TOPへ   ブログ目次    

なにわ会のブログ 22年11月

111

早や11月、あの猛暑もつい先日の様な気がするが、最近は天候不順で可笑しな天気の日が続いている。

さて、66年前の10月、25日のレイテ沖海戦の日には何と1日で22名(なにわ会全員の2.7%)の戦死者をだて、10月一月で68名(同じく8.6%)が戦没していた。この68名中、38名が航空関係者で艦艇、潜水艦関係30名よりおおくなった。そして、11月に入ると、この月の戦没者は40名で、その内訳は艦艇13名、潜水艦3名、回天2名、航空22名となっており、航空関係の戦没者が多くなってきた。

 

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

長尾栄二郎( 攻3 艦爆操)比島レイテ方面航空戦で戦死

小林  博(攻405 偵察) 比島タクロバンの敵部隊攻撃中戦死(銀河)

 

10月のブログを整理して、HPに取り込んだ。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/burogu2210.html

 

112

 東京クラス会参加  山田 穣 出席  参加予定者 累計34

 

 66年前 昭和19年のこの日の戦没者

依田興二( 戦313 戦闘機)桜井 長(戦407 戦闘機)

比島オルモックで船団直衛中、敵機と交戦戦死(零戦)

 

左近允尚敏君から次のメールを頂いた。

「先月ワシントンに行きましたが、その節友人から「Thomas J. Cutler ”Battle of Leyte Gulf, October 23-26

 をもらいました。この本は持っているので、希望者があれば小生から送ります。」

希望者は直接左近允尚敏君に連絡して下さい。

 

113

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

猪口 智(戦165 戦闘機)比島タクロバンの敵飛行場を奇襲、反撃を受け戦死(零戦)

 108日のブログの記事「猪口武蔵艦長と猪口智中尉」を再読して冥福を祈った。

 

昨日 定塚 脩君の逝去が分り、ブログとHPとメールで知らせた。

 

2回海軍兵学校の会の案内をブログに掲示した。

 

114

 先日HPに取り込んだレイテ沖海戦参加艦艇等の詳細について、左近允尚敏君からコメントを頂いたので

一部修正した。

昨日は近所のお寺で火渡りの行事がったので、毎年の事ながらそれに参加した。

 

115

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

武井 敏薦 ・冨井 宗忠(那智  巡洋艦) マニラ湾で敵大編隊の爆撃を受け交戦、沈没戦死

近藤圭太郎 (戦303 戦闘機) 航空撃滅戦中、バムバム飛行場上空で交戦戦死(零戦)

 この日の物故者

吉田  博 平成8年没

 

 東京クラス会欠席  参加予定だった門松安彦 欠席に変更  参加予定者 累計33

 窪添龍輝君から4号以降の年会費の入金通知を頂いた。

 レイテ沖海戦参加艦艇等の詳細について、志摩艦隊が抜けていたので追加した。

 

116

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

池田 仲光(戦316 戦闘機)B29迎撃のため上空哨戒中館山西方に不時着後戦病死(零戦)

畠中 重信(偵12 偵察) マニラ東方洋上比島沖索敵中、消息を絶った。(彗星)

 

昨日頂いた年会費振込表を整理した。今までに振り込んでくれたのは、会員39名、物故者遺族29名、戦没者遺族34名、有志会員2名 合計104名であって、会員の振込が余りにも少ない。

忘レイテいる方は至急に振り込んで頂きたい。

 

11 7

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

 長尾 利男( 302空 艦爆操) 彗星空輸のため、霞浦から厚木に向かう途中、箱根山中に墜落して殉職 

 

この日の戦後物故者

 高井  実  平成16年117日 逝去

  高井君は航空自衛隊退職後、 建設会社に努めていたが、昭和58年脳梗塞を患い、言葉が不明瞭になり、右手右脚が不自由な生活になった。家族の暖かい看病に支えられ、少しずつ回復、室内を伝い歩き出来るようになり、車椅子で屋外の散歩ができるようになった。御子息の車で遠くへ出かけ、時に宿泊を伴う旅まで楽しむようになった。そのうち、望んで台湾、韓国、アメリカ、ハワイと外国旅行まで楽しんでいたようである。

