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平成22年4月18日 校正すみ

真珠湾突入

22潜 航海長 菅昌徹昭(兵65期)

 特別攻撃隊五隻の潜水艦は、昭和十六年十一月十八日朝呉港を出港、倉橋島の亀ヶ首で特潜を搭載、日没後から順次ハワイに向けて出撃した。伊二二潜は特潜(特殊潜航艇)のジャイロコンパスの調子が悪く、その交換に手間どり十九日〇三〇〇(午前三時)頃やっと錨をあげた。出撃が遅れたため、豊後水道で北上中の連合艦隊旗艦長門と行き交い、直接山本長官から手旗信号で「あらかじめ成功を祝す」との激励を受ける幸運に恵まれた。特潜攻撃を数度の具申で許された岩佐(岩佐直治大尉 当時)の感激は一入であったろう。

 出撃からハワイまでの二十日間、彼の態度は常に平静の一語につきた。敵航空基地の六百海里(一海里は一八五二米)圏内は、昼間潜航、夜間水上航走で進撃したが、日没後浮上すると彼は率先、特潜の検査補修にかかり、毎日数時間、時には徹夜して整備に力を注いでいた。潜航中は指揮官付の松尾敬宇中尉(海兵六十六期・シドニー特攻)を相手に、真珠湾の海図をひろげて侵入計画を練るか、特潜の整備記録の整理か、あるいは暇な軍医長との雑談ぐらいで、ひっそりと目立たないように振舞っていた。

 十二月七日昼食時、士官室でささやかな壮行宴が開かれた。岩佐、佐々木の二人は共に平素と変わるところなく、大いに食べ、今までの苦労話等大いに談笑していた。そのあと私は司令塔に上がったが、最後に八丈島を遠望してから十七日間、四千海里、果たして真珠湾外に来ているのか不安で落ち着かなかった。岩佐はさすが大悟徹底、しばらく荷物の整理などしてベッドに入り、言われた時間に起こしに行った従兵(係りの水兵)は、余りによく眠っているので起こしかねたということである。

 彼はアルコールで体を拭き、下着等全部新品に着替えて香水をふり、真新しい搭乗服に身支度を整え、艦内神社に参拝、掌水雷長がたてた抹茶を静かにすすり終わったあと、筆をとって「至誠」と書き残した。そして発令所から伝声管で艦内一般に感謝と決意のほどを淡々とした声で挨拶し浮上を待った。

 日没後四十五分浮上、オアフ島西端のバーバスポイントの灯台の閃光、続いて湾口東側ダイヤモンドヘッドの灯光が見えてきた。私は司令塔に下りて艦位を入れ始めた。その時、岩佐が発令所から上がってきた。「行くぞ」と言って手を差し出し、私は黙って手を出し握り返した。

 艦橋に出て現在位置や著名な目標を説明した後、会敵を予想し、いつでも潜航出来るよう岩佐、佐々木の二人は皆と握手しながら後甲板に下りて乗艇した。艦はそのまま水上航走、発進予定地点について漂泊した。その時連合艦隊への勅語と長官の訓示が届いたので、艇内へは電話でこれを伝えた。

 発進までには充分時間の余裕があり、四囲の状況は極めて平穏で、陸上は灯火管制もなく、哨戒の飛行機も艦艇も全然見えないので、艦長は艇内の二人をもう一度艦橋に呼び戻された。ここまで来ると、湾口の赤青の灯標やその先の導標まで手にとるように見えた。私は煙草に火をつけて渡した。彼はうまそうに口にくわえ、皆の説明にうなずいていた。 三十分くらいか、いよいよ発進の時刻が迫り、二人は再び皆と握手をかわし落ち着いた足どりで艇に帰り、静に艇蓋を閉めた。これが岩佐の見納めであった。 艦は潜航した。艦長は「艇発進用意」の号令に「艇異常なし、発進用意よし」の岩佐の報告、艦長続いて司令が最後の激励の言葉を送り、電話機が私に渡された。「何か言っておくことはないか」と尋ねると「別に何もない。後は願います。」との返事。「では電話線を切るぞ」と言うと「帝国の万歳を祈って出ていくぞ」の言葉を最後に電話線は切られた。艦長の「発進!」の号令で固縛バンドが解け、小さなスクリュー音とともに艇は真珠湾に向け母潜を離れて行った。時に十二月七日二〇四六(午後八時四十六分)、湾口の一七一度九マイル。

(なにわ会ニュース86号63頁 平成13年3月から掲載)

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