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第9章   三男太郎

 幕末に坂本直柔《なおなり》というひとがいた。

 土佐の郷士の出身で、若いころ江戸に出て北辰一刀流を極めるが、まさにそのころ、江戸で黒船騒ぎが起る。

 直柔は、はじめ攘夷を志したが勝海舟の薫陶を受けて開国派に転じ、のちに日本最初の海運商社ともいえる海援隊を組織する。

 ここまで書けば十分であろう。直柔とは坂本龍馬である。

 龍馬の本名は、はじめ直陰《なおかげ》といい、のちに直柔といった。この本名を諱《いみな》と呼ぶ。

 これに対して龍馬は仮名である。けみょうと読む。武士は成人すると、諱と仮名のふたつを持つことになっていた。

 詳しく書こうとすると民俗学の範疇にまで踏み込まねばならず、これは避けて通るが、諱は忌み名に通じ、簡単に書くなら相手の本名を呼ぶことは無礼にあたるという考え方があって、その代わり、ふだん使用されるもうひとつの名が必要とされたのである。その、いわば通称が仮名ということになる。

 仮名の中でもっともわかりやすいのが、太郎次郎三郎というやつである。源九郎義経とか、葛西三郎清重、諏訪四郎武田勝頼あたりが有名である。

 太郎や次郎は男子の出生順につけられるのが一般的で、名前で何人目かが判るという便利な仮名だが、出生順というのは絶対厳守の決まり事でもなかったらしい。

 たとえば義経の場合も、本当は八男だったのだが、叔父の鎮西八郎為朝に遠慮をして九郎と名乗ったのだという記述が「義経記」にある。真偽はともかくとして、そのような融通も許される世の中だった、ということの証明にはなるだろう。

 茶屋四郎次郎などというややこしい名前もある。これでひとりぶんの名前である。

 しかもこの家では、家督相続者がこの名を世襲することになっていたから、二代目の長男も四郎次郎だったし、そのあとを継いだ長男の弟も四郎次郎である。一段とややこしい。

 ところで、その昔、家を継ぐのは長男というのが普通であった。ということは、太郎という名は長男としての意味だけではなく、家督相続者としての権威が含まれた名前でもあった。

 ところがここで、またややこしい問題がおきる。本家を長男太郎が継ぐのは分かった。では分家となった次男の次郎に生まれた最初の男の子は、どう呼べばいいのであろう。

 本家には長男太郎がいるし、その息子である次の太郎まで生まれている場合がある。太郎は本家を継ぐ権威ある名前であり、事実本家に太郎がいるのに、分家の子に太郎と名づけるのは憚られる。本家に対して失礼にあたる。

 そこで分家の長男には次郎太郎と名づける。次郎さんの長男という断りつきの太郎である。

 ところが今度は次郎太郎さんにも男子が生まれる。またややこしい。きりがない。

 そこで分家では、長男に○太郎という名を与えることになった。小太郎がそうであろうし、新たに一家を構えたのだから新太郎、早春に生まれたから梅太郎というわけである。

 この物語の主人公である文太郎も長男である。彼が生まれた明治の法律では、本名と仮名を両方持つことは認められていなかったから、文太郎は本名である。

 彼の家は守後浦山本家の本家だったから、文太郎は「太郎」だけでも良かったということになるのだが、文の一文字には、命名した人々の想いが何か込められていたのであろう。

 事実、彼の父の太十郎は息子に学問をさせた。とは言っても、尋常小学校四年生で経済上の理由から中退というほどの学歴ではあったが、それでも大入島のこの世代にとっては、かなり恵まれていたほうである。

 太十郎は本も与えた。本は、こんにちとは比較にならないほど高価な買いものであったが、これも今の言葉でいう教育投資だったのかもしれない。文の一文字に込められた祖父や父親の想いが、なんとはなしに窺えるような気もする。

 もう少し山本家の人々の名前にこだわってみたい。

 文太郎の父太十郎は入り婿であったから無論太郎ではないが、彼の名の、最初の文字が妙に引っかかる。もともと十郎であったのが、婿入りする際に、山本家の「長男」になるのだから太の一文字を加えたのだとしたら話としてはおもしろい。が、根拠がない。

 根拠はないのだが、次に書く太十郎の舅の市五郎ならば、婿殿にその程度の提案をしそうな気がするのである。

 太十郎の妻の父、つまり文太郎にとっての直系の祖父は市五郎といった。このひとは長男でないことだけは確かだが、五男であるという確証もない。守後浦山本家の、記録に残る最初の当主を山本喜八いい、彼については第一章でも書いたが早世している。男子がなかったために弟の市五郎が家を継いだ。

 市五郎は、三十年にわたって守後浦地区の区長と呼ばれる世話役を務めたひとで、守後浦はもとより、島のあちこちで何かと催されるイベントに顔を出さねばならない立場にあった。 

 冠婚葬祭、年中行事、公的行事など、招かれる度に羽織袴で正装して出かけて行く。それが一年の半分近く、ほとんど一日おきの頻繁さであったから、島の人びとは彼のことを、いつか「羽織袴の市五郎」と呼ぶようになったという。

 しかしこれでは、おそらく山本家の台所事情は火の車であったろう。こういう立場の人は、何かと物入りである。祝儀や香典や協賛金といったたぐいの出費がかさむからで、仮にそれが現金でなくとも同じことだ。

 逆に役得の収入があったかといえば、貧乏人ばかりの大入島では、何かの礼物や付け届けとしても、せいぜい鯛が届けられるほどのものだったはずである。

 気の毒なのは家族のほうで、当主が一日おきに羽織袴でいたのでは、野良での仕事はみんな女たちがやらねばならないことになる。

 しかし市五郎は、その付き合いの広さもあってか、なかなかに実務の知恵が鍛えられていたひとだったようである。

 たとえば開墾したわずかな土地に、ミカンを植えるかカボスを植えるか迷うとする。

 人びとはそれぞれの経験や知識をもとにあれこれ議論をするのだが、市五郎は、それならば両方の苗を一本おきに植えればよかろうと言う。

 そのどちらでも良い、より元気に育った苗のほうが、その土地や水に合う木だということがわかる。育ちの悪かった方は植え替えればよい。一年間をテスト期間とすることになるから、そのぶん本格的な収穫が一年先に伸びることになるが、それで先の確かな見通しがつくのなら結局得ではないかと裁く。

 これは合理的な考えのようにも見えるが、作物のことは土に聞けとでもいうような、或いは合理を超えた知恵と言えるかもしれない。

 そのように差配のうまい人だったから、家族の野良仕事についてもあれこれと細かく教え、実務以上の苦労をかけなかったようである。そのおかげで、あるいはそのせいで、区長の役を三十年も続けることになったのかもしれない。

 太十郎の名にしても、市五郎なら「当主の名が十郎では、婿養子ということがすぐばれて、婿殿も格好がつかんじゃろう」くらいのことは斟酌しそうな気もするのである。

 

 文太郎はふたりの男子を、桂佑、亮と命名した。

 大入島の「インテリ」らしく、彼は歴史上の人物からその名をいただいていたようである。

 桂佑の名は、谷村計介に由来する。

 計介は明治初期の軍人で、薩摩藩の郷士を父に持つが生まれは宮崎である。

 明治五年に陸軍入隊、西南戦争には政府軍側の下士官として熊本鎮台に所属し、西郷桐野が率いる薩摩の私学党軍と戦った。

 熊本城攻防戦の初期、政府軍が篭城した熊本城は外部との連絡を断たれて孤立する。

 数の上では圧倒的な劣勢だった。頼みの綱は福岡方面からの援軍だけだが、それがどこまで来ているのかも判らない。なんとか敵の厚い包囲を突破して援軍と連絡をとり、熊本城の窮状を伝える必要があった。

 しかし薩摩軍は、一部兵力で熊本城を包囲した上で、政府軍の援軍を迎え撃つために主力部隊を北上させつつある。つまり城と援軍とのあいだは敵ばかりだ。なんとか城を出られても、そこから味方の陣営に至るすべての道は敵に抑えられている。突破行は自殺行為であった。

 このとき鎮台司令官の谷干城《たてき》少将が、その極めて重要で、しかも決死的な連絡任務を託したのが谷村計介伍長である。

 伍長は最下級の兵隊たちの指揮官という程度の階級にすぎない。破格の抜擢と言っていい。

 計介自身もまだ若年だったが、熊本鎮台の参謀副長だった児玉源太郎が、この若者についてのちに語った言葉を借りれば、「いかにも口数の少ない沈着な男」であったらしい。

 児玉の友人である乃木希典も、前年の神風連の乱を鎮定した際にこの伍長を見知っており、彼もまた計介への信頼を篤くしていたという。 

 彼ら上級将校たちが、具体的に計介のどこを評価したかについてはよくわからないのだが、それは、彼が持っていた忍耐力の強さ、あるいはしぶとさとでもいう筋合いの資質だったのではないかと思えるふしがある。

 史料によると、計介は陸軍に志願する前、山鹿流軍学の私塾に二年間学んでいる。

 山鹿流は甲斐武田の甲州流軍学を源流とするが、山鹿素行がそれを独自に練り上げて一門をなしたのは江戸時代である。彼は幕府の官学であった朱子学を批判したため、大老保科正之の怒りを買い流刑を言い渡されるのだが、その流刑先が播州赤穂であった。この巡りあわせが、結果として、山鹿流を一躍世に知らしめることになる。

