構えていたミッチャーは、延べ千機におよぶ艦載機を発進させてこれに襲いかかった。

 ミッチャー機動部隊が所属する第五艦隊の司令長官、レインモンド・A・スプルアンスは、大和を航空機ではなく戦艦で迎え撃ちたいと望んでいたらしい。しかし指揮下のミッチャーが攻撃準備を完了して「誰がやるのか」と聞いてきた時、沈着冷静をもって知られたこの提督は「きみが《 》やれ《ヽヽ》」

 そう答えて自身の望みを封印したと伝えられている。

 午後二時二十三分、大和は大爆発を起こし、やがて沈んだ。

 伊藤中将以下、艦隊全体で三千七百余の命が、そこでまた失われた。彼らの名、彼らが死に臨んで遺した言葉、それらはこの国があるかぎり語り継がれていくだろう。

 しかし、それに先立つ三月二十八日、その日、大和の幻の出撃のために戦って死んでいった若者たちの名は、今も歴史の波間に沈んだままである。

 

 大和の最期から二日。

 四月九日の昼過ぎ、佐伯の対潜訓練隊から四隻の海防艦が出港していった。

 いつものような対潜訓練ではない。彼らはその訓練海域を日本海に移すために、京都の北の舞鶴軍港へ向かうのである。このとき残留した各艦も、いずれ日を置かずして出てゆくことになっていた。

 ミッチャー艦隊による空襲が原因であった。

 佐伯は米機動部隊の空襲を受けたのである。それは、佐伯がすでに安全な港ではなくなったことを意味していた。実戦部隊ならまだしも訓練部隊を置いてはおけなかった。

 それに加えて彼らの主な訓練海域であった瀬戸内海西部の伊予灘には、B29によって多数の機雷がばらまかれていた。これを嫌って豊後水道中央部まで下りていけば、そこは敵潜水艦の伏在海域である。訓練する場所はどこにもなかった。

 本格的な移動の第一陣となったこの日の出動艦は次の通りである。

 一番艦 海防艦七十一号、西岡少将乗艦。

 二番艦 海防艦一二四号、樋口中尉乗艦。

 三番艦 海防艦一九〇号 伊藤大佐乗艦。

 四番艦 海防艦一九二号。

 ところが航海中、四番艦で機関長が盲腸炎を発症するという椿事が起き、同艦だけは佐伯に帰港することになった。残った三隻は、その夜を国東半島姫島沖で仮泊して過ごし、翌十日、関門海峡に向かった。

 関門海峡は古来難所と言われた水道である。幅は狭く潮が早い。しかも米軍はここに大量の機雷をばら撒いている。そこはすでに難所どころではなくなっていた。

 機雷は掃海することで除去できる。ただしそれは命がけの作業であり時間もかかる。それをなんとかやり終えたころ再びB29が飛んできて新たな機雷を投下し、それまでの苦労をわずか数分で無に帰すのである。

 イタチごっこと呼べるほど呑気な状況ではない。

 古代ローマの残酷な刑罰のひとつに、囚人に穴を掘らせ、掘れたらすぐに埋めさせる、このしごく単純な作業を毎日繰り返させるというものがあった。一見楽な作業のようにも思えるが、この刑に服したものは例外なく発狂すると言われている。

 どれほど肉体的な苦痛を伴う作業でも、そこに何物かの完成という目的の達成があるなら、人間の精神はその苦痛にも耐えられるが、到達点のない穴掘り穴埋めが囚人に与えるものは、ただ絶望でしかないということであろう。

 大げさではなく、日本各地で機雷処分にあたっていた掃海部隊が直面した現実は、ローマの囚人のそれと、さほど変わらないと言っていいほどの絶望的な状況にあった。

 しかし彼らは絶望しなかった。到達点は見えなかったが、意義だけはあった。

 彼らは漁船同然の特設掃海艇に乗り、機雷が沈む海の上を一日中走りまわって、時に犠牲を出しながらも、閉ざされた海峡に、か細くとも一本の道を拓いていった。

 西岡が指揮する三隻の海防艦は、今そういう水路に入っていこうとしている。

 