22年間不自由な生活を続けていたが、平成16年逝去された。

HPに東條重道君の記事↓がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-takai-toujyou1.html

 

HPの「昭和19年レイテ沖海戦参加艦艇、会員の集計」を再チェックして修正し、読み易くした。

 

118

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

大杉 保夫(鷺 水雷艇) ルソン島西方海面で対潜掃討中、敵潜の雷撃を受け、沈没して戦死。

 

齋藤義衛君からのリコメンドで、「昭和19年レイテ沖海戦参加艦艇、会員の集計」の妙高の生存者に宇都宮安男君を、さらに長波会のIさんからのリコメンドで長波の生存者に原田種睦君を加え、若月の沈没年月日を訂正した。

 

東京ビデオセンターのKさんから、戦時下のトラック島についての番組を企画しているのだが、トラック島の事を知っている型を紹介して欲しいとメールがあり、浅村晃司君に電話して了解を取り、紹介した。

浅村君と電話連絡が取レイテお礼のメールを頂いた。

 

1116日の東京クラス会参加予定者33名、メールで出欠名簿を会員に送った。

 

119

この日の戦没者、戦後物故者ともになし。

 

1110

この日の戦没者無し。 戦後物故者

三笠 清治 平成17 1110

 

HPに沢山の記事を取り込んでいるが、知らない間にリンク切れとなっているものがあるので逐次チェックしてリンク切れを訂正した。チェックしたのは次のとおりである。

海兵記事 15件  遺墨関連 46件  その他 5件  戦記関連 322件   戦没者関連 181件   物故者関連 361件   目次 301件  名簿 14件  分隊監事 3件  訃報 15件  

戦没者関連 47件  その他 5件  写真14件  分隊別写真8件  資料 11件  合計1348

 よくもこれだけの物をHPに取り込んだものと自分で驚いている。このHPは会員だけでなく、一般の方もよくご覧になっているようで、今までに、会員以外の方でメールを頂いた方が45名もおられる。

 

1111

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

恵美 純吉(若月 駆逐艦)・坂巻 和一(島風 駆逐艦)

3次多号作戦のためマニラ発オルモック着、揚陸作業中、敵機約150機の攻撃を受け沈没して戦死

木村  G(254空 戦闘機) 比島オルモックで航空戦に参加、敵機と交戦戦死(零戦)

 

この日の戦後物故者

田中 宏謹 平成71111日 逝去

インディアナポリスを雷撃した伊号第58潜水艦航海長として活躍した。

その詳細は山田 穣君の↓の弔辞に詳しい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-tanaka-yamada1.html

インディアナポリスは1945726日にテニアンに原子爆弾を運んだ後、730日伊58潜の雷撃により沈没した。

 

宮田 實君から「レイテ海戦に参加した艦艇、会員の集計」の誤りを教えて貰い、訂正しました。

 

 左近允尚敏君から「今日届いた米海軍教会の Naval History magazine に「神風の財布」と題して丸山君のことが出ており、北川君、新庄君も登場します。(執筆はRandolph Bartlett with Kan Sugawara)

 この件に関連した77期の菅腹君の記事、↓がHPにあります。

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-maruyama-sugawara.html

 

1112

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

達川猪和夫(戦402 戦蘭機)神風特別攻撃隊時宗隊として比島タクロバンで敵艦に突入戦死(零戦)

 

この日の戦後物故者

吉峰  徹 平成171112日逝去

HPに名村英俊君が書いた↓の記事がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-yosimine-namura1.html

