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平成22年4月12日 校正すみ

戦艦大和沖縄海上特攻作戦余話

                    山根眞樹生

戦艦大和
山根真樹生(左 当時  右 執筆時)
 

 標題を見て期友の一部には、すわ何事ぞと思う人もいるだろう。戦後60年近く経た今頃、大和とはなんじゃと言う声が聞こえるのを承知で稿を起こすことにした。

 この拙文は大和中心の戦闘場面もないし、悲惨な沈没場面の描写もない。海軍公式戦史の片隅においやられて意外に知られていない出撃直前の筆者の関係したドラマについての記述である。

 一つは74期候補生の卒業から退艦までの1週間、運命の神に翻弄(ほんろう)されて生か死かすれすれの境をさまよった涙の物語である。

   当時の候補生から彼等の苦節の心境を生き証人の一人として書き残して貰いたいという要望は前々からあった。

二つ目は花月戦友会における、未だに真相の分からない第31戦隊(以下31Sと称す)の豊後水道直前の解列反転の謎である。当時血気盛んな若い下士官達の、司令官や艦長に対する絶対服従の雰囲気(ふんいき)からすれば当然であったろう。詳しくは後述するが、彼等の間には前日出撃の訓示後、全員に遺書まで書かせて置きながら途中で反転帰投するを、司令官、艦長、航海長は事前に知りながら乗組員には一切知らせなかったのではないかという長年の疑念があり、未だに納得出来ないという。

 この事件は大和関係の書物には殆んど触れられていない。書くべきか書かざるべきか随分悩んだが、放置しておけば事実は風化して永遠に分からなくなって仕舞うだろう。ここはボケの来ないうちに生き証人の出番のようだ。

 前書きが長くなったが、筆者は19年の晩秋、レイテ沖海戦で瑞鳳沈没後母港の佐世保で久しぶりに静かな日々を送っていたが、それも長くは続かず、駆逐艦花月航海長兼通信長に補され苦闘の日々が始まっていた。

花月は駆逐艦とはいえ大艦である。公試排水量3,470屯、公試全力最高速力34.2節、長10糎砲塔4基8門(仰角90度俯角マイナス10度)、対空連装機銃7基、近代的な防空駆逐艦である。艦長は日本海軍最古参の百戦錬磨、東日出夫中佐(52期)、配するに航海長は駆逐艦勤務始めてという新米。中尉昇進2ヶ月そこそこの若僧にこんな大役配置を割り当てるとは人事局の台所が大分苦しくなっているなと思う反面、「よっしゃやってやる」と新たな闘志が沸いて来た。

東艦長は徹底したOn the Job training 教育の実践者で何事も自分で一度やってみせて「あと航海」というのが口癖であった。その即成教育のお陰で2月末には出入港も編隊航行にも余裕ができ、少しは航海長らしくなったようだ。思えばこの頃の徹底した勉強と研究心があれば、長年勤めた会社の仕事なんぞなんでもない。

 3月に入ると沖縄方面が騒がしくなった。当時の日課といえば大和の護衛艦として毎日のように広島湾に出動訓練である。時には敵艦載機の不意の空襲もあった。筆者が急降下爆撃機の回避運動を始めてやったのはこの時である。成功後、流石に足の震えが止まらなかったのをおぼえている。

 さて、時系列に従って記述しよう。花月が31Sに編入されたのが3月10日、鶴岡信道少将が将旗を花月に移揚したのは3月18日である。この頃すでに大和を中心とする第2艦隊(以下2Fと称す)の沖縄水上特攻作戦の構想がチラホラ流れ始め、機密保持も怪しいものであった。

米軍が沖縄に上陸すると天一号作戦が発動され、大和も31Sも3月28日急(きょ)呉軍港を出て柱島を経由し三田尻沖泊地に移動した。

 (注)31S戦時日誌、駆逐艦花月戦時日誌は奇しくも現存し、当時の各艦の行動が記述してある。

この1日の違いが74期候補生の苦労の一週間が始まることになる。 かつて江田島時代同分隊で起居を共にした池田大輔候補生の手記を少し長いが紹介する。

 