 私たちが知っている赤穂浪士のものがたりは、すでに物語として大幅な脚色がなされているものと考えるべきである。

 赤穂浪士と山鹿素行とのあいだに直接の関係はないという説もあって、有名なあの陣太鼓にしても、実は山鹿流兵法にその種の作法はない。それらのことを承知しつつ、次に書く内容について少し考えてみたい。

 忠臣蔵の泣かせどころのひとつは、赤穂浪士たちが、主君の仇討ちもできぬ臆病者卑怯者と世間に蔑まれながらも、吉良邸討入りの日までじっと隠忍自重し、大望を果たすまではどんな恥辱も耐え忍ぶ姿である。

 もとを正せば山鹿流は甲州流であり、その武田の風林火山は孫子の兵法であり、孫子はまた「兵は詭道《きどう》なり」とも教えている。

 要は「勝つためには敵を騙せ」ということだ。してみると、浪士たちの忍ぶ美談も、つまるところは敵を騙すための計略にすぎなかったということになる。

 しかしこれは、なによりも名誉を重んじ、そしてそれを完結させるために、散り際の潔さを美徳とする日本の武士にとっては、おそらくもっとも実行困難な一計であろう。

 西南の役は明治十年。人々の心に、まだ幕末の動乱が鮮やかに記憶されている時代である。

 日本陸軍の中堅将校たちは十年前まで武士であり、風雲に進んで命を投げ出した若者たちの生き残りであり、またはその子弟や後輩たちであった。

 幕末に斃《たお》れた先達は彼らの精神的支柱であり、その心の中には、理想や大義に殉じるという志士の美意識が根強く残っている。その美意識の前には、自身の生命の重さはないに等しい。このため「目的のためには恥辱をも忍んで生きる」ということが、実はなかなかできない。

 計介が上級将校たちに見込まれた資質とは、この男ならそれができる、という点であったのかもしれない。

 援軍への連絡を命じられた計介は農民に変装し、夜半単身で熊本城を出た。

 何度も寄せ手の誰何《すいか》や尋問を受けたが、そのたびに土下座をし、時には涙を流して憐れみを乞い、あくまでも何も知らぬ土百姓のふりをしてこれを切り抜け、二昼夜かけて援軍の本営に到達し大任を果たす。

 この決死的任務に計介を選んだ上級将校たちは、彼の、そのなんとも粘り強い目的完遂への執着心や、臆病愚鈍な百姓になりきって敵兵の泥足を舐めることさえも「これ、詭道なり」と甘んずることのできる、いわば兵法者としてのど根性を買ったのではないだろうか。

 遺された計介の写真を見るといかにも愚直そうな、巌のような顔立ちである。

 切れ長の目がどことなく新撰組の近藤勇に似ているような気もして、たしかに児玉源太郎が語ったとおり「いかにも口数の少ない沈着な男」に見えもする。いささかの華やかさも備えていないその顔が、むしろ若武者としての美しさを感じさせる、と書いてもいい。

 しかしその若者は、任務達成のわずか四日後、援軍の先兵となって田原坂で戦死する。

 援軍を率いていた野津鎮雄にしてみれば、この勇者を自分の指揮下で死なせては熊本の谷に申し訳が立たぬとも思ったであろう。大功を立てたのだから、いったん後方に下がらせ休息をとれと命ずることもできた。しかし計介は志願して最前線に出、そして死んだ。

 

 文太郎が谷村計介について知った来歴はわからないが、昭和の初めごろの、小学校における道徳教育の教材である修身教科書に、彼の決死行についての記述がある。

 このエピソードには「忠君愛国」という表題がついている。もちろんそれは編集者の意志があってのことなので文句をつける筋合いではないが、このお題に計介の事績を持ってくるのはいささかお門違いという気もする。少なくとも、文太郎がその長男に計介ゆかりの名をつけた真情は「忠君愛国」を祈念してでのことではなかった。

 もとより、文太郎が「皇室を敬い、国を愛する」という感覚に欠けていたわけではないが、それは、たとえば生きている限りは空気を吸うように、当たり前に彼の身についていた感覚であったし、多くの国民にも共通した、素直なナショナリズムであったと言っていい。

 ただし「忠君」については少し複雑で、この場合の忠君は天皇のために命を投げ出すという意味を含んでいる。これを盲信することは、当時であっても簡単ではない。

「血税」という言葉がある。

 こんにちでは国民が義務として納める税金をことさらにこう呼び、「庶民が血を絞るような思いで納めた税金」ほどの意味に使われているが、血税もずいぶんと安くなったものである。本来の意味はそんな生易しいものではない。血税とは兵役の義務のことである。

 明治になって国民皆兵の制度ができた時、政府がこれを布告した文章の中で初めて使われた言葉だが、この時の政府も、またとんでもないもの言いをしたものである。

 それでなくても重い税金に苦しんでいる農民を怒らせるのに十分な無神経さだった。彼らは「このうえ生き血まで取り立てるのか」と、全国で怨嗟の声を揚げた。

 忠君という理念は、その血税に崇高な意味を与えるためのものだった。日本軍兵士が戦死に際して「天皇陛下万歳」と叫んだゆえんである。

 しかし、こういったお仕着せの理念に自ら望んで従うほど、文太郎は観念論者ではなかった。制度として、世情として、それが国民の義務だとされていたから従ったまでであり、この男が、命を賭けて守るのが当たり前と心から思う対象は、祖国であり家族なのであって、天皇という偶像ではなかった。天皇と皇室は、あくまでも敬愛の対象であった。

 だからこそ忠君愛国の鑑だった楠木正行でさえ、文太郎にかかれば「母親の手伝いをせよ」というほどの教育材料にしかならないのであるが、同様に、谷村計介を忠君愛国の鑑として、そのように生き、そのように死ぬことを、この男が息子に願うわけがなかった。

 

 戦後のことになるが、桂佑と亮がそれぞれの仕事に就いたとき、文太郎はこう教えている。

「銭は泥まみれで稼ぐもんじゃ」

 書くまでもなく、これは犯罪や道にもとる手段で金儲けをすることを容認した言いようではないし、たとえ合法であっても詐欺まがいの商法で金を儲けることでもない。

 あくまでも自分自身を泥まみれにする。たとえば商いのための借金をするのに、それが必要ならば相手に土下座することも辞してはならないし、少々羽振りが良くなったからといって、格好をつけたり尊大ぶったりしてはいけない。これはそういう心構えである。

「仕事がうまくいけば、まわりはお前たちに頭を下げるようになる」とも言った。

「しかし考え違いをしてはいけない。彼らはお前に頭を下げているのではなく、お前の持った金に対して頭を下げているだけだ。卑しいと思うか。そうではない。それは尊い。なぜなら、その人々は自分を泥まみれにすることができているからだ」

「ところが、頭を下げられたほうには、それを取り違えて本当に自分自身が偉くなったのだと思ってしまう者がいる。その人間が次にすることは、自分の手柄や、手に入れた立場を大声で自慢することだ。そうしてその人間はそこで終わる」

 そういう意味のことを言った。

 では、そうならないために、人はどうあり続けるべきかと、結論につづく。

「死ぬまで泥まみれでおりゃあええ。そうすりゃあ道を間違えることはねえ」

 文太郎が孫子や山鹿流に詳しいはずはなく、忠臣蔵が好きだったという話も聞かない。

 だが、目的のためには呆れるほど見事に泥まみれとなって、しかも、その功を誇らなかった谷村計介を文太郎は好いた。桂佑はこうしてその名をもらった。

 

 次男の亮《あきら》の名は、三国志に登場する諸葛亮《しょかつりょう》からのいただきである。中国史上屈指の戦略家であり政治家で、小説である三国志演義の中では、主君の劉備《りゅうび》よりむしろ人気が高い。 

 劉備の前半生はそれこそ泥まみれであったと言える。仁徳に溢れた清廉な人物として世間に知られていたが、そのぶん世渡りベタでいつも損ばかりしていた。諸葛亮はそんなお人好しの劉備を補佐して政軍両面にその天才をいかんなく発揮し、ついにそのお人好しを蜀漢の帝位に昇らせる。

 諸葛亮は大功を立てたが終生臣下の分を守り、劉備亡き後はその遺児にも献身的に仕えた。この主従関係を二人の息子にこじつけるなら、やがて家長となる長男を劉備に擬し、次男には孔明を期待したということになるかもしれない。そういえば、これは偶然だとは思うのだが、諸葛亮孔明もまた次男であった。

 文太郎は、息子たちが戦争の時代を生きねばならないことを覚悟していた。桂佑が生まれる前年に満州事変が起こっているが、それを特に意識する必要もないぐらい、この時代の世界と日本にとっては、戦争は日常の近くにあった。

 文太郎自身は日清戦争の年に生まれた。彼は自身の出生から長男の誕生までのわずか四十年間に、日露戦争、世界大戦、満州事変と四つの戦争を体験した。彼にとって戦争は常に起こるものであり、人はその中で生きるものであり、男はそこで戦い、あるいは死ぬものであった。そういう大前提を、彼が生きた四十年が育てていた。

 彼は息子たちの誕生を喜ぶ心の裏側で、その子たちが「はたちで死ぬる」覚悟をしなければならなかった。谷村計介と諸葛亮が、ともに戦陣で斃れたという事実を、文太郎がどのように意識していたのかはわからない。しかし、その子らに生ある限りは託したい望みを、その名に祈念したのだということはおそらく間違いない。

 昭和二十年に戻ろう。その文太郎に、三人目の男子がもうすぐ生まれる。

 