「私の乗艦する伊400潜の晴嵐隊の飛行長として彼が着任し、更に伊401潜の竣工を待って編成される第1潜水隊の主計長として山口勝士君が着任すれば、400潜に乗艦指定されることになっており、プロパーの機関長付森川恭男君と私を含め同期4名が士官室に顔を揃えることになる。この様な現象は、甚だ潜水艦では珍しいのではないかと機会あるごとに酒の肴にされたものだ。・・・

終戦時は太平洋上にあり、六艦からの帰投命令を受信したのは、8月17日の頃だったと思う。

8月28日、明日は大湊到着という日の午後、遂に警戒中の米駆逐艦に遭遇し、横須賀回航を要求され、・・・」

 

 22年東京クラス会出席追加  藤瀬韶国  合計34名

 

小林 勝君と連絡がとれ、「レイテ海戦に参加した艦艇、会員の集計」のうち能代勤務の会員の名前を訂正した。

 

1113

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

牧 太郎(201空 戦闘機)神風特別攻撃隊正行隊としてマニラ東方海面敵艦に突入戦死(零戦)

この日の戦後物故者

鬼山 隆三 昭和551113日 逝去

 鬼山君は巡洋艦大井(昭和19年7月19日南支部海)、航空母艦信濃(191129日潮岬沖で沈没、何れも運よく救助され生き残った幸運児であった。戦後は福岡で福岡運輸株式会社に勤め、最後は副社長として勤務に精励していた。福岡地区のクラスのみならず海軍兵学校関係のまとめ役として大活躍、葬儀には多数の参会者があった。その詳細は三好文彦君の↓の記事がHPにある。

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-oniyamaryuuzou-miyosi1.html

 

東京クラス会の日が近づいてきました。予定は次の通りです。再確認して無断欠席などしないようご注意ください。今回の幹事上野三郎君が、欠席者が出て人数が減ると会計上困るので心配しています。

会の予定

1 日 時  平成221116日(火)1300

2 場 所  アルカディア市ヶ谷  7F 琴平

3 会 費  6500

4 参加者  34

 

1114

この日の戦没者 なし    この日の戦後物故者

吉田 義彦 平成2年1114日 逝去

 吉田君は戦艦山城、日向、更に満潮に乗艦して勤務、最後は特攻第16震洋隊幹部として八丈島で終戦を迎えた。戦後は銀行支店長として勤務したのち、アポロ電子工業の役員として活躍していた。

その詳細は三好文彦君と大坪 久幸の↓の記事がHPにある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-yosidayosihiko-miyosi1.html

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-yosidayosihiko-ootubo1.html

 

坂元 拓運 平成211114日 逝去

 坂元君とは昭和308月海上自衛隊に入隊した時、舞鶴教育隊で2ヵ月間一緒だった思い出がある。

 

1115

この日の戦没者、戦後物故者ともになし。

67年前のこの日、海上勤務の我々は一期候補生の実習を終えて、実習艦山城、伊勢、八雲、龍田をそれぞれ退艦、拝謁の為東京に向った。

 

明日の東京クラス会参加予定の後藤 寛、靴ずれが出来て歩行困難、欠席に変更。参加者33名。

当日配布する資料を印刷した。

 

海軍経理学校33期の生徒時代の分隊別名簿をHPに取り込んだ。

 

1116

この日の戦没者 なし

この日の戦後物故者

大熊 直樹 平成5年 1116日 没

大熊君は南鳥島で活躍しており、その手記が↓に在る。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-minamitorisima-ookuma1.html

投稿時の編集長押本直正君の所感、「大熊少、中、大尉(この孤島での一年半の奮戦中、クマさんは二階級進級した)」どおり長期間南海の孤島で苦戦した。

また、↓の小野義市の弔辞がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ookuma-ono1.html

また、↓の向井寿三郎の追憶がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ookuma-mukai1.html

そして、↓の吉田 修君の記事もある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-ookuma-yosida1.html

 

本日は東京クラス会が1300から行われる。33名参加予定であるが、当日欠席者が無く、盛会を期待している。

 

 