『兵学校卒業から大和乗艦まで』

74期生総員1024名(大和乗組42名・矢矧乗組24名)は昭和20年3月30日卒業式終了後、教官及び下級生徒に見送られて兵学校表桟橋から機動艇で赴任先へ向かったが、大和・矢矧は呉に在泊しておらず、同艦乗組予定の候補生は江田島小用港から上陸し、兵学校養浩館に宿泊、待機することになった。これは3月25日米軍が沖縄慶良間列島に上陸し、同26日天一号作戦発動に伴い、大和等は出撃準備の為、同28日呉を出港し所在が秘匿されていた為、候補生には何も知らされていなかった。4月1日米軍は沖縄本島に上陸し、同2日夕刻になって「両艦は三田尻沖に投錨中、3日午後乗艦可能」の情報があり、期指導官から明日神武天皇祭遥拝式終了後、表桟橋発三田尻沖で両艦に乗艦する予定」を知らされた。4月3日、遥拝式では候補生は晴れがましい面持ちで教官側に整列し、式後直ちに表桟橋前に集合し、引率の元期指導官前田中佐から「広島湾には米軍の感応機雷が投下されており、途中触雷の恐れあるかも知れず覚悟しておけ」との訓辞があり、機動艇で宮島口に向い、宮島口から三田尻まで山陽本線、三田尻駅(現在の防府駅)から三田尻港まで徒歩、大和から迎えの大発(艇指揮73期江口中尉)に乗艇し、大和に着艦したが、舷梯は揚収されており、候補生は後部舷側の短艇収容口から綱梯子で乗艦した。

経理学校候補生は兵庫県垂水分校(約1ヶ月築地本校から疎開中)において卒業式後、呉に至り水交社にて宿泊、待機中であったが、当日相前後して三田尻港から乗艦した。(大和乗組4名・矢矧乗組3名)この泊地は現在の防府市牟礼江泊山の沖になる。泊地には、大和・矢矧を中心にして周りに駆逐艦を配した輪型陣で警戒停泊していた。

候補生室はガンルームの隣に設けられ、寝具はハンモック使用であった。候補生は乗艦後、戦闘配置を指定されると共に候補生教育が開始され、起床と共にハンモックを担いで上甲板一周に始まり、艦の要目、性能等の説明、艦内見学等に追われ、敵機の上空飛来と共に対空戦闘用意が下令される度に不慣れな艦内を戦闘配置に駆け付けるのに苦労しながら一日を終わった。(以上池田候補生)

 

一方艦隊側について述べれば、三田尻沖に待機していた2Fと31Sに対し5日1403、GF電令作第605号が発せられた。

「1YB指揮官は31Sの駆逐艦約4隻をもって掃蕩隊を編成し九州南方海面まで、海上特攻隊の対空対潜警戒に任ぜしむべし」

(注)GFは連合艦隊、YBは遊撃隊のこと。

 ついで、1500、GF電令作607号により海上特攻を実施する旨の関係海軍部隊、陸軍沖縄部隊、並びに航空部隊に対し作戦目的、出撃時期等詳細な作戦命令が届いた。(電文は長文なので省略)わかり(やす)くいえば、2Fの大和、矢矧、駆逐艦8隻は沖縄突入部隊であり、31Sは先行、対空対潜掃蕩隊ということである。いずれにせよ交戦は必至である。俄然慌しくなったが大和に対する燃料補給命令は異例である。徳山と往復してのやりくり算段であった。

 2F側の軍議も縺れていた。当日深夜鶴岡司令官から聞いたところによると、参集した駆逐艦長全員が反対意見を述べたようだ。航空支援の無い裸の艦隊が、数100機以上の敵艦載機と交戦しながら沖縄迄行ける可能性はゼロであり、(いたずra)に艦船と人命を失うばかりである。前年のシブヤン海の武蔵と同じ運命を辿(たど)る公算が大きいと思う

あれこれ議論している中に夕刻になり、最後の会議では、わざわざ東京から水上機で説明に来た草鹿参謀長の説明にもYESを与えなかった伊藤長官に対し、GF側は遂に最後の切札を出してきた。

「貴艦隊は一億総特攻の先駈けになってもらいたい」

この説得に伊藤長官も最早これまでと思われたのであろう、「よし、分かった」と返事された由である。(本件簡単に記述したが児島讓氏著『戦艦大和』下巻にかなり詳しく書いてあるので参照されたい)

 話変わって花月は1500頃大和左舷に横付けし、重油移載の準備を始めた。時刻の記憶が定かでないが、花月戦時日誌〈記述責任者:花月主計長足立暢也(経33期)〉によれば1815より6日0200まで大和に重油補給とあるから、重油移載は夕刻近くになったのであろう。それでも未だ足りないらしく、6日日の出の後、徳山に行って500屯増量移載することになった。

5日1700、全く思いがけない大和の艦内放送があった。

 「候補生総員退艦用意」

沖縄に行けると勇みに勇み立っていた彼等は、意外な成り行きに(がくぜん)とし騒然となったようだ。話が全然違うのではないかというのが彼等の心境である。筆者の不敏か多忙の為か、候補生が大和、矢矧にこんなに多数乗艦しているとは知らなかった。何となればドイツにおいて候補生200人を乗せた戦艦が撃沈され、全員戦死した戦訓もあり、海上特攻作戦実施の決定的な時機、不帰の旅に西も東も分からぬ若者を人事局長が発令する筈がないと思うからである。人事局は知らされていなかったと善意に解釈している。