 昭和二十年四月十二日。合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトが没した。

 病死である。本人にとっても、合衆国にとっても、勝利を目前にしての悲劇だった。

 このときドイツの総統ヒトラーは、ルーズベルトを歴史上最大の戦争犯罪人だと決め付け、声明を出してその死を祝ったが、日本政府の対応はそれと正反対だった。

 時の内閣総理大臣は鈴木貫太郎である。

 鈴木は全世界で受信可能な短波放送を使い、敵国の指導者の死を悼む声明を発表した。その主旨を要約すれば、この戦争で米国が優勢なのは同大統領が指導者として優秀だからであり、その偉大な指導者を失った米国民に哀悼の意を贈る、ということになるだろう。

 鈴木は日本海軍の古老で、日本海海戦には駆逐隊の司令として指揮を執った。首相としての彼がこの時とった措置には、往時、東郷平八郎が敵将ロジェストウエンスキーに対して見せたゆかしい情けに通ずるところも感じるが、東郷は完全勝利を収めた立場であり、鈴木の場合はその正反対にいた。 

 これを見て、負け戦の最中に何を考えておるのかと怒った者もいた。

 敵国人を鬼畜米英と呼ばせ、新聞に米国人《アメリカン》を米利犬《メリケン》などと書かせていた陸軍の上層部からは、当然のように強い抗議が寄せられたし、朝日新聞などは同大統領の死を「神罰」と表現したが、鈴木はこれらに取り合わなかった。

 筆者は鈴木が第一級の軍人であり、第一級の日本人だったと書いて憚らないが、このときの首相としての対応には、また別の思惑、と書いて言葉が卑しければ、希望が込められていたと考えていいだろう。

 鈴木の内閣は終戦工作内閣だった。彼が天皇や重臣たちから負託された責務はほかでもない、この戦争をできる限り速やかに、しかも国内の騒乱を伴わずに終結させることであった。

 鈴木は来るべき連合国との和平に備えて、日本が国際的な礼儀と常識をわきまえた、紳士的な国家であることを全世界に表明しなければならなかった。それでこそ対等な和平が、たとえ敗れるにしても国家としての尊厳を保った敗北が、勝利者の側からも認められるだろう。

 彼はすでに未来を見つめていた。

 井上成美が海軍兵学校の校長を務めていたころ、つまり井尻や竹崎たちが兵学校に在学中、鈴木は後輩の井上にこう語っている。

「兵学校教育の本当の成果が表れるのは二十年後だよ。いいかね、二十年後だ」

 二十年という。

 はたちで海兵を卒業した者の二十年後は四十歳である。それは確かに海軍士官として重きをなす年齢ではあるが、鈴木はそういう原理を言葉にしたのではないだろう。

 この戦争で日本に勝ち目はない、それは鈴木と井上に共通した認識だった。いずれ敗れるが、そのあとの国家の再建を見据え、その時のために今から若者を育てておかねばならない。この国が再び独立を手にして新国家建設に邁進するのは、おそらくそれほど先のことになるだろう。

 鈴木は井上にそう言いたかったのであろうし、井上もまたそのように受け取ったに違いない。

 現実の歴史では、日本が独立を回復したのは昭和二十七年である。鈴木の予言よりずいぶん早い。その講和独立のために身を砕いた内閣総理大臣吉田茂は、外務省官僚の時代から鈴木に私淑し、教えを受けていたと伝えられている。

 

 しかし、鈴木や井上に二十年後の希望を託されながら、終戦を待たずに死んでいった若者はあまりにも多かった。

 米軍の沖縄上陸を境に、日本は一気に坂道を転げ落ちようとしている。

 これが最後の反撃とばかりに、日本の特攻機は連日大挙して出撃していった。大和の出撃もまた特攻であった。フィリピン戦のころには、敗勢の濃い局面を打開するための非常の手段、とされていた体当たりが、このころには日常の戦術になっていた。

 戦争の結末が分かっている現在の日本人から見れば、それはまったく一方的な日本軍の自殺行為のように思えるかもしれないが、その攻撃を受ける米海軍にとってみれば、カミカゼとの戦いはまさに最後の死闘であった。

 特攻機が一機命中すれば、数十数百という命が吹き飛ぶのである。米海軍はあらゆる手段を講じてその脅威を排除しなければならなかった。ミッチャーが沖縄攻略に先立ち、日本本土の航空基地に空襲を仕掛けたのもこのためである。

 ミッチャーは一時的にカミカゼの脅威を封殺することに成功したが、それは持続性において弱かった。沖縄本島の地上戦が本格化するころには日本海軍も体勢を立て直し、米第五艦隊のカミカゼによる被害は連日のように発生していた。

 米海軍の太平洋方面司令長官チェスター・W・ニミッツ元帥は、沖縄戦に続く日本本土侵攻作戦に備えて、その司令部を、本拠地である真珠湾からグアム島に前進させていた。

 リゾート地として有名なこの島には現在でも米軍基地が存在するが、この当時は全島が対日戦争の最前線基地として機能していた。そこにはニミッツの司令部とは別に、米陸軍航空軍の第二十一爆撃集団の司令部があった。

 

 ここでも用語について断りを書いておきたい。米空軍についてである。

 現在のアメリカ合衆国空軍は、第二次世界大戦の終結後に設立されたものである。草創期の米軍の航空戦力は、陸軍と海軍にそれぞれ所属していた。両軍の主力は地上軍と艦隊であり、航空機はその支援戦力にすぎなかったからである。

 しかし航空機が戦争において有力な兵器として認識されるようになると、陸海軍両者のうち陸軍航空隊は、対日戦争が始まる半年前に、陸軍航空軍という名を与えられ、陸海軍と同格の独立組織となった。空軍の前身と言っていい。

 したがって物語の進行時点での組織名は、アメリカ合衆国陸軍航空軍が正しい。とはいえ、これは一般に馴染みのない名称であり、ややこしくもある。そこでこの物語では、同航空軍を空軍の名に統一して表記してきた。正確ではないが、この点の理解をお願いしておきたい。

 グアムに司令部を置く米空軍第二十一爆撃集団は、日本本土に対する戦略爆撃部隊である。

 司令官は空軍少将カーチス・E・ルメイ。

 この名ほど、当時を生きた日本人に複雑な感情を抱かせる名前も少ないだろう。その理由は特に述べないが、彼の事跡をたどれば誰にでも理解できると思う。

 ルメイは日本本土に対する無差別爆撃を提唱し、その実行に当たった人物である。無差別の三文字は、軍事施設と民間施設の区別なく攻撃を加えることを意味する。非戦闘員への攻撃は戦時国際法に抵触するが、この戦争でそれを完璧に遵守した国家は、筆者が学習したかぎりにおいては存在しない。

 ルメイを弁護はしない。しかしゲルニカや重慶、あるいはロンドンへの空襲が、戦略爆撃の実例を彼に示し、同時に「先にやったのは誰だ」と言い得る材料を与えたのは事実である。

 ニミッツは同じ島にいたルメイに海軍からの要望を伝えた。

「B29でカミカゼの基地を徹底的に叩いてほしい」

 ルメイはこの作戦にあまり乗り気ではなかったようである、彼は指揮下の全力を戦略爆撃に向けたかった。敵の基地を叩くより、都市を焼きたかった。しかし米国統合作戦本部からは、一時的に海軍の指揮を受けるようにとの指令が届いており、ニミッツの要請を受諾した。

 

 四月二十六日。佐伯市の上空は全天厚い雲に覆われていて、人々はそれを通して響いてくる飛行機の爆音を不安そうに見上げていた。

 もっとも彼らの目が見ていたのは防空壕の天井である。空襲警報が発令されて、ほとんどの市民が避難を完了していた。

 すでに十日ほど前から、鹿屋や大分がB29による爆撃を受けていた。それを知らされていた佐伯市民は、約一ヶ月前の艦載機による空襲もあわせて思い出し、怖いことじゃと誘い合って穴倉に潜りこんだ。

「あん時はのう」

 ある年かさの者が言う。

「グラマンが落として行った弾の殻が、隣ン方の瓦を五枚から割ってしもうてのう」

「瓦が割れるくらいじゃったら、頭の上に落ちてきたら負えんことじゃのの」

「ほうじゃ。じゃから防空頭巾を脱いだらいけんよ、みなさん」

 声をかけられた者は、みな「どうも」と言うように会釈を返したが、それらの人々の頭は、確かに防空頭巾でくるまれていた。実物を見たことがない世代のために書けば、グリム童話の「赤ずきん」の挿絵に画かれるかぶりものを不恰好にしたような形状で、内部に緩衝材として綿を詰めているため、薄い座布団程度の厚みがある。

 男たちの中には鉄のヘルメットを被っている者もいた。これは「鉄兜」という。機銃掃射に伴って敵の機体から吐き出され、それこそ雨あられと落下してくる空薬莢から頭を守るには、それなりの防御力を持っているとは思えた。

 彼らはもう一度、見えない空を見上げた。爆音はずいぶん長く続いている。

 

 この日佐伯上空に飛来したB29は、グアムの北にあるサイパン基地を離陸した二十三機で、爆撃予定地点まで来たのはいいが、何層にも重なる密雲のせいで目標を視認できなかった。

 ニミッツがルメイに要請したのは、カミカゼの基地となりうる飛行場施設の破壊である。

 このような、敵の軍事施設への爆撃の場合は、狙うべき対象が明確に指定されているので、照準にも高度な正確さが要求される。急降下爆撃や、低高度からの有視界爆撃でないと、そううまく中るものではない。

 B29はもともとが戦略爆撃機であり、広い範囲に大量の爆弾をばらまくための機体である。なによりも敵の対空砲が届かないほどの高度を飛行できる、高高度飛行性能が売りだった。  