1117

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

嶋津義公・谷口 哲( 神鷹 空母) 

 敵潜の雷撃を受け東支那海で沈没戦死

 

この日の戦後物故者

菅井 超 平成13 1117

菅井君は我がクラスの名物男の一人であって、一号同分隊の泉 五郎君の↓の記事がHPにある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-sugai-izumi1.html

 

16日、昨年に引き続き、今年は上野三郎君のアレンジで、なにわ会東京クラス会が1300から1530まで、市ヶ谷のアルカディアで行われ、33名が集って実施された。今回は出席予定33名、出席者33名、ドンピシャリ、米寿を迎えた者が多い会で一人の欠席者も無い見事なものであった。

 総員の写真は写さなかったので懇談しているスナップ写真を掲載する。

 

 

1118

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

井上 哲( 伊177 潜水艦 ) 19919パラオ方面に向け呉出撃、ウルシー偵察後パラオ北西海面で消息を絶つ(戦死認定)

(米護衛駆逐艦サミュエル・S・マイルスのヘッジホッグ攻撃により19103沈没:米軍資料)

 

この日の戦後物故者 なし

 

昨日窪添龍輝君から頂いた入金報告整理しました。

今までの入金、会員83名、物故者遺族42名、戦没者遺族53名、有志会員5名、その他4名、総計187名になりました。

会員のうち、未払いの会員が77名も見えます。

4号からは会費を納入された方のみになにわ会だよりを発送します、

未入金のかたは至急振り込んで下さい。

 

 

1119

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

多田圭太( 戦407 戦闘機)

    神風特別攻撃隊第2朱雀隊としてレイテ湾の敵艦に突入戦死(零戦)

 多田君のこと、本山和男君の↓の記事と

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-tadakeita-motoyama1.html

編集部の↓の記事「大西長官と多田圭太」がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-tadakeita-hensyuubu.html

 

この日の戦後物故者 なし

 

1120

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

吉用茂光・ 山脇美代次 (伊54 潜水艦)

 191015比島東方海面に向け呉出撃、敵機動部隊に作戦後消息を絶つ(戦死認定)

(米駆逐艦グリドリー及びヘルムの爆雷攻撃により191028沈没;米軍資料)

福田 斉(6艦隊司令部付 回 天)

回天特別攻撃隊菊水隊としてウルシー泊地の敵艦に体当り戦死

(伊47より発進)

村上 克巴 (6艦隊司令部付 回 天)回天特別攻撃隊菊水隊としてパラオコッソル水道の敵艦に休当り戦死

(伊37より発進)

 

回天特攻で戦死したなにわ会会員は兵8名、機5名、計13名いるが、この2名が最初の戦死者である。

 

この日の戦後物故者 なし

 

随分前の724日に書きこんだ記事 「児玉 巌君  堀 剣二郎」を読まれ方がコメントつぎのコメントをいただいた。

「私の母の叔父が駆逐艦浦波に乗り、昭和19年に戦死している事がわかりました。現在兵籍簿を取得中です。母が大変叔父様にお世話になったので、浦波に乗っておられた方がいらっしゃいましたら是非、駆逐艦浦波の最後をお聞かせ頂きたいです。」

堀君の了解を貰って堀君を紹介した。

 

1121

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

森下正美(金剛 戦艦)・内田源吾(浦風 駆逐艦)

ともに台湾海峡(基隆沖)で 警戒航行中、敵潜の攻撃を受け沈没して戦死

 

この日の戦後物故者

中西健造 平成15 1121日 没

次の3つの記事を再読、冥福を祈った。

大村哲哉君の↓の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-nakanisiken-omura1.html

 向井寿三郎君の↓の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-nakanisi-mukai1.html

加藤種男君の↓の記事

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-nakanisi-katou1.html

 

 

 

1122

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

坂本 博(戦308 戦闘機)

鹿屋基地で訓練飛行中、不時着して殉職(零戦)

 