それは兎も角、筆者と同分隊の矢矧乗組
鈴木昭二候補生の勤務録に次の記載がある。

「5日、1500伊藤長官訓示『諸士国家存亡の時機に当り、(ようや)く海軍兵学校を卒業し戰に間に合い慶賀に堪えない。よろしく本艦隊の任務を解し、全力を挙げて任務に邁進(まいしん)すべし』

これをみる限り、少なくともこの時点で伊藤長官は候補生の退艦を考えていなかったと思うのは自然である。その後1時間の間に彼等の運命は一転する事となったのだ。

 戦後の記録では森下2F参謀長と有賀大和艦長が協議し、この作戦に候補生を連れて行くのは取り止めようと意見が一致、伊藤長官に具申し、長官も了承したとある。

 私見だが、長官の心中は極めて複雑だったに違いない。長官の長男伊藤 叡は筆者のクラスで零戦特攻隊長として余命幾許(いくばく)もない状態におかれていた。70余名の同じ年頃の候補生を前にした時、息子の姿とダブったかもしれない。こういう状態になった時、親はどんな気持ちになるのか。

結論は出た。つい先刻の訓示と逆の退艦命令に切り換えられたのである。

しかし、悲しいかな伊藤叡は4月28日沖縄伊江島に突入して戦死している。一方候補生は終戦時まで1人の戦死者もなく、戦後各界で活躍し、祖国の再建に寄与した。また、この時長官は候補生のみならず、病人、高年齢の補充兵も五日中に退艦させている。

池田候補生の手記は次のようになっている。

 「1700「候補生総員退艦用意」が下令され、大和神社前に集合した候補生に対し能村副長は諄々(じゅんじゅん)と訓示された。候補生は先任者阿部一孝が代表して高さ40mの艦橋まで上り、艦長に2回も同行を懇願したが容れられなかった。

 1800 酒保開け 候補生はガンルームで開かれた酒宴に招かれた。全乗組員には出撃前の士気高揚の酒宴であるが、候補生には別れの酒宴となった。ガンルーム士官の殆んどが戦死、この夜退艦命令を受けた候補生が、戦後を生き続けたことは運命の苛酷(かこく)としか言い得ない。

 2100 酒宴終了(副長指示による)

 2200 就寝(ハンモックで仮眠)

 5日、夜は更けたが、花月は依然として大和に重油を補給している。大和・矢矧の候補生は、6日、日の出と同時に徳山まで便乗退艦させることになったので、花月では候補生受け入れのため、航海当番配置につけを下令し、諸事万端準備し、采配はすべて寺部水雷長(71期)が指揮をとった。当時大和と花月の交通手段は総て撤去されており、こちらには大和内部の事情がよく判らない。準備万端整っているのに候補生は乗って来なかった。前記池田候補生の手記の如く別れの宴が長々と続いていたのである。

 深夜であっても、花月の艦橋当直員は厳然と当直しているが、暗夜ながら先日来の疲労が溜まっているのが一見して判ったので、日出まで当直させても仕方ないと、疲れの酷い三井通信士(73期)以下に艦長休憩室で横になって仮眠するよう命じた。

 候補生は乗って来ないし、手持ち無沙汰であったらしい鶴岡司令官が一人で艦橋に上って来られた。司令官はとても気さくな人で筆者は随分可愛がられたし、また信用もされた。そして、何でも話してくれた。思うに司令官のクラス43期には堀江儀一郎少将(故堀江太郎20年2月16日、戦死の父君)、小原義雄少将(故小原正義20年3月21日、戦死の父君)がおり、その為か72期には特に親しみを持っておられたようである。筆者を息子位に思っておられたのではないか。

 鶴岡司令官は思い出したように「伊藤長官の長男も君のクラスだそうではないか。特攻隊だってね。長官の心境も複雑だろうな。ところで航海長、君だけに話して置きたいが、今日も軍議があり駆逐艦長達皆反対だったよ。この作戦の成功率はゼロだというのだ。自分もそう思う。艦長達は生命が惜しいのではない。不合理な戦闘のやり方は海軍のやり方ではない。何千人もの若者をなぜ大和一隻の『名誉の沈没』の為に連れていかねばならないのかという艦長もいた。