 この特性を活かせば、なるほど敵からの反撃を受けにくく、被害を少なくはできる。しかしそれでは、右のような、いわゆる「戦術」爆撃での命中精度が期待できなくなるはずである。

 ところがこの最新鋭機は、内部にも最新の光学装置や電子装置を備えており、高高度からの精密爆撃さえ可能であるということになっていた。もしニミッツが、高高度からの爆撃精度に不安を示したなら、ルメイはおそらくその点を強調して胸を張ったことだろう。

 各機は市内周辺の上空を飛びまわって、地上が見える雲の切れ目を捜したが、それはついに見つからなかった。あまりぐずぐずしていると、日本の迎撃戦闘機が揚がってくる。それは、実にいやな待機時間だった。

 一般的に、日本の戦闘機はB29にほとんど歯が立たなかったと伝えられている。くわしくは書かないが、その認識は条件付で正しいと言っていい。

 しかし米空軍の搭乗員にとって肝心なのは、B29と零戦の対戦スコアなどではなく、自分の乗った機体こそが無事に基地まで帰れるかどうか、であった。一〇〇対一で勝ったとしても、一点の失点に数えられるのが自分で死であることは、誰もが回避したかった。

 彼らは結局、有視界爆撃を断念し、雲の上から「最新の電子装置」であるレーダーによって目標を特定し爆弾を投下した。

 彼らにしてみれば、これ以上雲の切れ目を探すことで、日本機に襲われる危険を冒す必要もなかったし、レーダーが捉えた不鮮明な目標が、もしや民間の施設ではないかと心配してやる義理もなかった。

 爆弾は東京空襲などでよく知られている火災発生型の焼夷弾ではなかった。飛行場の施設や航空機を破壊し、滑走路に大穴をあけるための大型の炸裂弾である。

 その爆弾が、街に落ちた。

 

 桂佑が受験した佐伯中学は、城山の南麓の、江戸時代から遺る武家屋敷が立ち並ぶ、閑静な住宅街の一角にあった。その界隈は、現在では城下東町と呼ばれているが、このころの佐伯の人々には馬場と呼ばれており、毛利家の時代にまさしく馬場があったところである。

 佐伯中学は、戦後の学制改革や佐伯高等女学校との合同などを経て、現在の佐伯鶴城高校となった。この高校の正門に立ってみると、校舎の敷地と道をはさんで、グラウンドや体育館の敷地があるのだが、この道沿いに五十本ほどの松の木が並んでいる。

 知らずに通り過ぎればただの並木なのだが、これは馬場の松と呼ばれており、馬場があった時代から、このあたりのちょっとしたランドマークであった。ただし現在の松の木は、平成になってから植樹されたもので、古松はずっと以前に虫に食われて枯れてしまったという。

 昭和二十年四月二十六日。密雲上から無視界で投下されたうちの一弾は、この、馬場の松の至近に着弾した。そこには付近の住民たちが避難していた防空壕があった。

 直撃だった。三十六人が、おそらく即死した。生存者は一名。奇跡と言える。

 続けて落ちてきた一弾は佐伯中学の校舎の半分を吹き飛ばした。この日は木曜日だったが、桂佑たち学生は勤労奉仕で土木作業に出ており校舎は無人だった。幸運な皮肉というべきか、その仕事場は佐伯飛行場だった。もし敵のレーダー照準が正確だったら、桂佑は飛行場で被爆していたことになる。

 この日、山本家の人びとの中で、被爆地点に最も近いところにいたのは恵美子だった。

 恵美子が勤務している木材組合は、そこから歩いて十分ほども離れていない。彼女は会社の近くの防空壕に避難していて、そこでこの爆発音を聞いた。聞いたというより全身で感じた。

 壕全体が揺れた。

 中にいた女性や子供たちは恐怖に叫んだかもしれないが、となりの人間の声さえ、爆発音のために聴こえなかった。爆発音は強烈な振動をともなって彼らの鼓膜を襲い、直後しばらくのあいだ人々から聴力を奪った。

 薄い闇の中に土ぼこりが舞い、人びとの視界をさらに遮った。耳が聴こえなくなった不安とあわせて、自分たちの防空壕がやられたのだという錯覚に襲われた者もいる。

 そのあと爆発地点から空中に舞い上げられた土砂や、建材の破片の中で比較的軽いものが、恵美子の防空壕まで運ばれてきてその屋根に落ち、音を立てた。

 屋根には土が盛られていたので、その音は人びとを驚かせるほどの大きさではなく、むしろ彼らに、自分の聴覚が戻ったことを教える役目を果たし、恵美子もそれでようやく落ち着きを取り戻した。

 この日、B29が投下した爆弾はおよそ七十発。すべて雲上からのレーダー爆撃で投下され、すべてが彼らの本来の目標を外した。

 市街地に落ちた爆弾のひとつは、城山の頂上にあった毛利神社の神殿を破壊した。

 その爆煙は大入島からも見えたはずだが、文太郎の家族は防空壕に入っていたため、彼らは空襲が終わって壕から出たあと、城山の上にひとすじの煙がたなびくのを見ただけである。

 それでも市街地に上がっている数条の煙を見れば、恵美子のことが案じられて仕方がない。案じたからといって何かができるわけではなかったが、文太郎も、この日ばかりは野良仕事を早めに切り上げて家に戻り、家族が全員揃うまで一歩も外へ出なかった。

 夕方になると、徳は晩飯の支度の合間を縫って、家の鼻先の岸壁まで出た。何度目かにしてようやく恵美子が乗った渡し舟が見えた時には、彼女は大きな腹を抱えてそこにへたり込んでしまっていた。やがて娘が船を下りてくると、徳はいつかと同じように娘を抱き、

「怪我せんじゃったか」

 そう言って、やはり同じように鼻をすすった。

 

 佐伯への爆撃は続いた。

 四月三十日にはB29による二度目の爆撃が行われ、この時は佐伯基地が被爆した。

 もっとも直撃を受けた基地施設は飛行場だけで、しかも滑走路の端のほうに着弾したため、飛行場の機能を失うまでには至っていない。最大の被害は艦艇に出た。

 呉防備戦隊に所属するふねの中に「怒和島《ぬわじま》」という名の敷設艇があった。敷設艇とは海中に機雷を敷設、つまり設置するための艦種である。

 ただの作業船ではない。

 機雷の攻勢的な運用としては、これを敵の港湾の外縁部に敷設して、出撃してくる敵艦艇を待伏せさせるというものがある。

 この場合、その敷設作業は敵の港湾の周辺水域で行われるわけだから、敵から妨害を受ける可能性が高い。このため敷設艇にはそれなりの武装が与えられており、爆雷も搭載することができた。呉防戦にとっては貴重な戦力だったのである。

 このころ怒和島は、米潜水艦が日本海に侵入するのを防ぐために、九州と朝鮮半島をむすぶ線上の海域で機雷敷設を実施していた。

 この日はちょうど補給のために佐伯に入港したところで、防備隊基地の岸壁に接岸しようとしていた時、出会い頭のように被弾したのである。

 怒和島の艇長は久保忠彦といった。この時三十二歳で階級は海軍大尉。高等商船学校を卒業したのち大阪商船を経て海軍に入った。先に書いた海防艦の艦長たちと同様に民間出身だが、久保はすでに十年近い海軍のキャリアを積んでいるベテランであった。

 怒和島は後部甲板に直撃を受けた。

 久保はただちに機関を再始動させて舳先を岸に向けさせると、迷いもなしに後ろ向きのまま対岸の大入島に向けて全速で走らせ、守後浦の東隣にある石間浦の海岸に乗り上げさせた。

 直線距離にすれば五百メートルほどである。怒和島なら一分あれば届く。被弾による浸水が艦体から浮力を奪う前に、このふねは対岸に乗り上げることができた。

 ただし、久保の素早い判断と指示によって怒和島は沈没を免れはしたが、このふねは結局のところ終戦まで修理されていない。呉防戦は、こうしてまた貴重な戦力を失った。

 この日敵機が投下した爆弾は二四二発を数えたが、そのほとんどは今回もまた目標を外し、佐伯基地の沖あいに落下した。基地と大入島の間の狭い水域にもかなりの数が落ちている。 

 よくぞ島民の居住区に着弾しなかったものである。爆撃中の飛行機は、照準のために速度を落とすものではあるが、それでも一秒に百メートルほどは移動している。投弾のタイミングが少しずれていたら、守後浦や石間浦でも大惨事が引き起こされていたかもしれない。

 敵機が去れば人々はやれやれと防空壕から出てくる。

 石間浦の人々は、浜に乗り上げた「ふてえ軍艦」を見て仰天したのだが、守後浦のほうではいつものように無事を祝い合い、基地の被害はどうだ、町はどうかと対岸を眺めていた。

 その時、沖合いで爆発が起こった。人々は肝をつぶし、物陰に身を隠して上空を仰いだが、そこに敵機の姿はなく、また飛行機の爆音も聴こえなかった。

「今のは、なんじゃろう」

「不発弾が爆発したんじゃねえかのう」

 人々はそんなことを言い合ってみたがよくわからない。彼らは要領を得ぬままに家に戻り、どれ空襲で遅くなってしまったが昼めしでも、などと話しているとまた爆発である。

 この日、敵機が投下した爆弾の約半数は時限爆弾だった。

 彼らは飛行場を長時間にわたって使用不能にするために。爆発までの時間をアトランダムにセットした爆弾をばらまいたのである。

 落とされた方としては、基地の庭先に転がった爆弾がいつ炸裂するのかわからない。これはなんとも物騒な代物である。

 もちろん処理班を派遣して起爆装置を外すことも可能ではあるが、もし作業中に爆発すれば作業員を木っ端微塵に吹き飛ばしてしまうのだから滅多なことでは手を出せない。もしこれが防備隊の敷地内に大量に落下していたら、基地の動きは確かに厳しく縛られていただろう。