 三隻は単従陣を組んでいる。

 これは全艦が縦一列になって進む陣形である。先頭を走るのは西岡が乗る旗艦七十一号で、このうしろに数百メートルの間隔をとって二番艦、三番艦と続く。

 一応は掃海された水路とはいえ、敵の機雷が敷設された海の上である。触雷の危険は先頭を走るふねに最も高い。二番艦以下は先行艦の航路をそのまま辿る。

 二番艦の艦橋では、先行の一番艦が時おり送ってくる発光信号に注意を払っていた。どこで面舵いくらに変針するなどといった、細かい指示が出るのである。

 ところが海峡の半ばまでさしかかったとき、それまでとは違う種類の信号が送られてきて、光の点滅を読み取る任務の見張り員は何事かと訝しんだ。

「ヒグチチュウイハシキュウイチバンカンニキタレ」

 来いと言われた樋口自身が(何を言ってる)と、腹こそ立てないが、どうにも釈然とせずに首をかしげた。

(妙なことを言う。こんな潮の早い場所で停船するわけにもいかんじゃないか)

 樋口は艦長の傍に寄って「旗艦に発光信号を許可願います」と言った。

 今度は二番艦一二四号から、先行する一番艦に向けて信号が送られた。

「カイキョウツウカゴデハイカガ」

 それに対して返ってきた答えは、やはり、ただちに移乗せよである。理由は言わない。

 樋口は仕方なく艦に搭載している内火艇で駆けつけることにした。しかしこの程度のことで艦を停めてくれとも言えず、作業は航行中のままで行うしかなかった。

 内火艇はダビットという装置で吊下げておろす。樋口は初めからこの内火艇に乗り込んで、一緒に降ろしてもらう。海防艦の船べりの高さは二メートルほどしかないから、降りることは別にどうということもなかった。

 ところが海防艦が搭載している小型の内火艇の速度はてんで遅い上に、海が荒れていて波が高いため、その小さな艇体が波頭の頂上にのるとスクリューが空回りして先に進まない。

 ようやく一番艦に接舷してからが、またひと苦労である。内火艇は母艦に戻るので、樋口は身ひとつで乗り移らなければならない。

 樋口は立ち上がって縄梯子をつかもうとするのだが、足元が大きく揺れているのでなかなか上手くいかない。ようやくターザン映画の俳優のようにそれに飛びつくと、全身に波しぶきをかぶりながら、やっとの思いで舷側をよじ登った。

 そんなこんなで、樋口がようやく旗艦の甲板に立ったころには、艦列はすでに面舵をとって海峡出口に向けて北進していた。彼が西岡の前に立ったのが午後三時四十五分である。

(よほど緊急の用でもなければ、文句のひとつも言ってやりたいところだ)

 などと腹の中で思いながら、樋口は西岡に到着を申告した。

「樋口中尉、参りました」

 西岡はその声に振り向き、ただ「ご苦労」と言った。ところがそのあとは何も言わず、艦の進行方向に向き直って黙っている。

(なんだ、このおやじは)

 樋口はまだ濡れた顔を拭いてもいないのである。 

「司令、御用はなんでしょう」

「いや、別にない」

「はあ」

 一体どういうことだと樋口が考えをめぐらせはじめた、その時であった。

 後方で轟音が響いた。

 艦橋にいた全員がそちらに全神経を向けた。それは誰の耳にも爆発音に聞こえた。何人かが艦橋後方の見張りデッキに向かって走った。樋口だけは迂闊なことに思考を別の方向に向けていたため、反応がほんの数秒遅れたようである。それでもうしろを振り向いたときには、彼がさっきまで乗っていた一二四号が機雷にやられたのだと、すでに理解していた。

 非情なようだがこんな時でもこの男は落ち着いている。

 戦場なのだ。味方がやられるたびに、怒り、嘆き、逆上していたのではいくさにならない。しかし続いて聞こえてきた見張り員からの報告には、さすがに肝を冷やした。

「二番艦被雷、艦橋下ッ」

(艦橋だと?)

 続航していた一二四号は薄く煙を上げ、傾いてはいないが船脚は完全に停止していた。

「二番艦から信号ありませんッ」

 それは一二四号の艦橋にいたほとんどの者が何らかの被害を蒙り、艦の中枢が一時的にせよ機能不全に陥ったことを示している。樋口は背筋がブルと震えるのを自覚したが、まだ司令と向き合っているという意識もあって平静を装った。

 樋口の背筋が冷たさに震えたのは、ひとつ間違えば自分もやられていたという恐怖からではなかった。

 そうではない。事実はむしろ、ひとつ間違えたほうなのだ。何かの間違いで俺は旗艦に移ることになった。そのおかげで無事なのだ。

 樋口のふるえは、その合理では説明できない何かを感じたことによるものらしかった。彼の面前には、その運命を演出した西岡がいた。

「三番艦に信号。直ちに救助作業を開始せよ。ああ復唱は要らん」

 西岡は通信兵にそう命令すると、ようやくしっかりと正面から樋口を見て

「別に用はないんだ。なに、ちょっと貴様の顔が見たくなってな」

 そう言った。樋口には返事のしようがなかった。

 