それにしてもGFのK参謀にも困ったものだ。昨年6月サイパン陥落後、戦艦扶桑・山城等をサイパン島に乗り上げて、戦艦砲台にすると本気で考えて、各方面を口説いて巡ったが、我がクラスの中沢 佑君(少将当時軍令部第1部長)に成功の算ないことを論破され、漸く引っ込めた。」

然し、「今度はまたぞろ、大和の陸上砲台論だ。合理的な作戦でないものだから、一億総特攻の先駆けという精神論を持ち出して、遂に自説を貫いた。こういうのを作戦の外道というのだ、よく憶えておくがよい」そして、「明朝は早いし、出撃時は31Sが先頭を切って豊後水道を出ねばならぬ。君も少し眠っておいた方がいい」と言い残して艦橋を下りていかれた。

 重油移載もようやく終わりに近づいた頃、候補生が来るとの連絡があった。交通手段はない。誰が考えたか、青竹数本を固縛して落差3米もある大和上甲板から花月の中部機銃台に伝って滑り下りてきた。本当に気の毒な彼等であった。乗艦時は後部短艇口からロープを伝って着任し、退艦時には青竹を伝って滑り降りるという例のないことをやってのけたのだ。しかし、全員無事で、後のやりくり算段は、寺部水雷長が全部面倒をみた。阿部一孝候補生が代表して艦橋に挨拶に来たのは憶えているが、どんな会話をしたのかは記憶がない。

池田候補生の記録は次の通りである。

「4月6日0200 候補生全員上甲板に整列、月明かりもなく真暗闇の中、能村副長、清水少佐、臼渕大尉、当直将校、甲板士官の見送りを受け、横付け中の花月上甲板の機銃台へ大和上甲板から渡した青竹を伝って滑り降りた。矢矧の候補生は日出後、内火艇で矢矧から花月へ移乗した。」

かくして4月6日、東の空が白んできて、そろそろ徳山行きとなる。暫くして一人の候補生が艦橋に上ってきた。

「伍長またお世話になります。」と、大声で叫ぶ声がする。

今頃伍長と言われるいわれはないが、声に聞き憶えがあるので振り向いたら、何と鈴木昭二君ではないか。「おい どうした」の問いに「先日矢矧乗組を命ぜられ着任しましたが、昨日退艦命令が出て先刻花月に乗艦しました。」とのこと。彼は愛知一中出身で名古屋弁丸出しの好漢であった。花月乗艦後どこで筆者を見つけたか知らないが、何をさておいても挨拶をせねばと律儀に早速艦橋に来たらしい。それにしても「伍長またお世話になります」はよかった。ピンと張り詰めた艦橋の雰囲気が、彼の名古屋弁で一度に和らいだ。彼は更に大和乗組の池田も花月に来ていますというので驚いた。何と言う奇縁であろう。同分隊の3号生徒が2人も沖縄特攻に行くところであったのだ。ゆっくり話したいが時間がない。一段落したらもう一度上がって来いと一旦は引き取らせたが、暫くして両候補生が打揃ってやって来た。筆者は「色々あったようだが、ここは大人しく退艦して後図を策した方が良いと思う。俺のサイパン、レイテの経験では敵艦載機との交戦は地獄絵巻、余程慣れていないと死あるのみだ。俺の身辺整理は全部済んでいる。腹も空いただろう。航海長室に行って酒保配給のパイ缶など色々あるから食べておいてくれ。俺はこれから君達を徳山まで送って行く。無事届けるから安心しろ」などと話すのが精一杯であった。

戦後10年ぐらいして生存者確認の分隊会があった。鈴木・池田両君が、あの時航海長室で食べたパイ缶は格別美味しかったと笑顔で語っていた。(ちなみに我が分隊は7210名中8名戦死、73期は13名中5名戦死、74期戦死者なし。なんとすさまじい戦争をしたものだろう)

 4月6日は、花月戦時日誌には『天候快晴、北東風9米、気温11度、視界1015浬、0600より0724まで燃料搭載のため徳山に回航、0800より1140まで重油搭載(500屯)1235徳山出港、1319徳山湾口にて大和と合同』とある。三田尻から徳山までは短い航海であるが、1号生徒航海長の操艦の腕前や如何にと候補生達が艦橋附近で見学しているので、へまをやれば1号の沽券(こけん)に関わると、多少緊張したが、まずまず燃料岸壁に無事着岸した。候補生達は永の別れになるのではないかと思うのか、御武運を祈りますと涙ぐんで敬礼し、退艦。その後一列にならんで帽振れの別れの挨拶を繰返していたが、やがて徳山駅の方へ去った。