 しかし幸いなことに、そのほとんどは海に落ちていた。

 事情は役場を通して島の人々に伝えられ、住民はそれでひとまず安心はしたが、その一晩中時どき思い出したように響きわたる轟音に悩まされることになった。

 

 その夜晩飯をすませた桂佑と亮は海岸に出て、浜に揚げた小船に腰掛けると、まるで祭りの花火を数えるように、爆発音を数えた。

 不思議なひと時であった。

 しんと鎮まった夜の海は、生まれた時からそこに住んでいる少年たちにとっても、幻想的で神秘的で、彼らの日常とは遠く離れた別世界を感じさせる。

 その静寂を、気まぐれのような、いいかげんな間隔を置いて破る爆発音は、これも本来ならこの世にあるはずのない音なのだが、そういう音が普通に聞こえている世界が別にあることを少年たちに教えているようでもあった。

 今ので三十個目、三十一個目と、彼らは数え続けた。それは恐ろしいもののはずであったが恐ろしくはなかった。

 怖れることを、臆病とか、恥とか、男らしくないとか、そういうふうに思っての強がりではなかった。普通に言うなら怖いもの見たさと呼ぶのが近いと思うのだが、分析じみた書き方をするなら、彼らは自分でも意識しないまま、その爆発音への免疫となるいわば抗体を、体内に生成しようとしていたのだろう。

 それは戦場の音だった。そして戦場は自分がいつか必ず立つ場所だった。その意識の中でも彼らは本能的に生を求めるはずだったが、それを獲得するために、恐怖はむしろ邪魔なものであることを、この少年たちは今までの経験の中で教えられていた。

 たとえば、海で泳ぐとはそういうことである。

 人間の体は海中で行動するようには作られていない。だから我々は海中という環境に恐怖を覚えるのだが、水泳をマスターしようとした時、最初の壁となるのが水への恐怖であることも我々は良く知っている。だから子供などに水泳を教える場合は、まずは水に慣れさせるところから始めるのである。

 ふたりはこの爆発音を自分の体内に入れることで、やがて行く戦場に慣れようとしていた。人間は爆弾が破裂する中で平静を保てるようには作られていないが、それでもそこで生き残るためにはまず慣れることであった。そういうことを、まだ小学生の彼らがまったく意識せずにやっていた。

 波の音だけという静寂。それを破る轟音。

 爆発のあとは波が立つ。

 少年たちのいる浜に打ち寄せる波の音がひときわ高くなる。

 しかしその波音は少しづつ弱まっていき、もとの静かな汀の音に戻る。

 それは爆発で荒らされる海を、海自身がそのつど鎮めようとしているようにも思えた。

 それでも爆発を一時間ほども数えると、ふたりはさすがに飽きて家に戻った。驚いたことにこの兄弟は、それから朝まで続いた轟音に一度も目を覚ますことなく、ぐっすりと眠った。

 夜中にこの音でたたき起こされた恵美子は、すぐそこの海で爆弾が爆発しているというのに静かな寝息を立てているふたりの寝顔を見た。妙にいじらしく思えた。

「いっしょうけんめい寝ちょる」

 恵美子はそう思った。

 目と鼻の先で、彼らの命も未来も一瞬で吹き飛ばす爆弾が炸裂している。

 なぜそんな場所でこの子らは眠らなければならないのか。

 なぜこんなむげしねえ《かわいそうな》目に遭わねばならないのか。

 それを思うとやるせなかった。結局この爆発は翌日の夜まで続いた。

 

「亮、知っちょるか」

「なんか」

 翌朝、いつものように山の道をほとんど駆けて登校していた亮は、先を歩いていた同級生の浜野千代治に追いつき、そこから一緒になった。

 千代治は守後浦の中では裕福な家の子で、いつもつぎのあたっていない服を着ていた。

「ヒエンのことよ」

「ヒエンちゃ、なんか」

「知らんのか、陸軍の戦闘機じゃ。そいつがの、航空隊にようけ来たらしい」

「佐伯の航空隊は海軍じゃろが。なんで陸軍の飛行機が来るんじゃ」

「ようは知らんけど、あんまりB公がうるせえけ、応援に来たんじゃろう」

「どんな飛行機なんじゃろ。海軍より強えかのう」

「それがな、こう、とんがった形のな、新鋭機じゃっちいうことじゃ」

 学校に着くとその噂を聞いた者はほかにもいて、男の子たちの、その日のトップニュースになっていた。しかしその陸軍機がヒエンという名の戦闘機であることを知っていたのは、家に出入りする者が多い浜野家の千代治だけだった。

「千代治、ヒエンちゃ、どう書くんか」

「知らん」

 すると中谷繁というのが口を挟んで、

「そりゃおまえ、ヒエンのごとき太刀の舞い、ちゅうやつじゃろ。荒木又衛門じゃ」

「荒木又衛門にそんな文句があったかのう」

「どうでもエエじゃろ。肝心なんはヒエンじゃろが。飛ぶツバメのことよ」

 ああツバメかと、少年たちは合点した。その名がいかにも俊敏そうな機体を連想させたので彼らの新鋭機への期待はさらに高まった。

 海ツバメがそうするように、彼らはまるで曲芸師のような素早さで空中を自在に飛び回り、B29やグラマンを俺らの目の前で叩き墜してくれるに違いない。

「ツバメちゅう字はどんな文字じゃ」

「いけん、もう先生が来るぞ」

 代用教員の舟木教諭が教壇に立ち、礼がすむと、繁がいきなり手を挙げた。

「先生、ツバメちゅう字を教えてください」

「つばめ? 空を飛ぶ、あのツバメのこと?」

「ほうじゃ」

「ほうじゃ、じゃありません。そうです、でしょ」

 舟木教諭は笑いながら繁をにらむと、黒板にその字を書いた。また誰かが手を挙げる。

「先生、ついでにヒエンち書いてくれんか」

「ひえん? 飛ぶツバメ?」

「ええと、そうです」

 彼女がそれもまた丁寧に書いてやると、男の子たちの間で小さなため息が漏れた。

「なんかこう、格好エエのう」

「いったいなあに、これは」

「あのな先生、航空隊に来た陸軍の新鋭機の名前なんよ」

 舟木教諭の表情が少し曇った。

 

 陸海軍の兵器に関する情報は重要な軍事機密に属していて、国民に対してすべてが情報公開されていたわけではない。

 ことに日本海軍は機密保持にうるさく、たとえば、国民の多くは、戦後まで戦艦大和の名を知らなかったし、零戦の名も公式には部外秘とされていた。

 陸軍は海軍に比べてこの点がやや緩やかだったらしく、戦闘機の愛称などはわりと気前良く公表していたようである。三式戦闘機飛燕の名は、その登場から半年ほど経った昭和二十年の一月に、写真と共に新聞で公開されていた。

 佐伯基地に展開した飛燕部隊は陸軍飛行第五十六戦隊である。

 本来、日本本土の防空は陸軍航空隊の任務であった。

 マリアナ諸島から飛来したB29の編隊は、日本本土の陸影を視認したところで集合をかけ、編隊を爆撃フォーメーションに組み直す。それは攻撃態勢であると当時に、日本の戦闘機から身を守る防御陣形でもあった。密集することによって防御砲火の死角をなくし、襲撃してくる日本機を、数十門、場合によっては数百門の機銃で返り討ちにしようというのである。

 佐伯の飛燕隊は、敵がこの鉄壁の防御陣形を組む前に各個撃破することを企図して、四国の沖から豊後水道入口にかけての上空で戦いを挑んだが、その戦場は大入島から遠すぎて、島の子供たちは、彼らが期待したような胸のすく光景を見ることはできなかった。

 むしろ逆であった。

 佐伯に有力な戦闘機隊が展開していると認識した米軍は、この基地を徹底的に叩く必要性を認めた。基地は五月四日と十一日の二回にわたってB29の空襲を受け、人員機材ともに多大の損害を出した。防空壕から出てきた子供たちが見たのは、対岸の佐伯基地上空を覆う被爆後の黒煙ばかりだった。

 飛燕隊は果敢に戦ったが、もともと十七機の小部隊である。来襲するB29の大編隊を完全に食い止めることはできなかった。彼らは連日の戦闘と空襲に被害を重ね、佐伯展開からわずか一週間で組織的な戦闘力を失い、部隊再建のために原隊のある伊丹に帰って行った。

 面白くもないのは子供たちである。

 待ちに待った空中戦は見られない。佐伯基地はやられっぱなし。

「何をやっちょるんかのう」

 そういう気分である。

 そんな彼らが、ついにB29撃墜を目の当たりにして喝采を送ったのは、松山基地の紫電改が佐伯上空で戦果を挙げた時である。五月七日であった。

 亮はこの時の光景を、「大きなやつがキラキラ光りながら落ちていった」と述懐しているが、その機体は、中の谷峠から北東に二キロほど離れた山中に墜落したと記録されている。

 桂佑は、このB29から脱出した搭乗員が捕虜となって連行されているのに出くわしたことがあるという。佐伯駅の前の、ちょっとした広場での出来事だった。

 