この日の戦後物故者 なし

 

55期訃報

野田 鈴男 様 22.11.16 逝去 18日お通夜 19日告別式

 

53期の故・大森慎二郎さんについて、Iさんから、次の質問をいただいた。(要旨のみ)

「私は現在、39歳、在宅して翻訳や校正の仕事をする傍ら、趣味で小説などを書いており、最近、世田谷区の奥沢の郷土史を書いてみようと思いたって、奥沢周辺の海軍関係の資料を調べています。
 私が小学校の低学年の頃(昭和52年頃)、奥沢に目を見張らんばかりの豪壮な洋館が建っており、当時もう誰も住んでおらず、ガラスは破れ、中は夥しい鳩が巣食って幽霊屋敷の体をなしており、幼かった私は友達達と塀を潜って中に入り探検した思い出があります。

その洋館についても色々調べたら、昭和59年頃には、大森○○○さんものになっていたことが、私の家にある当時の奥沢の地区名簿で分かりました。
 それでネットで奥沢、海軍、大森などと調べたところ、大森仙太郎海軍中将のご子息であるらしい大森慎二郎さんのお名前が出てきて、慎二郎さんご一家は奥沢のすぐ近くの九品仏に住んでいらしたこと、そのお家は火事で焼失されたとことを、なにわ会の物故者のページで知りました。

並行して大森○○○さんの方も調べました。
 想像するに○○○さんと慎二郎さんのお兄様で、仙太郎中将のご長男ではないかと直感するにいたりました。 慎二郎さんが○○○さんの弟さんでいらっしゃるのか、それと戦後の大森仙太郎中将ご一家がどのような経過をたどられたのか、もしよろしければ、お教えいただけませんでしょうか。」

これについて、私は慎二郎君の兄上諒一郎さん(大正91113日生まれ)を相模水交会のゴルフコンペで懇意にしていたので電話で尋ねたところ、○○○さんとは全く関係ないとの事、早速そのことをIさんに返事しました。

 

なにわ会HPに取り込んである「終戦時生存者会員写真(http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/07-syasin-syuusennji-seizon-mokuji1.html)のうち

72期会員については、写真が手元にないものは、卒業時作成したアルバムの写真を取り込んで1名を除いて全部埋めました。

53期会員については、村山 隆君に不足分の写真の送付を依頼中で、入手したら埋める予定です。

33期会員については、高田俊彦君に照会したが、適当な写真が無いとの事、主計科の会員で適当な写真をお持ちの方が居られれば、コピーを送ってもらうと嬉しいです。

なお、掲載してある写真を変更して欲しい方、或いは友達の写真で入れ替えた方がいいと思う写真をお持ちの方、コピーを送ってください。入れ替えます。

 

1123

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

寺本実三(攻256 偵察)比島レイテ クラーク基地を発進、レイテ湾の敵艦船攻撃後戦死

 

この日の戦後物故者 なし

 

18日昨日に書いた入金報告の未入金会員77名中葉書で20名、ファックスでモ20名兵科の会員に納入についてのお願いを送った。機関科については村山隆君、主計科については高田俊彦君にお願いした。

 

 

1124

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

中岡克輔(攻5  偵察)レイテ湾の敵艦攻撃の為基地発進後消息を絶つ

酒井 洋(戦851 偵察)月光を硫黄島に空輸中、同島上空を報告した後消息を絶つ(月光)

 

この日の戦後物故者 なし

 

昨日書き込んだ終戦時生存会員の写真について、機の齋藤義衛君から入れ変えの写真を送ってもらい、早速いれかえた。この件について、機の村山 隆君から機関科全員の写真のコピーを送ってもらう事になったので、頂いたら前部埋めていきます。

 

 

堀剣二郎    多田圭太の思い出

1119日のブログにあった多田圭太君のことから海軍兵学校3学年の航空実習を思い出し、当時の写真を捜していたら次のスナップ写真が見つかった。

 