 一二四号は沈没こそ免れたが機関が故障して航行不能となった。漂流するのを避けるためにその場で錨を入れさせ、後続の三番艦による曳航の準備が開始されつつある。

 時間の経過とともに被害状況が明らかになってくる。被雷箇所は艦橋の直下ではなく、やや後方の機関室付近だったらしい。機関長の池田伊藤次大尉ほか三名が戦死し、多数の負傷者が出ていた。

 艦橋にいた艦長松井大尉以下の艦橋要員はさしあたって健在だったから、もし西岡の命令がなく、樋口が艦橋に留まっていたとしても、彼を最悪の結果が襲うことはなかっただろう。

 しかし樋口は、先ほど背中に感じた悪寒のようなものからしばらく解放されずにいた。

 彼が乗艦中のふねで戦死者が出たのはこれが初めてだった。

 一番艦と同じコースを辿ったのに、後から来た二番艦が被雷した事情は不明だが、おそらくこれは回数機雷によるものだと考えられる。

 この機雷は初期の目標感知では爆発せず、数回は敵を見逃す。そうやって安心させておき、何度目かに初めて爆発するという実に厄介な代物だった。

 比喩が適当ではないかもしれないが、まるでロシアン・ルーレットである。無事に通過した一番艦と被雷した二番艦。この明暗を分けたものも、ただ運としか言いようがないだろう。

 樋口は自分の運を、確かに運命だと思った。

 生き残ったことを、幸運という意味での運命だと思ったわけではない。

 戦争である。死はいつも彼らの隣にあった。運命という言葉を使うなら、今日死んだ者は、今日死ぬ運命だったのであり、今日生き残った者は、明日死ぬ運命であるにすぎない。

 戦場で死ぬ者は、生き残る者のために死ぬ。ならば、生き残った者は、その明日までの命をどう使うか、肝を据えて考えねばならない。樋口はそこに運命を感じ、その運命に従うように、これ以降、米軍の機雷の研究に没頭することになる。

 彼は、目標を外して陸上に落ちた敵の機雷を、分解して調べるようなことまでやった。

 爆弾の不発弾とはわけが違う。それはいつ爆発するか分からない、生きた機雷なのである。機雷の中には磁気に反応する物もあるから、分解に鉄でできた工具を使う時は、さすがに死を覚悟した。

 水雷科を出ているわけでもない彼がそういうことに熱中するのは、周囲にはずいぶん奇異に見えたことだろう。西岡や伊藤はそれを諫止すべき立場にいたが、そうはしなかった。

 やがて、樋口が技術仕官の協力を得て完成させた被雷回避のためのマニュアルが、各部隊に配布されることになる。

 事情を知る者は、それを、一二四号の舟底で死んだ者たちへの、樋口のたむけなのだろうと語り合ったが、本人にそんな感傷はなかった。樋口自身はそれを業と呼んでいる。

 

 この部隊が出港する二日前にさかのぼる。佐伯の水交社では、舞鶴へ移動する対潜訓練隊のちょっとした送別会が催されていた。

「貴様とも、もう会えんかもしれんが、元気でな」

 清田はそう言って同期を見送った。伊藤の八の字眉はこの時も寂しそうであった。

「俺も、もう少し貴様と組んでやっていたかったがなあ。しかし、舞鶴では航空隊との共同もみっちり教え込んでおくからな。俺が鍛えた連中が佐伯に来たら、よろしく頼む」

「頼むのはこっちだ。どんどん鍛えて、じゃんじゃん送ってくれ」

 じゃんじゃんというわけにはいかなかった。

 西岡が指揮する対潜訓練隊は、いったんは舞鶴港に入ったが、ほどなく能登半島の七尾湾に移動を命じられた。さらにそこで訓練隊は解散となり、新たに実戦部隊として再編制される。 

 第五十一戦隊である。

 それは、南方資源地帯からの輸送路を断たれた日本が、唯一残った中国大陸への航路を守るための措置だった。西岡も伊藤も、そして樋口も、それ以降は名実共に実戦を指揮する将校として、日本海軍最後の戦いに臨むことになる。

 海防艦の主戦場は日本海に移った。このあと西岡や伊藤が鍛えた艦で、佐伯の清田のもとに配属されたものは、終戦までに三隻を数えるのみである。

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