 桂佑は、あれから結局佐伯中学へ入学はしたが、すでに休学状態であった。

 入学はした。文太郎が行けと言った。親子の話はそれで十分だった。佐伯への初空襲のあと二週間ほどもたって、いまさらのように合格通知が届いた。

 ところが入学してみると勉強どころではない。毎日が勤労奉仕と軍事教練である。だいたい学校などさほど好きでもない上に、勤労奉仕はほとんど土木作業である。こんなことなら家にいたほうがいい。「野良仕事なら家になんぼでもあらあ」と言って、学校に出なくなった。

 学生たちが駆り出されたのは、佐伯航空隊の飛行場に隣接した敷地に、いくつもの掩体壕を構築する作業だった。これは厚いコンクリートで作られた、飛行機の退避用の施設である。  

 形状は寸詰まりのカマボコ型である。構造としては単純だが、なにしろ爆弾から守るためのものだから、コンクリートの厚みが半端ではない。

 中に入れる飛行機は、もっとも小さな部類に入る戦闘機でも翼の幅が十メートルを超える。当然掩体壕のサイズは、その何割増し、というほどに大きくなる。

 さて学生たちの役割である。セメントと砂を延々と運び、それを混ぜる水を、また遠くから運び、それからコンクリートに練り上げるのである。

 桂佑は少し腹が立った。

 仕事が嫌なのではない。確かに楽な仕事ではなかったが、小さなころから山腹での農作業に駆り出され、ミカンいっぱいのカゴを背負って家まで運んでいた桂佑にとって、それは苦痛と言うほどの労役ではなかった。

 同級生の中には、いかにも町の子という風情のうらなりもいたが、そういう連中の倍ほども働くことができた。彼らの中では、桂佑は相撲や素潜りと同じく、ここでも横綱だった。

 何よりも、その労働には意義があった。佐伯が空襲を受けたのだ。大切な飛行機を敵機から守るための掩体壕を作るのは、むしろ大いに張り切っていい仕事だった。

 けどな、と思う。

 だいたいご大層な試験まで受けさせておいて、合格だ不合格だと人をふるいにかけ、その上高い授業料でさんざん悩ませておいて、そのあげくが毎日エンヤコラとは何事か。

 だったら最初から体がでかくて力の強い奴をとりゃァ良かろう。そんな気にもなる。

 もっとも、学校のほうは「最初から」そのつもりだったわけではない。

 この年の四月から、国民学校高等科以上の学校では授業を行わず、代わりに学童学生全員を勤労動員させるという制度が定められ施行された。

 その内容を示したものを「決戦教育措置要綱」という。要綱の文面は「全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他、直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス」というもので、そこには、むこう一年間の授業の完全停止が明記されていた。

 その制度の是非はともかく国が決めたことである。学校としては従うしかなかった。それが毎日エンヤコラの理由であった。

 実情はまったくの勤労動員である以上、桂佑の言う「高い授業料」は当然免除されることになっていたが、貧乏な家の経済状態を子供なりに気にして、進学を諦めるかどうか、さんざん悩んだ桂佑にしてみれば、それもまた腹がたった。

「授業料は勘弁してやるから文句言わずに働け」と言われたのと同じに思えた。

 その授業料を残すために貧乏に耐えてきた文太郎の想いまでが、どこかであざけられているような気がした。

 桂佑はその親父をこそ手伝いたいと、この時、生まれて初めて心から思った。どうせ芋畑で泥まみれになるなら、お父ゥやお母ァのためにそうしたいと思った。

 連日のように空襲警報が出るようになったことも、さぼるのには好都合だった。大入島から通学するには定期の渡し舟を使わねばならない。これが空襲警報のたびに欠航するというので桂佑は遠慮なくさぼった。

 空襲警報が出なかった朝は指を折り「今日は危ねえ。夕方警報が出る順番じゃ」などという空襲予報を勝手に出す。そんなこんなで自然に自主休学である。

 それから桂佑は、野良仕事に、ボラ漁にと良く働いた。文太郎も、何も言わなかった。

 徳の出産を間近に控えていたという事情もある。このまめな母親は、結局のところ出産の当日まで畑に出て鋤鍬を使っていたのだが、家族としては、やはり無理をさせたくなかった。 

 桂佑のごく短い中学生活はこうして終わるのだが、次に書く出来事は、彼が珍しく登校した日のことだったらしい。

 

 桂佑が佐伯の駅前を通りかかると、時ならぬ人だかりができている。

 このころの人びとは物見高いものである。現在にくらべるとあらゆる情報が極端に少なく、中でも娯楽などはほとんどない時代だったから、道端で物売りがちょっと店を広げただけでも人垣ができる。ただ、その日の人だかりは、妙に興奮の熱を帯びているように感じられた。

 桂佑はその一番はしに寄って、誰ともなしに尋ねてみた。

「なんですか」

 気分としては半分休学中でも、佐伯中学の学生である。物言いは品良くした。

 自分こそが尋ねられたと思ったのだろう。中年の女が、しかし質問者を振り向きもせずに、声を絞り出すように答えた。

「アメリカの捕虜らしいわ」

 それは彼らが初めて見る本物の敵兵だった。しかもつい半月前、馬場の松に爆弾を落とし、何十人もの女子供をむごたらしく殺したやつどもである。言われてみれば、人々のまなざしは物見高いというにはあまりに刺々しく、細くほそく、その焦点を合わそうとしているようにも見えた。

 桂佑は人垣をぐるりと回って、一番空いていた隙間から、その囲みの中心で人びとの視線を一身に集めているその捕虜を見た。

 桂佑はそれまで、アメリカ人はみな金髪で、仁王のようなごつい体をしているものだというイメージを持っていたが、目の前の捕虜はそうではなく、濃い茶色の髪をもち、すらりとした長身の若者だった。それが妙に気になった。

 その髪はぼさぼさに乱れ、顔も服も見事なほどに汚れていた。落ち着かぬ様子でせわしなく周囲に目をやり、初めて見る日本人の珍妙な姿かっこうを薄気味悪そうな表情で見ている。

 桂佑は、不思議なことにその捕虜に対して憎悪を抱かなかった。

 むろん、敵に対してこれっぽっちの憐れみもかける気はないのだが、こんちくしょうと思うには相手として不足だった。彼らガキ大将たちの分別では、ここまで徹底的に打ちのめされた相手をさらに責めるのは、男の子としてはみっともない振る舞いということになっていた。

 捕虜を連行しているのは憲兵隊だった。

 憲兵隊は軍隊内の警察のようなもので、陸軍からの志願者によって構成されている。彼らは捕虜を佐伯駅から列車に乗せ、大分の憲兵隊司令部へ連行しようとしているのだと思われた。

「こら、さがれ。近寄っちゃいかん」

 憲兵が怒鳴った。ひとりの婆さんが人垣から出て、ふらふらと彼らの方に近づいたのを叱責したのである。見物人の視線は、今度はその婆さんに集まった。

「隊長さんな、あんな、あんな」

 婆さんの声は喉の奥から絞り出されていた。すでに涙を伴った、悲痛な叫びになっている。

「タタカセチョクレ」

「婆さん、ほれ、さがんなさい」

 庶民に対しては常に居丈高で傲慢な憲兵だったが、このときは相手が年寄りでもあったので少し手加減をしたらしい。それより彼には老婆の言っていることがわからなかった。

「誰か、あのお婆ァを知っちょるか」

 人垣の中のひとりが、そう周囲に声をかけたが、頷いたものはいなかった。

「さあ、おおかた息子が戦死したか、特攻隊にでも行ったかのう」

「いやあ、こないだの爆弾で身内がやられたんじゃなかろうか」

 みな、そんなことを言い合っている。

「中尉殿」

 若い憲兵上等兵が横から口を出した。

「この婆さんは、捕虜を叩かせろと言っておるのであります」

 佐伯の古い言い回しでは、殴るひっぱたくなどの、手による打撃をすべて「叩く」という。

「ふむ」

 憲兵中尉はいちど老婆の顔を見てから表情を緩め、努めて優しい口調で言った。

「どのみち銃殺だ。ここは憲兵隊に任せなさい」

「いいや隊長さん、わしに叩かせえ。叩かせちょくれ」

 そのとき人垣の中から「むげしねえのう」と声がした。

「誰かッ」

 先程の憲兵上等兵がバネで弾かれたように、声が発せられたあたりに駆け寄った。その顔はすでに怒気をはらんで真っ赤になっている。

「今むげしねえと言ったのはおまえか」

 言った人間はすぐにわかった。その中年の男は蒼白になって、若い憲兵と目を合わせぬよう相手の頭上に視線を投げていた。

「鬼畜米英がむげしねえか。え、もういっぺん言ってみろ」

 えらいことになった。これが憲兵批判と採られたらその男もただではすまない。連行されて下手をすれば監獄行きである。

「あんた、何を怒っちょるんか」

 そこに、こう声をかけたのは、桂祐の前にいた初老の親父であった。

「そん人は、あのお婆ァがむげしねえ、そう言うただけじゃろう。何がいけん」

 そう言われて言葉に詰まった若い上等兵に、親父はさらに続けた。

「叩かせてやったらよかろう。お婆ァの力で、まさか殺しゃせんじゃろう」

 人垣の中からは無言の賛同が湧いて出た。中には「そうじゃ、叩かせてやっちょくれ」と、声に出して言う者もいた。

 論点が替わったことは勘違いをしたほうにもむしろ助け舟になったようで、彼はあらためて威儀を正し

「捕虜の扱いは憲兵隊が決めるッ」

 そう怒鳴った。それからそれを捨て台詞として、他の憲兵たちと共に捕虜を追い立てながら駅の中に姿を消した。

 桂佑はずっと黙って見ていた。彼にしても憲兵の偉ぶり方が何しろ気に食わなかったので、それをとっちめたこの親父には腹の中で喝采を贈ったが、老婆には胸が痛んだ。

 彼女はまだわめいていた。狂乱と言ってよかった。

 半分白くなった髪を振り乱し、色黒く皺だらけの顔を、涙と鼻水とよだれでぐちゃぐちゃにして、おいおい泣きながら何かを訴えようとしているのだが、桂佑には彼女が何と言っているのか、ほとんどわからない。