この写真、向かって右から藤範純二(19.12.10戦死 伊365)、多田圭太(19.11.19戦死 神風特攻)、星野政徳(229.17戦後死)冨井宗忠(19.11. 5戦死 那智)である。

19日の多田の命日に思い出を書いて冥福を祈るつもりが遅くなった。

 生徒時代、航空実習は皆が本当に楽しみにしていたもので、実習の初日、飛行服など一式が貸与された夜は、帽子、服、靴まで着けてベッドに寝ていたのがいた。

 実習は飛行時間六千時間と自己紹介した上等飛行兵曹の教員も教官として毎日数十分同乗して飛行教育が約1週間行われた。

 ところが、多田圭太が毎日練習機から降りてくると、今日はこう言って褒められたと毎日褒められた事を話し、最後の水平飛行実施では、乙種飛行練習生卒業以上と言われたと言うではないか。適性というものはこういうものかと感じた。乙種飛行練習生は水兵から入るものだそうだが、そして教育期間は戦時中短縮されたが、それでも最低で3ヶ月はあったと思われる。多田はその卒業以上というは何と素晴らしい適性の持ち主であったことか。

 彼の命日といわレイテ思い出すのはこのことだが、ある時はこんなことも云っていた。「俺は将来白い夏制服では不自由しない、親爺がフランス駐在武官時代にこしらえた服が沢山洋服ダンスにあると。」

夢多き青春を、また、人生を、国家の為に捧げた彼の冥福を心からお祈りするものである。

 

1125

この日の戦没者 66年前 昭和19年 

小沢易一・井ノ山威太郎(熊野 巡洋艦)

 比島サンタクルーズで敵潜の雷撃に続き、敵機の攻撃を受け沈没して戦死

田邊 正(攻3 艦爆操)比島クラーク東方海面で神風特別攻撃隊吉野隊として敵艦に突入して戦死(彗星)

 

この日の戦後物故者 なし

 

724日の堀剣二郎君の記事 児玉 巌に次のコメントを書かれた中村様に堀剣二郎君を紹介して、両者でメール交換、加藤様の兵籍簿も手に入り、つぎのような事が分った。

中村様のコメント

「私の母の叔父が駆逐艦浦波に乗り、昭和19年に戦死している事がわかりました。現在兵籍簿を取得中です。母が大変叔父様にお世話になったので、浦波に乗っておられた方がいらっしゃいましたら是非、駆逐艦浦波の最後をお聞かせ頂きたいです。」
 加藤様の兵籍簿を見ての堀剣二郎君の返事から

浦波は1026日に多数(50機を超える)敵機と交戦、326名の乗員中103名の戦死者、64名の戦傷者と共に沈みました。生存者、戦傷者は2隻の海軍艦艇により救助され27日にマニラへ輸送され戦傷者は103海軍病院へ収容されました。・・・・

加藤さんは負傷され、南西方面艦隊司令部への転勤が発令され船への発令がなく、また戦死されたのがルソン島ですので司令部の要員であったと思われます。司令部は当時ルソン島のマニラにありましたので陸上の戦闘で戦死されたものと思われます。

 

なお加藤さんは彼の兵籍簿から抜粋

昭和13年1月10日 呉海兵団入団

昭和131115日 第19駆逐隊 浦波

昭和19年5月1日 任海軍上等兵曹

昭和191029日 第103海軍病院入院 

昭和191220日 南西方面艦隊司令部
昭和20年3月9日 ルソン島北部にて戦死

 

なにわ会のHPが取りもって加藤さんの疑問が解けて良かったと思います。

堀君 協力有り難うございました。

 

1126

この日の戦没者 66年前 昭和19

石川淙三(302空 戦闘機)横須賀航空隊北端に不時着、大破炎上して戦死 (雷電)

 

この日の戦後物故者なし。

 