 0800から始まった重油搭載は500屯で4時間かかる。やっと一息ついたと思ったら欲も得もなく、艦橋休憩室で死んだように眠って仕舞った。「そろそろ出港時間ですが」との先任下士官の声にガバッと跳ね起きて再び艦橋に立った。

徳山の山々を見ると満開の桜が緑に映えて平和そのものだ。軍歌に「未練を捨てよ」という一節があるが、禅僧ならぬ凡人の身、雑念が頭を(よぎ)る。だが不思議に一(たん)出港すると職務優先で邪念も去るもののようである。

 1340頃、徳山湾口で大和に接近し、油の移載の指示を仰ぐと意外なことに「重油の移載は取り止め、花月は所定の位置に占位せよ」との指示であった。これはただ事ではない。花月が徳山往復している間に何かあったと直感した。三井通信士を呼んで何か電報が来ているかも知れないので暗号室へいって調べてくれと頼んだところ、果たして一通の不可解な入電があった。

31S戦時日誌によると
「6日0827 発GF参謀長、
宛2F長官(31Sは宛先指定なし)

@ 出撃兵力および出撃時機は貴要望通りとせられたるも燃料について大本営戦争指導部の要求に基づくGF機密051446番電通り2000屯以下とせられたし。

A 右に関聨し、掃蕩部隊の兵力並びに行動は機宜制限されたし」

平たく言えば

@は、大和は片道特攻だぞという意味。わざわざ徳山まで油を積みに行かせておいて何だと心中怒ったが

Aの意味がよく判らない。宛先をはずしているのも変だし、傍受電だから大和に問い合わせる訳にもいかないので、命令通り所定の位置についた。この事は詳細後述することにして、出撃部隊は全艦揃った。当時各艦にいたクラスの配置を記しておこう。

F  旗艦 大和 甲板士官   国本 鎮雄 

2水戦旗艦 矢矧 測的分隊長  池田 武邦

41駆逐隊  冬月 航海長   故中田 隆保

涼月         なし

17駆逐隊  磯風 航海長   故郡  重夫

      濱風 航海長   故磯山 醇美

      雪風 航海長   故中垣 義幸

21駆逐隊  朝霜 航海長   故深見 茂雄

      霞  航海長    大谷 友之

      初霜 航海長   故松田  清

31戦隊

  旗艦  花月 航海長    山根眞樹生

43駆逐隊 榧  航海長    濱田 秋朗

        槇  航海長    後藤英一郎

         桐  航海長    中村 元一 

注:桐は修理の為、呉に帰港、出撃時不在  涼月にはクラスの乗艦なし

(機関科、主計科は失礼ながら略)

 1430出港予定の信号あり。定刻一斉に抜錨。予定順序に出港、豊後水道に進路をとった。 1610突然異変が起きた。大和に旗旒信号が揚がり、三井通信士が即刻信号書を開いた。

「大和より信号、31Sは解列反転し、内地に帰投せよ」

 艦橋は大騒ぎになった。艦長は「何故か」と声を荒げるし、司令官は「信号に間違いはないか。今一度大和に照会せよ」と叫ぶ。この時、筆者には(ようや)く先刻の電報Aの意味が朧気(おぼろけ)ながら想像できた。中村 昇先任参謀の「司令官、柳井に行きましょう」との進言に司令官が頷くのをみて艦長が「航海長、取舵一杯」と命令されたので、筆者は柳井の入口の平群島に進路を定めた。ドラマは終わった。帰りの艦上で、艦長の判断を聞いたら「長官は榧、槇の航続距離を心配しておられたからね。朝の入電でいろいろ迷われたのではないか」と話してくださった。榧の岩渕艦長は同艦梶間健次郎主計長(経32期)の質問に対し、前日までの長官の言動からすると「突然の変心としか考えられない」と答えておられる。

 関係者悉く鬼籍に入り、真相はこうだと断定できる資料はない。死せる者あり、生きる者あり、人間の運命はかくも変幻自在なものか。

或る禅僧曰く「死生は一瞬の風裡」とはよく喝破(かっぱ)したものだ。

花月の艦橋は終始誰も無言。各自思いを噛み締めていたのであろう。

1801柳井に帰着した。     (終)

《あとがき》

この物語は筆者20歳の春、当世風に言えば成人式の記録文である。執筆については第31戦隊戦時日誌、駆逐艦花月戦時日誌が現存しており、期日、時刻はそう間違いないと思う。戦友会や候補生の要望に応えたつもりでもある。

 寺部甲子男氏、梶間健次郎氏、池田大輔氏、鈴木昭二氏から沢山の資料を頂きありがとうございました。厚く御礼申し上げます。

(なにわ会ニュース87号 平成14年9月掲載)

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