ただその中に「カタキジャ」という言葉だけは、はっきり聞こえたような気がした。

(俺が戦死したら、お母ァもこうなるんじゃろうか)

 それは恐ろしいほどに切ない想像だった。

 自分が「はたちで死ぬる」ことについては、桂佑は覚悟を決めていたし、そのとき残された両親が大いに悲しむだろうということも、もちろん分かっているつもりだった。

 しかしその老婆を見た時、桂佑は、子を戦争で失った母親の悲しみというものが、これほどあからさまに狂おしく、人の姿を変えてしまうものだということを初めて知った。

「人間ちゅうのは」

 か弱いもんじゃなあ、と思った。もともとは気の優しい子であった。

 

 五月十一日を最後に、米軍はB29による九州各地の航空基地への空襲を打ち切った。それはニミッツが期待したほどカミカゼを封殺する効果が上がらなかったからとも言われている。

 彼はそれまで戦ってきた太平洋の戦線で、日本の航空戦力を無力化することにおいては他のどんな方法よりも実績のある戦術に立ち返った。ミッチャーの機動部隊が再び動いた。

 五月十三日、佐伯基地は敵艦載機による空襲を受け、防備隊の庁舎が外壁一枚を残して全壊するなどの損害を出した。

 これで、佐伯基地は完全に敵の制空権下に置かれてしまったと言える。

 やむを得ず、呉防備戦隊の所属艦艇が使用する武器弾薬は防空壕に保管されるようになり、戦闘指揮所や通信室などの主要な設備も防空壕内に移された。

 このため基地の敷地内にあるふたつの小高い丘、野岡山と長島山には、新たに多数の洞窟が掘られることになった。

 工事の実際の指揮を執ったのは、防備隊に配属されていた学生出身の予備士官である。彼は在学中に建築工学を専攻しており、その知識が買われたらしい。

 何のための勉強だったのか。彼はそう嘆じただろうか。それとも自分の知識が、ひとりでも多くの兵を死から救うために役立つと信じて、図面を引いたのだろうか。

 筆者にはこの予備士官の姓名も、その生死もわかっていない。

 ひとつだけ信じられることは、彼は、その勉強が戦後の国家再建のために役立てられる日をきっと夢みていたはずだ、ということだけである。

 

 現実には、そういう若者たちが次々に死んで行った。

 佐伯航空隊に佐世保から来た井尻文彦を迎えて、ひと時のクラス会に興じた海兵七十二期の搭乗員たちも、やがて全員がその若い命を散らしていった。

 四月十四日に矢尾中尉が未帰還となった。

 矢尾正衛は金沢第二中学の出身で、彼を知る人によれば、小学校のころは腕白坊主の仲間に数えられず、級長だか副級長だかを務めていた優等生だったらしい。

 矢尾は機長・偵察員として零式水偵で単機出撃し、豊後水道を哨戒中に米潜水艦を発見してこれと交戦中、潜水艦を掩護するために上空を飛行中だったB29に攻撃され、被弾して海上に不時着水した。

 B29は戦略爆撃機である。本来は空中戦を行うための機体ではない。

 しかしすでに旧式化していた零式水偵の最高速度は、鈍重なはずの爆撃機よりも遅かった。

 B29はその優速を活かして零式水偵の上空を抑え、下方に向けた複数の機銃で、矢尾たちを蜂の巣にすることが可能だった。

 このとき米潜水艦は矢尾機が不時着した海面に浮上して、三名の搭乗員を救助しようとしたらしい。おそらく三人は負傷していたと思っていいだろう。

 しかし救助されるほうにとってみれば、それは敵の捕虜になることを意味していた。矢尾はそれを拒み、所持していた拳銃で自決する道を選んだという。

 五月五日には竹崎慶一が戦死した。東京府立第五中学出身。現在の都立小石川高校である。

 沖縄戦の激化によって南西諸島方面に対する哨戒の重要性が増したため、佐伯空の水偵隊は相当数の人員機材を鹿児島県の指宿基地に進出させたが、竹崎はこの派遣組に加わっていた。

 大和亡きあと、豊後水道は艦隊の航路としての価値を喪失していた。上級司令部としては、精鋭の水偵隊をそういう後方に縛り付けておくことは惜しいと考えたのかもしれない。

 しかしこの措置は結局のところ裏目に出た。その日、グアムから飛来したB29の十機編隊は日没直後の指宿基地を猛爆し基地施設と所在の戦力に大打撃を与えたが、このとき佐伯からの派遣隊員十数名も地上で戦死した。竹崎もそのひとりであった。

 府立五中はリベラルな校風で知られ、理数系に強いことで有名だった。竹崎が兵学校を出てパイロットの道を選んだのも、それと無縁ではないように思える。

「海中の潜水艦を上から見るとな」

 大入島の子供たちにそう話して聞かせた若者は、こうして還らなかった。

 物語の進行より先走るが、五月二十八日には和田智が訓練中の事故で殉職する。大分湾での夜間飛行訓練中であったという。

 和田は第九三一海軍航空隊の所属だった。

 九三一空は、佐伯航空隊に所属していた艦上攻撃機部隊を、輸送船団に随伴する護衛空母の戦力として独立させた隊である。主力である九七式艦上攻撃機はやや旧式だが、水偵の二倍の対潜爆弾を搭載でき、本来が雷撃を主任務とする機体だけに低空飛行にも向いている。

 ところが前章で述べたように、護衛空母によるハンター・キラーは、戦果を挙げるどころか肝心の母艦がほとんど全滅してしまう。さらに米軍が沖縄を攻め立てていたこの頃になると、護衛すべき輸送船団そのものがすでに存在しなかった。

 このため、九三一空の任務は沖縄近海に遊弋する米艦隊への魚雷攻撃に変更された。いわば本業に戻ったわけだが、これが夜間飛行訓練を苛烈にした原因である。

 彼らは夜の闇の中を、しかも超低空で飛んで目標に接近するという訓練を繰り返した。

 夜間は敵の防空戦闘機が飛んでこない。低空を飛べば敵艦のレーダー電波にも捕まりにくい、というのがそのねらいである。

 ところが敵機うんぬんに限って書けば、もはや夜間でも安全とは言えなくなっていた。

 米機動部隊にはすでにレーダーを備えた夜間戦闘機が配備され、彼らは闇に紛れて接近するカミカゼや夜間哨戒に出てきた偵察機を、次々と血祭りにあげていたのである。

 これに対抗するためには海上ゼロメートルの超低空飛行をするしかない。グラマンがいくらレーダーを装備していても操縦するのは人間である。彼らとて、漆黒の闇の中で波に激突する危険を冒してまで、高度を下げては来ないだろう。

 しかしこれは至難の業である。灯りひとつない夜の海上で、レーダーを持つ敵が尻込みする高度を、レーダーを持たぬ機体で飛ぶというのだ。神技と言ってもいい。それを生身の人間で可能にするためには訓練しかなかった。

 和田機は飛行中に接水し、波に翼をとられて海面に激突したらしい。大分湾の内水面だから波はさほど高くはなかっただろう。よほどの超低空飛行を行っていたに違いない。

 先のふたりにならって記せば、和田の出身校は東京開成中学である。

 井上成美が二十年後の日本を託した海兵七十二期卒業生は総数六二五名。沖縄戦が終わりに近づいた五月末の時点で、その半数三一三名が戦闘または軍務中の事故で命を失っていた。

 

 首相の鈴木貫太郎は講和を急ぎたかった。しかし、彼が首相に就任した段階では、連合国が望む終戦の形は日本の無条件降伏であるということがカイロ宣言で明確になっており、鈴木はこれを前提に終戦工作を進めることができなかった。

 歴史を現在からさかのぼって見れば、ポツダム宣言の受諾と、その後の連合軍による占領を甘受したことは、必ずしも日本にとって最悪の選択だったとは言えないだろう。

 結果として日本は主権国家としての体裁をまがりなりにも維持できたし、朝鮮半島の混乱に乗ずる形とはなったが、その後の経済復興も急速に進んだ。

 しかし昭和二十年の四月から六月にかけて、このような形の終戦と戦後を想像することは、どんな楽天家であっても不可能だった。

 日本の指導者がこのころ思い描いた無条件降伏の形は、たとえば次のようなものである。

 天皇が死刑もしくは流刑に処され、皇室は解体される。

 金融資産はもちろん、重化学工業のプラントや機械、船舶、鉄道までが、すべて賠償として中国に譲渡され、戦後アジアの中心国家としての、中華民国の復興に使われるだろう。

 結果として日本経済を支える産業は農業漁業と軽工業の域に留まり、外貨を獲得するための輸出は、せいぜい日本海と瀬戸内海で取れたイワシを缶詰にして送り出すのが関の山となる。

 そのようにして日本の国力は日清戦争以前のレベルにまで引き戻されるだろう。顧みれば、近代日本は合衆国海軍のペリー提督によって開かれたが、その百年後、彼の後輩たちによってスタートラインまで引き戻されることになる。