先日齋藤義衛君が送ってくれた写真を取り込んだ所、同君からパソコンでは見られるが、携帯では見られないとメールをいただいた。この頂いた写真、ブログに掲載出来る大きさに直して取り込んだが、大きすぎて携帯では写らなかったようである。他の写真と同じ大きさに直して取り込み直した。

 

23日に書いたように年会費の未入金者に送った葉書、ファックスを見て、振込用紙を見落としていたので直ぐ振り込みましたと言うような電話を数通頂いた。

 

1127

この日の戦没者 66年前 昭和19

大村謙次(戦317 戦闘機)神風特別攻撃隊第1御楯隊として、サイパン島アスリート飛行場に突入して戦死(零戦)

大村謙次君の母上 故大村きぬ様の手紙(加藤孝二君投稿)の記事↓がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-oomura-katou1.html

木村 力(攻265 偵 察) 比島クラークで敵機と交戦して戦死

 

この日の戦後物故者

春日 仁 平成191127日 没

春日 仁君については泉 五郎君の「追悼 春日 仁」という記事↓がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kasuga-izumi1html.html

また、ご遺族の長女 春日美智子様、次女 磯部小舟様、孫 磯部 理君のお言葉と春日君本人の人生を振り返っての言葉が↓の記事にある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/bukko-kasuga-izoku1.html

 

村山 隆君から機53期の卒業アルバムのコピーを送ってもらった。機関科の会員でHPに写真が無いものの写真を全部取り込んだ。

終戦時生存者 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/07-syasin-syuusennji-seizon-mokuji1.html

戦没者    http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/07-syasin-mokuji1.html

 

1128

この日の戦没者 66年前 昭和19

 飯塚勝男(戦313 戦闘機)比島上空航空戦において交戦して戦死(零戦)

 

この日の戦後物故者

伊達 利夫 昭和24 1128

 

1129

この日の戦没者 66年前 昭和19

 菊池芳夫・佃 次郎(信濃 空母)

潮岬南方海面において 敵潜の雷撃を受け沈没して戦死

信濃の最期について、「菊池芳夫君についての澤本倫生の報告」という記事↓がある。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senbotu-kikutiyosio-sawamoto1.html

 

この日の戦後物故者 なし。

 

4号以降の年会費未納者に先日手紙を送ったが、そのうち、高木亮司君から「517日に4年分2万円先払いしてあるが」との手紙を頂いた。他にも冨田岩芳君、磯山君の遺族、木庭君の遺族の方も先払いされているので入金済みに加えた。失礼しました。

 

泉 五郎君から名村英俊君ご家族の写真↓を送って頂いた。

 

ウェブリブログ事務局から「この6年間にあなたのブログで生み出された訪問回数は・・・ 1973 件 になります。」というメールを頂いた。6年というと2190日、概ね毎日1通は書いていることになります。

 

機関科終戦時生存会員の写真を次のように整理した。

上の方に総員の卒業アルバムの写真、下の方に戦後の写真(これは私の手元にある写真の人だけ)

 http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/07-syasin-syuusennji-seizon-mokuji1.html

 

1130

この日は,戦没者も戦後物故者もなし。

 

 今日送って来た海上自衛隊新聞の新刊紹介に、左近允尚敏君著作「捷号作戦はなぜ失敗したのか」が紹介さレイテいた。この件については、1024日と30日にブログで紹介済みである。

 

 先日のなにわ会だより第4号以降の配布代、年会費納入の問い合わせについて、N会員から次の葉書を頂いた。

 「クラス会行事の終了を契機になにわ会4号以降の配布を辞退します。」

 多数の会員の中には、色々な考えがあり、また体調不良で寝たきりの方も多いので、今回の照会で年会費を振り込まれない方には4号以降の送付を止める事にします。これで良いと思います。

 

1911月、1月間の戦没者は40名(水上艦艇13名、潜水艦3名、航空部隊22名、回天2名)であった。回天の戦没者の始まりであり、航空部隊会員の戦没が増えてきた。

 

TOPへ   ブログ目次