 幕末の混乱がそこで再現されないとは誰が言い切れるだろうか。

 貧困は革命を呼ぶ。国内では反動的に共産主義勢力が勃興し、最悪の場合内戦が発生する。日本人同士が血を流し、最終的には戦勝国が政軍両面で介入して日本は分断され、国家の体をなさなくなる。

 この悲劇は鈴木たち指導者の妄想ではない。第一次世界大戦後の世界で、彼らが確かに見た現実の歴史を、ただなぞっているだけである。

 あの大戦で敗戦国となった三つの帝国はすべて滅亡した。

 ある国はいくつもの小国家に分断され、ある国はその領土を、複数の戦勝国に植民地として分け捕りされた。そしてある国では、戦後の極端な貧困が狂気の天才を歴史の舞台に上らせ、再び滅亡へ向かうことになる戦争に走った。

 これらの歴史的事実は、どれひとつとして鈴木に希望を与えるものではなく、同時に鈴木が容認できる日本の将来の姿ではなかった。

 鈴木は、日本が敗戦による苦難を避けられないことは承知していたが、そこから這い上がるためには国民の団結が不可欠であり、その核となりうる存在は皇室しかないと考えていた。

 日本を守るためには皇室を守らねばならなかった。鈴木が皇室の存続に執着していたのは、彼がただ観念的な忠義の士であったからではない。

 

 鈴木にはもうひとつ懸念がある。内戦の危機は戦後にのみ存在するのではない。この戦争にもはや勝ち目がないことを悟った多くの人々は、日本のとるべき道は講和終戦しかないことをすでに承知していたが。国内ではあくまでも戦争の継続を主張する勢力が幅を利かせていて、下手にことを進めればクーデターの怖れさえあると鈴木は見ていた。

 鈴木は、二・二六事件のとき反乱将校に撃たれ瀕死の重傷を負い、九死に一生を得た経験を持っている。うかつに講和ばなしを持ち出せば、血気に逸った戦争継続派は何をするかわからなかった。いや、むしろ鈴木こそがわかっていたと書くべきだろう。

 彼は幕末大政奉還の直後に、旧来は幕府系であった関宿《せきやど》藩の家老の長男として生まれたが、このころ関宿藩では尊王か佐幕かを巡って激しい内部抗争が繰り広げられていた。

 朝廷に帰順すべしと主張する者、あくまでも幕府に味方して戦おうと言う者、彼らの対立は藩内に暗殺テロを生み、藩士が官幕両軍に分かれて相戦うという事態も起こった。

 昭和二十年の日本は、舵取りをひとつ間違えば、鈴木が誕生したころの関宿藩と同じ悲劇にむかって漂流しかねない危険性をはらんでいた。

 しかしこの時七十七歳の鈴木は、すでに老練な船乗りだった。彼は嵐の中で帆を張る危険を誰よりも良く知っていた。風を読みながら帆を張る機会を待っていた。

 鈴木はその日のために、毎日のように出撃して行く特攻機を黙って見送り、沖縄の悲劇にもあえて目をつぶった。日本全土への空襲が本格的となってもまだ動かなかった。

 結果だけを戦死者や罹災者の立場で見るなら、鈴木のこの慎重な姿勢が、二発の原子爆弾を含む、終戦までの数多い悲劇を将来することになったと言えなくもない。

 日露戦争の駆逐艦隊司令時代に猛訓練の鬼だった鈴木は、部下から「鬼貫」と呼ばれたが、彼がその生涯においてもっとも鬼に徹したのは、あるいはこの時期であったかもしれない。

 

 そんな時勢だったが、五月の山本家では喜びごとが重なっていた。

 まず、香代子が女子挺身隊を免除になって家に帰ってきたことである。

 文太郎が、徳の出産に備えて帰省の許可を頼んでおいたのだった。それは一時的な帰省ではあったが、文太郎はその期間を半年ほどと申し出ていた。これからしばらくは恵美子と共に、香代子が炊事などの家事一般を取り仕切ることになっていた。

 しかし彼女は、それどころではない大仕事に、帰るそうそう手をつけることになる。

 徳が男の子を産んだのである。とりあげたのは恵美子と香代子だった。

 香代子が帰って来てからは、徳は昼間の家事をほとんどふたりの娘に任せると、自分はいつ産気づいてもいいように産屋のある蜜柑畑のあたりに出て、そこで手が届く範囲の野良仕事をやっていた。

 たとえば麦畑のまわりの畦には大豆を植えている。

 これは自家製の醤油の元であり、ハレの日に作る豆腐の材料にもなるのだが、そろそろその若い芽が育ちはじめている。そのまわりの草むしりをする。

 その少し離れたところには生垣を兼ねた茶の木がある。ちょうど八十八夜を過ぎたころで、摘みどきでもある。これを摘む。ふだん家で飲む茶は、その時々で摘んだ季節外れの番茶だが、新茶の香りはやはり別物で、これは僅かだが現金収入にもなる。

 蜜柑畑では、花のつぼみを適当に摘んでやるのが仕事だった。

 花は少し前に満開を迎えていたが、あまり実がつきすぎるとひとつひとつが大きく育たなくなるので、花やつぼみのうちに、適当に摘んでやるのである。

 そういう比較的楽な作業ばかりではない。徳は大きな腹をかかえて時には鋤や鍬をふるった。そのせいというわけでもないのだろうが、その日急に産気づいたのである。

 野良仕事を手伝っていた香代子は、近くに住んでいる産婆の婆さんを迎えにとんで行った。ところがこの婆さんが不在だった。彼女は本業の助産婦というわけではなく、ふだんはただの野良の婆さんである。どこかの畑で鍬を振るっているのかもしれなかった。

 香代子は仕方なくそこらの門口に声をかけて家人に事情を話し、家で洗濯か炊事をしているはずの恵美子を呼びに行ってもらえるよう頼んだ。

「ほいたら湯を沸かさにゃいけんのう」

 その家の夫人はのんびりそんなことを言っている。

「香代ちゃんな、あんたが恵美ちゃんを呼んで来んさい。お徳ネェは大丈夫じゃけ」

「でも」と、母親をひとり残していくことをためらう香代子に、夫人が言う。

「ははは、お徳ネェは今まで何人、子を産んだンか。心配せんでエエ」

(なるほど)

 言われてみればその通りという気もする。

「湯を沸かしちょるあいだにな、お徳ネェの具合も見に行ってやるわ。ほれ行きんさい」

 香代子は飛び出して行った。

 

 やがて蜜柑畑に駆けつけた姉妹は、母親を産屋の床に敷いたむしろに寝かせると、用意しておいたたらいだの敷布だのを並べ、産湯をもらうために再び下の家へ駆けて行く。

 このとき文太郎や桂佑がどこで何をしていたのか、山本家の人びとは誰も記憶していない。いずれにせよ男は出産に立ち会うものではなかったから、そこは女たちの戦いの場だった。

 静かな午後だった。

 対岸の佐伯基地は空襲の被害から立ち直りきれておらず、燃料の不足もあって、飛行場から離陸する飛行機は一機もいなかった。音を出して飛んでいるのはトンビだけだった。

 やがてミカン畑に産声が響いた。

 はたちになったばかりの恵美子と、まだ十六歳の香代子。結局はこのふたりだけで赤ん坊を取り上げ、へその緒を切った。

 満開のミカンの花が匂っていた。白い花が濃い緑の葉の中でさらに映えていた。

 その男の子は、そんな鮮やかな皐月の風景の中で生まれた。

 

 文太郎は、その息子に孝太郎と名づけた。

 彼はとっておきの半紙にその名を書き、座敷のなげしに貼った。

 姉妹がそれを見上げている。香代子が言った。

「親孝行の孝じゃな。はははは」

「香代ちゃん、何がおかしいん?」

「桂や亮と違《ちご》うて孝行息子になりますようにって、そう書いちょる」

「ちょっとあんた、博多に行ってから面白えことを言うようになったなあ」

 恵美子は別に怒りもせずそう言ったが、少し態度を改めて続けた。

「さいしょの字は、清田少将からもろうたんよ。きっとそうよ」

「誰のこと」

「そうか、香代ちゃんは知らんはず。あのね」

 恵美子は妹に、彼女が留守の時の出来事を話して聞かせた。

「へえ、じゃあ孝太郎は海軍さんのミルクで育つん? 格好エエなあ」

 香代子の言うとおり、清田の土産の粉ミルクが孝太郎の栄養となっていた。徳も乳が出ないわけではなかったが、この粉ミルクのおかげで、孝太郎を常に腹いっぱいにさせてやることができたし、そのぶん徳も楽をすることができていた。

 それは、文太郎がダイナマイトによる魚獲りを止めさせてもらえるよう清田に頼んだとき、謝罪に訪れた清田の土産だった。

 もうひとつの土産である棒石鹸も重宝した。孝太郎に行水をさせる時も、おむつを洗うにもこれが実に役に立った。石鹸はこのころとても貴重な品だったのである。

 もちろん、ミルクや石鹸のことで清田の名の一文字をもらったわけではないだろう。それは彼の純白の好意に応える、文太郎の、心からの感謝を込めた命名だったのではないか。

「けんど」と、恵美子は首をひねった。

 なんで太郎なんじゃろ。

 孝太郎は三男である。三郎ではなく太郎という、それはいかにも奇妙な命名に思えた。

 しばらくすると、山本家の人々はこの新しい家族を「コオ」と呼ぶようになった。


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